近江はと言えば……どうしてだか、大きな片手で顔面を覆っていた。合間から覗く肌は真っ赤だ。
そんな彼の様子を見ていたら、紗理奈まで赤面してしまうではないか。
(年上の男の人のはずなのに、近江さん、どうしてこんなに純情なの……!?)
二人でしばらく慌てていたが、近江が咳ばらいをした。
「すまない、それでは先に風呂に入らせてもらう」
そうして、彼は浴室へと向かって行った。
紗理奈は台所へと向かう。春先なので、ネットスーパーで新じゃがと菜の花が頼んであったはずだ。冷蔵庫の食材を確認すると調理をはじめる。
しばらくすると、風呂上がりの近江が、タオルで黒髪を拭きながら姿を現した。
「うまそうな香りがするな」
「そうでしょう? 完成したので、どうぞお座りくださいな」
紗理奈はテーブルの上に、出来た料理を並べる。
今日は、肉じゃが、菜の花と豆腐の味噌汁、菜の花と新じゃがのマッシュポテトを作った。紗理奈本人としては、菜の花の緑がフレッシュな献立に仕上がったと思う。
椅子に座った近江が手を合わせる。
「すまない、いただこう」
「私も食べます、いただきます」
二人で黙々と食事する。旬の食材を使った料理は、自家製でも絶品だ。
全てを咀嚼し終わった近江が、「ごちそうさま」と箸を置いた後に、紗理奈に話し掛けてくる。
「君は、見た目は派手だがかなり家庭的なようだな。俺も簡単な和食を作るが、今日は旬の野菜をふんだんに作った品ばかりだった」
「ありがとうございます。貧乏性で、旬の食材の方が安上がりで済みますから、知っているだけなんですよ」
紗理奈も食事をし終わったので、箸をそっとテーブルの上に置いた。
真っ向から誰かを褒めるのには慣れているが、褒められるのには慣れていない。
紗理奈は、なんだか胸がムズムズしてしまう。
近江は、元々食に関心が薄い性質なのか、何も食べずに帰ってくることがあった。紗理奈は心配して夜食を作ってあげることにしたのだが、毎食こんな感じで褒めてくるものだから、なんだか調子に乗ってしまいそうだ。
近江が淡々と告げてくる。
「もしも新聞記者の仕事以外で働くのだとしたら、料理を誰かに振舞うのも悪くなさそうだな」
「レストランなんかの経営は私の大雑把な性格だと厳しいと思うんですよね、せっかくだから、誰かの家政婦さんになったりとか? あ、意外と奥さんにも向いてるかな? ……なんて」
紗理奈が笑いながら返すと、近江が頬を朱に染めながら返事をしてきた。
「その通りだ……誰かの伴侶になるのも向いていると思う」
紗理奈はまたしてもなんだか恥ずかしくなってきてしまった。
(うう、そんな風に照れながら話してこられたら、私まで照れちゃう)
頬が熱くて堪らない。それを誤魔化すかのように、紗理奈は席を立った。
「昼に退屈だったから、簡単にお菓子を作ったので、そちらをお持ちしますね」
「かたじけない」
そうして、冷蔵庫に冷やして置いたジャスミンティーゼリーを二人分持ってくる。透明なグラスにジャスミンティーを注いで砂糖とゼラチンを混ぜて固めただけの簡単なデザートだ。その上にホイップクリームとミントの葉を飾っている。
「まさかデザートまで食べられるとはな。こちらもいただこう」
「どうぞ」
近江が喜々としてゼリーをスプーンで食した。
「これはうまいな」
「近江さんが、お茶は中国茶でも日本茶でも好きそうで良かったです」
紗理奈が購入しなくとも、近江のキッチンに、元々色んなお茶の葉が置いてあったのだ。そのおかげで、このデザートを作ることが出来たのだ。
近江が優雅な所作でゼリーを全て食した。表情が淡々として分かりづらいが、少しだけ明るい印象だ。
「苦みと甘みが絶妙なバランスで、つるりとのど越しも良くて、とても美味だった。ありがとう、ごちそうさま」
「いいえ、どういたしまして。近江さん、好きなデザートがあったら教えてくださいね。また作りますから」
すると、近江からは思いがけない返答があった。
「教えたいのはやまやまだが、教えてやることはできない」
先ほどの喜ぶような返事とは違った解答だったため、紗理奈はちょっとだけショックを受ける。
(さすがに距離を縮め過ぎたのかも)
少々反省していると、近江が理由を告げてくれた。
