近江と紗理奈が駐車場へと向かっていると……
「圭一さん!」
背後から駿河千絵が姿を現した。どうやら連れの牛口幸三は一緒ではないようだ。
(近江さんの元婚約者の駿河千絵さん)
紗理奈の胸がざわついて仕方がない。
近江のことを「圭一さん」と呼ぶのも、何だか親し気で胸がざわつく理由の一つだ。
駿河がは何か言いたげな視線を近江に向かって送っている。
「すまない、堂本紗理奈、駿河と話をさせてもらいたい。先に車に戻っておいてくれ」
紗理奈から少しだけ離れた場所で、二人は会話をはじめた。
言われた通り、紗理奈は車の中に戻ろうとしたのだが……なんとなく二人の会話が気になってしまい、柱の陰から聞き耳を立ててしまった。
近江は抑えた口調のため話の内容は聞こえづらい。けれども、駿河の少々甲高い声は耳に入ってくる。
紗理奈は聞かないようにしていたが、どうしても話の内容が耳に入ってくる。
「あの子、陽太の妹さんじゃない? どうして圭一さんが一緒にいるの?」
駿河千絵は紗理奈の兄のことを呼び捨てにしていた。
「俺が一緒にいて何か不満でも?」
抑揚のない調子で近江が返すと、駿河千絵がカッとなった。
「一般人である陽太の妹さんを巻き込むつもり!? 貴方は昔からそうよ! 事件解決のためなら手段は選ばない! 冷酷で情がないわ! 今回もあの子を利用しようとしているんでしょう!? 陽太のことだって踏み台にして、貴方は警視正までのし上がったのよ!」
……事件解決のために手段を選ばない。
ドクン。
紗理奈の心臓が嫌な音を立てた。
(近江さんが私を利用して事件を解決しようとしている……?)
そんなはずはない。
そう言い切りたいが……紗理奈と近江は出会ってまだ一か月程度しか経っていない。
紗理奈の胸を焦燥が襲う。
近江が駿河千絵に向かって口を開いた。
「駿河、もう君は警察関係者でも、まして俺の婚約者でもない。俺から言えるのは以上だ」
紗理奈の知る近江よりも、かなり冷淡な印象だった。
近江の様子を前に、紗理奈までゾクリとしてしまった。
なんだか自分の知らない近江が目の前に存在しているようで、紗理奈は落ち着かない。
近江が駿河と別れたため、慌てて紗理奈は車の中に戻ったのだった。
帰りの車の中、紗理奈と近江の二人は終始無言だった。
(せっかく素敵なレストランに連れて行ってもらったし、ちゃんと御礼だって言いたいのに……)
紗理奈は、喉に何か引っかかっているかのように、声を発することができないでいた。
すると、珍しく近江が口を開く。
「あの二人は、元々警察官の同僚たちだったんだ」
先ほどの二人の話になって、紗理奈の身体がピクンと跳ね上がる。
「君の兄の事件があるまでは一緒に働いていた。けれども、あの事件をきっかけに二人とも警察ではいるのを嫌がって退職してしまったんだ」
紗理奈は俯いたままでいたが、こうやって近江が話してくれている内がチャンスだろう。
ひりついた喉から、なんとか問いかける。
「その……駿河千絵さんは、近江さんの婚約者だって話が出ていましたけれど、本当でしょうか?」
しばらく近江からの返事がなかったが、ぽつりと口を開いた。
「そうだ」
紗理奈は再び衝撃を受けた。
心が千々に乱れていく。
なんとなく泣きそうな気持になった。
けれども、動揺しているのを悟られたくなくて、無理に笑顔を作った。
「恋人はいないと仰っていたから、てっきり女性と全く縁がない人生を送ってこられていたのかと勘違いしていました」
近江は道路をまっすぐに見たまま伝えてくる。
「君には伝える必要がないことだと思っていたんだ」
ズキン。
