クールなエリート警視正は、天涯孤独な期間限定恋人へと初恋を捧げる


「なんだよ、お前は、正義感の強い会社員だな!」

「綺麗な顔だ、お前も一緒にこの女と一緒に売ってやろうか? 最近は性別なんて気にしない奴らも増えてきたからな!」

 暴力団員たちが、美青年に向かって殴りかかろうとした、その時。
 美青年がまるで黒豹のように軽やかに身体を翻す。
 次の瞬間。
 二人の姿が見えなくなったかのような錯覚に陥った。

(何が起きたの……!?)

 気付いた時には、スキンヘッドの男が倒れ込んでいる。
 その脇では、美青年がチャラ男の腕を捻り上げながら地面に抑え込んでいた。
 一瞬の出来事だったため、紗理奈の思考が追い付かない。

(何? この人、こんなに綺麗で大人しそうな見た目なのに、格闘家か何かなの?)

 そう思わざるを得ない程、美青年は目にも止まらぬ早業で俊敏な動きをしていた。
 美青年が、暴力団員の身体の上に跨りながら、ポケットに入れていた無線を取り出すと、誰かに報告をはじめる。

「こちら、婦女に暴行を働こうとしていた暴力団組員を抑え込んでいる。至急三番地にまで来てほしい」

 その発言を耳にして、紗理奈の全身が強張った。

(もしかして、この人……)

 なんだか嫌な予感がしてしまい、美青年に対して感謝の念を告げることが出来ない。
 遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
 パトカーだと漠然と覆った。
 呆然と立ち尽くしていると、美青年がこちらを見上げてくる。
 切れ長の瞳には、赤いランプの光が明滅し、まるで野生の獣のようにも見えた。
 紗理奈はそのまま身動きできなくなる。

「君は……」

 美青年が口を開こうとした、その時。
 サイレンがピタリと止んだ。
 赤い蛍光灯が点滅しているパトカーの中から、警察官たちが飛び出してきた。

「いたぞ!」

「あそこだ!」

 ほどなくして、警察官たちが姿を現し、紗理奈や美青年たちのことを取り囲んだ。
 美青年がすっくと立ち上がる。
 警察官の一人が敬礼しながら告げた。

「近江警視正、遅くなってしまい申し訳ございませんでした」

 近江警視正。
 美青年はやはり警察のようだ。
 紗理奈の中に警戒心が芽生える。

(やっぱり警察だったのね)

 兄の一件以来、警察とは関わり合いになりたくなかったのに。
 紗理奈がその場を立ち去ろうとしたのだが……

「待て」

 先ほど自分のことを助けてくれた美青年警察が、紗理奈の背に向かって声をかけてくる。

「被害に遭った際の状況をまだ聞いていない、現場に居合わせていた君を帰すわけにはいかない」

 高慢な物言い。
 紗理奈の頬がピクリと引き攣った。
 振り返りざま、美青年のことを挑戦的に睨みつける。

「貴方にどんな権利があって、そんなことを仰るんですか?」

 だがしかし、美青年が紗理奈の一喝に怯むはずもない。
 それどころか彫像のように表情を変えないせいで、感情を読み取ることさえできそうにない。
 紗理奈はごくりと唾を呑み込む。
 年頃の女性ならば、誰もが見惚れそうなほどの美しい顔立ち。
 無表情のまま、彼はスーツの胸ポケットから一冊の手帳を取り出した。
 中には写真と身分――警視正であることが示されている。

「俺は近江圭一。警視庁捜査第四課課長を勤めている」

 紗理奈は口の中で彼の名前を何度か繰り返した。
 なんとなく見覚えがあった気がしたが、近江は地名でもあるし、それが原因に違いない。

(それにしたって……この人、見た目は若いのに、警視正なの?)

 刑事ドラマなどでしか階級については知らないが、警視正と言えば、会社員で言うところの部長と同じような立場のはずだ。
 若く見える容姿なのかもしれないが、どう高く見繕っても、三十代前後にしか見えない。
 かなりのエリート警察官であることが窺える。
 近江と名乗る美青年が優美な唇を開いた。

「先ほどの状況に至った経緯を聞かせてもらおうか」

 冷淡な物言いが、兄の死を告げに来た警察官のことを想起させてきて、なんだか無性に腹が立った。

「人に物を頼む態度ではない気がします」

 紗理奈がツンケンした態度のまま返すが、近江は淡々とした声音で続ける。

「どうやら威勢が良いようだ」

「よく言われますけれど、何か問題でも?」

「それで、名前は何と言う?」

 相手が警察だというのなら正直に答えてやりたくはなかったが、後々面倒なことになっては勤めている会社に迷惑がかかってしまうだろう。
 紗理奈は、社会人として仕方なく答えることにした。

