クールなエリート警視正は、天涯孤独な期間限定恋人へと初恋を捧げる


「お前の兄・陽太が亡くなった事件について、お前に話しておきたいことがある」

「お兄ちゃんの……?」

「ああ、だが、今からでは話す時間が足りない」

「だったら、どうして今話されたんですか?」

「先に心の準備をしておいてもらいたかった」

 ちょうどその時、近江のスマホに着信音が鳴る。初期設定の無機質なアラーム音だ。
 彼が電話口で話している。どうやら何かの事件の足取りが掴めたのかもしれない。

「堂本紗理奈、すまない。続きはまた帰ってからにでも話そう」

 けれども、紗理奈の胸の中はゴチャゴチャしていて、近江になんて声をかけて良いのか分からなかった。気持ちを落ちつけたくて、皿洗いのために、椅子から立ち上がる。
 ふと、頭上に陰が差す。
 見上げると、近江が目の前にまで近づいてきていた。
 しかも……
 皿に手を伸ばそうとしていた紗理奈の手を、近江の大きな掌が掴んできたのだ。
 ドクン。
 紗理奈の鼓動が跳ね上がる。

「近江さん……?」

「堂本陽太の話以外にも、お前に伝えておきたいことがある」

 ドクンドクン。
 近江の真剣な眼差しに頭の芯がクラクラしてくる。

「……俺がお前と一緒に暮らしたいとプロポーズしたのは事件解決のためだった」

 ドクンドクンドクン。
 心臓が嫌な音へと変わった。
 紗理奈は唇をきゅっと噛み締めた後、再び開く。

「それはもちろん分かっていて……」

「だが、今は違う」

 ドクンドクンドクンドクン。 
 近江の真摯な声音が鼓膜を震わせてくる。

「確かにこれまでは期間限定の恋人として一緒に暮らしてきたが……君が迷惑でなければ……」

 だがしかし、ちょうど、朝の八時の時報がなった。

「……続きはまた後で話そう。おそらく今晩は帰って来れない」

「帰って来れないんですか?」

「ああ」

 すると、近江が思いがけないことを口にしはじめた。

「君を危険な目に遭わせたくはない。どうか、君が俺の想像とは違う行動をとることを願う」

「近江さん、それはいったい……?」

「まあ、万が一のことがあっても、俺は君を絶対に守ってみせるがな」

 先ほどから近江が何の話をしているのか、見当もつかない。

「それでは」

 それだけ言い残すと、近江の手がそっと離れた。
 今度こそ仕事へと向かう彼の背を、彼女は見送った。

(近江さん……)

 彼の触れていた手が熱い。
 紗理奈はそっともう片方の手で覆ったのだった。



 夕方近くになった。
紗理奈はベッドの上、クッションを抱きしめながら考え事をしていた。
 普段なら、まだまだ仕事に励んで執筆をしている時間だが、昨日の一件もあってか、なんだか気乗りしなかったのだ。気分の上がり下がりで仕事をしてはいけないのは重々承知だが、こんな気持ちのまま良い記事を書くことは出来ないだろう。

「近江さんが何を考えているのか分からない」

 彼の伝えたいこと。
 今朝までは悪い予感しかしていなかったけれど……今朝の彼の様子を振り返るに、悪い話ではない気がしてきている。
 婚約者の件だって……冷静になって考えてもみれば、きっと近江の性格だから嘘を吐くつもりはなかったのだろう。

「たぶん今の私たちの間には必要のない話だからしていなかっただけ……だと思う」

 まだひと月程度しか一緒に暮らしてはいないが、なんとなく近江の性格だったら、そういう選択をしそうだと思ったのだ。

「今回の期間限定の恋人の話だって、そもそも近江さんから責任を取りたいから一緒に暮らしたいって言われたのに、私がごちゃごちゃ言ったから、期間限定の恋人になってくれただけで……」

 紗理奈はハアっとため息を吐いた。

(確かに近江さんからすれば、私に対して最初から恋愛感情があったわけじゃないと思う)

