凜花は、学校から帰宅すると自分の部屋に直行した。
――遥香は「気にしなくていい」と言ってくれた。
でも、朝陽はどうしてるだろう。真琴先輩みたいに、ファンから何か変な噂を立てられていないだろうか。
ベッドに腰かけ、スマホを開く。朝陽にメッセージを送る。
「次の『桜影』ライブ、行くよね?」
「行くよ」すぐに返事が返ってきた。
「ちょっと早めに来て。話したいことがあるの」
「わかった。『Beat Cellar』が開く時間に行くよ」
◇◇
ライブハウス『Beat Cellar』のカウンター席。
凜花はグラスの中のコーラを揺らしながら、落ち着かない気持ちを抑えようとしていた。
「ごめん。待った?」
不意に聞こえた声に顔を上げると、朝陽が軽く息を弾ませながら近づいてきた。
「ううん、大丈夫」
「話したいことがあるって、学園祭のときのことだよね?」
――相変わらず察しがいい。
「君に余計なこと言った子がいたって聞いてる。でも気にしなくていいと思うよ」
朝陽は、いつもと変わらないさわやかな笑顔を向ける。
「何かあっても俺が守ったげるし!」
ちょっと冗談めかした口調に、凜花は思わず吹き出しそうになる。
「でも、朝陽は困ってないの? 私、迷惑かけてない?」
朝陽は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。
「なにが? 全然大丈夫だけど」
軽く言い切るその姿に、胸の奥が少しだけざわつく。
本当だろうか。朝陽の人気ぶりを考えると、何かはありそうな気がする。けれど、凜花はそれ以上追及しなかった。
ライブの開演時間が近づき、二人はカウンターを降りて、フロアへと向かった。
◇◇
「桜影」のステージが始まる。
「真琴せんぱ~い!」
いつものように声援を送る。だが、今までとは違う感覚だった。
以前の凜花は、真琴先輩の一挙手一投足に心を乱され、彼女が視線を向けるたびに高鳴る気持ちを抑えきれなかった。でも、今日は違った。
ただ、目の前のステージを、純粋に楽しんでいた。
真琴先輩は、やっぱりかっこいい。だけどそれは、恋のような感覚ではなく、一人のアーティストとして尊敬する気持ちだった。
――私は、ちゃんと前を向けている。
ステージに響く音に身を委ねながら、凜花はそう実感した。
◇◇
ライブが終わると、凜花は静かに息をついた。
余韻が胸の奥に広がる。
言葉にはできないけれど、今までとは違う気持ちで「桜影」の音楽を聴けたことを、凜花は確かに感じていた。
十一月に入り、日が落ちるのも早くなっていた。
凜花はベッドの上にうつ伏せになり、いつものようにスマホでバンド動画を再生していた。
すると、朝陽からのメッセージが届く。
「久しぶりに『Brown Sugar』でライブするよ。もちろん招待するよ」
画面を見つめながら、指が止まる。
「私が行ったら迷惑じゃない? あなたのファンが嫌がるんじゃない?」
――過去の記憶がよみがえり、どうしても気になってしまう。
少しの間を置いて、朝陽からの返信が届いた。
「気にし過ぎだよ。それに、君に聴いてほしい曲があるんだ」
――私に聴いてほしい曲?それって……
凜花は、スマホを握りしめた。
――真琴もファンからのプレッシャーを乗り越えた。私もここで立ち止まっていたら、前へは進めない。
意を決して、メッセージを送る。
「分かった。行くよ。楽しみにしてる」
◇◇
ライブ当日。
受付で名前とバンド名を告げ、中に入る。ステージがよく見えるフロア前方に立ち、演奏の始まりを待った。
「またあの子いるよ」
背後から聞こえたひそひそ声に、一瞬胸がざわつく。
けれど、凜花は目を閉じ、深く息を吸う。そして、気にしないように前を向いた。
ステージの照明が落ちる。
「ステラノーツ」のメンバーが次々にステージに上がり、再度照明がステージを照らす。
「みんな、来てくれてありがとう!」
朝陽が、さわやかな笑顔でマイクを握る。
次の瞬間、軽快なドラムのビートが響き、演奏が始まった。
いつものように明るいポップなサウンドが、ライブハウス全体に広がっていく。
◇◇
セットリストの最後の曲を終えると、朝陽が深呼吸しながらマイクを持ち直した。
「今日はもう一曲、聴いてほし曲があるんだ」
そう言うと、エレキギターを降ろし、アコースティックギターを手に取った。
会場が静まり返る。
「大切な人のために書いた曲です」
朝陽の言葉に、観客がざわめく。
――大切な人……?
