「…おつかれ」
バイトが終わり外に出ると、棗がいつも通り私を待ってくれていた。
「悪かったな。俺のせいで巻き込まれて、危険な目に遭わせて」
「別に、棗のせいじゃないでしょ…。あの時棗が来てくれたおかげで助かったのも事実なんだし。…坂上くんは、今日早退して帰っちゃったから話せなかった。でも、ごめんねって謝ってくれたよ」
それだけでやっぱり私には最初から危害を加えようとしたわけではないような気がした。
「…あいつとはちゃんと話す。きっちり解決させないから今回みたいなことに繋がったんだ。たとえ逃げられても、何度でも諦めない」
もう棗と坂上くんは大丈夫なようなそんな気がした。
きっと二人なら前みたいに戻れなくても、ちゃんと話し合うことができるのではないかと。
「そういえばあの時お店にはどうして来たの?」
「それは…最近おまえが避けてくるから。こうでもしないと会えないと思って」
そこで私はそういえば棗に告白をして避け続けていたことをやっと思い出す。
「ちゃんと話したかったんだ」
「…っ」
もう逃げない。ちゃんと棗と向き合わないとダメだって頭ではそうわかっているけど、それでもやっぱり怖かった。
もしも棗に拒絶されたらと思うと…。
「茉莉花」
棗は私の想いを察したかのように震えていた手を優しく握りしめてきた。
「俺たちの出会いは、最悪だったよな。俺が勝手に勘違いして、苦しんでいた茉莉花に気づきもしないでひどいこと言って、あの時のことをずっと後悔してる」
たしかに、あれは結構傷ついた。
何も知らないくせに、って棗に八つ当たりをしたことを思い出す。
「だけど、棗はどんな時でも私を信じてくれた」
もう誰かを信じることも信じてもらうことも諦めていた私が、棗のことだけは諦められなくて信じてもらいたいと足掻いた。
ぶっきらぼうだけど優しいところは昔から変わっていない。
そんな棗に私は惹かれたんだ。
「あの時の言葉、撤回してもいいか?」
「…え?」
–––「おまえみたいな悪女、誰も好きにならねぇよ」
「茉莉花のことが好きだ。俺と、付き合ってください」
ずっと願っていた。
私も悪女なんかじゃなくて誰かの、棗のヒロインになりたいと。
「私が棗のヒロインになってもいいの…?」
棗はきょとんと目を丸くしてから、ふっと優しく吹き出した。
「ずっと前から俺のヒロインは茉莉花だけだ」
じわりと滲む視界の中、優しく愛おしそうに微笑んでいる棗がそっと顔を近づけてきて目を閉じる。
ヒロインになることを諦めなければ、どんな悪女だって大切な誰かのヒロインになることだってできる。
そう教えてくれたのは、紛れもなく目の前にいる棗だから。
だから私はこれからも君だけのヒロインとしてこの物語を綴っていくね。
君の隣で、ずっと…。
昔からずっと茉莉花のことが嫌いだった。
早くに両親を亡くした茉莉花に最初はかわいそうだと同情したけど、両親がいなくても茉莉花は人から好かれることが得意な性格だったから多くの友達がいた。
両親はいるけど友達はいない私。
両親はいないけど友達はいる茉莉花。
毎日眩しく輝いていたのは茉莉花の方だった。
家では両親が実の娘である私を最優先してくれて気分がよかったけど、学校に行けば私は一人ぼっちだった。
だから、お父さんとお母さんの目を気にしていることをいいことに私の悪女になってと茉莉花に頼んだ。
茉莉花が私の悪女となってからは全てがうまくいった。
かわいそうな私を憐れんでたくさんの人が集まってくれるようになり、反対に茉莉花に近づく人は減っていった。
自分でも最低なことをしているとわかっていた。
だけど、一度知ってしまった楽園を手放すことなんてできず茉莉花の気持ちもお構いなしに私は茉莉花を利用し続けた。
この世界のヒロインは自分なのだと信じて疑っていなかったから。
「もうこれ以上、私から大切な人を奪わないでよ!」
いつも私に従順だった茉莉花が初めて声を荒げて反論してきた。
最近この関係を終わらせようとしたがっていた茉莉花だったけど、それでも最終的には私の悪女でいる道を捨てられなかったというのに、他のことはどうでもいいといった様子で茉莉花は一人の男の子しか頭にないようだった。
それほどまでに茉莉花は、私の手がもう届かないほどに強く成長していた。
たった一人の男の子に恋をしただけで。
「あーあ。ついにはっきりと言われちゃったね」
ふと、柊弥先輩がいたことに気づく。
「もう悪女の茉莉花ちゃんはこの世にいないんだよ」
「…何か、知ってるんですか?」
まるで、何かを含んだかのような言い方をする柊弥先輩にムッとしながら尋ねる。