 だけど……

「『陽太の代わりに君を守る』と話してくれた近江さんの言葉には嘘はないと思う」

 兄の件の話もある。
 怖いけれど……

「ちゃんと話を聞かなきゃ」

 紗理奈は今晩こそ近江としっかり向き合うのだと心に決めたのだった。
 色々なことを判断するのは、話を聞いてからでも遅くはないはずなのだから。
 紗理奈が決意を新たにPCへと向かおうとし、その時。
 スマホの着信音が鳴る。

「後藤局長?」

 スマホをタップして電話に出る。

『おい! 堂本! 俺の送ったメールは見たか?』

「え?」

 慌てた調子の後藤局長に促されたまま、受信メールの確認をする。
 メールにはライバル新聞社が明日の朝刊に掲載するらしい記事の詳細が記載されていた。

『俺の伝手からの話だが、どうやら近江警視正が逮捕されたらしい』

「え……?」

『裏付けがしっかりしていないから、まだニュース速報も流れていないらしい。そもそも近江警視総監の息子なんで、テレビ局や新聞局の動きをしばらく抑え込んでいるんじゃないかと思っているんだが」

「そんな……」

「それで、ライバル新聞社がその記事を明日の新聞一面に載せるらしいんだ!』

 記載される予定の記事の内容を見て、紗理奈は瞠目した。

「な……」

 なんと……

『警察庁のエリート警視正、過去に同僚刑事を殺害か』

 内容は、まだ警視時代の近江が同僚の堂本陽太をヤクザとの抗争と見せかけて殺害したという内容のものだった。
 紗理奈の血の気が一気に引いていく。指先の感覚までなくなっていくようだ。
 拍動を耳元で強く感じる。
 本当にこの記事に記載されているように、近江が兄・陽太を殺害したというのだろうか?
 これまでの近江との出来事を思い出す。

(あの人は……)

 刑事の仕事に誇りを抱いているようだった。
 確かに紗理奈の兄の一件に関しては、何かしら後悔しているようではあった。
 仮に殺害犯だったとして、わざわざ脅迫状を警察庁に送ってきたり、紗理奈と出会った際に助けずにそのままにしても良かったはずだし、紗理奈を信用させるためにとるにしては、一連の行動があまりにも回りくどすぎる。
 そもそも、犯人の目途が立ったというような内容を、近江だって口にしていたはずだ。
 それに何よりも……

「近江さんがそんなことをするはず、絶対にありません」

 紗理奈は力強く断言した。
 すると、後藤局長がしばらくすると話しはじめる。

『誰かが近江警視正を引きずり下ろすために適当に嘘を吐いているんだとしても、ライバル新聞社が堂々と記事の一面に載せる気満々なんだ。同じ新聞記者として、何か裏が取れているんだろうとは思いたいが……』

 紗理奈は記事の隅々まで記事を読み込む。

(ん?)

 少々気になる箇所があった。

「かつての同僚からの証言?」

 近江のかつての同僚。
 昨晩出会った二人の姿が脳裏に浮かぶ。

『新聞社だってリスクはおかしたくない。だから、証言だけで記事に載せるはずはないわけだが……もしかしたら、俺たちに先を越されまいと、今頃証拠集めを必死におこなったりしてな。はは』

 後藤局長なりに紗理奈の緊張を和らげようとしてくれているのだろう。
 少しだけ元気が出てきた、その時。
 マンションのインターホンが鳴り響いた。
 こんな時間に宅配便だろうか? 
 気になりつつ、カメラを覗く。
 すると……

『こんにちは』

 立っていたのは……

(この人、確か昨日レストランで会った……)

 牛口幸三。
 近江のかつての同僚刑事だったはずだ。
 同僚であるならば、近江が住んでいる場所を把握していてもおかしくはないだろう。
 けれども、近江は今は勤務時間だと把握しているはずだ。
 なのに、どうしてこんな時間に尋ねてきたのだろうか?

