篠原凜花は、教室の窓際の席に座り、ぼんやりと校庭を眺めていた。

 桜の花びらが風に舞う。春の訪れを感じさせる穏やかな景色なのに、心は晴れなかった。

 ――王子様は、もういない。

 彼女が愛してやまなかった「桜影」のリーダー、如月真琴。ドラムを叩く姿は凛々しく、ステージの上では誰よりも輝いていた。イケメンアイドルのようなビジュアルと、その王子様のような立ち振る舞い。すべてが眩しくて、憧れだった。

 だが、今の真琴は“普通の女の子”だ。

 舞台の上では相変わらず王子様のようにかっこいい。でも、舞台を降りたら、もう自分の手の届かない人になってしまった。

 真琴が恋をしたのは、高学歴の大学生。大人で、かっこよくて、たぶん自分とは住む世界が違う人。

 ――勝てるわけ、ないよね。

 それでも、諦めることなんてできなかった。

 卒業ライブの日、凜花は誰よりも声を張り上げ、誰よりも「桜影」の最後のステージを盛り上げた。

 けれど、心の中では泣いていた。

 そして、季節は巡る。

 真琴たち「桜影」のメンバーは卒業し、学校からいなくなった。

 凜花の心には、ぽっかりと穴が空いたままだった。
 凜花は、この四月に三年生になった華奢な女子高生だ。手入れの行き届いた黒髪を胸下まで伸ばし、前髪を眉のあたりで切りそろえている。

 ゴールデンウィークが始まる前日、帰り支度を済ませた凜花は、スマホでSNSを確認した。その瞬間、タイムラインに表示された「桜影」のライブ予定が目に入る。ゴールデンウィーク明けの土曜日、「Beat Cellar」でライブをするという告知だった。

 ――桜影は、卒業後もバンド活動を続けていたんだ。

 心臓が高鳴る。

 ――行かなければ。

 そして迎えた土曜日の午後。凜花はライブハウス「Beat Cellar」に足を踏み入れていた。もちろん、お目当ては「桜影」だ。いつもなら、真琴推しの仲間たちと一緒に来るのだが、クラス替えしたばかりで約束を取りつける暇がなかったため、今日は一人での参戦となった。

 場内はすでに熱気に包まれている。二番手のバンド演奏が終わり、ついに「桜影」のステージが始まる。ドラムの真琴、ギターの樹里、ボーカルの詩音、ベースの早紀――七か月ぶりに「桜影」のメンバーがステージに立つ。

 凜花は期待に胸を膨らませながら、食い入るようにステージを見つめた。

 真琴が立ち上がり、スティックをくるくると回す。

「待たせたな。桜影、ここに参上!」

 低く響くその声に、観客席から割れんばかりの歓声が上がる。

「真琴せんぱーい!」

 凜花も声を張り上げた。その瞬間、すぐ隣からも「まこと~!」と負けじと声援を送る声が響く。

 驚いて横を見ると、青年が立っていた。

 背は凜花より十センチくらい高いだろうか。女の子のようにも見える整った顔立ちに、ライトブラウンのやや長めの髪を無造作にセットしている。

 彼は演奏中も、凜花とまったく同じタイミングで声を上げ、同じように拳を振り上げる。その様子に、凜花は不思議な一体感を覚えた。
「『桜影』のライブ、かっこよかったね」

 凜花は思わず隣の青年に話しかけていた。人見知りしがちな彼女にとって、初対面の男子に声をかけるのは珍しいことだった。それほどまでにライブの興奮が冷めやらず、誰かとこの感動を共有したかったのだ。