「堂本紗理奈です」

 瞬間。
 目の前の美青年の瞳にすっと影が宿った気がした。

「堂本?」

「ええ、そうです」

 もしかして兄の知り合いだろうか?
 そんなことを思う間もなく、近江が淡々と事情聴取を続けてくる。
 だいたいの聴取は終わった頃。

「以上だ」

 近江の言葉を皮切りに、今度こそ紗理奈はその場を立ち去ることにする。

「それでは」

 だがしかし。
 それまで事務的な態度だった近江が、言葉を掛けてきた。

「先ほどの君の行為、正当防衛の範囲を超えていたぞ」

 もしかして注意してこようというのだろうか?
 身構えていると、近江が続けた。

「勇気と無謀は違うものだ。正義感が強いのは良いが、いずれは身を滅ぼすぞ」

 ドクン。
 紗理奈の全身が総毛立つ。

(その言葉は……)

 ドクンドクンドクン。
 鼓動が煩くなってくる。

「君みたいなやつが、すぐ死ぬんだ」

 険のある言葉。

(それは……だって……)

 警察学校に通っていた頃の兄のことを思い出す。

『紗理奈、聞いてくれよ。兄ちゃん、親友からな、こう言われたんだ』

『なんて言われたの?』

『正義感が強いのが良いところだが、いずれ身を滅ぼすぞ、ってさ』

『なあに、そのお友達、意地悪なんだから』

『優秀だけど、大人しくて放っておけない奴なんだよ。お前にいつか紹介するからさ。あと、もう一人、大事な人もな』

 だがしかし、兄の親友の言葉通りというべきか。
 刑事になったと喜んでいた矢先。
 兄は、ヤクザの抗争制圧に乗り込んだ際に単独行動を取って死亡してしまったのだ。
 死因は銃が暴発しての怪我による大量失血死だという。
 そもそもどうして兄が単独行動をとることになったのか?
 他の警察たちは何をしていたのか?
 事件に関して曖昧な返事しか警察からは伝えられることはなく、不可解な点を残したまま、真実は闇に葬り去られてしまった。

『許せない、警察なんて大嫌い』

 だからこそ、紗理奈は真実を暴くことのできる新聞記者としての道を選んだのだ。
 そして、もしも兄の死の真相を知ることができたなら……

『正義感が強いのが良いところだが、いずれ身を滅ぼすぞ』

 兄が親友に掛けられたという言葉。
 そっくりそのまま同じだったせいだろうか?
 紗理奈は兄のことを思い出して前後不覚に陥った。
 胸は痛みを増してくる。
 ズキン。
 ズキン。
 ズキン。
 兄が死んだことを思い出していたせいもあってか、なんだか苦しくて息がしづらくて仕方がない。
 普段だったら、勢いよく相手に噛みついている頃だったけれど……
 紗理奈の瞳からぽろぽろと涙が勝手に溢れ出した。

「……っ」

 泣くつもりなんてなかったのに。
 勝手に涙が溢れて止まらない。

(やだ、こんな男の人の前で……)

 紗理奈が咄嗟に目君腕で隠す。
 大嫌いな警察官の前で泣きたくなんかないのに……!
 だけど、溢れる涙が止まってくれない。
 ごしごしと目を擦る。
 その時。
 さっと目の前に何かが差し出される。

「言い過ぎた」

 スーツのポケットから青いチェックのハンカチを取り出してきた。
 男性だとぐちゃぐちゃだったり、そもそも持っていなかったりすることが多いのだが、清潔に折りたたまれているもので、相手が几帳面な性格であることが窺えた。

「ええっと?」

 紗理奈はおそるおそるハンカチを受け取る。

「もう夜も遅い、婦女子が妄りに外に出ては危ない時間だ」

「仕事で残業することがあるので大丈夫です。催涙スプレーと防犯ブザーはお友達」

 さっとハンドバッグに忍ばせていた防犯グッズを取り出した。
 表情の変化に乏しい近江だったが、それを見てふっと微笑んだ。

「そうか」

 無表情だった男性の思いがけない優しさを感じてしまった。

(不愛想で上から目線の男だと思っていたのに、こんな風に穏やかに笑うのね)