『堂本陽太の妹さん、近江のマンションに住んでいるんだろう?』

 答えてよいものか分からず、紗理奈はしばらくだんまりになる。

『近江が逮捕されたのを君は知っているかい? 君のお兄さんの死亡事件について俺だけが知っている話があるんだ』

 ドクン。
 ずっと追っていた兄の死の真相。
 紗理奈はゴクリと唾を呑み込んだ。
 このタイミングで現れるなんて、これは絶対に罠だ。
 けれども……

(もしかしたら牛口さんは、お兄ちゃんの一件だけじゃなく、近江さんが逮捕された一件に絡んでいるのかもしれない)

 紗理奈の鼓動が速くなる。
 ぎゅっと拳を握ると決意を新たに返事をした。

「わかりました」

 紗理奈は近江を救うべく、牛口の要求に応じることにしたのだった。

 マンションの中に呼び込むよりも、外に出た方が警察たちの目もあって比較的安全だろう。
そう判断して、紗理奈は牛口と対峙することを決めた。
 牛口は現在・会社経営者という話だった。だとしたら、わざわざ人目のつく場所で紗理奈におかしな真似はしてこないだろう。近江の婚約者だったという駿河千絵も同伴するという話だったが、牛口のそばに彼女の姿はなかった。
 相手に促されるまま、黒塗りの高級車の中に乗り、バーへと向かうことになった。
 バックミラーで確認すると、紗理奈のことを監視している警察たちの車も一緒に追いか駆けてきているのが分かった。

(良かった、ちゃんと追ってきている)

 すると……

「ああ、君の周囲に警察がうろついているのは僕も把握しているよ」

 運転席の牛口が何気なく口を開いてきた。
 そもそも元警察官だったはずだから、かつての同僚だっているだろうし、それぐらいは分かってしまうのだろう。

「近江が捕まったというのは残念だったね」

「……どうして近江さんの件を、牛口さんがご存じなんですか?」

 すると、牛口が軽妙に語りはじめる。

「そんなの、同僚たちから話を聞いたからさ」

「それは警察の倫理や規律に反する行為だから、しないのではないでしょうか? 少なくとも、近江さんは一般市民である私に色々な情報をリークしたりはしませんでした」

 すると、牛口が愉快気に笑いはじめた。

「ははっ、そんなの理想や建前でしかない。警察の末端の奴らはそこまで殊勝なことなんて、考えてもいないさ。それに……」

 牛口がにやりと口の端を吊り上げた。

「君が近江からの信用を得ていないだけだとか思わなかったのかい?」

「……っ」

 兄に似た容姿のせいもあり、牛口に対する不快感が強かった。

(後藤局長だって知っていたら、牛口さんが知っていてもおかしくはない話だって、分かってはいたけれど……)

 鎌をかけて相手の尻尾を掴んだりするのは難しいようだ。
 車は郊外へと進んでいく。
 建物は多いままだが、ビルや商業施設ではなく、民家の比率が増えていく。
 しばらくすると、最近はだいぶ減ってきていたが、壁にペイントで落書きがほどこされている建物や派手な身なりの人物たちが多く立つ場所へと車が進んでいった。
 都内に比べると建物の数は少ないが、それなりに人の目はありそうな場所だ。どうやら雰囲気を見るに、古くからある商店街から少しだけ離れた場所にある路地裏のようだ。
 車が停車したのは、古びたビルの前だった。

「ああ、すまない。ついたよ」

 看板を見るにバーのようだ。なんとなくヤクザたちに連れ込まれかけた看板のレイアウトに似ている気がする。
 牛口に促されるまま、紗理奈は扉を開く。カランカランと鐘の音が鳴った。
 店内は薄暗い場所で、平日だからかもしれないが閑散としていた。
 天井の上には、剥き出しの配管が張り巡らされている。