「こんな風に食事に菓子やデザートなどの甘い食べた経験が俺にはあまりない。だからどんなものがあるのか詳しく知らないんだ」
「えっ!?」
驚きのあまり、紗理奈の声がひっくり返ってしまった。
「近江さん、甘いもの、ほとんど食べたことがないんですか!?」
「ああ、そうだ」
「いったいぜんたいどうして!?」
すると、近江が静かな語り口調で話しはじめた。
「俺は幼少期に母を亡くしている」
「え? そういえば、父親である近江警視総監とは、幼少期からあまり関りがないと仰っていませんでしたっけ? だったら、ご両親は……」
「二人ともいないようなものだった。父方の祖母が俺の母親代わりを勤めてくれたんだが、武家家系の出身で厳格な女性でな。かなり厳しくしつけられて、『甘いものは人を堕落させる』と言って、菓子類は全て禁じられていたんだ。祖母ももう亡くなってこの世にはいないがな」
「た、確かに、甘いものの誘惑は危険ですけれど……」
近江を見ていたら、かなりストイックな雰囲気がある。きちんと整理整頓したり、厳格な祖母の教育の賜物なのだろう。
「もしも近江さんのおばあさんが生きていらっしゃって、今の光景を見つかりでもしたら、私はだらしがないって叱られそうですね。私、すっごく甘いものが好きだから」
「だろうな」
即答されてしまい、紗理奈は内心落ち込んでしまった。
「この数日一緒に過ごして思うが、お前は確かに祖母に比べるとだらしがない」
ストレートな言葉の数々に、紗理奈の心は抉れていっていたのが……
「だが、君が君らしく振舞っているのは、一緒に過ごしていて、俺も気楽で良い」
近江の口元が綻んだ。
滅多に見れない笑顔を前に、紗理奈の鼓動が少々早くなる。
(近江さんも、私に負けず劣らず、直球で喋ってくるタイプなんだから。なんだか最近ドキドキして落ち着かないったら……)
逸る気持ちを落ち着けながら、紗理奈もゼリーを全て平らげた。
「さて、一緒に片付けでもしようか」
「はい、ありがとうございます!」
そうして、二人で皿洗いをする。
こうやって二人揃っての夕ご飯の後の日課になりつつあった。
(なんだか本当に新婚っぽい)
皿洗いをしながら、チラリと近江へと視線を向ける。
家事をしている姿も、まるでドラマの中の俳優が動いているようで、様になっている。
すると、近江が紗理奈の視線に気づいたのか声をかけてくる。
「どうした? そんなにまじまじと見つめられると集中できないんだが」
「ええ、いいえ、ついつい」
「……そうか?」
そうして、皿を全て洗い終わった頃、近江がタオルで手を拭きながら、紗理奈に声をかけてきた。
「そういえば、春野菜はどこで仕入れてきたものだろうか?」
「え? ネットスーパーですよ?」
「ネットスーパー?」
「そうです。今のご時世、ネットスーパーというものがあるので困りません」
「そうか」
紗理奈は却って気になった。
「近江さんは、いったいどこで食材をご購入されていたんですか?」
なんとなくスーパーを彷徨う彼は想像ができない。
「ああ、俺の場合は、定期的に近江家の料理人が食材を運んでくれているんだ。だが、最近は仕事で帰りが遅いことが多いから、しばらく届けないでくれと頼んでいたんだ。そのままだったことを思い出したが、君が食材を入手していたから、どうしてだろうと気になったんだ」
「料理人」という言葉を耳にして、紗理奈はクラリとした。こういう話を聞くと、近江はやはり御曹司なのだと分かる。
「食材というのは料理人が購入するものだと思っていたから、ネットスーパーとは新鮮だな」
「野菜の傷み具合なんかを知りたいから、本当はスーパーに直接足を運びたいんですけどね」
すると、近江が顎に手を当て「ふむ」と頷いていた。
「明日は土曜日で休みがもらえた」
「……そうなんですね?」
話の脈絡のなさに、紗理奈は少々戸惑った。
すると、近江が真っすぐに告げてくる。
「せっかくだから、一緒に買い物にでも行こう」
「え?」
かくして――初デート先がまさかのスーパーでの食材の買い出しになったのだった。
翌朝。
朝食を食べ終わった後、近江と紗理奈とは早速近所にあるスーパーへと出かけていた。
スーパーと言っても、閑静な住宅街にある高級スーパーで、庶民出身の紗理奈としては普段使いは絶対にしないような場所だ。とはいえ、野菜も無添加だったり新鮮だったり、身体に良さそうなものが多かった。近江は陳列した食材をまじまじと眺めて過ごしていた。
