最初に出会った時も、「勇気と無謀をはき違えるな」と言われたことを思い出す。
「猪突猛進とはよく言われます」
紗理奈はポツリと思いを吐露する。
「もっと近江さんみたいに慎重な人の方が記者には向いているんだろうなと思います」
「残念ながら、俺は警察、それも刑事だ」
「……例えの話ですよ。近江さんには揚げ足を取っているつもりは欠片もないのかもしれませんけど、こう、なんですかね、あまり無駄がないストレートな話し方をする男性ですよね」
「ん?」
紗理奈は肩をすくめた。
「和装なんかが似合いそうな日本人的な雰囲気なのに、機械的と言いますか、婉曲的な物の言い方はしないと言いますか」
「婉曲的な言い方をして話がかみ合わなかった場合に大事故が起こるからな……というよりも、警察関係者以外の人間たちには通じないような言葉を使うことはある」
「まる暴とかがさ入れとか、そういうのでしょう? 刑事ドラマの影響なんかで有名になっちゃっていますけど」
「ああ、そうだ」
「それとはまた話は別なんですよ」
「……というと?」
近江が不思議そうに首を傾げていた。
「合理的というやつでしょうか? 誰かと話すときに論理的に話すので、諭されちゃうというか? こう話の段階を踏んで説明するから、記事を書く時の説得力が増すと思うんですよ」
「お前の話したい内容に合点が行った」
どうやら紗理奈の話したい内容を、近江は理解してくれたようだ。
「何事も適正というものがある。警察にしろ、新聞記者にしろ」
紗理奈はゴクリと唾を呑み込んだ。近江の言葉を待つ。
「俺のように事実を淡々と述べる力に長ける者も確かに記者に向いているかもしれない。だがな……」
近江が紗理奈のことを真っすぐに見つめてくる。
あまりに真摯な眼差しに、全てを見抜かれてしまいそうだ。
「無謀だが、ヤクザ相手にも怯まず、取材を熱心におこなう。そういう行動力や情熱を持った人間だって、記者として向いていると俺は思う」
ドクン。
紗理奈の中で本当に自分は記者に向いているのだろうかと悩むことがあったが、近江の言葉を聞いていたら、なんだか勇気が湧いてきた。
(私ったら……あんなに警察に苦手意識があったくせに……)
けれども、警察としてではなく、近江圭一という人物の言葉であるならば、信用したい。
紗理奈はそんな風に思うようになっていた。
「俺から見れば、君の記者として記事を書く力や、腕も悪くないと思っている。だから、ぜひ新聞記者としてこれからも頑張ってほしい」
近江に褒められて、紗理奈の心中はパアッと明るくなっていく。
「そもそも新聞記者は常に俺たちの動向を探ってきていて、警察の張り込みよりも張っているようなところがあって、俺も苦手だ。探りを入れてこられることもあるし、少々関わるのは厄介だと思うこともあるが、無謀な振る舞いさえ避けてもらえるなら構わないと思っている」
近江は紗理奈の職業に対して、かなり率直な意見を述べてくれているようだ。
警察という職業には、まだ苦手意識や抵抗感があるが、近江に関して知りたいという気持ちがむくむくと湧いてくる。
紗理奈は今度は近江について問いかけることにした。
「近江さん、そういえば、どうして刑事部の中でも捜査第四課なんですか?」
「ん?」
「だって、色々あるじゃないですか? 捜査第一課とか機動捜査隊とか。本人希望じゃなくて、人事配属でたまたま捜査第四課なんですか?」
「どうして、そんなことが知りたいんだ?」
「だって、捜査第四課と言えば、組織犯罪対策課……いわゆる暴力団犯罪を取り締まる課でしょう? こう刑事ドラマなんかだと、近江さんみたいに涼し気でクールな男性じゃなくて、強面のおじさん刑事みたいな人たちのイメージがあるんですもの」
すると、近江が伏し目がちになって溜息を吐いた。
「世間ではそんなイメージがあるのは覚えておこう」
近江の反応を見て、紗理奈はハッと正気に返る。
(ついつい癖で、踏み込んだ内容を聞いてしまったかも)
すると……