 ふと、近江が何か言いたげに口を開く。

「堂本、と言ったな? 君は……」

 その時。

「近江警視正、先程の二名、タクシーへと連行しました。それ以外の関係者については現在捜索中です」

 私服警察官が現れた。
 呼ばれた近江は紗理奈に向かって頭を下げてくる。

「それでは、失礼する。遅くならないように帰れ。それでは」

 近江が何台か停車中のパトカーとの元へと歩んでいく。
 赤いランプがまた唸りはじめる。
 大嫌いなはずの警察。
 だけど、どうしてだか、彼の乗ったパトカーが見えなくなるまで目で追ってしまっている自分がいる。

「あの人」

 どうしてだか初めて会った気がしない。
 だけど、どうして知っているのかは思い出せない。
 紗理奈はぎゅっと両手で近江のハンカチを握りしめた。
 ふと。
 近くのビルの電光掲示板が夜の十時を知らせてくる。

「……って、いけない、もう帰らなきゃ! 明日は朝早いんだから!」

 紗理奈は慌てて踵を返すと、地下鉄の駅に向かって歩を進めた。

 すぐに近江と再会した上に、あんなことになるなんて……
 この時の紗理奈は、まだ知らなかったのだった。


 翌日。

(今日はさっさと帰りましょう)

 仕事を終えた紗理奈は、荷物をトートバッグに仕舞うと、席を立ち上がった。
 紗理奈は、残業中の他の記者たちに頭を下げた後、エレベーターに乗って一階へと降りる。
 自動ドアの前に立つと、冷たい風が頬を嬲ってくる。

「堂本」

 背後から声がかかる。
 ビルの暗がりから現れたのは、短めの白髪に無精ひげを生やした壮年の男性だ。紗理奈の務める新聞局の局長を務めている後藤だ。自称・紗理奈の父を称しており、貫禄のある風貌をしており、新聞記者の面々からも慕われている人物だ。

「お前、昨日、暴力団員たちに絡まれていたみたいじゃあないか」

 突然、昨晩の話を振られたため、紗理奈の心臓がドキンと跳ねた。

「後藤局長、どうしてその話を?」

「俺の情報網を舐めるんじゃない。お前が兄貴の死の真相を知りたくて躍起になっているのは分かるが、あまりおかしな件には首を突っ込むんじゃないぞ」

「……分かりました」

 後藤が無精ひげを撫でながら告げた。

「本当に分かっているのかねえ? ああ、そうだ、俺とカミさんみたいに、お前も良い相手を見つけたら、ちったあ、自分のことを大事にするんじゃないか」

「令和の時代に、その発言はセクハラで訴えられますよ、気をつけてください」

 紗理奈が混同をきっと睨みつける。

「おお、怖い怖い」

 大袈裟に肩をすくめた後藤へと挨拶を済ませると、紗理奈は今度こそビルの外へと出た。
 近くにある地下鉄の駅へと向かおうと歩道を歩む。

(そういえば……)

 バッグの中に忍ばせた青いハンカチのことを思い出す。
 昨日、警視正の近江圭一から借りままになっているもので、洗濯して乾いたのでアイロンをかけたものの、どうして良いか分からず、そのままになってしまっていた。

(警視庁って話していたわよね、あまり関わりたくはないけれど……)

 地下鉄を乗り継いで、ハンカチを届けに向かうべきだろうか?
 そんなことを考えていたら……

「堂本紗理奈」

 突然、何者かからフルネームで名前を呼ばれた。
 後藤のしゃがれた声とは違う、凛とした声。
 社内に何か忘れ物でもして、同僚が追いかけでもしてきたのだろうか?
 振り返ると、そこに立っていたのは……

(え?)

 見間違いだろうか?
 思いがけない人物君にして、紗理奈は目を瞬かせた。


 道路と歩道の間にある白いガードレール沿いに立っていた美青年が、颯爽とこちらに歩いてくる。流麗な黒髪が風に躍った。

「君に話がある」

 警視庁警視正・近江圭一。
 彼は先日と同じようにかっちりとした黒いスーツに身を固めていた。
 夜闇に溶け込みそうな色彩で、夜行性の獣を彷彿とさせてくる。
 芸能人もかくやというべき美青年が姿を現したからだろう。近くを通りがかった女性たちが黄色い悲鳴を上げる。
 歩み寄ってくると、紗理奈の前で歩を止めた。
 昨日も思ったが、身長が高い。
 相手から見下ろされると、まるで大人と子どものようだった。

