クールなエリート警視正は、天涯孤独な期間限定恋人へと初恋を捧げる

 どうやら結構な田舎に来てしまったようだ。周囲には田んぼが多い。
 ちょうど屋根付きのバス停があるので、そちらで休みことにした。
 停留所の時刻表を見るが、最終バスはとっくに過ぎているようだ。
 やみくもに動き回ってもよくないだろうという話になり、直に朝を迎えるだろうから、二人で停留所で始発バスを待つことにした。木で出来たベンチに二人して腰かける。

「今日は星が綺麗だな」

「ええ、そうですね」

 しばらく二人で星を眺める。
 遮るものがないからか、星の瞬きが綺麗だった。

「堂本陽太と牛口幸三、それに駿河千絵と俺の四人は、警察学校の同期同士だった。当時は四人で過ごすことが多かった。駿河千絵は俺の婚約者だったが、堂本陽太と懇意にしていた。牛口はそんな彼女のことが好きだというのは目に見えて分かっていた」

 駿河千絵は紅一点で男性たちにモテたようだ。

「ある時、堂本陽太が単独でヤクザに向かったとの報告を耳にした。今にして思えば、牛口幸三が堂本陽太に嘘の情報を吹き込んでいたんだろうな。当時の俺は何度も堂本陽太に連絡を取ろうとしたが、あいつが電話を取ってくれなかった」

 そういえば、紗理奈がまだ自宅マンションにいた際、近江が迎えに来た時に、紗理奈からの返事がないと焦っていたことがあった。

(もしかして、お兄ちゃんの事件が原因で……?)

 普段は冷静沈着な近江が、あそこまで焦っていたのは、後にも先にもあの時だけだ。
 紗理奈の兄の死が原因だと考えるのが妥当な気がしてきた。

「俺が駆けつけた時には、堂本陽太はもう虫の息だった」

 紗理奈は近江の話を黙って聞くことにした。

「現場には、駿河千絵がいた。堂本陽太はヤクザとの抗争中に発砲されて怪我を追っていたはずだが、それは致命傷足りえなかった。俺が堂本陽太のそばに近づいた後、牛口が姿を現したんだ。その後、『堂本陽太が自身の所持する拳銃の誤射によって死亡した』と、最初に口にしたのは鑑識課に所属していた牛口だった。当時、あいつが証拠を捏造していたようだ」

 近江は遠い目をした。

「俺は堂本陽太の死の真相を知りたかった。だが、その死に警察学校の同期が関わっているとは、俺自身も信じたくなかったのかもしれないな。だからこそ、真犯人を逮捕するのにこんなにも長い時間を要してしまった」

 近江の中でかなりの葛藤があったようだ。

「すまない。真犯人を捕まえることができなかったのは……俺の甘さが原因だ」

 近江が謝罪してくる中、紗理奈は伏し目がちになった。

「いいえ、近江さんはお兄ちゃんの名誉のために頑張ってくださいました。それに、真犯人は捕まりましたし、近江さんには感謝の言葉しかありません」

 近江はそれから、今回の騒動についても語ってくれた。

「牛口幸三が暴力団鼠川組とのコンタクトを頻回に取るようになってきた頃に、駿河千絵が真犯人だと嘘をついて警視庁へと脅迫状を送ってきていた。そうして、君にも鼠川組のヤクザをけしかけてきたりしはじめた」

「近江さんが最初に私を助けに来てくれた時のことですか?」

「ああ、そうだ。出会った当初には君がヤクザの記事を書いたから、ヤクザに狙われていたと思っていた。だが、あれも牛口幸三の仕業だと、後から分かったんだ」

 そんな頃から、紗理奈は牛口に目をつけられていたのだと思うと、背筋にゾクリと嫌な感覚が駆け抜けた。

「それからしばらくして、犯人が牛口幸三だろうと当たりをつけて、俺は裏で色々と動いていたんだ。牛口が君の新聞社のライバル新聞社を買収したことが分かったから、俺はわざとそれに乗じてあいつを逮捕しようと考えていたんだ」

「え? そうだったんですか!?」

「ああ」

 そういえば、近江と別れる直前に「君がおかしな選択をしないでくれることを祈る」みたいなことを話していた気がする。
 紗理奈は頭を抱えて反省する。

「私ってば余計なことを……」

「いいや、そんなことはないさ。君がいなかったら、遺留品の警察バッジという決定的な証拠についても分からなくなっていただろうし、駿河千絵の牛口幸三への復讐を止められれなかったかもしれない。助かったよ」

