クールなエリート警視正は、天涯孤独な期間限定恋人へと初恋を捧げる

「ご婦人、こちらを」

「ああ、ありがとうございます! 死んだ旦那からもらった大事なお守りが入っていたんですよ!」

 近江からハンドバッグを受け取った老婆は歓喜に満ちていた。

(良かった)

 紗理奈が口元を綻ばせていると、近江がすまなさそうに声をかけてくる。

「堂本紗理奈、この後一緒に出掛けようと話していたが、すまない、少しだけ事情を説明してくる」

「いいえ、今日は仕方ありません。そうだ、今回の近江さんの件、記事にしても良いですか?」

「そうだな、あまり目立ちたくはないが……構わない。もうマンションは目の前だから、俺が一緒について来なくても良いだろう」

「ええ、さすがに玄関先なので大丈夫ですよ」

「そうか。では行ってくる。また後日、別の場所へと向かおう」

「分かりました」

 近江が仲間たちの元へと駆けていく背中を、紗理奈は目で追う。
 その日、せっかくの初デートというべきかお出かけは、まさかの現行犯逮捕に置き換わってしまったけれど――帰宅してから、紗理奈は近江のお手柄の記事を手がけてWEBで発信したおかげで、警視庁内での評価が上がったようだった。
 そうして――後日、初デートのやり直しに向かうのだけれど……そこで近江さんと私の距離がぐっと近づくことになるなんて、この時の私は想像もしていなかったのでした。


 近江がひったくり犯人を捕まえた翌週。
 再び非番を迎えた近江と紗理奈は、一緒に外に出かけていた。
 今日の紗理奈の出で立ちと言えば、カジュアルな出で立ちだ。白いダウンジャケットに中には黒のタートルニットを着ており、ジーンズにスニーカーという格好である。

(近江さんが『堂本紗理奈、きっと君も気に入る場所だ』って話していたけれど……)

 連れて来られたのは、まさかの場所だった。

「大丈夫か? もう少しで着くぞ」

 前を歩く近江が、紗理奈のことを心配した様子で覗いてきていた。
 向かった先は、そう、まさかまさかの……

(ちゃんとした初デートが山だなんて、想像もつかなかったわね……)

 紗理奈はハアっと盛大な溜息を吐いた。
 そう、初デート先は登山だったのだ。

(登山だと分かっていれば、もっと重装備にしたのに)

 先日のスーパーへのお出かけといい、御曹司と出かけるキラキラゴージャスな場所とは縁遠いチョイスが続いている。
 とはいえ、近江はといえば、生き生きしている。

(まあ、近江さんらしいと言われれば、近江さんらしいわね。それに、無表情で分かりづらいけれど、近江さんも身体を動かすのが好きなんだわ)

 警察は体力が必要な仕事だから、身体を鍛えるのも好きな方なのだろう。

「よし、着くぞ」

 そうして、辿り着いたのは……

「うわあ! すごく綺麗!」

 辺り一面、真っ白な雲で覆われている。
 かなり歩いたので、雲の上まで来ていたようだ。
 絶景を見ていると、日ごろの閉鎖空間で過ごすうつうつとした気持ちが一気に晴れていくようだ。

「君も絶対に気に入ると思ったんだ」

 紗理奈の隣に立つ近江が、普段は見せないような笑顔を見せてくる。といっても、少々口元が綻んでいるぐらいだが。
 紗理奈も苦労して頂上まで辿りついた分、嬉しさもひとしおだ。

「ありがとうございます! 近江さんといると新しい発見があって楽しいです!」

「そうか、それは何よりだ」

 頂上の風に当たりながら、二人で静かに過ごしていた。
 しばらくすると、近江が少しだけ見たい場所があると話して、少しだけ離れた場所に移動した。
 紗理奈はしばらく絶景を眺めた後、周辺へと視線を彷徨わせる。
 ほどよい高さの山だからか、登山客はかなり多いようだ。家族連れの子どもがちょろちょろと動き回っている。
 紗理奈も気になる場所を発見したため、崖の近くまで足を延ばして、眼下を見下ろす。
 下から吹いてくる風が、ひやりとして気持ちが良い。