「堂本紗理奈、もう覚えていないかもしれないが、警視庁警視正の近江だ」

「私の本名を覚えていらっしゃったんですか?」

 少し間があった後、近江が答えた。

「……ああ、この間聞いていたからな」

「そうでしたか。記憶力が良いんですね」

 確かに事情聴取をされていた。一度名前を聞けば覚えるタイプの人間なのだろう。

「被害に遭った女性の名前を覚えるぐらい当然だ」

「そうですか。会社の名前は知らせていなかったはずですが?」

 紗理奈は近江の顔を見つめながら問い返す。

「事情聴取は昨日終わったと思っていましたが、何か答えそびれたことでもあったでしょうか?」

「いいや、そうではない」

 すると、彼がポケットの中から一枚の写真を取りだした。
 写真に写る人物の姿を見て、紗理奈はひゅっと息を呑んだ。
 爽やかな笑みを浮かべる短髪の青年。黒い制帽を被って、青いシャツに身を包んだ姿。

「それは……」

「この男、君の兄ではないか?」

 「はい」と答えても良いものだろうか?
 とはいえ、相手は警察官。昨日、他の警察官たちと一緒に過ごしている姿も目にしている。身分は確かな人物である。
 おかしな隠し事や嘘を吐いたりしても意味はないだろう。

「はい、そうです」

 すると、近江がどこか遠い目をしながら続けた。

「やはり、堂本陽太の妹だったか」

 紗理奈は相手に噛みつくように話し掛けた。

「だったら、何だって言うんですか?」

 すると、近江が静かに告げる。

「君を保護させてもらう」

「いったい何の話ですか?」

 紗理奈はトートバッグの紐をぎゅっと握りしめた。

「往来で話すような内容ではない。近くに車を停めてある。そこで話をさせてもらいたい」

「嫌です。警察の話なんて聞きたくありません」

 紗理奈はきっぱりと拒否する。
 近江の冷ややかな視線を受けた。

「君の命が危険に晒されているのだとしても?」

「命の危険?」

 近江の口から非日常な単語が飛び出してきたので、紗理奈は驚愕に目を見開いた。

「そうだ、脅しでも何でもない。俺はおかしな類の嘘は吐かないようにしている」

 紗理奈はきっと近江を睨みつけた。

「突然現れて、そんな高圧的な態度と上から目線で話をされても、話を聞く気になりません。そもそも警察官とは一言だって口を利きたくないんですから。それじゃあ、さようなら」

「待て」

 紗理奈は踵を返すと、近江とは反対側へと颯爽と歩を進めはじめたのだが……

「きゃっ!」

 ヒールが歩道のタイル同士の小さな隙間に挟まり、足首を捻ってバランスを崩してしまった。
 なんとか転ばずには済んだが、地面にしゃがみ込んだまま動けなくなってしまう。

(私ったら、なんて格好がつかないの……!)

 紗理奈が立ち上がろうとしていたら、背後から冷ややかな声がかかる。

「仕方がないな」

 気付いた時には、近江が真横にしゃがみ込んでいた。
 彼は、自身の両腕を彼女の背中と両膝の下に各々差し入れると、そのまま立ち上がった。
 いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
 紗理奈は驚きで目を真ん丸に見開いてしまう。

「ちょっ、ちょっと、降ろしてください! 目立ちますから! いくら警察でも横暴です!」

 黙々と前進していた近江だが、ちらりと紗理奈に視線を送った。

「抵抗するというのなら、公務執行妨害で現行犯逮捕してでも、君を保護させてもらう」

「な……!」

 紗理奈は絶句した。
 是が非でも、「保護」という名目で紗理奈のことを拉致したいようだ。
 けれども、「命の危機」とやらについては確かに気になる。

(もしかしたら、お兄ちゃんの事件の詳しい話も聞けるかもしれないし)

 紗理奈は覚悟を決める。

「分かりました、話だけは聞かせてもらいます」

「では行こう」

 近江の有無を言わさぬ高慢な態度に腹を立てながらも、紗理奈は彼の車へと運び込まれたのだった。


 会社の近くにある駐車場。
 白いSUVの助手席へと紗理奈は運び込まれた。
 近江が運転席へと乗り込むと、扉の閉まる乾いた音が車内に響く。
 彼が流れるような動作でエンジンをかけると、滑らかに車が走り始めた。
 BGMも何も流れていない。
 しばらくの間、沈黙が車内を支配していた。
 耐えられずに、紗理奈が口を開く。

「それで? 私の命の危険とは何でしょうか?」

「君の兄、堂本陽太の死にまつわる事件」

 ドクン。
 近江から唐突に本題を切り出されてしまい、紗理奈の心臓が跳ね上がった。
 両膝の上に置いた両手に知らぬ内に汗をかいてしまっていたようで、ぎゅっと握りしめる。