 ふと、近江の顔を見る。
 先程以上に真摯な眼差しを向けられており、紗理奈の心臓が跳ね上がる。

「堂本紗理奈、脅迫状を送ってきていた犯人と君の兄の事件の真犯人、どちらも捕まった」

「はい」

「だから、もう君と一緒に過ごす理由はなくなった」

「そう……ですね」

 答えながら、なんだか紗理奈の胸は苦しかった。

「堂本紗理奈」

 近江が紗理奈の顔を覗いてくる。
 あまりに真摯な眼差しで、相手から目が離せそうにない。

「俺はずっと君の兄を殺した犯人を追っていた。君を守りやすいから、そう思って、君と一緒に暮らすことを申し出た。だが、君と一緒に暮らす内、君から目が離せなくなった」

「近江さん」

 彼の手が彼女の頬に伸びてくる。

「勇気と無謀をはき違えるような女性にまさかこんなことをいうことになるとは、昔の俺だったら、思いもしなかっただろうが……」

 そうして、近江がいつも以上に真剣な表情で告げてくる。
 どこか不安そうに瞳に宿る光が揺れた。

「どうか俺と一緒になってほしい」

 紗理奈の胸の内に春の風が舞い踊るかのようだった。
 彼女はおずおずと尋ねる。

「一緒というのはどういう意味でしょうか?」

 すると……

「一緒というのはだな……」

 そうして、近江が頬を朱に染めながら気恥ずかしそうに告げてくる。

「どうか俺の伴侶になってほしい。恋人のフリではなく、これからは俺の本当のパートナーになってほしいんだ」

 紗理奈としては気になっていることがある。おずおずと尋ねた。

「そのう、近江さんは駿河千絵さんという美人な婚約者さんがいたわけですけど……千絵さんがお兄ちゃんのことを好きだから、仕方なく私をパートナーに選んでいるとか……?」

 近江はと言えば……キョトンとした表情を浮かべていた。

「駿河千絵との婚約の件は、そもそも親同士が勝手に話していたことだ。刑事時代の仲間だという認識はあるが、堂本陽太の想い人という認識の方が勝っている」

 近江が淡々と告げてきた。
 彼がそんな風に言うのだから、きっとそうなのだろう。

「それで? 堂本紗理奈、俺の話についてはどうだろうか?」

 近江が紗理奈の顔を覗き込んでくる。
 「一緒に暮らしたい」と話してきていた時のように、何やら必死な雰囲気を感じる。

(近江さんは嘘を吐いてないわ)

 紗理奈はクスリと微笑んだ。

「堂本紗理奈、今の笑みにはどういう意図が隠されているんだろうか? 俺は色々な事件を解決してきて警視正まで実力で登りつめてきたはずだが、どうやら君に関する謎だけは自分自身だけでは解決できないらしい」

 たじろぐ近江が紗理奈には面白い。

「それはですね……」

 彼女は近江の頬を両手で包みこむ。
 そうして……
 そっと顔を近づけると、彼の唇をちゅっと奪った。

「な……」

 困惑しながら赤面している近江に向かって紗理奈はにっこりと微笑んだ。

「ぜひ、ずっと貴方のそばにいさせてください、近江さん」

「なんて大胆な女性なんだ……」

 先ほど以上に近江は顔を真っ赤にしていた。

「これからもどうぞよろしくお願いしますね」

 紗理奈が告げると、近江がこれまでに見たことがないぐらい――蕩けるような甘い笑みを浮かべてくる。

「ああ、これからもずっと一緒にいてくれ」

 そうして――星空に見守られながら……二人の唇がそっと重なり合ったのだった。

 それから数か月が経った。
 牛口幸三は堂本陽太殺害に関しての自供を始めているらしい。これから裁判になり、然るべき措置が取られるようだ。
 堂本陽太に恋していた駿河千絵は、警視庁に脅迫状を送ったことについての罪に問われているが、実質的な被害はなかったので軽い刑罰で済むそうだ。紗理奈に対して謝罪と感謝がつづられた手紙が送られてきていた。
 紗理奈が「お兄ちゃんの恋人は実質お姉ちゃんみたいなものなので、どうか幸せになってください」といった旨の伝言を近江に頼んだところ、駿河千絵は涙を流していたそうだ。
 紗理奈はといえば、もう犯人の間の手に怯える必要はにので、新聞社の仕事に完全復帰を遂げた。そうして、真心新聞社の後藤局長の力を借りて、今回の一件の記事をしたためたのだった。
 その後、近江は今回の一件での活躍から、警視正から警視長へと昇進が決まったのだった。



 そして、迎えた夏の休日。
 警視長になって多忙な毎日を送っていた近江とは、紗理奈は久しぶりに外出していた。
 どこへかというと……
 正式に恋人同士になった紗理奈と近江は、紗理奈の兄・陽太の墓参りに来ていたのだった。
 近江は黒いスーツを着用しており、紗理奈も黒いワンピース姿だ。

(近江さん、『俺たちのことを陽太に挨拶したい』って言い出したのよね)

 生真面目な近江らしい。

(お兄ちゃんに挨拶に来てくれるなんて、近江さんは優しい) 

 青天の中、墓石に向かって二人で手を合わせた後、近江が厳かな口調で告げた。

「陽太、俺がお前の代わりに――お前の妹を必ず幸せにしてみせる」

 力強い言い方に、彼が真剣な思いを抱いているのが、彼女にも伝わってくる。
 近江の優しさが胸に染み入るようで、なんだか嬉しくて、紗理奈の口元が綻んだ。

「堂本陽太に挨拶は済んだ。さあ、行こうか、堂本紗理奈」

「はい、そうですね」

 そうして、二人して陽太の墓を後にする。
 しばらく森の中をゆっくりと歩む。
 生い茂る緑が、ぎらつく夏の日差しを遮ってくれていた。
 蒸し暑くて、少々汗ばむ。ちょうど涼し気な風が吹いてきて、気持ちが良かった。