「それで、牛口さん、話というのは何でしょうか? ここまで着いてきたんです。ちゃんと話を聞かせてください」

 紗理奈が問いかけると、牛口が喜々として語りはじめる。

「ああ、そういう話だったね。だけど、せっかくこんな場所まで来たんだ。まずはお互いに一杯酒を飲まないか?」

 牛口が何を考えているかは分からない。しかも見知らぬ土地だ。
 だからこそ、そんな人物の勧めで酒を飲むなんて、本当は避けたかった。
 けれども、牛口から情報を聞き出すためにも、紗理奈が牛口に警戒しているそぶりを見せるのは望ましくないだろう。

「わかりました。でしたら、ぜひ」

 そうして、サングラスをかけたバーのマスターと思しき人物が運んできた酒に口をつける。
 飲んだ瞬間、一気に身体が熱くなったが、すぐに引いていく。飲みやすい味だったので、そのまま全て飲み干した。
 紗理奈が酒を口にしたのを確認した後、牛口が話し始める。

「君に謝りたいことがあるんだ」

「謝りたいこと、ですか?」

 ふと、紗理奈は周囲を見渡した。
 気付けば、先ほどまで周囲にいた人たちの姿はいなくなってしまっている。
 バーのマスターと思しき人物さえもいない。
 薄暗い部屋の中、牛口と紗理奈の二人きりになってしまっていた。

「ああ、君のお兄さん、堂本陽太を助けられなかった一件についてだ」

 紗理奈はハッとすると同時に相手への警戒心を強くする。

「……兄はヤクザとの抗争に巻き込まれて死んだと、警察からは聞いています。警察が駆けつけた時には、兄はもう死んでしまっていたと」

「そうだね、表向きはそういう話になっているね」

「表向き、ですか?」

「そう、表向きだ。君の兄さんを殺したのは……」

 紗理奈は即座に答えた。

「近江さんだって仰りたいんですか?」

 牛口がふっと微笑んだ。

「話が早いじゃないか。そうだよ、その通りだ。君の兄を殺したのは――近江圭一、あいつなんだ」

 紗理奈は毅然とした口調で返す。

「近江さんに、兄を殺す理由はありません」

 すると、牛口が「ハッ」と吐き捨てるように笑った。

「近江が殺す理由は、駿河千絵だよ」

 昨日出会った、近江の元婚約者。
 彼女の名を耳にして、紗理奈の鼓動が少しだけ速くなる。

「近江と堂本と千恵と俺は、警察学校の同期だった」

 牛口が語る過去の話を紗理奈は黙って聞くことにした。

「当時の警視総監の孫娘だった駿河千絵と、副総監の息子だった近江とは、いわゆる政略結婚の間柄だった。けれど、君の兄である堂本陽太と駿河千絵は恋仲になってしまったんだ」

「え……?」

 紗理奈は驚いた。

(お兄ちゃんと駿河千恵さんが恋仲に……?)

 兄は誰かの彼女に懸想するようなタイプの男性ではなかったため、正直耳を疑ってしまった。

「近江は潔癖な男だ。自分という婚約者がいるのに、許せなかったんだろう。ヤクザの抗争がおこなわれている話を、堂本に吹き込んだんだよ。そうして、堂本は単独でヤクザの抗争の現場へと向かった。そこで、銃が暴発したと見せかけて、近江が堂本を殺害したんだ」