「捜査第四課への配属は俺の希望だ」
近江の雰囲気が少しだけ陰りを帯びたものへと変わる。
「理由を聞いたら、失礼でしょうか?」
紗理奈が緊張した面持ちで尋ねると、近江が静かに語りはじめた。
「俺はヤクザがらみのとある事件の真相を知りたいと思っている」
「とある事件?」
「ああ、そうだ。今回の事件とも関連がある。俺は……君と同じように無謀だったあいつの無念を晴らしてやらなければならない。そのために捜査第四課に入ったんだ」
近江が紗理奈のことを真摯な眼差しで穿ってくる。
ドクンドクン。
心臓が忙しなく脈打つ。
(近江さんの言うあいつって……)
紗理奈の脳裏にどうしてだか兄の姿が浮かんでは消える。
近江がゆっくり口を開く。
「そして、俺はあいつの代わりにお前のことを……」
その時。
「きゃあっ……!」
女性の叫び声が耳に届いた。少し先の歩道で、老婆が地面に尻餅をついていた。すぐそばには、いかにも怪しい帽子を深々と被ってサングラスを装着したダウンジャケットの大男が、女性のハンドバッグをひったくった後、そのまま走り去っていく。
どうやらひったくりの犯行現場に出くわしてしまったようだ。
紗理奈が声を掛ける前に、近江がレジ袋を手渡してきた。
「持っていろ」
それだけ言い残すと、近江は犯人目掛けて駆けはじめる。
紗理奈は尻餅をついた老婆の元へと駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「私の大事なものが……!」
混乱する老婆の背を擦ってやりながら、紗理奈は近江のいる方へと視線を移す。
近江はといえば……
犯人とは百メートル近く距離が離れていたはずなのに、まるで黒豹のようなしなやかな走りですぐに追いついた。
かと思えば、抵抗してくる犯人の繰り出す拳を躱した後、回し蹴りで相手を制した。
(近江さん、柔道もできるし、空手も出来るのね)
荒々しい動きというよりも、まるで暗殺者のような動きだが。
そうして、初めて会った時と同様に、犯人を組み敷いたまま、近江がスマホで連絡を取りはじめる。
騒ぎを聞きつけた近所の人たちが連絡を入れてくれていたのか、パトカーのサイレンの音も聞こえてきた。
しばらく警察たちから激励の声をかけられていたが、近江が警察官たちの輪を抜けて、紗理奈と老婆の近くまで歩んでくる。
「ご婦人、こちらを」
「ああ、ありがとうございます! 死んだ旦那からもらった大事なお守りが入っていたんですよ!」
近江からハンドバッグを受け取った老婆は歓喜に満ちていた。
(良かった)
紗理奈が口元を綻ばせていると、近江がすまなさそうに声をかけてくる。
「堂本紗理奈、この後一緒に出掛けようと話していたが、すまない、少しだけ事情を説明してくる」
「いいえ、今日は仕方ありません。そうだ、今回の近江さんの件、記事にしても良いですか?」
「そうだな、あまり目立ちたくはないが……構わない。もうマンションは目の前だから、俺が一緒について来なくても良いだろう」
「ええ、さすがに玄関先なので大丈夫ですよ」
「そうか。では行ってくる。また後日、別の場所へと向かおう」
「分かりました」
近江が仲間たちの元へと駆けていく背中を、紗理奈は目で追う。
その日、せっかくの初デートというべきかお出かけは、まさかの現行犯逮捕に置き換わってしまったけれど――帰宅してから、紗理奈は近江のお手柄の記事を手がけてWEBで発信したおかげで、警視庁内での評価が上がったようだった。
そうして――後日、初デートのやり直しに向かうのだけれど……そこで近江さんと私の距離がぐっと近づくことになるなんて、この時の私は想像もしていなかったのでした。
近江がひったくり犯人を捕まえた翌週。
再び非番を迎えた近江と紗理奈は、一緒に外に出かけていた。
今日の紗理奈の出で立ちと言えば、カジュアルな出で立ちだ。白いダウンジャケットに中には黒のタートルニットを着ており、ジーンズにスニーカーという格好である。
