一週間にわたって行われた夏祭りが終わった翌日、凜花は、小寺遥香・岡崎未侑・山本麻里亜とカフェで話をしていた。
「上埜公園の夏祭り、終わっちゃったね」
未侑がちょっと寂しそうに言う。
「今年の夏祭り、『ドラゴンフライ』来てたよね?」
「見た見た! さすが夏フェスに出てたバンドだよね」
麻里亜が興奮気味に話すと、ふと凜花の方を見た。
「そういえば、あの創星学園の子……」
「東城君ね」
遥香がすかさず補足する。
「そう。凜花、東城君と『ドラゴンフライ』見に来てなかった? 後ろからだったし、声かけなかったけど」
――見られてたか。あとからバレるのもまずいよね。
「『ドラゴンフライ』出るから見に行こうって」
凜花がなるべくあっさりと答える。
「仲いいねえ」
遥香がにやりと笑う。
「で、麻里亜は一人で行ったの? ウチらと一緒じゃなかったけど」
「誰かと一緒だったから声かけなかったとか?」
「……」
「図星ね。まあいいわ」
遥香がからかうように言うと、麻里亜はむっとした顔でコーヒーをすする。
「ところで、今年の夏フェス行く?」
遥香が3人を見渡して聞いた。
「今年は『桜影』出ないみたいね。私は見送ろうと思う」
未侑が少し残念そうに言う。
「そうね。私も今年はやめとく」
麻里亜も同意する。
「夏休みのイベントは、あとは江尾川市の花火大会くらいだね」
――花火大会か……。
ぼんやりと呟くように考えながら、凜花の頭の中には、夏祭りでの朝陽の言葉がよみがえっていた。
――「でもさ、やっぱり浴衣っていいよな。凜花も似合いそうだよね」
そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。
画面を開くと、朝陽からのメッセージが届いていた。
「来週の花火大会、一緒に行かない?」
――えっ……。
思わず息をのむ凜花を見て、遥香がニヤリと笑う。
「なになに? もしかして、お誘い?」
花火大会の日、凜花は朝からそわそわしていた。
「友達と花火大会に行くから、浴衣出してくれない?」
「あら。浴衣を着て行くなんて、久しぶりじゃないの」
母はタンスの奥から、保管用の紙に包まれたままの浴衣を取り出し、そっと手渡してくれた。
包み紙を外し、浴衣を広げる。鮮やかな藍色に、小さな花模様があしらわれている。
――浴衣を着るのは、中学生のとき、家族で花火大会に行った以来だ。
スマホを開き、浴衣の着付けを説明する動画を再生する。
「私、なんでこんな面倒なことしてるんだろう……」
ぼやきつつも、帯を締める手に力が入る。
◇◇
待ち合わせの場所は、駅の改札口。
浴衣姿の女の子たちが次々と改札を通り抜けていく。その中に紛れて、凜花は朝陽を探した。
すると、向こうから手を振る姿が見えた。
「お、浴衣着てきてくれたんだ」
朝陽が笑顔で近づいてくる。
「朝陽が、浴衣、浴衣って言うから」
どこか拗ねたように答えると、朝陽は「似合ってるよ」とさらっと言った。
その一言に、なぜか胸の奥が少しだけ熱くなる。
電車に乗り、花火会場の最寄り駅で降りると、改札の向こうにはすでに多くの人が列を作っていた。
人波に流されるように、二人は花火会場へと向かう。
◇◇
夜空に、最初の花火が打ち上がった。
ヒューという笛のような音が響き、鮮やかな光が弾ける。
ドンッと短い爆発音。その余韻とともに、煌めく火の粉がゆっくりと夜空へ溶けていく。
次々と小さめの花火が連続で打ち上げられた後、一瞬の静寂が訪れた。
その瞬間を捉えて、凜花はそっと口を開いた。
「ねえ、どうして私を誘ってくれるの?」
隣に立つ朝陽が、少し驚いたように視線を向ける。
「……初めて会ったとき、真琴に彼氏がいるって話してくれたよね。そのときの君、失恋した女の子みたいだった」
再び花火が打ち上がり、空いっぱいに大輪の光が咲く。
「つらいのは分かるけど、乗り越えなきゃって思ったんだ。同じ“真琴推し”としてね」
花火の音にかき消されそうになりながらも、凜花は朝陽の言葉をしっかりと受け止めていた。
ふと、朝陽の顔を見上げる。
夜空を彩る赤や緑の光が、その横顔を静かに照らしていた。
夏休みが終わり、再び学校生活が始まった。
二学期が始まり、一週間ほどたったある日、凜花は遥香とカフェテリアでランチをしていた。