 流暢な口調で語る牛口に向かって、紗理奈は問いかける。

「牛口さんはその時何をなさっていたんですか?」

「堂本の元へと千絵が先に向かった後、近江の後、俺が最後に現場に到着したんだ。その時にはもう堂本は死んでしまっていた」

「だったら、貴方は近江さんがお兄ちゃんを殺した現場は見ていない。もしかしたら、お兄ちゃんを殺した犯人は、駿河さんの可能性があるじゃないですか?」

「俺は鑑識課の所属だったんだ。堂本の銃に千絵の指紋は残っていなかった」

 牛口が得意げに話すなか、紗理奈は怯まずに続けた。

「話は戻りますが、牛口さんは、そもそも現場は見ていないということですよね?」

「まあ、そうなるな」

「でしたら、近江さんが兄を殺したという証拠はあるんですか?」

「証拠?」

 牛口が下卑た笑みを浮かべながら椅子から立ち上がった。
 ふと、天井のランプがゆらりとゆらめく。
 紗理奈も反射でその場に立ち上がる。

「君の元に、堂本陽太の遺留品が届いていただろう? あれは実は近江の警察バッジなんだよ」

 確かに紗理奈の元へと兄の遺留品として警察バッジが届いていた。
 お守りの代わりに後生大事に所持している。

「どうしてあのバッジがお兄ちゃんのバッジじゃなくて、近江さんのバッジだって分かるんですか?」

 すると、牛口が大仰に肩をすくめた。

「そんなの簡単だ。俺が見たからだよ。堂本が近江の警察バッジを引きちぎっているところをさ! さあ、堂本陽太の妹の紗理奈さん、兄の事件の真相究明のために、俺に遺留品のバッジを渡してくれないか? 鑑識のやつらに渡したら、きっと近江のバッジだって分かるはずだ」

 紗理奈は牛口をまっすぐに見据えながら、きっぱりと告げた。

「牛口さん、あなた、嘘を吐いていますね」

「はあ? 何を言っている?」

「だって、貴方が言ったんじゃないですか。現場に辿りついた時には、近江さんと駿河さんが先にいて、お兄ちゃんはもう死んでしまっていたって。だったら、近江さんの警察バッジを引きちぎっている場所を見ることができるはずがないんです!」

 牛口の目に怪しい光が宿った。
 紗理奈は叫んだ。

「おおかた、この警察バッジは貴方のものなんじゃないですか? 貴方のものだって分かったらマズいから、渡せって言ってきてるんでしょう!?」

「俺を犯人呼ばわりするのか!?」

 牛口が激昂した。
 紗理奈は絶対に怯まない。

「私、思い出したんです。貴方、鼠川組と裏で関係があって、警察を辞職しないといけなくなった人でしょう? 私は刑事じゃありませんが、新聞記者の情報網を舐めないでください!」

「お前、せっかく下手に出ておけば!!」

 牛口が紗理奈に向かって手を伸ばしてくる。
 さっと避けて躱した。
 しかしながら、牛口がにじり寄ってくるため、紗理奈は背後へとじりじりと下がった。

「……図星だったんですか?」

 はったりも利かせないと有用な情報を手に入れられないからと、紗理奈としては矛盾を突きつつ思い付きを口にしたのだが……

(どうやら大正解だったみたいね)

 とはいえ、ピンチに陥ってしまっているのは確かだ。
 すると……

「俺は今から千絵と幸せな家庭を築くんだ! だけど、堂本陽太が死ぬ原因になった証拠を君が握っている」

 牛口がべらべらと供述を始めた。

「私はお兄ちゃんが死ぬ原因なんて知らなくて……」

「お前が気づいていないだけだ……君に遺留品として届けられたものに……俺の指紋が残っている。ちゃんと俺の指紋は全て隠ぺいしたはずだったけれど……最近は捜査内容も進んできてしまってね。いよいよ君に預けたものを差し出されたら、俺は一貫の終わりなんだよ」

「そんなの……貴方が悪いんじゃない!」

「近江に罪が向かうように証拠は捏造してあるし、新聞社だって買収してある。あとは君さえ事故で死んでくれれば、話は終わりだ」

「この状況で事故だとか、無理がありすぎるでしょう!?」

 だが、逆上しきっている牛口には話が通じない。
 牛口の手が今度こそ掴みかかってくる。
 紗理奈はあらん限りの声で叫んだ。

「誰か! 助けて! 近江さん!」

 その時。

「……堂本紗理奈に手を出すな」

 天上から声が聞こえた。
 張り巡らされた配管に陰がちらつく。
 紗理奈は思わず目を瞑った。
 目の前に何かが降ってくる。
 勢いで風が吹いて思わず目を閉じる。
 何かが潰れるような音が聞こえた。
 目を開けてみれば……