「日常の嫌なことなど忘れてしまいそうだろう?」

 どうやら近江も傍に来たようだ。
 紗理奈は声を掛けられ、心臓がドクンと跳ねあがる。

「ずっと部屋の中に閉じこもってばかりだから、君の性分には合わないんじゃないかと思ってな。途中までは、山の麓の動物園か水族館にでも向かおうかと思っていたんだが」

 どうやら部屋に閉じこもってばかりで、身体を動かしたいと悶々としていた紗理奈の気持ちを、近江は汲んでくれていたようだ。

(言われてみれば、近江さんも登山用の重装備じゃなかったものね)

 紗理奈は相手からの気遣いが嬉しくて、心に火が灯るような心地がする。

「近江さん、気遣ってくださって、ありがとうございます」

「いいや、君が元気な方が俺も嬉しいからな」

 近江の横顔を見る。

(近江さん、優しい……理想の男性って感じがする)

 相手の気遣いが嬉しくて堪らない。
 こんな男性と結婚して一緒に過ごすようになったら、きっと毎日が幸せに違いない。
 けれども、そこでハッとする。

(私ったら何を考えているの? 相手は警察で、しかも期間限定の恋人なのに……)

 好きになったところで住む世界が違う相手なのだ。
 割り切らないといけない。
 なのに、どうしてだか近江のことが気になっている自分がいる。
 自分の中に湧いてきた邪念のようなものを振り払うべく、紗理奈は首を横に振った。

「どうしたんだ、堂本紗理奈?」

 近江に声を掛けられた、その時。
 ふと。
 子どもの声が耳に届く。
 頭上に視線を移すと、なんと上の方にいる子どもが、柵の向こうからこちら側に飛び出そうとしているではないか。
 このままだと崖から転落してしまう。

「危ない!」

 紗理奈は思いがけず駆けだした。
 慌てて子どもを抱きとめに向かう。

「避けろ!」

 すぐそばで声が聞こえたかと思うと、紗理奈は横へと突き飛ばされた。
 ドン!
 大きな音が聞こえた方へと視線を移す。
 近江が子どもを上手にキャッチしているところだった。
 子どもは大声を出してエンエンと泣いている。
 すぐに両親と思しき二人組が現れて、近江に向かってペコペコと頭を下げた後、何処かへと去って行った。

「良かった、近江さん、ありがとうございました」

 紗理奈が近江に向かって声をかけた瞬間。

「勇気と無謀は違うと俺はあれほど……!」

 近江に怒鳴りつけられて、紗理奈はびくりと身体を震わせた。
 初めて出会った時にも掛けられた言葉。
 驚いてしまったが、近江が真剣に怒っていることが伝わってくる。

「ごめんなさい……」

 なんだか情けなくなってしまって、近江の顔を直視できない。
 両手で衣服をぎゅっと掴んでいると……
 ふわり。
 近江の腕に引き寄せられる。
 かと思えば、彼の腕の中に抱きしめられてしまっていた。

「近江さん」

 近江の唐突な行動に、紗理奈は困惑してしまう。

「すまない、言い過ぎてしまった……だが、女性の身体で落下してくる子どもを受け止めようとするのは無謀すぎる」

「……近江さんが謝る必要はありません。私はどうしても自身の力を過信してしまうと言うか……仕事の時もそうなんです。良かれと思ってやった行動が裏目に出てしまうことが多いし……だけど、せっかく助けられるはずの命を助けられないのは嫌なんです……!」

 紗理奈の目頭が熱くなる。
 瞼裏に浮かぶのは、亡くなった兄の姿。
 紗理奈が病院に駆けつけた時には、すでに亡くなっていた。
 同僚の警察たちも、兄の死の現場に駆けつけるのが遅くなってしまったと話していた。
 もしも自分が近くにいたならば、応急処置をしたり応援を呼んだり、それぐらいは加勢できたかもしれないのに……
 非力だから役には立てなかったかもしれないけれど、もしも、もしかしたらが、心の中から消えてはくれない。
 だから、せめて目の前で困っている人を助けることができたら……
 紗理奈は取り立てて良いところはないと自分では思っているけれど、書くのには自信があった。だから、それで手助け出来たらって思うようになって……