「オリエンテーションの日に、美亜ちゃんがバケツの水を自分でかけてたのをたまたま見ちゃったんだ。だから茉莉花ちゃんが悪女を演じてるってことは知ってたよ」
なんだ、この人は知ってたんだ。
不思議と誤魔化す気も起きず、バレたことなんてどうでもいいと思えた。
もう茉莉花はなんて脅しても私のために悪女になることなんて二度とないだろうから。
私はまた、一人ぼっちになってしまうんだ。
「…悪女だったのは、私。ヒロインでもないくせに、私が幸せになれる未来なんて初めから存在しなかった」
最初からわかっていた。この世界の本当のヒロインは茉莉花だって。
「茉莉花ちゃんはヒロイン。でも、美亜ちゃんだって誰かにとってはヒロインであるんじゃないかな」
「…え?」
柊弥先輩がふっと優しく微笑んだ。
王子様と言われているだけあって、笑顔の破壊力が不覚にも私をどきりとさせる。
「誰かの物語では悪女であっても、少なくとも俺にとっては美亜ちゃんはヒロインだよ」
「な、何それ…っ。適当なこと言わないでください!」
「はは、やっと素見せてくれた感じがして今の美亜ちゃんの方が俺は好きだな」
「勝手に言っててください!」
ふいっと柊弥先輩に背を向けてスタスタと歩く。
「待ってよー」
私はまだ知らない。
この人がこれからもしつこいくらい私の物語に登場してくる本当のヒーローだということを…。
「よう、おつかれ」
怒涛の一日に頭痛を感じながら店を出ると、当たり前かのようにしゃがみ込んで待っていた棗が飄々とした顔で片手を上げてきた。
「…は?何してんの」
半分本気で七瀬さんに手を出そうとしたあの日から、申し訳なくて七瀬さんには一度謝罪したきりカフェバイトをやめて新しく居酒屋でバイトを始めたのがつい一昨日のこと。
なぜこの男が俺の新しいバイト先を知っているんだ?
「おまえとクラスメイトだっていうやつから新しいバイト先聞いた。…なんか疲れてんな」
今日は学校で朝から何かと頼まれ事をされることが多く疲れたのにプラスして、バイトでは午後八時から宴会の予約が入っていたためまだ新しいバイト先に慣れていないというのに走り回っていたせいでたしかに倦怠感があった。
しかしそれをこいつに見抜かれるなんて、なんだか癪だ。
棗は昔からそう。
何にも興味がないくせして人が気づかないような細かいところまで気を配らせることが得意で、男子でも女子でもそんな棗の些細な指摘にどきりとしてしまう。
無自覚でそれをやっているところも恐ろしい。
天性の人を虜にする力を隠し持っているのだ。
それをあの整いすぎた顔でやられたら、そりゃ女子はみんな落ちるに決まっている。
「…何しに来たの?俺はおまえと会いたくないんだけど」
七瀬さんに手を出したことをわざわざ責めに来たのだろうか。
わかっている。ただの八つ当たりだって。
–––「本当は親友の棗のことを信じてあげられなかった自分が坂上くんは一番許せないんじゃないの…?」
七瀬さんに言われたことが図星すぎて何も言えなかった。
中学の時、元カノが棗に心変わりをしてしまったのは、俺に魅力が足りなかったから。
それを棗のせいにして自分を守ったのは、俺にはない力を持っている棗が羨ましかったから。
だからあの時、棗を一番信じるべきだったのに自分の醜い嫉妬心に染まってしまった俺は棗を悪者に仕立て上げることしかできなかった。
今もまだ間違った感情で他人を巻き込んでまで俺は復讐をしようと過去に囚われ続けている。
最低で合わせる顔すらない。どんなに罵られたって足りないくらいだ。
「悪かった。中学の時、おまえの彼女だからって最初から優しくしてやる必要なんてなかった」
「…は?」
「俺がもっと気をつけていれば、おまえを苦しめることもなかったのにな。悪かった」
下げられた棗の後頭部を見つめながら、呆然と立ち尽くす。
「…なんでだよ。どう考えたって、俺の勝手な八つ当たりだろ…?棗が謝る必要なんて、何一つないのに…」
そうだよ。最低だと罵ってくれた方がずっとマシなのに。
どうしておまえはそうやって全部自分が悪いと俺を庇うんだよ…。
「今のは、中学の話な」
「え…」
突然棗に頰をグーでぶん殴られ、無様に吹き飛ぶ。
「え、は…?」
じんじんと痛む頰をおさえながら、わけがわからなくて棗を見上げる。
「茉莉花に手を出そうとしたこと、冗談でも許さねぇ。一発殴らせろ」
「は…?いや、もう殴ってんじゃん…」
目がチカチカして気絶するかと思った。
ていうか、いきなりすぎて殴られたと理解するのにも時間がかかった。
「じゃあおまえも遠慮なく、俺を殴れ」