「うんうん、最高だった!『桜影』が戻ってきてくれて、本当にうれしいよ。王子様も健在だったしな」

 人懐っこい笑顔で話す青年に、凜花の緊張も自然とほどけていく。

「桜陽女子高の子?俺は創星学園の三年、東城朝陽。軽音部でギターとボーカルやってる」

 相変わらず爽やかな笑顔を浮かべる彼に、凜花もつられるように自己紹介した。

「私は、桜陽女子高三年の篠原凜花」

 自分でも驚くほど自然に言葉が出てきた。朝陽の雰囲気があまりに自然で、何でも話せるような気がしてしまう。

「やっぱり真琴はすげーな。あの存在感、俺もあんなオーラをまといたいよ」

「真琴先輩は、私たちの憧れなの。でも……」

「でも?」

「先輩には、素敵な彼氏がいるんです」

「そっか、それはファンとしては複雑な心境だろうな。でも、応援してるんだよね?」

 朝陽の言葉に、凜花は一瞬言葉を失った。

 ――応援してる。そう、応援しているはずなのに。

 彼自身は、真琴に彼氏がいることにショックを受けてはいないようだ。でも、気持は理解してくれた。

「良ければ、俺たちのバンドも見に来ない?」

「えっ?」

「案内送るから、連絡先教えて」

 男子と連絡先を交換するのは初めてだったが、不思議と抵抗感はなかった。朝陽の笑顔があまりにも自然で、誘いを断る理由が見つからなかった。

 間もなく次のバンドの演奏が始まる。
 夕方。凜花はベッドに腰かけ、いつものようにライブ動画巡りをしようとスマホを開いた。

 すると、朝陽からのメッセージが目に飛び込んできた。

「今週の土曜日、ライブハウス『Brown Sugar』で俺たち『ステラノーツ』がライブやるよ。良かったら来て。もちろん招待するよ」

 ――本当に、ライブに誘ってくれた……でも招待って。

「行くよ。でも、招待なんてしなくていいよ。ちゃんとステラノーツ枠でチケット買うから」

 そう返信した。自分が他校のバンドのライブに行くことになるなんて思ってもみなかった。でも、朝陽がどんなライブをするのか、楽しみにしている自分がいた。

   ◇◇

 その週の土曜日、凜花はライブハウス『Brown Sugar』にいた。

 『Brown Sugar』は、『Beat Cellar』の三分の一ほどの広さしかない、小さなライブハウスだ。壁には過去のライブポスターが貼られ、温かみのあるアットホームな雰囲気が漂っている。

 ステージには「ステラノーツ」のメンバーが立っていた。朝陽のほかに、リードギター、ベース、ドラム、キーボードの五人編成。キーボードだけが女の子で、メンバーは皆、おそろいのシャツを着ている。

 やがて、ライブが始まった。

 朝陽はステージの中心に立ち、ギターを弾きながら歌い出す。中性的な透明感のある高い声。ハードな曲はなく、「桜影」のロック色の強い楽曲とは異なり、誰にでも親しみやすいポップなサウンドだ。

「朝陽!」

 曲が終わるたびに、客席の女の子たちから歓声が上がる。その人気ぶりに、凜花は少し驚いた。

 ――真琴みたいになりたいって、全然方向性が違うようだけど……。でも、こういうのもいいかも。

 演奏を終えた朝陽がステージを降り、凜花の姿を見つけて駆け寄ってくる。

「来てくれたんだね」

「楽しかった。話すときの声と全然違って驚いた」

 朝陽が嬉しそうに笑う。その瞬間、周囲から視線を感じた。耳を澄ますと、ひそひそとした声が聞こえてくる。

「あの子誰?」
「うちの学校の子じゃないよね?」
「なんか、朝陽と仲良さそうじゃない?」

 胸がざわつく。

「また来てくれると嬉しいな」朝陽が言う。

「うん……また聴きたい」

 視線が気になったが、何とか会話を続け、凜花は『Brown Sugar』を後にした。

「来月の『桜影』ライブ行くよね」

 凜花がスマホを開くと、朝陽からのメッセージが届いていた。

「行くよ」

 すぐに返信しようとしたが、少し指が止まる。今回は、桜陽女子高の「桜影」ファン仲間――小寺遥香、岡崎未侑、山本麻里亜と一緒だ。朝陽は“真琴推し”仲間とはいえ、男子高校生である。彼女たちがどう思うかが気にかかる。

「今回は、学校の友達と一緒なの」

 しばらくして、朝陽から返事が来た。

「俺、邪魔かな?」

 ――察しがいい。

 申し訳ない気もするし、朝陽に会いたい気持ちもある。でも、遥香たちがどう思うか……。

 返信に悩んでいると、再びメッセージが届いた。

「こっちもバンドメンバー誘って行く。あいつらも『桜影』に興味あるみたいだし、それならいい?」

「……それならいい?」

 どういうことだろう。戸惑いながらも聞き返す。

「俺が一人で行くより、俺たちに注目が集まらないんじゃないかって」

 ――そうかなあ。そんなことない気がするけど……。

 ここまで言われて断るのも悪いと思い、覚悟を決めて返信した。

「わかった。一緒に『桜影』ライブで盛り上がろう」

   ◇◇

 ライブ当日、「Beat Cellar」の前で待ち合わせた凜花たちとステラノーツのメンバー。

「はじめまして、東城朝陽です」

 朝陽が爽やかに挨拶すると、遥香が驚いたように目を丸くした。

「わっ、本物の男子高校生!」

「遥香、そんなの当たり前でしょ……」

 未侑が苦笑し、麻里亜は興味深そうに朝陽を観察している。その横では、リードギターの北村翔とキーボードの松田野々花が談笑しながら、ベースの本川晃、ドラムの猪瀬淳司と合流していた。