買い物を済ませて外に出ると、近江が紗理奈に声をかけてくる。
「堂本紗理奈、その袋を貸してくれ。俺が持とう」
紗理奈がスーパーの袋を手に持っていたのを見かねたようだ。
御曹司出身の警視正相手にそんなものを持たせて良いのか悩ましかったが、近江から手を差し出されたので、そっと預けることにした。
こんな風に男性を頼ったのは、死んだ兄以来だ。
嬉しくなって紗理奈の頬が緩んだ。
「ありがとうございます」
「いいや、こちらこそ。いつも美味しい料理をありがとう」
淡々とした口調だったが、最近は少しだけ近江の表情を読めるようになっているので、彼が心の奥底から感謝してくれているのが伝わってきている。
「スーパー、どうでしたか?」
「犯人捜査のためには入店したことがあったが、実際にこうやって食材を一緒に買うのは初めてだった。良い社会経験になったと思う。犯人の足取りを掴むのに役に立つだろう」
とてつもなく硬い雰囲気の返事が返ってきた。
近江と一緒に暮らしてしばらく経ったが、時折する会話の端々に警察としての誇りや矜持のようなものが滲み出てくるのを感じていた。
近江が真摯に警察としての仕事に向き合っている様を目にして、紗理奈の中の警察に対しての印象のようなものが、少しずつだが変化してきていた。
(一方的に嫌っていたけれど、こういう真摯に仕事に向き合う警察官もいるのね)
人によっては単純だと思うかもしれないが、短期間で、かなり大きな変化だと言えよう。
「近江さんはやっぱり真面目ですね」
「ん? そうだろうか?」
「ええ、まさかスーパーに対してそんな感想を抱くなんて。どうして、そんな風に思ったんですか?」
「ふむ、職業病というやつだろうか? つい、な」
近江は思考に耽った後、紗理奈の方を振り向いた。
「君の方こそ、『どうしてそう思うのか?』と理由をよく尋ねてくる」
「え?」
「おそらく君のそれも、新聞記者という職業ゆえだろう」
近江に指摘されて、紗理奈も初めて気づいた。
「どうしてそうなのか気になってしまうんですよね。なるほど、お互いに仕事の影響があるみたいですね」
「そのようだな」
しばらく歩を進めた頃、近江が紗理奈に向かって話しかけてくる。
「そういえば、俺は君の新聞記事を読んだことがある」
「私のですか!?」
「ああ、そうだ。先日の暴力団組員の鼠川組の記事なんかもよく取材されていたと思う」
まさかこんなところで自分の記事を読んでくれた相手と出会うなんて……
「ありがとうございます!」
だがしかし、次に放たれた言葉は無情だった。
「どこの無謀な女性記者だと思ったら、案の上、本人は想像通りの無謀な人物だった」
紗理奈は内心がっくしと肩を落とした。
(そんな高評価なはずはないか)
最初に出会った時も、「勇気と無謀をはき違えるな」と言われたことを思い出す。
「猪突猛進とはよく言われます」
紗理奈はポツリと思いを吐露する。
「もっと近江さんみたいに慎重な人の方が記者には向いているんだろうなと思います」
「残念ながら、俺は警察、それも刑事だ」
「……例えの話ですよ。近江さんには揚げ足を取っているつもりは欠片もないのかもしれませんけど、こう、なんですかね、あまり無駄がないストレートな話し方をする男性ですよね」
「ん?」
紗理奈は肩をすくめた。
「和装なんかが似合いそうな日本人的な雰囲気なのに、機械的と言いますか、婉曲的な物の言い方はしないと言いますか」
「婉曲的な言い方をして話がかみ合わなかった場合に大事故が起こるからな……というよりも、警察関係者以外の人間たちには通じないような言葉を使うことはある」
「まる暴とかがさ入れとか、そういうのでしょう? 刑事ドラマの影響なんかで有名になっちゃっていますけど」
「ああ、そうだ」
「それとはまた話は別なんですよ」
「……というと?」
近江が不思議そうに首を傾げていた。
「合理的というやつでしょうか? 誰かと話すときに論理的に話すので、諭されちゃうというか? こう話の段階を踏んで説明するから、記事を書く時の説得力が増すと思うんですよ」
「お前の話したい内容に合点が行った」