「近江さん!」

 近江が牛口のことを組み敷いている姿だった。
 まさか天井から降りてくるとは思わず、紗理奈は目を真ん丸に見開いた。

「……残念だったな、牛口。お前は昔から余計なことを喋りすぎる。堂本陽太の件は後で話を聞かせてもらおう。ひとまず、婦女への暴行未遂で現行犯逮捕だ」

 下敷きになった牛口が呻き声を上げている。
 近江が淡々と続けた。

「兄だけでなく妹にまで手をかけようとするなんてな。刑事だったのに愚かな真似を……昔からどうにも目立ちたがる気性だったが、災いしたようだな。わざわざ警察署に脅迫状を送ってさえこなければ、真実は闇の中のままだったのかもしれないのに」

 すると、牛口が悔し紛れに叫んだ。

「俺は脅迫状なんか送っちゃいない! どこの誰だか知らないが、そいつのせいで、俺は堂本の妹に接近する羽目になったんだよ!」

 近江が顔をしかめる。

「脅迫状を送ったのは、お前じゃないだと……?」

 その時。

「警察署に脅迫状を送ったのは私よ」

 現れたのは駿河千絵だった。逆光で表情が見えない。
 彼女を見て、牛口が叫ぶ。

「千絵! お前だって、堂本よりも俺のことを愛しているから、俺と結婚しようと思ってくれたんだろう?」

 彼女は近江が組み敷く牛口のことを見下ろした。

「わたしがあんたなんかのことを愛しているわけないでしょう! こうしたら、貴方が絶対にボロを出すって思ってたから近づいたのよ!」

「なっ」

「堂本くんを殺したあなたのこと、私は絶対に許さない!」

 その瞬間。駿河が俊敏な動きで近江へと手を伸ばした。
 彼女の指先にあるのは……近江の拳銃だ。
 そう認識した瞬間。
 紗理奈の身体が勝手に動いた。

「待って! 千絵さん!」

 駿河千絵の身体に体当たりすると、そのまま二人して床に倒れ伏す。
 紗理奈は声をかける。

「お兄ちゃんが私に紹介したいって言ってた、大事な同僚の刑事さん。お兄ちゃんが好きになった貴女に犯人を罰してほしいなんて、お兄ちゃんは思ってないと思うんです」

 駿河千絵がハッと身体を強張らせた。瞳を潤ませた後、嗚咽を漏らす。
 紗理奈は彼女の身体の上からそっと離れる。
 ふらりと身体が傾いだ。
 すぐそばにいた近江が支えてくれる。

「堂本紗理奈! 勇気と無謀は違うとあれほど……」

 近江がすぐそばにいるのだと思うと安堵して全身の力が抜けていく。

「良かった、近江さん、捕まってなかったんですね」

「ああ、一連の話は、牛口を追い詰めるためのものだった。俺としては、君に一番とってもらいたくない選択を選ばれたものだから冷や冷やしたよ」

「ふふ、だけど、お兄ちゃんの事件の真実が分かって……良かったです」

 気を張りつめすぎていたのか、それとも飲まされた酒が強すぎたのか、そこで紗理奈はふっと意識を失ったのだった。


 次に紗理奈が気づいた時には、誰かの背中の上だった。

(あれ? 私、誰かにおんぶされている……?)

 幼い頃の兄の背よりも、広くて堅くてごつごつしている。
 なんとなく頭の中がグルグル回っているような気がする。
 目を開けて、周囲を見渡すと、綺麗な夜空が見えた。
 少しだけ生ぬるい風が頬を嬲ってくる。
 胸元がなんだか温かい。

「私……」

「ああ、気が付いたのか」

 心地よい揺れの中、どこかで聞いたことのある声がする。
 ふと、近江の横顔が見える。
 確か、兄を殺した牛口と対峙していたら、近江が助けに来てくれたのだった。
 もしかしなくとも酔っぱらった自分のことを背負ってどこかに連れて行ってくれているようだ。

「酒に酔ったようだな。かなり度が強い酒を飲まされたようだ。無理して頭を起こそうとしないことだ」

 まだぼんやりする頭のまま、紗理奈は返事をした。

「はい、わかりました」

 近江から呆れたような溜息を吐かれてしまい、なんとなく切なくなった。

「そもそもここはどこなんですか?」

 なんとなく車で通ってきた場所ではあるが、暗いので自信がなかった。

「すまない、警察の皆に牛口たちのことを託してから、お前を休ませようと移動していたら、道に迷ってしまったようだな」

 どうも郊外に来てしまったようだ。

(なぜ……?)