(近江さんが『堂本紗理奈、きっと君も気に入る場所だ』って話していたけれど……)
連れて来られたのは、まさかの場所だった。
「大丈夫か? もう少しで着くぞ」
前を歩く近江が、紗理奈のことを心配した様子で覗いてきていた。
向かった先は、そう、まさかまさかの……
(ちゃんとした初デートが山だなんて、想像もつかなかったわね……)
紗理奈はハアっと盛大な溜息を吐いた。
そう、初デート先は登山だったのだ。
(登山だと分かっていれば、もっと重装備にしたのに)
先日のスーパーへのお出かけといい、御曹司と出かけるキラキラゴージャスな場所とは縁遠いチョイスが続いている。
とはいえ、近江はといえば、生き生きしている。
(まあ、近江さんらしいと言われれば、近江さんらしいわね。それに、無表情で分かりづらいけれど、近江さんも身体を動かすのが好きなんだわ)
警察は体力が必要な仕事だから、身体を鍛えるのも好きな方なのだろう。
「よし、着くぞ」
そうして、辿り着いたのは……
「うわあ! すごく綺麗!」
辺り一面、真っ白な雲で覆われている。
かなり歩いたので、雲の上まで来ていたようだ。
絶景を見ていると、日ごろの閉鎖空間で過ごすうつうつとした気持ちが一気に晴れていくようだ。
「君も絶対に気に入ると思ったんだ」
紗理奈の隣に立つ近江が、普段は見せないような笑顔を見せてくる。といっても、少々口元が綻んでいるぐらいだが。
紗理奈も苦労して頂上まで辿りついた分、嬉しさもひとしおだ。
「ありがとうございます! 近江さんといると新しい発見があって楽しいです!」
「そうか、それは何よりだ」
頂上の風に当たりながら、二人で静かに過ごしていた。
しばらくすると、近江が少しだけ見たい場所があると話して、少しだけ離れた場所に移動した。
紗理奈はしばらく絶景を眺めた後、周辺へと視線を彷徨わせる。
ほどよい高さの山だからか、登山客はかなり多いようだ。家族連れの子どもがちょろちょろと動き回っている。
紗理奈も気になる場所を発見したため、崖の近くまで足を延ばして、眼下を見下ろす。
下から吹いてくる風が、ひやりとして気持ちが良い。
「日常の嫌なことなど忘れてしまいそうだろう?」
どうやら近江も傍に来たようだ。
紗理奈は声を掛けられ、心臓がドクンと跳ねあがる。
「ずっと部屋の中に閉じこもってばかりだから、君の性分には合わないんじゃないかと思ってな。途中までは、山の麓の動物園か水族館にでも向かおうかと思っていたんだが」
どうやら部屋に閉じこもってばかりで、身体を動かしたいと悶々としていた紗理奈の気持ちを、近江は汲んでくれていたようだ。
(言われてみれば、近江さんも登山用の重装備じゃなかったものね)
紗理奈は相手からの気遣いが嬉しくて、心に火が灯るような心地がする。
「近江さん、気遣ってくださって、ありがとうございます」
「いいや、君が元気な方が俺も嬉しいからな」
近江の横顔を見る。
(近江さん、優しい……理想の男性って感じがする)
相手の気遣いが嬉しくて堪らない。
こんな男性と結婚して一緒に過ごすようになったら、きっと毎日が幸せに違いない。
けれども、そこでハッとする。
(私ったら何を考えているの? 相手は警察で、しかも期間限定の恋人なのに……)
好きになったところで住む世界が違う相手なのだ。
割り切らないといけない。
なのに、どうしてだか近江のことが気になっている自分がいる。
自分の中に湧いてきた邪念のようなものを振り払うべく、紗理奈は首を横に振った。
「どうしたんだ、堂本紗理奈?」
近江に声を掛けられた、その時。
ふと。
子どもの声が耳に届く。
頭上に視線を移すと、なんと上の方にいる子どもが、柵の向こうからこちら側に飛び出そうとしているではないか。
このままだと崖から転落してしまう。
「危ない!」
紗理奈は思いがけず駆けだした。
慌てて子どもを抱きとめに向かう。
「避けろ!」
すぐそばで声が聞こえたかと思うと、紗理奈は横へと突き飛ばされた。
ドン!