そのとき、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。
手に取り、画面を開くと、朝陽からのメッセージが届いている。
「学園祭で『ステラノーツ』が演奏するよ。見に来てくれる?」
「東城君から?」
――夏祭りの件も花火大会に誘われたこともバレてるし、今更、隠すこともない。
「うん。学園祭で東城君たちのバンドが演奏するから来ないかって。遥香も行く?」
「やめとく。邪魔しちゃいけないから」
「どういう意味よ」
「ふふっ、なんでも」
遥香が意味ありげに笑う。
「行くよ。楽しみにしてる」
凜花は返信を打った。
◇◇
十月最初の土曜日、創星学園の学園祭。
校門をくぐると、受付で記名をし、プログラムを受け取る。
――「ステラノーツ」は体育館で十三時から。
早速、体育館へと向かった。
◇◇
体育館の前には、すでに入場待ちの列ができていた。並びながら開場を待つ。
やがて中に入ると、舞台の前にはパイプ椅子が並べられ、すでに多くの観客が座っていた。
凜花は三列目の真ん中付近に腰を下ろし、演奏開始を待つ。
ふと視線を感じ、周囲を見ると、何人かの女子生徒が肘をつつきあいながらこちらを見ていた。
――気のせい……じゃないよね。
少し居心地の悪さを覚えたが、気にしないように前を向いた。
ほどなくして「ステラノーツ」のメンバーがステージに上がり、演奏を開始する。
彼ららしい、明るくポップなサウンドが体育館に響き渡る。
◇◇
「ステラノーツ」の演奏が終わり、会場が拍手と歓声に包まれる。
その直後、一人の女子生徒が凜花の方へと歩み寄ってきた。後ろからもう一人が追いかけてくる。
「あなたね。私たちの朝陽をたぶらかしたのは」
強い視線が凜花に向けられる。
「やめなさいよ。みっともない」
追いかけてきた女子が制止する。
――私も、こんなことしてたんだ。
胸の奥がチクリと痛む。怖いとか憎いとかの感情は、不思議と湧いてこなかった。
最初の女子生徒は、もう一人に腕を引かれ、その場を離れていく。
彼女の肩が、わずかに震えているように見えた。
その夜、凜花はベッドに入り、天井を見つめながら、演奏後に凜花の前に現れた創星学園の女子生徒の姿を思い出していた。彼女はきっと朝陽のファンなのだろう。
――私も、かつては同じだった。
真琴先輩の彼氏、遼さんに冷たい言葉をぶつけたあの日。彼女の気持ちがわかるからこそ、胸が痛む。
真琴先輩を取られた気がして、ただやり場のない感情をぶつけた。だけど、真琴先輩は奪われたわけじゃない。幸せを見つけたんだ。
私は本当に、真琴先輩の幸せを願えていたの?
今なら、もう少し違う気持ちで向き合える気がする。
そんなことを考えていると、ますます眠れなくなったが、天井を見つめているうちに、自然に目を閉じ眠っていた。
◇◇
週明け、凜花と遥香はカフェテリアでランチをしていた。
「凜花、創星学園の学園祭、どうだった? 東城君たちの演奏も見たんでしょ?」
遥香がフォークをくるくると回しながら聞いてきた。
「うん。楽しかったよ。けど……」
「けど?」
遥香が顔を上げる。
「朝陽のファンらしい子に、『朝陽をたぶらかした女』って言われたの」
遥香の手が止まる。
「私も、前に遼さんに『真琴先輩を返して』って言っちゃったことがあるから、気持ちはわかるの。でも……どうしたらいいんだろう」
遥香はしばらく考えてから、ゆっくり口を開いた。
「今はファンも混乱してる時期だから、少し時間を置けば落ち着くかもよ」
「でも、私も真琴先輩が卒業した後まで引きずってたし……」
「うーん……でもさ、結局これは凜花と東城くんの問題でしょ?東城くんがどうしたいかにもよるし、凜花が気にしすぎてもしょうがないよ」
遥香は肩をすくめながら、軽く微笑む。
「……そうだよね。ありがとう。自分でもちゃんと考えてみる」
凜花は小さく息を吐く。少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
凜花は、学校から帰宅すると自分の部屋に直行した。
――遥香は「気にしなくていい」と言ってくれた。
でも、朝陽はどうしてるだろう。真琴先輩みたいに、ファンから何か変な噂を立てられていないだろうか。