 紗理奈の頭の上に疑問符が飛び交う。
 徐々に酔いが醒め始めていた。

「車に乗っていた時は迷っていませんでしたよね」

「最近はカーナビが優秀だからな」

「山でも迷っていませんでしたよね?」

「一本道だったからな」

 そうして、近江が謝罪をはじめる。

「すまない、どうもずっと追っていた事件の真相が判明して気が緩んでしまっていたようだ」

 近江の浮かれ方が常人とは違って、少々面白かった。

「なるほど……だったら仕方ありませんね。スマホで地図を検索してはどうでしょう?」

「俺は警視庁から着のみ着のままで来てしまった」

 紗理奈もスマホを取り出すが、残念ながら電源は切れてしまっている。
 どうやら結構な田舎に来てしまったようだ。周囲には田んぼが多い。
 ちょうど屋根付きのバス停があるので、そちらで休みことにした。
 停留所の時刻表を見るが、最終バスはとっくに過ぎているようだ。
 やみくもに動き回ってもよくないだろうという話になり、直に朝を迎えるだろうから、二人で停留所で始発バスを待つことにした。木で出来たベンチに二人して腰かける。

「今日は星が綺麗だな」

「ええ、そうですね」

 しばらく二人で星を眺める。
 遮るものがないからか、星の瞬きが綺麗だった。

「堂本陽太と牛口幸三、それに駿河千絵と俺の四人は、警察学校の同期同士だった。当時は四人で過ごすことが多かった。駿河千絵は俺の婚約者だったが、堂本陽太と懇意にしていた。牛口はそんな彼女のことが好きだというのは目に見えて分かっていた」

 駿河千絵は紅一点で男性たちにモテたようだ。

「ある時、堂本陽太が単独でヤクザに向かったとの報告を耳にした。今にして思えば、牛口幸三が堂本陽太に嘘の情報を吹き込んでいたんだろうな。当時の俺は何度も堂本陽太に連絡を取ろうとしたが、あいつが電話を取ってくれなかった」

 そういえば、紗理奈がまだ自宅マンションにいた際、近江が迎えに来た時に、紗理奈からの返事がないと焦っていたことがあった。

(もしかして、お兄ちゃんの事件が原因で……?)

 普段は冷静沈着な近江が、あそこまで焦っていたのは、後にも先にもあの時だけだ。
 紗理奈の兄の死が原因だと考えるのが妥当な気がしてきた。

「俺が駆けつけた時には、堂本陽太はもう虫の息だった」

 紗理奈は近江の話を黙って聞くことにした。

「現場には、駿河千絵がいた。堂本陽太はヤクザとの抗争中に発砲されて怪我を追っていたはずだが、それは致命傷足りえなかった。俺が堂本陽太のそばに近づいた後、牛口が姿を現したんだ。その後、『堂本陽太が自身の所持する拳銃の誤射によって死亡した』と、最初に口にしたのは鑑識課に所属していた牛口だった。当時、あいつが証拠を捏造していたようだ」

 近江は遠い目をした。

「俺は堂本陽太の死の真相を知りたかった。だが、その死に警察学校の同期が関わっているとは、俺自身も信じたくなかったのかもしれないな。だからこそ、真犯人を逮捕するのにこんなにも長い時間を要してしまった」

 近江の中でかなりの葛藤があったようだ。

「すまない。真犯人を捕まえることができなかったのは……俺の甘さが原因だ」

 近江が謝罪してくる中、紗理奈は伏し目がちになった。

「いいえ、近江さんはお兄ちゃんの名誉のために頑張ってくださいました。それに、真犯人は捕まりましたし、近江さんには感謝の言葉しかありません」