大きな音が聞こえた方へと視線を移す。
近江が子どもを上手にキャッチしているところだった。
子どもは大声を出してエンエンと泣いている。
すぐに両親と思しき二人組が現れて、近江に向かってペコペコと頭を下げた後、何処かへと去って行った。
「良かった、近江さん、ありがとうございました」
紗理奈が近江に向かって声をかけた瞬間。
「勇気と無謀は違うと俺はあれほど……!」
近江に怒鳴りつけられて、紗理奈はびくりと身体を震わせた。
初めて出会った時にも掛けられた言葉。
驚いてしまったが、近江が真剣に怒っていることが伝わってくる。
「ごめんなさい……」
なんだか情けなくなってしまって、近江の顔を直視できない。
両手で衣服をぎゅっと掴んでいると……
ふわり。
近江の腕に引き寄せられる。
かと思えば、彼の腕の中に抱きしめられてしまっていた。
「近江さん」
近江の唐突な行動に、紗理奈は困惑してしまう。
「すまない、言い過ぎてしまった……だが、女性の身体で落下してくる子どもを受け止めようとするのは無謀すぎる」
「……近江さんが謝る必要はありません。私はどうしても自身の力を過信してしまうと言うか……仕事の時もそうなんです。良かれと思ってやった行動が裏目に出てしまうことが多いし……だけど、せっかく助けられるはずの命を助けられないのは嫌なんです……!」
紗理奈の目頭が熱くなる。
瞼裏に浮かぶのは、亡くなった兄の姿。
紗理奈が病院に駆けつけた時には、すでに亡くなっていた。
同僚の警察たちも、兄の死の現場に駆けつけるのが遅くなってしまったと話していた。
もしも自分が近くにいたならば、応急処置をしたり応援を呼んだり、それぐらいは加勢できたかもしれないのに……
非力だから役には立てなかったかもしれないけれど、もしも、もしかしたらが、心の中から消えてはくれない。
だから、せめて目の前で困っている人を助けることができたら……
紗理奈は取り立てて良いところはないと自分では思っているけれど、書くのには自信があった。だから、それで手助け出来たらって思うようになって……
「誰かが死ぬのは、もう嫌……くっ……」
目頭が熱くなって、一筋の涙が零れた。
涙が止めどなく溢れ出す。
すると、近江の腕の力が強くなる。
「堂本陽太が――妹であるお前が怪我をするのを許容すると思うか?」
紗理奈は顔を上げる。
「……っ、近江さんに、お兄ちゃんの何が分かるって言うんですか……?」
すると、普段は無表情の近江が、ぎゅっと眉根を引き絞っていた。何かに耐えるように唇をきつく噛み締めている。
その表情は見る者を苦しくさせる類のもので、紗理奈の胸もぎゅっと締め付けられるようだった。
「俺には堂本陽太の気持ちは分からない。最後まで分からないことだらけだった。だが、そんな俺にでも分かることがある」
「何……?」
すると、近江が寂しそうに微笑んだ。
「妹である君を――堂本紗理奈のことを大事に想っていたことだよ」
「あ……」
「だから、どうか、あいつが大事にしていた君が――君自身を危険に晒すような真似はやめてやってくれ」
涙が少しだけ止まりかけていたのに……
紗理奈の瞳から再び涙がぽろぽろ溢れて止まらない。
近江の指がそっと彼女の髪を撫でた。
「先日も話したが、俺は勇敢な女性のことは好きだよ」
爽やかな笑顔で告げられてしまうと、悩みも全て吹き飛びそうだった。
「自分に何が出来て出来ないかは、年を重ねれば、だんだんと分かってくることもある。だから、あまり気にする必要はない。ただ、もう少しだけ自分のことを大事にしてほしいと思う」
近江の優しさが胸に染み入ってきて、胸がぎゅっと苦しくなる。
「近江さんは、お兄ちゃんのこと、やっぱりご存知なんですか?」
すると、近江が過去を懐かしむように目を眇めた。
「ああ。警察学校時代に出会った、俺のかけがえのない親友だよ」
やはり、近江と兄には接点があったのだ。
紗理奈が近江に話し掛けようとしたところ、ガヤガヤと人が集まる気配を感じた。
「さて、そろそろ昼過ぎだ。下山しよう」
「はい、分かりました」
そうして、紗理奈は近江と共に下山することになった。
しばらく無言のまま降りていたが、ちょうど足場の悪い場所へと差し掛かる。
山上から流れる川の石場を歩かないといけない。
すると、前を歩く近江が手を差し出してきた。
「堂本紗理奈、ここは足場が悪い。手を」
「ええっと、これぐらいの岩なら一人で大丈夫ですよ……って、きゃっ……!」
行った傍から、岩に移る前だというのに、ちょっとだけ足を滑らせてしまう。
再び近江が手を差し出してきた。
「ほら、俺の言った通りだろう?」
「ごめんなさい、学習能力がなくて……」
紗理奈は近江の手をとった。
すると、近江がクスリと笑う。
「いいや、お前といると陽太を思い出して悪くない。さあ、行こうか」
「はい!」
そうして、二人で一緒に険しい岩場をこなす。
また元の整備された道に戻った頃には、ちょうど陽が沈みはじめていた。
