近親者だけの当日夜の弔問、有力貴族のみを招いた2日後の通夜、そして国内の貴族家の当主夫妻全員が参列した4日後の告別式、その翌々日の出棺の儀。
それらは全て王城にて、アストリッツァ王妃が亡くなった日から1週間の内に行われた。
王妃の告別式の日が、当初の予定であればクラシオンとガートルードの婚姻式の日だったのは、運命的でさえあった。
つまり、1年後の王妃の喪が明けるまで、王太子の婚姻は延期される事になる。
持参金が少ないからと中止となった婚姻式。
既に母国の両親には、アストリッツァ側の言い分と、こちらには来られなくても結構、との使者を送っていたガートルードであったが。
さすがに出棺から1週間後の、レオニード家の出身地ガレンツァで執り行われる王妃の霊廟納体の儀だけは、カリスレキアの両親を呼ばざるを得なくなって、通夜の前には至急の使者を送った。
まだ、婚姻の正式書類にはサインはしていないが、お飾りの正妃になると決定しているガートルードは、行事全てに王太子の隣に立つ事となって。
彼女本人が望んだわけではないが、その存在はアストリッツァ国内では、充分アピール出来ていた。
それらは全て王城にて、アストリッツァ王妃が亡くなった日から1週間の内に行われた。
王妃の告別式の日が、当初の予定であればクラシオンとガートルードの婚姻式の日だったのは、運命的でさえあった。
つまり、1年後の王妃の喪が明けるまで、王太子の婚姻は延期される事になる。
持参金が少ないからと中止となった婚姻式。
既に母国の両親には、アストリッツァ側の言い分と、こちらには来られなくても結構、との使者を送っていたガートルードであったが。
さすがに出棺から1週間後の、レオニード家の出身地ガレンツァで執り行われる王妃の霊廟納体の儀だけは、カリスレキアの両親を呼ばざるを得なくなって、通夜の前には至急の使者を送った。
まだ、婚姻の正式書類にはサインはしていないが、お飾りの正妃になると決定しているガートルードは、行事全てに王太子の隣に立つ事となって。
彼女本人が望んだわけではないが、その存在はアストリッツァ国内では、充分アピール出来ていた。