ベッドに腰かけ、スマホを開く。朝陽にメッセージを送る。
「次の『桜影』ライブ、行くよね?」
「行くよ」すぐに返事が返ってきた。
「ちょっと早めに来て。話したいことがあるの」
「わかった。『Beat Cellar』が開く時間に行くよ」
◇◇
ライブハウス『Beat Cellar』のカウンター席。
凜花はグラスの中のコーラを揺らしながら、落ち着かない気持ちを抑えようとしていた。
「ごめん。待った?」
不意に聞こえた声に顔を上げると、朝陽が軽く息を弾ませながら近づいてきた。
「ううん、大丈夫」
「話したいことがあるって、学園祭のときのことだよね?」
――相変わらず察しがいい。
「君に余計なこと言った子がいたって聞いてる。でも気にしなくていいと思うよ」
朝陽は、いつもと変わらないさわやかな笑顔を向ける。
「何かあっても俺が守ったげるし!」
ちょっと冗談めかした口調に、凜花は思わず吹き出しそうになる。
「でも、朝陽は困ってないの? 私、迷惑かけてない?」
朝陽は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑った。
「なにが? 全然大丈夫だけど」
軽く言い切るその姿に、胸の奥が少しだけざわつく。
本当だろうか。朝陽の人気ぶりを考えると、何かはありそうな気がする。けれど、凜花はそれ以上追及しなかった。
ライブの開演時間が近づき、二人はカウンターを降りて、フロアへと向かった。
◇◇
「桜影」のステージが始まる。
「真琴せんぱ~い!」
いつものように声援を送る。だが、今までとは違う感覚だった。
以前の凜花は、真琴先輩の一挙手一投足に心を乱され、彼女が視線を向けるたびに高鳴る気持ちを抑えきれなかった。でも、今日は違った。
ただ、目の前のステージを、純粋に楽しんでいた。
真琴先輩は、やっぱりかっこいい。だけどそれは、恋のような感覚ではなく、一人のアーティストとして尊敬する気持ちだった。
――私は、ちゃんと前を向けている。
ステージに響く音に身を委ねながら、凜花はそう実感した。
◇◇
ライブが終わると、凜花は静かに息をついた。
余韻が胸の奥に広がる。
言葉にはできないけれど、今までとは違う気持ちで「桜影」の音楽を聴けたことを、凜花は確かに感じていた。
十一月に入り、日が落ちるのも早くなっていた。
凜花はベッドの上にうつ伏せになり、いつものようにスマホでバンド動画を再生していた。
すると、朝陽からのメッセージが届く。
「久しぶりに『Brown Sugar』でライブするよ。もちろん招待するよ」
画面を見つめながら、指が止まる。
「私が行ったら迷惑じゃない? あなたのファンが嫌がるんじゃない?」
――過去の記憶がよみがえり、どうしても気になってしまう。
少しの間を置いて、朝陽からの返信が届いた。
「気にし過ぎだよ。それに、君に聴いてほしい曲があるんだ」
――私に聴いてほしい曲?それって……
凜花は、スマホを握りしめた。
――真琴もファンからのプレッシャーを乗り越えた。私もここで立ち止まっていたら、前へは進めない。
意を決して、メッセージを送る。
「分かった。行くよ。楽しみにしてる」
◇◇
ライブ当日。
受付で名前とバンド名を告げ、中に入る。ステージがよく見えるフロア前方に立ち、演奏の始まりを待った。
「またあの子いるよ」
背後から聞こえたひそひそ声に、一瞬胸がざわつく。
けれど、凜花は目を閉じ、深く息を吸う。そして、気にしないように前を向いた。
ステージの照明が落ちる。
「ステラノーツ」のメンバーが次々にステージに上がり、再度照明がステージを照らす。
「みんな、来てくれてありがとう!」
朝陽が、さわやかな笑顔でマイクを握る。
次の瞬間、軽快なドラムのビートが響き、演奏が始まった。
いつものように明るいポップなサウンドが、ライブハウス全体に広がっていく。
◇◇
セットリストの最後の曲を終えると、朝陽が深呼吸しながらマイクを持ち直した。
「今日はもう一曲、聴いてほし曲があるんだ」
そう言うと、エレキギターを降ろし、アコースティックギターを手に取った。
会場が静まり返る。
「大切な人のために書いた曲です」
朝陽の言葉に、観客がざわめく。
――大切な人……?