近江から突き放されたような気がして、紗理奈は目の前が真っ暗になりかけた。
先ほどの駿河と近江の会話も拍車をかけてくる。
『事件解決のためなら手段は選ばない!』
ザワリ。
(近江さんは……)
紗理奈はそこでハッとする。
嫌な考えに行き当たってしまった。
違う、違う。
そう思いたかったが、どうしても嫌な想像が頭の中に膨れ上がってくる。
(最初から、近江さんは私のことを事件解決の手段としてしか考えていなかったんだわ)
そもそもが、一緒に暮らしたいとしか、近江は話してはこなかった。
期間限定の恋人同士になったのだって、そちらの方が都合が良いと判断したのかもしれない。
(そうよ、プロポーズだって、特別な感情を抱いての申し出ではなかったのに……)
異性から一緒に住もうと言われて、紗理奈が勝手に舞い上がっていたのだ。
だんだんと、兄の代わりに君を守ると話してきたことさえも、事件解決のために都合が良いと判断して話してきたのではないかと疑心暗鬼になってくる。
紗理奈はぎゅっと両手の拳を握って耐える。
「そうですね、私たちは所詮、期間限定の恋人同士でしかないですもんね」
「その件、堂本紗理奈、君が良ければなんだが……」
近江が何かの話を切り出し掛けたが、それ以上は話をしたくなくて、紗理奈は話を遮った。
「あ! そろそろマンションにつきますよ!」
「ああ、そうか」
苦しい言い訳まがいの発言だったが、近江は運転に集中しはじめる。
せっかく素敵なレストランでのデートだったけれど、紗理奈の気持ちは暗澹としたままだったのだ。
帰宅後、近江はシャワーを浴びて部屋へと戻ると、ベッドにゴロリと寝転がった。
真っ暗な室内の中、ぼんやりと同居女性のことを考える。
(堂本紗理奈、あれから一切口を利かなくなってしまったな……)
車中、近江としては伝えたいことがあった。
けれども、堂本紗理奈の機嫌が悪くなってしまい、話を切り出せなくなってしまった。
近江はどうにも人の感情の機微に乏しいところがある。知らぬ内に相手を怒らせるような発言をしてしまったのかもしれない。
「また俺は何か失敗したんだろうか……」
近江は溜息を吐いた。
自分としては何げなく発言したつもりの言葉だったはずが、取り返しのつかない言葉になってしまうことがある。
とはいえ、仕事であるならば、仕事で取り返しさえすればよい。だからこそ、異例の出世を遂げることができたのだ。親の七光りと言われることは多いが、それだけで三十手前で警視正の職位に就けるはずはないのだから。
だが、今回は堂本紗理奈とのやり取りだ。
彼女にもしかしたら嫌悪感を抱かれたのかもしれないと思うと、胸の内を焦燥が走った。
女性に対して、こんな感情を持ったのは初めてで、近江としてもうまく胸の内を言語化できない。ただ、自分の心を見つめ直すに、堂本紗理奈に嫌われたくないというのは確かなようだ。
それに、親友だった堂本陽太の代わりに、堂本紗理奈を幸せにする責任があるという想いは確かだ。
(もしや牛口と駿河の話をしていなかったから、嫌に思ったんだろうか?)
二人とも、堂本陽太の元同僚警察で、死亡現場に居合わせた人物たちでもある。
兄を殺した犯人の行方を追っている堂本紗理奈からすれば、犯人の手がかりになる人物たちとの情報を隠していたと怒っているのかもしれない。
(まさか、駿河千絵と婚約関係だったことを黙っていたことが気に喰わなかったのだろうか?)
所詮は親が決めた婚約関係でしかなかったし、近江個人としては食事に一緒に行けと言われて何度か食事をしただけだ。
だから、敢えて伝える必要はないと思っていたが、不誠実だと思われたのだろうか?