紗理奈は、登りの時以上に、近江の背中が逞しく感じたのだった。
「どうした、堂本紗理奈、疲れたのか?」
「ええっと……」
「仕方がない奴だな。登山で疲れたならおぶってやろうか?」
「ええっ、さすがにそこまで疲れてはないですよ!」
「そうか……」
そうして、再び近江が前を歩きはじめた。
と思いきや、くるりと突然振り向いてきた。
紗理奈は驚いたため、身体がびくりと跳ね上がる。
沈む太陽の逆光で、近江の表情がよく見えない。
彼がゆっくりと口を開いた。
「堂本紗理奈、俺は――」
ドクン。
紗理奈の心臓が早鐘を打ち始める。
そうして、近江が力強く告げた。
「あいつの代わりにお前を守ると誓っている」
紗理奈の胸に温かな春風が吹きすさぶ。
「脅迫状を送ってきた犯人も、必ず俺が捕まえてみせる。待っていてほしい」
逆光で見えづらい。
だけど、近江の瞳には力強い光が宿っていた。
「はい、ありがとうございます」
なんだか胸がムズムズしながら、紗理奈は返事をする。
「そうか、ありがとう」
近江がふっと口元を綻ばせた。
今日の彼は珍しくよく微笑む。
そのせいもあってか、紗理奈の心臓のドキドキが止まらない。
(ぶっきらぼうで寡黙な近江さん。だけど……)
紗理奈の胸の内に近江に対して特別な感情が芽生え始めていたのだった。
山登りの一件から、紗理奈と近江の距離はこれまでよりもぐっと近づいて、より恋人らしくなりつつあった。
登山から数日が経った週末。
紗理奈は近江と電話をしていた。
『堂本紗理奈、今日は早く帰れそうだ』
「早く帰れるなんて、珍しいですね」
『ああ、同僚たちが、上司が率先して早く家に帰ってくれと言いはじめてな。それで、せっかくだから、今晩はいつも料理を作ってくれる御礼に、一緒に外食でもと思ったんだが』
「外食ですか?」
思いがけない提案に、紗理奈は目を真ん丸に見開いた。
『ああ、以前同僚だった先輩がレストランを経営しはじめたそうで、君も一緒にどうかと言われたんだ』
「そんな事情でしたら、ぜひご一緒させてください」
『喜んでくれているようで良かった』
近江の声に喜色が滲んでいるのが伝わってきて、紗理奈の心まで弾んでくる。
『それでは、また後で』
紗理奈は喜々として、スマホ画面をタップして通知を切った。
「近江さんが早く帰ってきてくれるの、すごく嬉しい。しかも恋人らしいデートだ」
紗理奈は浮足立ちながら、レストランに向かう衣装を選び始めた。
「どんなレストランか聞いておけばよかったな」
ドレスコードを聞いておけば良かったと後悔しつつ、カジュアル過ぎず祝い事ほど派手にはなりすぎない程度の衣裳を選ぶことにしたのだった。
帰宅した近江に連れて行かれたのは、フランス料理を提供するレストランだった。
電話で説明があった通り、近江のかつての同僚が定年後に経営をはじめたそうだ。
コック兼経営者の同僚は、白髪白髭のがたいの良い男性だったが、『皆が圭一に恋人ができたって話していたから見てみたかった。可愛いお嬢さんだ』と快活に笑っており、なんとなく真心新聞社の後藤局長のことを思い出させた。
紗理奈は、クラシックな黒のワンピースの上に黒白のツイードのジャケットを羽織り、それなりにおかしくない格好をしていたが、ちょうど良い塩梅だったようだ。
対して、近江は仕事の際に着用している黒いスーツの姿だ。普段着を身に着けていてもカッコいいが、正装姿は凛々しくてカッコいい。しかも、和食中心に育ったと話していたはずだが、やはり御曹司というべきか、洋食を食べる際のフォークとナイフ捌きも様になっていた。
いよいよデザートという頃、近江が紗理奈のことをじっと見つめてきていることに気付いた。
「近江さん、私の顔に何かついているでしょうか?」
すると、近江が目を少しだけ見開いた。かと思うと頬をさっと朱に染める。
「ああ、すまない。そんなに観察しているつもりはなかったんだ」
どうやら自覚なく紗理奈のことを観察していたようだ。近江の反応を見ていると、紗理奈の方まで体温が上昇していくようだ。
咳ばらいをした近江が、改めて口を開く。
「その……」
「なんでしょうか?」
「君はどんな時でもよく食べるな」
紗理奈としては反応に困った。
「それは食いしん坊ということでしょうか?」
「いいや、そういうわけではない」
だったら、いったいどういう意味なのだろうかと思っていたら……
近江が少しだけ視線を逸らしながら告げてくる。
「健康的で良いと思う。丈夫な子を産んでくれそうだ」
「……っ……!」
紗理奈は食べている途中だったパンを喉に詰まらせそうになった。
「大丈夫か!? 堂本紗理奈!」
近江が急いで立ち上がると、紗理奈のそばに近づいてきて背を擦ってくれた。
「げほっ、げほっ、走馬灯が見えました」
「すまない。おかしな発言をしてしまったようだ」
「ええっと、その、おかしくはなくてですね……」
なんとなく二人して赤面したまま、慌てふためいていたら……
「圭一さん?」