どうやら紗理奈の話したい内容を、近江は理解してくれたようだ。
「何事も適正というものがある。警察にしろ、新聞記者にしろ」
紗理奈はゴクリと唾を呑み込んだ。近江の言葉を待つ。
「俺のように事実を淡々と述べる力に長ける者も確かに記者に向いているかもしれない。だがな……」
近江が紗理奈のことを真っすぐに見つめてくる。
あまりに真摯な眼差しに、全てを見抜かれてしまいそうだ。
「無謀だが、ヤクザ相手にも怯まず、取材を熱心におこなう。そういう行動力や情熱を持った人間だって、記者として向いていると俺は思う」
ドクン。
紗理奈の中で本当に自分は記者に向いているのだろうかと悩むことがあったが、近江の言葉を聞いていたら、なんだか勇気が湧いてきた。
(私ったら……あんなに警察に苦手意識があったくせに……)
けれども、警察としてではなく、近江圭一という人物の言葉であるならば、信用したい。
紗理奈はそんな風に思うようになっていた。
「俺から見れば、君の記者として記事を書く力や、腕も悪くないと思っている。だから、ぜひ新聞記者としてこれからも頑張ってほしい」
近江に褒められて、紗理奈の心中はパアッと明るくなっていく。
「そもそも新聞記者は常に俺たちの動向を探ってきていて、警察の張り込みよりも張っているようなところがあって、俺も苦手だ。探りを入れてこられることもあるし、少々関わるのは厄介だと思うこともあるが、無謀な振る舞いさえ避けてもらえるなら構わないと思っている」
近江は紗理奈の職業に対して、かなり率直な意見を述べてくれているようだ。
警察という職業には、まだ苦手意識や抵抗感があるが、近江に関して知りたいという気持ちがむくむくと湧いてくる。
紗理奈は今度は近江について問いかけることにした。
「近江さん、そういえば、どうして刑事部の中でも捜査第四課なんですか?」
「ん?」
「だって、色々あるじゃないですか? 捜査第一課とか機動捜査隊とか。本人希望じゃなくて、人事配属でたまたま捜査第四課なんですか?」
「どうして、そんなことが知りたいんだ?」
「だって、捜査第四課と言えば、組織犯罪対策課……いわゆる暴力団犯罪を取り締まる課でしょう? こう刑事ドラマなんかだと、近江さんみたいに涼し気でクールな男性じゃなくて、強面のおじさん刑事みたいな人たちのイメージがあるんですもの」
すると、近江が伏し目がちになって溜息を吐いた。
「世間ではそんなイメージがあるのは覚えておこう」
近江の反応を見て、紗理奈はハッと正気に返る。
(ついつい癖で、踏み込んだ内容を聞いてしまったかも)
すると……
「捜査第四課への配属は俺の希望だ」
近江の雰囲気が少しだけ陰りを帯びたものへと変わる。
「理由を聞いたら、失礼でしょうか?」
紗理奈が緊張した面持ちで尋ねると、近江が静かに語りはじめた。
「俺はヤクザがらみのとある事件の真相を知りたいと思っている」
「とある事件?」
「ああ、そうだ。今回の事件とも関連がある。俺は……君と同じように無謀だったあいつの無念を晴らしてやらなければならない。そのために捜査第四課に入ったんだ」
近江が紗理奈のことを真摯な眼差しで穿ってくる。
ドクンドクン。
心臓が忙しなく脈打つ。
(近江さんの言うあいつって……)
紗理奈の脳裏にどうしてだか兄の姿が浮かんでは消える。
近江がゆっくり口を開く。
「そして、俺はあいつの代わりにお前のことを……」
その時。
「きゃあっ……!」
女性の叫び声が耳に届いた。少し先の歩道で、老婆が地面に尻餅をついていた。すぐそばには、いかにも怪しい帽子を深々と被ってサングラスを装着したダウンジャケットの大男が、女性のハンドバッグをひったくった後、そのまま走り去っていく。
どうやらひったくりの犯行現場に出くわしてしまったようだ。
紗理奈が声を掛ける前に、近江がレジ袋を手渡してきた。
「持っていろ」
それだけ言い残すと、近江は犯人目掛けて駆けはじめる。
紗理奈は尻餅をついた老婆の元へと駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「私の大事なものが……!」
混乱する老婆の背を擦ってやりながら、紗理奈は近江のいる方へと視線を移す。
近江はといえば……