「堂本紗理奈、君に謝罪しないといけないことがある」

「なんですか?」

 近江は神妙な面持ちだ。
 紗理奈がなんだろうかとドキドキしていると……

「君と出かける時、どうしてだか、山や田んぼなどの自然に囲まれた場所にばかりなることをだ」

 紗理奈はしばらく黙っていたが……

「そんなことを気にされていたんですか?」

 くすくすと笑った。
 近江がバツの悪そうな表情を浮かべていた。

「部下たちから言われたんだ。女性はもっとキラキラした場所が好みだと」

「まあ確かにそうですかね? 豪華なホテルのスイートルームやディナーとか海外旅行とかには憧れますかね」

「やはりそうか……善処しよう」

「ふふ、私は近江さんと一緒ならどこででも楽しいですから。ありがとうございます」

 近江なりに色々と気を遣ってくれているようで、紗理奈はなんだか嬉しかった。

「そういえば、近江さん、ずっと気になっていたんですけれど」

「なんだ?」

 紗理奈は長身の近江を見上げながら問いかけた。

「どうして、私のことをずっとフルネーム呼びなんですか?」

「ん?」


 紗理奈としてはどうにも気になっていた。

「誰にでもフルネーム呼びなのかなって、気にしてなかったんですけど、さっきはお兄ちゃんのこと、陽太って呼び捨てで呼んでいたじゃないですか?」

 すると、真剣な表情で近江が問いかけてくる。

「下の名前だけで呼ばれたいのか?」

「ん? そうですね。これから先も私が堂本紗理奈のままで良いんだったら、それでよいですけど……同じ名字になったら、近江さんはどうするつもりなのかなって……」

 すると、近江がその場に立ち止まった。

「……近江さん?」

 見れば、近江は赤面したまま絶句していた。

「近江さん……?」

「同じ名字……堂本紗理奈が俺と同じ名字……」

 どうやら同じ名字という単語が、近江の心に刺さったらしい。

「ええっと、近江さんにその気はなかったということですか? ちょっとだけがっかりです」

 すると、近江がものすごい勢いで喰いついてきた。
 彼の両手が紗理奈の肩をがっしり掴んでくる。

「いいや、そんなことはない。お前の口からそんな言葉が聞けて喜んでいるだけだ」

 そうして、近江が頬を朱に染めながら告げてくる。

「お前も俺との結婚に前向きなようで安心している」

「ええっと……まあ、確かにそうですね」

 紗理奈も頬を朱に染めた。
 そんな風に言われると、紗理奈としても悪い気はしなかった。

「その場合、君も俺のことを名字呼びのままなのはおかしくないだろうか?」

「あ! 言われてみればそうですね!」

 なんだか照れくさい。
 気を取り直して、二人してしばらく前に進む。
 森を抜けた先……
 眩い光の下、煌めく場所が目に入る。

「わあ、すごく綺麗」

 二人の視界いっぱいに黄金の花々が咲き誇っていた。
 目の前に広がるのは、向日葵畑だった。
 紗理奈は背の高い向日葵に向かって駆ける。
 後を追ってきた近江がポツリと呟いた。

「ああ、すごく綺麗だな」

 振り返ると、近江が口元を綻ばせていた。

「そうですね、向日葵、すごく綺麗ですね」

「俺が言ったのはだな……」

「?」

「いいや、何でもないよ……」

 近江はそれだけ言うと、紗理奈の隣に立った。
 紗理奈からすると背の高い向日葵も、近江の身長の高さには叶わないようだ。
 ふと、彼がスーツのポケットの中から何かを取り出した。

「堂本紗理奈、これを」

「これはなんですか?」

 彼の掌の上には黒い小さな箱。
 ドクンドクン。
 心臓が幸せなリズムを脈打つ。
 彼がもう片方の手でそっと開く。
 中に入っていたのは……

「わあ、綺麗!」

 太陽に負けず劣らず美しいダイヤモンドの指輪だった。

「向日葵の花のように明るくて快活で、このダイヤモンドのように意思の固い君にこれを」

 近江にしてはかなり気障な台詞だったので、紗理奈の胸がむずがゆくなってくる。
 それ以上に、嬉しくて仕方がなかった。
 彼女の左手の薬指に、彼がダイヤモンドの指輪を通した。

「これからも陽太の代わり……いいや、それ以上に君を大事にする」

「近江さん」

 紗理奈の瞳から一滴の涙が零れる。
 そんな彼女の頬へと、彼の長い指がそっと触れる。

「好きだ。これから先も俺とずっと一緒にいてほしい、紗理奈」

「私もです、近江さん……いいえ、圭一さん」

 そうして、彼の顔が彼女の顔にゆっくりと近づく。
 向日葵の下、二人の影が重なった。

 期間限定から本当の恋人同士になった二人の前には、これから先、幸せな未来が待っているだろう。

(おしまい)

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