「誰かが死ぬのは、もう嫌……くっ……」

 目頭が熱くなって、一筋の涙が零れた。
 涙が止めどなく溢れ出す。
 すると、近江の腕の力が強くなる。

「堂本陽太が――妹であるお前が怪我をするのを許容すると思うか?」

 紗理奈は顔を上げる。

「……っ、近江さんに、お兄ちゃんの何が分かるって言うんですか……?」

 すると、普段は無表情の近江が、ぎゅっと眉根を引き絞っていた。何かに耐えるように唇をきつく噛み締めている。
 その表情は見る者を苦しくさせる類のもので、紗理奈の胸もぎゅっと締め付けられるようだった。

「俺には堂本陽太の気持ちは分からない。最後まで分からないことだらけだった。だが、そんな俺にでも分かることがある」

「何……?」

 すると、近江が寂しそうに微笑んだ。

「妹である君を――堂本紗理奈のことを大事に想っていたことだよ」

「あ……」

「だから、どうか、あいつが大事にしていた君が――君自身を危険に晒すような真似はやめてやってくれ」

 涙が少しだけ止まりかけていたのに……
 紗理奈の瞳から再び涙がぽろぽろ溢れて止まらない。
 近江の指がそっと彼女の髪を撫でた。

「先日も話したが、俺は勇敢な女性のことは好きだよ」

 爽やかな笑顔で告げられてしまうと、悩みも全て吹き飛びそうだった。

「自分に何が出来て出来ないかは、年を重ねれば、だんだんと分かってくることもある。だから、あまり気にする必要はない。ただ、もう少しだけ自分のことを大事にしてほしいと思う」

 近江の優しさが胸に染み入ってきて、胸がぎゅっと苦しくなる。

「近江さんは、お兄ちゃんのこと、やっぱりご存知なんですか?」

 すると、近江が過去を懐かしむように目を眇めた。

「ああ。警察学校時代に出会った、俺のかけがえのない親友だよ」

 やはり、近江と兄には接点があったのだ。
 紗理奈が近江に話し掛けようとしたところ、ガヤガヤと人が集まる気配を感じた。

「さて、そろそろ昼過ぎだ。下山しよう」

「はい、分かりました」

 そうして、紗理奈は近江と共に下山することになった。
 

 しばらく無言のまま降りていたが、ちょうど足場の悪い場所へと差し掛かる。
 山上から流れる川の石場を歩かないといけない。
 すると、前を歩く近江が手を差し出してきた。

「堂本紗理奈、ここは足場が悪い。手を」

「ええっと、これぐらいの岩なら一人で大丈夫ですよ……って、きゃっ……!」

 行った傍から、岩に移る前だというのに、ちょっとだけ足を滑らせてしまう。
 再び近江が手を差し出してきた。

「ほら、俺の言った通りだろう?」

「ごめんなさい、学習能力がなくて……」

 紗理奈は近江の手をとった。
 すると、近江がクスリと笑う。

「いいや、お前といると陽太を思い出して悪くない。さあ、行こうか」

「はい!」

 そうして、二人で一緒に険しい岩場をこなす。
 また元の整備された道に戻った頃には、ちょうど陽が沈みはじめていた。
 紗理奈は、登りの時以上に、近江の背中が逞しく感じたのだった。

「どうした、堂本紗理奈、疲れたのか?」

「ええっと……」

「仕方がない奴だな。登山で疲れたならおぶってやろうか?」

「ええっ、さすがにそこまで疲れてはないですよ!」

「そうか……」

 そうして、再び近江が前を歩きはじめた。
 と思いきや、くるりと突然振り向いてきた。
 紗理奈は驚いたため、身体がびくりと跳ね上がる。
 沈む太陽の逆光で、近江の表情がよく見えない。
 彼がゆっくりと口を開いた。