(どちらにせよ明日謝らなければならないな)
そうして、近江は瞼を閉じた。
『近江さん、美味しいですね』
堂本紗理奈が美味しそうにデザートを頬張っている姿が脳裏に浮かんできた。
駿河千絵と食事をした際には同僚以上の何かを感じることはなかったが、堂本紗理奈と一緒に食事をしている時は、堂本陽太と過ごしていた時以上に満ち足りた気持ちがしていた。
(あまり他人に興味がなかったんだが……)
紗理奈と近江が一緒に暮らすようになって、ひと月近い期間が経った。
最初は相手を守りやすいからと同居生活を希望したわけだが……
帰ってきて料理が用意してあったり、誰かの温もりを感じたのは――生まれて初めてだったように思う。
それに、なかなか犯人が尻尾を現わしてくれないと思っていたが、やっと手がかりのようなものを掴み始めた。
だから、もうすぐこの契約期間も終わりを告げる。
けれども……
「もしよければ、堂本紗理奈がこれから先も俺と一緒に……」
紗理奈の誤解など知らず、枕元に置いた彼女への贈り物がちゃんとあるか確認してから、近江は眠りに就いたのだった。
翌朝、なんとなく気まずい中で、一緒に朝食を食べた。
黙々と食事をしていた近江は全て嚥下すると、箸を置いた。
「ごちそうさま」
普段の近江だったら、「それでは出かけてくる」と言って仕事へと向かうのだが、今日は紗理奈のことをじっと見てきていた。
「何か御用でしょうか?」
紗理奈が恐る恐る尋ねると、近江からとんでもない発言が飛び出してきた。
「君に話があると伝えていた」
「昨日、話したいって仰っていた内容ですか?」
「ああ。だが、その前に手短に伝えておきたいことがある」
「それはいったい?」
すると、近江が淡々と口を開いた。
「脅迫状を送ってきていた犯人の足取りが掴めている」
「え……!?」
初耳だったので紗理奈は衝撃を受けた。
本来ならば喜ぶべきなのに……
胸がズキズキと痛んで仕方がない。
(だって、犯人が捕まるということは……)
近江とはもう一緒に暮らせないということだ。
紗理奈は彼の顔を見るのが怖くて思わず俯いてしまう。
近江は淡々と続ける。
「すまない。必ず犯人を捕まえてみせる」
「……はい」
紗理奈の歯切れが悪くなる。
心中複雑なまま、顔を上げられないでいると、近江が珍しく話を続けてくる。
「俺はまだ他にも、お前に伝えられていないことがある」
「……他にも、ですか?」
紗理奈は俯いたまま答えた。
「お前の兄・陽太が亡くなった事件について、お前に話しておきたいことがある」
「お兄ちゃんの……?」
「ああ、だが、今からでは話す時間が足りない」
「だったら、どうして今話されたんですか?」
「先に心の準備をしておいてもらいたかった」
ちょうどその時、近江のスマホに着信音が鳴る。初期設定の無機質なアラーム音だ。
彼が電話口で話している。どうやら何かの事件の足取りが掴めたのかもしれない。
「堂本紗理奈、すまない。続きはまた帰ってからにでも話そう」
けれども、紗理奈の胸の中はゴチャゴチャしていて、近江になんて声をかけて良いのか分からなかった。気持ちを落ちつけたくて、皿洗いのために、椅子から立ち上がる。
ふと、頭上に陰が差す。
見上げると、近江が目の前にまで近づいてきていた。
しかも……
皿に手を伸ばそうとしていた紗理奈の手を、近江の大きな掌が掴んできたのだ。
ドクン。
紗理奈の鼓動が跳ね上がる。
「近江さん……?」
「堂本陽太の話以外にも、お前に伝えておきたいことがある」
ドクンドクン。
近江の真剣な眼差しに頭の芯がクラクラしてくる。
「……俺がお前と一緒に暮らしたいとプロポーズしたのは事件解決のためだった」
ドクンドクンドクン。
心臓が嫌な音へと変わった。
紗理奈は唇をきゅっと噛み締めた後、再び開く。
「それはもちろん分かっていて……」
「だが、今は違う」
ドクンドクンドクンドクン。
近江の真摯な声音が鼓膜を震わせてくる。
「確かにこれまでは期間限定の恋人として一緒に暮らしてきたが……君が迷惑でなければ……」
だがしかし、ちょうど、朝の八時の時報がなった。
「……続きはまた後で話そう。おそらく今晩は帰って来れない」
「帰って来れないんですか?」
「ああ」
すると、近江が思いがけないことを口にしはじめた。
「君を危険な目に遭わせたくはない。どうか、君が俺の想像とは違う行動をとることを願う」
「近江さん、それはいったい……?」
「まあ、万が一のことがあっても、俺は君を絶対に守ってみせるがな」
先ほどから近江が何の話をしているのか、見当もつかない。
「それでは」
それだけ言い残すと、近江の手がそっと離れた。