凜花の胸が小さく波打つ。
朝陽はギターの弦を優しくはじき、静かに歌い始めた。
♪誰にでも 見せたくない心の影があるよね
人を愛し 素直になりすぎて
傷けたり傷ついたりした過去も
流してきた涙も そっと胸にしまって
過去の痛みが まだ残るなら
僕が抱きしめてあげるよ
……
だからもう 振り返らないで
僕の手を 握って歩こう
……
――この曲は……。
凜花は息をのんだ。
彼の優しい歌声が、真っ直ぐに胸に届く。
会場にいる誰もが聞き入っている。でも、朝陽の視線は、時折こちらを向いていた。
まるで、確かめるように。
凜花の心臓が、少しずつ速くなっていった。
◇◇
ライブが終わると、会場は大きな拍手と歓声に包まれた。
凜花は胸の鼓動を抑えながら、フロアの隅で朝陽を待った。
しばらくして、朝陽がバンドメンバーたちと軽く会話を交わしながら近づいてきた。
「朝陽……あの曲……」
声をかけようとしたその瞬間、周囲のファンたちが彼を取り囲む。
「今日は最高だった!」
「新曲、めっちゃよかったよ!」
朝陽は笑顔でファンと話しながらも、一瞬だけ凜花と視線を交わした。
そして、ふっと柔らかく微笑み、口の動きだけで「また話そう」と伝えてきた。
凜花は小さくうなずく。
――また、話せる時に。
自分の胸に広がるこの気持ちを、もう少し整理してから。
市街地に、赤や緑のイルミネーションが灯り始め、クリスマスが近づいていることを感じさせていた。
凜花と遥香が学校を出ようとすると、未侑と麻里亜が駆け寄ってきた。
「これから、上埜公園のクリスマスマーケット行くんだけど、一緒にどう?」
「え、今から?」
「土日は混んでてなかなか入れないらしいからね」麻里亜が言う。
「それに、今日はクリスマスライブでバンド演奏もあるみたい」未侑が付け加える。
「それなら行ってみようか」
四人は制服のまま上埜公園に直行した。
平日の夕方とはいえ、すでに入場を待つ人の列ができていた。
四人は列に並び、クリスマスの予定や学校の話をしながら待っていた。
中に入ると、会場の中心にはライトアップされた大きなクリスマスツリーがそびえ立ち、その周囲を囲むように、クリスマスの装飾が施されたフードショップや雑貨店が並んでいた。
「あそこにいるの、『ステラノーツ』の子たちじゃない?」
麻里亜の指す方向を見ると、創星学園の制服を着た朝陽、翔、野々花の三人がいた。
「ほんとだ!」
凜花たちは、三人のもとへ駆け寄った。
「あれ、偶然だね」遥香が声をかける。
「クリスマスライブ、十七時からでしょ? 行くよね?」
「もちろん」
「一緒に盛り上がろう」
◇◇
凜花たちは、ライブの余韻に包まれながら、ライブエリアからマーケットエリアの入り口まで歩いてきた。
「よかったね。これからどうする?」
「俺たちは、気になる雑貨店があるから見に行くよ」
翔と野々花は微笑みながら言い、雑踏の中へと消えていった。
「なんか、ビールばっかりだね」周りを見回しながら遥香がつぶやく。
「ドイツのスイーツが食べられるところがあるらしいよ」麻里亜がマップを指さした。
「いいねえ」未侑が同意し、二人は足早に向かっていく。
遥香はふと立ち止まり、凜花と朝陽に視線を向けた。
「私も行こっかな」
そう言って、軽く手を振りながら未侑と麻里亜を追いかけていった。
気づけば、凜花と朝陽の二人だけが、ライブエリアに残されていた。
二人きりになった凜花と朝陽は、少し気まずそうに顔を見合わせた。
周囲の喧騒が遠くに感じる。
凜花は胸の奥で鼓動が高鳴るのを感じながら、ゆっくりと口を開いた。
「あの曲……私のために作ってくれたの?」
朝陽は、少し驚いたように瞬きをしてから、ふっと微笑んだ。
「うん。君に伝えたかったんだ」
彼の澄んだ声が、冬の冷たい空気の中でやけに温かく響く。
凜花は息をのんだ。
「私も……」
言葉が詰まりそうになる。
でも、今ははっきり伝えなきゃいけない。
「私も、あの歌のように……朝陽と手をつないで歩いていきたい」
朝陽の瞳が、大きく揺れた。
「……本当に?」
不安そうに問いかけるその表情が、どこか愛おしく感じられた。
「うん、本当に」
凜花が頷いた瞬間、朝陽の手がそっと伸び、凜花の手をやさしく包み込んだ。
じんわりとした温かさが広がる。
そして、朝陽はふっと微笑むと、そっと額を凜花の額に寄せた。
「これからも、よろしくな」
至近距離で交わされるその言葉に、凜花の頬が赤く染まる。
でも、不思議と恥ずかしさよりも、安心感のほうが勝っていた。
クリスマスのイルミネーションが、二人を優しく照らしていた。
<END>