「堂本紗理奈、俺は――」

 ドクン。
 紗理奈の心臓が早鐘を打ち始める。
 そうして、近江が力強く告げた。

「あいつの代わりにお前を守ると誓っている」

 紗理奈の胸に温かな春風が吹きすさぶ。

「脅迫状を送ってきた犯人も、必ず俺が捕まえてみせる。待っていてほしい」

 逆光で見えづらい。
 だけど、近江の瞳には力強い光が宿っていた。

「はい、ありがとうございます」

 なんだか胸がムズムズしながら、紗理奈は返事をする。

「そうか、ありがとう」

 近江がふっと口元を綻ばせた。
 今日の彼は珍しくよく微笑む。
 そのせいもあってか、紗理奈の心臓のドキドキが止まらない。

(ぶっきらぼうで寡黙な近江さん。だけど……)

 紗理奈の胸の内に近江に対して特別な感情が芽生え始めていたのだった。


 山登りの一件から、紗理奈と近江の距離はこれまでよりもぐっと近づいて、より恋人らしくなりつつあった。
登山から数日が経った週末。
 紗理奈は近江と電話をしていた。

『堂本紗理奈、今日は早く帰れそうだ』

「早く帰れるなんて、珍しいですね」

『ああ、同僚たちが、上司が率先して早く家に帰ってくれと言いはじめてな。それで、せっかくだから、今晩はいつも料理を作ってくれる御礼に、一緒に外食でもと思ったんだが』

「外食ですか?」

 思いがけない提案に、紗理奈は目を真ん丸に見開いた。

『ああ、以前同僚だった先輩がレストランを経営しはじめたそうで、君も一緒にどうかと言われたんだ』

「そんな事情でしたら、ぜひご一緒させてください」

『喜んでくれているようで良かった』

 近江の声に喜色が滲んでいるのが伝わってきて、紗理奈の心まで弾んでくる。

『それでは、また後で』

 紗理奈は喜々として、スマホ画面をタップして通知を切った。

「近江さんが早く帰ってきてくれるの、すごく嬉しい。しかも恋人らしいデートだ」

 紗理奈は浮足立ちながら、レストランに向かう衣装を選び始めた。

「どんなレストランか聞いておけばよかったな」

 ドレスコードを聞いておけば良かったと後悔しつつ、カジュアル過ぎず祝い事ほど派手にはなりすぎない程度の衣裳を選ぶことにしたのだった。



 帰宅した近江に連れて行かれたのは、フランス料理を提供するレストランだった。
 電話で説明があった通り、近江のかつての同僚が定年後に経営をはじめたそうだ。
 コック兼経営者の同僚は、白髪白髭のがたいの良い男性だったが、『皆が圭一に恋人ができたって話していたから見てみたかった。可愛いお嬢さんだ』と快活に笑っており、なんとなく真心新聞社の後藤局長のことを思い出させた。
 紗理奈は、クラシックな黒のワンピースの上に黒白のツイードのジャケットを羽織り、それなりにおかしくない格好をしていたが、ちょうど良い塩梅だったようだ。
 対して、近江は仕事の際に着用している黒いスーツの姿だ。普段着を身に着けていてもカッコいいが、正装姿は凛々しくてカッコいい。しかも、和食中心に育ったと話していたはずだが、やはり御曹司というべきか、洋食を食べる際のフォークとナイフ捌きも様になっていた。
 いよいよデザートという頃、近江が紗理奈のことをじっと見つめてきていることに気付いた。