凜花の胸が小さく波打つ。
朝陽はギターの弦を優しくはじき、静かに歌い始めた。
♪誰にでも 見せたくない心の影があるよね
人を愛し 素直になりすぎて
傷けたり傷ついたりした過去も
流してきた涙も そっと胸にしまって
過去の痛みが まだ残るなら
僕が抱きしめてあげるよ
……
だからもう 振り返らないで
僕の手を 握って歩こう
……
――この曲は……。
凜花は息をのんだ。
彼の優しい歌声が、真っ直ぐに胸に届く。
会場にいる誰もが聞き入っている。でも、朝陽の視線は、時折こちらを向いていた。
まるで、確かめるように。
凜花の心臓が、少しずつ速くなっていった。
◇◇
ライブが終わると、会場は大きな拍手と歓声に包まれた。
凜花は胸の鼓動を抑えながら、フロアの隅で朝陽を待った。
しばらくして、朝陽がバンドメンバーたちと軽く会話を交わしながら近づいてきた。
「朝陽……あの曲……」
声をかけようとしたその瞬間、周囲のファンたちが彼を取り囲む。
「今日は最高だった!」
「新曲、めっちゃよかったよ!」
朝陽は笑顔でファンと話しながらも、一瞬だけ凜花と視線を交わした。
そして、ふっと柔らかく微笑み、口の動きだけで「また話そう」と伝えてきた。
凜花は小さくうなずく。
――また、話せる時に。
自分の胸に広がるこの気持ちを、もう少し整理してから。
市街地に、赤や緑のイルミネーションが灯り始め、クリスマスが近づいていることを感じさせていた。
凜花と遥香が学校を出ようとすると、未侑と麻里亜が駆け寄ってきた。
「これから、上埜公園のクリスマスマーケット行くんだけど、一緒にどう?」
「え、今から?」
「土日は混んでてなかなか入れないらしいからね」麻里亜が言う。
「それに、今日はクリスマスライブでバンド演奏もあるみたい」未侑が付け加える。
「それなら行ってみようか」
四人は制服のまま上埜公園に直行した。
平日の夕方とはいえ、すでに入場を待つ人の列ができていた。
四人は列に並び、クリスマスの予定や学校の話をしながら待っていた。
中に入ると、会場の中心にはライトアップされた大きなクリスマスツリーがそびえ立ち、その周囲を囲むように、クリスマスの装飾が施されたフードショップや雑貨店が並んでいた。
「あそこにいるの、『ステラノーツ』の子たちじゃない?」
麻里亜の指す方向を見ると、創星学園の制服を着た朝陽、翔、野々花の三人がいた。
「ほんとだ!」
凜花たちは、三人のもとへ駆け寄った。
「あれ、偶然だね」遥香が声をかける。
「クリスマスライブ、十七時からでしょ? 行くよね?」
「もちろん」
「一緒に盛り上がろう」
◇◇
凜花たちは、ライブの余韻に包まれながら、ライブエリアからマーケットエリアの入り口まで歩いてきた。
「よかったね。これからどうする?」
「俺たちは、気になる雑貨店があるから見に行くよ」
翔と野々花は微笑みながら言い、雑踏の中へと消えていった。
「なんか、ビールばっかりだね」周りを見回しながら遥香がつぶやく。
「ドイツのスイーツが食べられるところがあるらしいよ」麻里亜がマップを指さした。
「いいねえ」未侑が同意し、二人は足早に向かっていく。
遥香はふと立ち止まり、凜花と朝陽に視線を向けた。
「私も行こっかな」
そう言って、軽く手を振りながら未侑と麻里亜を追いかけていった。
気づけば、凜花と朝陽の二人だけが、ライブエリアに残されていた。
二人きりになった凜花と朝陽は、少し気まずそうに顔を見合わせた。
周囲の喧騒が遠くに感じる。
凜花は胸の奥で鼓動が高鳴るのを感じながら、ゆっくりと口を開いた。
「あの曲……私のために作ってくれたの?」
朝陽は、少し驚いたように瞬きをしてから、ふっと微笑んだ。
「うん。君に伝えたかったんだ」
彼の澄んだ声が、冬の冷たい空気の中でやけに温かく響く。
凜花は息をのんだ。
「私も……」
言葉が詰まりそうになる。
でも、今ははっきり伝えなきゃいけない。
「私も、あの歌のように……朝陽と手をつないで歩いていきたい」
朝陽の瞳が、大きく揺れた。
「……本当に?」
不安そうに問いかけるその表情が、どこか愛おしく感じられた。
「うん、本当に」
凜花が頷いた瞬間、朝陽の手がそっと伸び、凜花の手をやさしく包み込んだ。
じんわりとした温かさが広がる。
そして、朝陽はふっと微笑むと、そっと額を凜花の額に寄せた。
「これからも、よろしくな」
至近距離で交わされるその言葉に、凜花の頬が赤く染まる。
でも、不思議と恥ずかしさよりも、安心感のほうが勝っていた。
クリスマスのイルミネーションが、二人を優しく照らしていた。
<END>