 最初こそぎこちなかったが、ライブが始まると全員が「桜影」の音楽に夢中になった。真琴のドラムが響くたびに、朝陽と凜花は顔を見合わせ、自然と拳を突き上げる。

 ライブが終わり、外に出た。ステラノーツのメンバーと別れた直後、麻里亜が早速聞いてきた。

「やっぱり『桜影』最高! ところで、凜花。なんで東城君と知り合いなの?」

「『桜影』の復活ライブで、一緒に真琴先輩を応援して。彼も本物の“真琴推し”だったから」

「ふ~ん。凜花って人見知りするタイプかと思ってたけど、やるじゃん」

 未侑が言う。

 ――何か言われると覚悟はしていたけど。

 たった三人の友人に詮索されるだけでも息苦しく感じるのに、桜陽の“有名人”だった真琴先輩は、もっとだったに違いない。ファンとしてただ楽しく応援していたつもりだった。でも、真琴先輩にとってはどうだったのだろう。いつも視線を浴び、詮索され続けて……。

 そう思うと、申し訳ない気持ちになった。

「そのおかげで、ウチらも男子とライブで盛り上がれて楽しかったし。で、朝陽くんも美形だけど、リードギターの彼もかっこよくない?」

 遥香が話を切り替えた。

「えっ、北村くん?」

 未侑が驚くと、麻里亜が得意げに言った。

「ダメよ、彼、キーボードの松田さんとできてるっぽかったよ」

「よく見てるよねー。麻里亜こそ気になってるじゃん」と遥香。

 ――助かった。

 友人たちの関心が朝陽からそれたことに、凜花は密かに安堵した。もしかして……朝陽、この展開を予想してた?

 まさかね。
 凜花が自室に戻り、スマホを開くと朝陽からのメッセージが届いていた。

「7月最初の土曜日、ステラノーツのライブがあるよ。今度こそ招待させて」

 ――招待なんて、気をつかわなくても……。

 「桜影」と「ステラノーツ」、二つのライブに行くことになる。その負担を朝陽が気にしてくれているのだと気づき、胸が温かくなった。なんて、自然に気配りのできる人なのだろう。

「ありがとう」

 せっかくの心遣いだ。今回は素直に招待を受けることにした。

   ◇◇

 ライブ当日。凜花が受付で「篠原凜花です。ステラノーツからの招待で」と告げると、スタッフが名簿を確認し、「どうぞ」と入れてくれた。

 ライブハウスには何度も足を運んでいるが、招待で入るのは初めての経験だった。少しそわそわしながらも、ステージの前へと向かう。

 「ステラノーツ」のステージが始まる。

 彼らの音楽は、明るくポップで観客を自然と楽しませる。会場には創星学園の生徒が多いのだろう。曲が終わるたびに「朝陽!」「翔!」「野々花!」とメンバーの名前が飛び交う。

 特に朝陽への声援はひときわ大きい。黄色い声が飛び交い、その人気ぶりに改めて驚かされる。

 ライブが終わり、すべてのバンドの演奏が終了した。

 凜花は余韻を噛みしめながら出口へ向かおうとしたが、その途中で「ステラノーツ」のメンバーが集まっているのを見つけた。

 朝陽がこちらに歩み寄る。

「これから打ち上げに行くんだけど、凜花も来る?」

 ――打ち上げって、バンドメンバーだけでやるものじゃ……?

 不意の誘いに、凜花は思わず固まってしまう。

「いいじゃん。せっかくだし」

 キーボードの野々花が明るく笑う。

「怖くないって」

 ドラムの淳司が言う。その言葉に、凜花は思わず眉をひそめる。

 ――別に怖いなんて思ってないけど?

 大柄な淳司は、自分が怖がられていると思っているのだろうか。

 その勘違いがなんだか可笑しくて、凜花は思わず笑顔になった。