「近江さん、私の顔に何かついているでしょうか?」

 すると、近江が目を少しだけ見開いた。かと思うと頬をさっと朱に染める。

「ああ、すまない。そんなに観察しているつもりはなかったんだ」

 どうやら自覚なく紗理奈のことを観察していたようだ。近江の反応を見ていると、紗理奈の方まで体温が上昇していくようだ。
 咳ばらいをした近江が、改めて口を開く。

「その……」

「なんでしょうか?」

「君はどんな時でもよく食べるな」

 紗理奈としては反応に困った。

「それは食いしん坊ということでしょうか?」

「いいや、そういうわけではない」

 だったら、いったいどういう意味なのだろうかと思っていたら……
 近江が少しだけ視線を逸らしながら告げてくる。

「健康的で良いと思う。丈夫な子を産んでくれそうだ」

「……っ……!」

 紗理奈は食べている途中だったパンを喉に詰まらせそうになった。

「大丈夫か!? 堂本紗理奈!」

 近江が急いで立ち上がると、紗理奈のそばに近づいてきて背を擦ってくれた。

「げほっ、げほっ、走馬灯が見えました」

「すまない。おかしな発言をしてしまったようだ」

「ええっと、その、おかしくはなくてですね……」

 なんとなく二人して赤面したまま、慌てふためいていたら……

「圭一さん?」

 突然、凛とした女性の声が耳に届いた。
 振り向くと、青いスレンダーなドレスを纏う美人が立っていた。髪は黒のワンレングスボブで、まるでモデルか女優のように綺麗な女性だ。
 彼女は近江のことをまじまじと見つめている。

(近江さんの知り合い?)

 すると、彼女の隣に立っていた男性が顔を覗かせてくる。
 彼の姿を見た瞬間、紗理奈はドキリとした。

(この男の人……)

 決して、異性としてカッコイイから反応したのではない。
 明るい髪色と清潔そうな短い髪、それに背格好や服装のセンスなんかが、兄・陽太に酷似していたのだ。もちろん顔は全然似ていないが、遠目で見たら勘違いしてしまいそうだ。

「近江、久しぶりだな」

 男性の方もどうやら近江と知り合いのようだ。
 近江の様子はといえば少々険しい雰囲気を醸しており、紗理奈は少々動揺してしまった。

(いったいぜんたい何なの……?)

 兄に似た雰囲気の男性が紗理奈に向かって声をかけてくる。

「お嬢さん、私は牛口幸三と言います。高校時代からの友人で、しばらくは警察として一緒に働いていました。現在は会社経営をしています。どうぞお見知りおきを」
 そう言いながら、牛口幸三と名乗る人物は紗理奈に名刺を渡してきた。会社経営者と名乗るぐらいなのだから、社交的な人物なのだろう。けれども、紗理奈としては、なんとなく相手にうさん臭さを感じた。兄と姿が似通っているから特に違いを強く感じてしまうのかもしれない。

「そうして、私と一緒にいる、こちらの女性は……」

「駿河千絵と申します」

 女性は深々と頭を下げてくる。優雅な所作で、身に着けているものも上品で、紗理奈はなんとなく気遅れしてしまった。

「堂本紗理奈と申します。どうぞよろしくお願いします」

 すると、牛口と駿河の二人が顔を見合わせた。駿河の声が上ずる。

「堂本? もしかして陽太さんの?」

「ええっと……」

 紗理奈が「そうです」と答えようとしていたら……

「わざわざ教えてやる必要はない」

 近江が話に割り入ってきた。
 普段耳にしないような鋭く刺のある口調で、紗理奈の身体がびくりと跳ねる。

(どうしたんだろう、近江さん)

 すると、牛口が喜々として口を開いた。

「近江は堂本と仲が良かったから、妹さんとも懇意にしているってとこか。ああ、そうだ、近江」

「なんだ?」

 すると、牛口が口の端をにやりと吊り上げる。

「俺と千絵は結婚することになったんだ」

 近江はと言えば無言だったし、表情は普段通りに平坦なものへと戻っていた。
 そうして、駿河千絵は二人には視線を向けずに俯いている。
 ただならぬ三人の関係に紗理奈はなんとなく嫌な感じがした。話に入れないのが嫌だというわけではなく、三人の関係性から、あまり耳にしない方が良い話題な気がしたからだ。
 何も答えない近江に代わって、駿河が牛口を制した。

「牛口くん、人前でそれ以上、おかしな話はしないで」

「おっと、すまない」

 そうして、これみよがしに牛口が近江に向かって告げた。

「千絵は昔はお前の婚約者だったかもしれないが、今はもう俺の婚約者なんだ」

 ……近江の婚約者。
 思いがけない単語を耳にしたせいか、紗理奈の身の内に衝撃が走る。
 ドクンドクンドクンドクン。
 心臓の音が煩い。
 瞳が忙しなく左右に動き、焦点が定まらない。