犯人とは百メートル近く距離が離れていたはずなのに、まるで黒豹のようなしなやかな走りですぐに追いついた。
かと思えば、抵抗してくる犯人の繰り出す拳を躱した後、回し蹴りで相手を制した。
(近江さん、柔道もできるし、空手も出来るのね)
荒々しい動きというよりも、まるで暗殺者のような動きだが。
そうして、初めて会った時と同様に、犯人を組み敷いたまま、近江がスマホで連絡を取りはじめる。
騒ぎを聞きつけた近所の人たちが連絡を入れてくれていたのか、パトカーのサイレンの音も聞こえてきた。
しばらく警察たちから激励の声をかけられていたが、近江が警察官たちの輪を抜けて、紗理奈と老婆の近くまで歩んでくる。
「ご婦人、こちらを」
「ああ、ありがとうございます! 死んだ旦那からもらった大事なお守りが入っていたんですよ!」
近江からハンドバッグを受け取った老婆は歓喜に満ちていた。
(良かった)
紗理奈が口元を綻ばせていると、近江がすまなさそうに声をかけてくる。
「堂本紗理奈、この後一緒に出掛けようと話していたが、すまない、少しだけ事情を説明してくる」
「いいえ、今日は仕方ありません。そうだ、今回の近江さんの件、記事にしても良いですか?」
「そうだな、あまり目立ちたくはないが……構わない。もうマンションは目の前だから、俺が一緒について来なくても良いだろう」
「ええ、さすがに玄関先なので大丈夫ですよ」
「そうか。では行ってくる。また後日、別の場所へと向かおう」
「分かりました」
近江が仲間たちの元へと駆けていく背中を、紗理奈は目で追う。
その日、せっかくの初デートというべきかお出かけは、まさかの現行犯逮捕に置き換わってしまったけれど――帰宅してから、紗理奈は近江のお手柄の記事を手がけてWEBで発信したおかげで、警視庁内での評価が上がったようだった。
そうして――後日、初デートのやり直しに向かうのだけれど……そこで近江さんと私の距離がぐっと近づくことになるなんて、この時の私は想像もしていなかったのでした。
近江がひったくり犯人を捕まえた翌週。
再び非番を迎えた近江と紗理奈は、一緒に外に出かけていた。
今日の紗理奈の出で立ちと言えば、カジュアルな出で立ちだ。白いダウンジャケットに中には黒のタートルニットを着ており、ジーンズにスニーカーという格好である。
(近江さんが『堂本紗理奈、きっと君も気に入る場所だ』って話していたけれど……)
連れて来られたのは、まさかの場所だった。
「大丈夫か? もう少しで着くぞ」
前を歩く近江が、紗理奈のことを心配した様子で覗いてきていた。
向かった先は、そう、まさかまさかの……
(ちゃんとした初デートが山だなんて、想像もつかなかったわね……)
紗理奈はハアっと盛大な溜息を吐いた。
そう、初デート先は登山だったのだ。
(登山だと分かっていれば、もっと重装備にしたのに)
先日のスーパーへのお出かけといい、御曹司と出かけるキラキラゴージャスな場所とは縁遠いチョイスが続いている。
とはいえ、近江はといえば、生き生きしている。
(まあ、近江さんらしいと言われれば、近江さんらしいわね。それに、無表情で分かりづらいけれど、近江さんも身体を動かすのが好きなんだわ)
警察は体力が必要な仕事だから、身体を鍛えるのも好きな方なのだろう。
「よし、着くぞ」
そうして、辿り着いたのは……
「うわあ! すごく綺麗!」
辺り一面、真っ白な雲で覆われている。
かなり歩いたので、雲の上まで来ていたようだ。
絶景を見ていると、日ごろの閉鎖空間で過ごすうつうつとした気持ちが一気に晴れていくようだ。
「君も絶対に気に入ると思ったんだ」
紗理奈の隣に立つ近江が、普段は見せないような笑顔を見せてくる。といっても、少々口元が綻んでいるぐらいだが。
紗理奈も苦労して頂上まで辿りついた分、嬉しさもひとしおだ。
「ありがとうございます! 近江さんといると新しい発見があって楽しいです!」
「そうか、それは何よりだ」
頂上の風に当たりながら、二人で静かに過ごしていた。
しばらくすると、近江が少しだけ見たい場所があると話して、少しだけ離れた場所に移動した。
紗理奈はしばらく絶景を眺めた後、周辺へと視線を彷徨わせる。
ほどよい高さの山だからか、登山客はかなり多いようだ。家族連れの子どもがちょろちょろと動き回っている。