今度こそ仕事へと向かう彼の背を、彼女は見送った。
(近江さん……)
彼の触れていた手が熱い。
紗理奈はそっともう片方の手で覆ったのだった。
夕方近くになった。
紗理奈はベッドの上、クッションを抱きしめながら考え事をしていた。
普段なら、まだまだ仕事に励んで執筆をしている時間だが、昨日の一件もあってか、なんだか気乗りしなかったのだ。気分の上がり下がりで仕事をしてはいけないのは重々承知だが、こんな気持ちのまま良い記事を書くことは出来ないだろう。
「近江さんが何を考えているのか分からない」
彼の伝えたいこと。
今朝までは悪い予感しかしていなかったけれど……今朝の彼の様子を振り返るに、悪い話ではない気がしてきている。
婚約者の件だって……冷静になって考えてもみれば、きっと近江の性格だから嘘を吐くつもりはなかったのだろう。
「たぶん今の私たちの間には必要のない話だからしていなかっただけ……だと思う」
まだひと月程度しか一緒に暮らしてはいないが、なんとなく近江の性格だったら、そういう選択をしそうだと思ったのだ。
「今回の期間限定の恋人の話だって、そもそも近江さんから責任を取りたいから一緒に暮らしたいって言われたのに、私がごちゃごちゃ言ったから、期間限定の恋人になってくれただけで……」
紗理奈はハアっとため息を吐いた。
(確かに近江さんからすれば、私に対して最初から恋愛感情があったわけじゃないと思う)
だけど……
「『陽太の代わりに君を守る』と話してくれた近江さんの言葉には嘘はないと思う」
兄の件の話もある。
怖いけれど……
「ちゃんと話を聞かなきゃ」
紗理奈は今晩こそ近江としっかり向き合うのだと心に決めたのだった。
色々なことを判断するのは、話を聞いてからでも遅くはないはずなのだから。
紗理奈が決意を新たにPCへと向かおうとし、その時。
スマホの着信音が鳴る。
「後藤局長?」
スマホをタップして電話に出る。
『おい! 堂本! 俺の送ったメールは見たか?』
「え?」
慌てた調子の後藤局長に促されたまま、受信メールの確認をする。
メールにはライバル新聞社が明日の朝刊に掲載するらしい記事の詳細が記載されていた。
『俺の伝手からの話だが、どうやら近江警視正が逮捕されたらしい』
「え……?」
『裏付けがしっかりしていないから、まだニュース速報も流れていないらしい。そもそも近江警視総監の息子なんで、テレビ局や新聞局の動きをしばらく抑え込んでいるんじゃないかと思っているんだが」
「そんな……」
「それで、ライバル新聞社がその記事を明日の新聞一面に載せるらしいんだ!』
記載される予定の記事の内容を見て、紗理奈は瞠目した。
「な……」
なんと……
『警察庁のエリート警視正、過去に同僚刑事を殺害か』
内容は、まだ警視時代の近江が同僚の堂本陽太をヤクザとの抗争と見せかけて殺害したという内容のものだった。
紗理奈の血の気が一気に引いていく。指先の感覚までなくなっていくようだ。
拍動を耳元で強く感じる。
本当にこの記事に記載されているように、近江が兄・陽太を殺害したというのだろうか?
これまでの近江との出来事を思い出す。
(あの人は……)
刑事の仕事に誇りを抱いているようだった。
確かに紗理奈の兄の一件に関しては、何かしら後悔しているようではあった。
仮に殺害犯だったとして、わざわざ脅迫状を警察庁に送ってきたり、紗理奈と出会った際に助けずにそのままにしても良かったはずだし、紗理奈を信用させるためにとるにしては、一連の行動があまりにも回りくどすぎる。
そもそも、犯人の目途が立ったというような内容を、近江だって口にしていたはずだ。
それに何よりも……
「近江さんがそんなことをするはず、絶対にありません」
紗理奈は力強く断言した。
すると、後藤局長がしばらくすると話しはじめる。
『誰かが近江警視正を引きずり下ろすために適当に嘘を吐いているんだとしても、ライバル新聞社が堂々と記事の一面に載せる気満々なんだ。同じ新聞記者として、何か裏が取れているんだろうとは思いたいが……』
紗理奈は記事の隅々まで記事を読み込む。
(ん?)
少々気になる箇所があった。
「かつての同僚からの証言?」
近江のかつての同僚。
昨晩出会った二人の姿が脳裏に浮かぶ。
『新聞社だってリスクはおかしたくない。だから、証言だけで記事に載せるはずはないわけだが……もしかしたら、俺たちに先を越されまいと、今頃証拠集めを必死におこなったりしてな。はは』
後藤局長なりに紗理奈の緊張を和らげようとしてくれているのだろう。
少しだけ元気が出てきた、その時。
マンションのインターホンが鳴り響いた。
こんな時間に宅配便だろうか?