(確かに、近江さんは恋人ができたことはないと話していたけれど、婚約者の有無については放していなかった)

 だから、決して嘘を吐かれていたわけではない。
 けれども、どうしようもなく嫌な感覚が襲ってきていて、みぞおちがずっしり重たい感じがする。

「近江、お前、かなりモテる男なんだから、千絵にフラれたのを根に持たずに、さっさと次の恋を見つけて結婚しろよ」

 そうして、なぜか牛口は紗理奈に耳打ちしてくる。

「ああ、今日はミントグリーンのドレスじゃないんだね」

 ゾクリ。
 嫌な予感が背筋を駆け抜ける。
 そうして、牛口が駿河の名を呼ぶ。

「千絵、じゃあ、行くぞ」

 牛口の明るい声音が、なんとなく不協和音のように耳障りに感じてしまった。
 紗理奈はぼんやりとしたまま、膝の上に置いていたナプキンの端を両手でぎゅっと掴んだ。

「さて、食事は終わった」

 近江に話し掛けられ、紗理奈はハッと正気に戻った。
 周囲に人だかりができていたが、もう散ってしまっている。

「おれ達も帰るとしよう」

「……はい、そうですね」

 なんとなく元気が出ないまま、紗理奈は近江と一緒にレストランを後にしたのだった。



 近江と紗理奈が駐車場へと向かっていると……

「圭一さん!」

 背後から駿河千絵が姿を現した。どうやら連れの牛口幸三は一緒ではないようだ。

(近江さんの元婚約者の駿河千絵さん)

 紗理奈の胸がざわついて仕方がない。
 近江のことを「圭一さん」と呼ぶのも、何だか親し気で胸がざわつく理由の一つだ。
 駿河がは何か言いたげな視線を近江に向かって送っている。

「すまない、堂本紗理奈、駿河と話をさせてもらいたい。先に車に戻っておいてくれ」

 紗理奈から少しだけ離れた場所で、二人は会話をはじめた。
 言われた通り、紗理奈は車の中に戻ろうとしたのだが……なんとなく二人の会話が気になってしまい、柱の陰から聞き耳を立ててしまった。
 近江は抑えた口調のため話の内容は聞こえづらい。けれども、駿河の少々甲高い声は耳に入ってくる。
 紗理奈は聞かないようにしていたが、どうしても話の内容が耳に入ってくる。

「あの子、陽太の妹さんじゃない? どうして圭一さんが一緒にいるの?」

 駿河千絵は紗理奈の兄のことを呼び捨てにしていた。

「俺が一緒にいて何か不満でも?」

 抑揚のない調子で近江が返すと、駿河千絵がカッとなった。

「一般人である陽太の妹さんを巻き込むつもり!? 貴方は昔からそうよ! 事件解決のためなら手段は選ばない! 冷酷で情がないわ! 今回もあの子を利用しようとしているんでしょう!? 陽太のことだって踏み台にして、貴方は警視正までのし上がったのよ!」

 ……事件解決のために手段を選ばない。
 ドクン。
 紗理奈の心臓が嫌な音を立てた。

(近江さんが私を利用して事件を解決しようとしている……?)

 そんなはずはない。
 そう言い切りたいが……紗理奈と近江は出会ってまだ一か月程度しか経っていない。
 紗理奈の胸を焦燥が襲う。
 近江が駿河千絵に向かって口を開いた。

「駿河、もう君は警察関係者でも、まして俺の婚約者でもない。俺から言えるのは以上だ」

 紗理奈の知る近江よりも、かなり冷淡な印象だった。
 近江の様子を前に、紗理奈までゾクリとしてしまった。
 なんだか自分の知らない近江が目の前に存在しているようで、紗理奈は落ち着かない。
 近江が駿河と別れたため、慌てて紗理奈は車の中に戻ったのだった。