紗理奈も気になる場所を発見したため、崖の近くまで足を延ばして、眼下を見下ろす。
下から吹いてくる風が、ひやりとして気持ちが良い。
「日常の嫌なことなど忘れてしまいそうだろう?」
どうやら近江も傍に来たようだ。
紗理奈は声を掛けられ、心臓がドクンと跳ねあがる。
「ずっと部屋の中に閉じこもってばかりだから、君の性分には合わないんじゃないかと思ってな。途中までは、山の麓の動物園か水族館にでも向かおうかと思っていたんだが」
どうやら部屋に閉じこもってばかりで、身体を動かしたいと悶々としていた紗理奈の気持ちを、近江は汲んでくれていたようだ。
(言われてみれば、近江さんも登山用の重装備じゃなかったものね)
紗理奈は相手からの気遣いが嬉しくて、心に火が灯るような心地がする。
「近江さん、気遣ってくださって、ありがとうございます」
「いいや、君が元気な方が俺も嬉しいからな」
近江の横顔を見る。
(近江さん、優しい……理想の男性って感じがする)
相手の気遣いが嬉しくて堪らない。
こんな男性と結婚して一緒に過ごすようになったら、きっと毎日が幸せに違いない。
けれども、そこでハッとする。
(私ったら何を考えているの? 相手は警察で、しかも期間限定の恋人なのに……)
好きになったところで住む世界が違う相手なのだ。
割り切らないといけない。
なのに、どうしてだか近江のことが気になっている自分がいる。
自分の中に湧いてきた邪念のようなものを振り払うべく、紗理奈は首を横に振った。
「どうしたんだ、堂本紗理奈?」
近江に声を掛けられた、その時。
ふと。
子どもの声が耳に届く。
頭上に視線を移すと、なんと上の方にいる子どもが、柵の向こうからこちら側に飛び出そうとしているではないか。
このままだと崖から転落してしまう。
「危ない!」
紗理奈は思いがけず駆けだした。
慌てて子どもを抱きとめに向かう。
「避けろ!」
すぐそばで声が聞こえたかと思うと、紗理奈は横へと突き飛ばされた。
ドン!
大きな音が聞こえた方へと視線を移す。
近江が子どもを上手にキャッチしているところだった。
子どもは大声を出してエンエンと泣いている。
すぐに両親と思しき二人組が現れて、近江に向かってペコペコと頭を下げた後、何処かへと去って行った。
「良かった、近江さん、ありがとうございました」
紗理奈が近江に向かって声をかけた瞬間。
「勇気と無謀は違うと俺はあれほど……!」
近江に怒鳴りつけられて、紗理奈はびくりと身体を震わせた。
初めて出会った時にも掛けられた言葉。
驚いてしまったが、近江が真剣に怒っていることが伝わってくる。
「ごめんなさい……」
なんだか情けなくなってしまって、近江の顔を直視できない。
両手で衣服をぎゅっと掴んでいると……
ふわり。
近江の腕に引き寄せられる。
かと思えば、彼の腕の中に抱きしめられてしまっていた。
「近江さん」
近江の唐突な行動に、紗理奈は困惑してしまう。
「すまない、言い過ぎてしまった……だが、女性の身体で落下してくる子どもを受け止めようとするのは無謀すぎる」
「……近江さんが謝る必要はありません。私はどうしても自身の力を過信してしまうと言うか……仕事の時もそうなんです。良かれと思ってやった行動が裏目に出てしまうことが多いし……だけど、せっかく助けられるはずの命を助けられないのは嫌なんです……!」
紗理奈の目頭が熱くなる。
瞼裏に浮かぶのは、亡くなった兄の姿。
紗理奈が病院に駆けつけた時には、すでに亡くなっていた。
同僚の警察たちも、兄の死の現場に駆けつけるのが遅くなってしまったと話していた。
もしも自分が近くにいたならば、応急処置をしたり応援を呼んだり、それぐらいは加勢できたかもしれないのに……
非力だから役には立てなかったかもしれないけれど、もしも、もしかしたらが、心の中から消えてはくれない。
だから、せめて目の前で困っている人を助けることができたら……
紗理奈は取り立てて良いところはないと自分では思っているけれど、書くのには自信があった。だから、それで手助け出来たらって思うようになって……
「誰かが死ぬのは、もう嫌……くっ……」
目頭が熱くなって、一筋の涙が零れた。
涙が止めどなく溢れ出す。