「堂本陽太がヤクザの抗争に単独で乗り込んで死んでしまったのは、君も知っているだろう?」

「ええ、もちろんです」

「事件は解決していることになっているが、不可解な点が多く残っているのも、勿論知っているな?」

 紗理奈はきゅっと唇を噛み締める。
 彼の言った通り、兄の死にまつわる事件は不可解な点がかなり残ったままだ。

(せめて死亡した当時の状況さえ分かっていれば……)

 ずっとずっと悔しい気持ちを抱えたまま生きてきた。
 もちろん、有耶無耶なまま事件解決とみなしている警察に対して、八つ当たりに似た感情を抱いているに過ぎないことだって、紗理奈自身も分かっている。
 近江が前を向いたまま告げた。

「実は最近、堂本陽太を殺害した犯人だと名乗る人物から手紙があった」

「え!?」

 近江の涼し気な横顔を、紗理奈は凝視した。

「そして、そこにはこう書いてあった」

「何て、ですか?」

 紗理奈の声が震える。

「『堂本陽太の事件にまつわる者は全て消す』、とな」

「お兄ちゃんにまつわる者……」

「もちろん、妹である君は要保護対象に当たる」

 近江の事務的な口調とは対照的に、紗理奈の心は千々に乱れる。

「それで、私は警察に保護されないといけない、ということですか?」

「ああ、物分かりが良いな。その通りだ」

 紗理奈はきっと眦を吊り上げると、近江に抗議する。

「私は、貴方たち、警察に護られるつもりはありません。話はもう終わりですか? どうぞおろしてください」

 近江は淡々と返す。

「それは出来ない。善良な市民を見殺しにするわけにはいかないからな」

「その私が見殺しにされても良いって言っているんです」

「それは出来ない」

「市民の安全のためですか?」

「それが警察の仕事だからな」

 そこまでのやりとりで、紗理奈の中プチンと何かの糸が切れた。

「どうしてこんなに警察は身勝手なんですか!? 貴方たちが真相を有耶無耶にしたから、真犯人が現れたんじゃないですか……! 貴方たちのせいで、お兄ちゃんは……!」

 そこまで話すと、涙が勝手に溢れ出した。
 昨晩と同じ。
 唯一の肉親だった兄を失って数年が経つが、いつまで経っても悲しみが癒えることはない。
 しかも、やはり事故ではなく、何者のかに殺害されていたのだ。

(絶対に許せない)

 ちょうど赤信号で停車した。
 紗理奈は、助手席の扉を開くと、そのまま外へと飛び出す。

「待て!」
 近江の制止も聞かず、紗理奈は雑踏の中へと走って逃げ込んだのだった。



 近江の傍から逃げ出した紗理奈は、一人で黙々とバーで酒を飲んでいた。
 カクテルを見ながら兄のことを思い出して切なくなる。

(お兄ちゃん……)

 紗理奈の五つ年上の兄。
 短い茶髪に、茶目っ気のある茶色の瞳、笑うと太陽のような爽やかな青年。
 頼りになって大好きな自慢のお兄ちゃん。
 両親を早くに亡くしてしまったこともあり、両親の代わりも務めてくれていたのだ。
 何かあればいつも妹のことを守ってくれる優しい兄。
 そんな兄が志した職業は……

『やったぞ、紗理奈、兄ちゃんは警察になったんだ!』

 警察官。
 正義感の強い兄らしい職業だった。
 なのに……

『ヤクザの抗争制圧に向かって、銃が暴発して死亡……?』

 兄の上司は頭を下げてきたが、兄の命は戻ってこない。
 淡々と義務的に色々報告してくるのが、つじつまの合わないことも多くて、なんだか嫌で仕方がなかった。
 遺留品として警察バッジを帰された。
 現場に居合わせたという兄の同僚警察たちは、葬式にさえ姿を現してこなかった。

『警察なんて、いつも偉そうにしているだけで、何も出来ないじゃない、大嫌い』

 それから警察に対しての不信感が強くなっていったのだった。
 それは、どうしてもなかなか払拭されることはない。

「お兄ちゃん、どうして私を一人にしたの?」

 その時。
 紗理奈の頭上に、さっと影が差す。

「ねえねえ、一人なの?」

 声を掛けてきたのは、チャラチャラした雰囲気の三十代前半の男性だった。
 紗理奈が顔を上げると、強引に腕を掴まれる。

「きゃっ、ちょっとやめてください!」

「いいから一緒についてきてくれよ」

 無理やり椅子から立ち上がらせられた、その時。

「そいつは俺の連れだ、離してもらおうか」

 横から声が掛かる。
 忘れもしない凛とした声。
 トクン。
 紗理奈の心臓が跳ね上がる。
 そっと声の方へと視線を移す。