気になりつつ、カメラを覗く。
すると……
『こんにちは』
立っていたのは……
(この人、確か昨日レストランで会った……)
牛口幸三。
近江のかつての同僚刑事だったはずだ。
同僚であるならば、近江が住んでいる場所を把握していてもおかしくはないだろう。
けれども、近江は今は勤務時間だと把握しているはずだ。
なのに、どうしてこんな時間に尋ねてきたのだろうか?
『堂本陽太の妹さん、近江のマンションに住んでいるんだろう?』
答えてよいものか分からず、紗理奈はしばらくだんまりになる。
『近江が逮捕されたのを君は知っているかい? 君のお兄さんの死亡事件について俺だけが知っている話があるんだ』
ドクン。
ずっと追っていた兄の死の真相。
紗理奈はゴクリと唾を呑み込んだ。
このタイミングで現れるなんて、これは絶対に罠だ。
けれども……
(もしかしたら牛口さんは、お兄ちゃんの一件だけじゃなく、近江さんが逮捕された一件に絡んでいるのかもしれない)
紗理奈の鼓動が速くなる。
ぎゅっと拳を握ると決意を新たに返事をした。
「わかりました」
紗理奈は近江を救うべく、牛口の要求に応じることにしたのだった。
マンションの中に呼び込むよりも、外に出た方が警察たちの目もあって比較的安全だろう。
そう判断して、紗理奈は牛口と対峙することを決めた。
牛口は現在・会社経営者という話だった。だとしたら、わざわざ人目のつく場所で紗理奈におかしな真似はしてこないだろう。近江の婚約者だったという駿河千絵も同伴するという話だったが、牛口のそばに彼女の姿はなかった。
相手に促されるまま、黒塗りの高級車の中に乗り、バーへと向かうことになった。
バックミラーで確認すると、紗理奈のことを監視している警察たちの車も一緒に追いか駆けてきているのが分かった。
(良かった、ちゃんと追ってきている)
すると……
「ああ、君の周囲に警察がうろついているのは僕も把握しているよ」
運転席の牛口が何気なく口を開いてきた。
そもそも元警察官だったはずだから、かつての同僚だっているだろうし、それぐらいは分かってしまうのだろう。
「近江が捕まったというのは残念だったね」
「……どうして近江さんの件を、牛口さんがご存じなんですか?」
すると、牛口が軽妙に語りはじめる。
「そんなの、同僚たちから話を聞いたからさ」
「それは警察の倫理や規律に反する行為だから、しないのではないでしょうか? 少なくとも、近江さんは一般市民である私に色々な情報をリークしたりはしませんでした」
すると、牛口が愉快気に笑いはじめた。
「ははっ、そんなの理想や建前でしかない。警察の末端の奴らはそこまで殊勝なことなんて、考えてもいないさ。それに……」
牛口がにやりと口の端を吊り上げた。
「君が近江からの信用を得ていないだけだとか思わなかったのかい?」
「……っ」
兄に似た容姿のせいもあり、牛口に対する不快感が強かった。
(後藤局長だって知っていたら、牛口さんが知っていてもおかしくはない話だって、分かってはいたけれど……)
鎌をかけて相手の尻尾を掴んだりするのは難しいようだ。
車は郊外へと進んでいく。
建物は多いままだが、ビルや商業施設ではなく、民家の比率が増えていく。
しばらくすると、最近はだいぶ減ってきていたが、壁にペイントで落書きがほどこされている建物や派手な身なりの人物たちが多く立つ場所へと車が進んでいった。
都内に比べると建物の数は少ないが、それなりに人の目はありそうな場所だ。どうやら雰囲気を見るに、古くからある商店街から少しだけ離れた場所にある路地裏のようだ。
車が停車したのは、古びたビルの前だった。
「ああ、すまない。ついたよ」
看板を見るにバーのようだ。なんとなくヤクザたちに連れ込まれかけた看板のレイアウトに似ている気がする。
牛口に促されるまま、紗理奈は扉を開く。カランカランと鐘の音が鳴った。
店内は薄暗い場所で、平日だからかもしれないが閑散としていた。
天井の上には、剥き出しの配管が張り巡らされている。
「それで、牛口さん、話というのは何でしょうか? ここまで着いてきたんです。ちゃんと話を聞かせてください」
紗理奈が問いかけると、牛口が喜々として語りはじめる。
「ああ、そういう話だったね。だけど、せっかくこんな場所まで来たんだ。まずはお互いに一杯酒を飲まないか?」