クールなエリート警視正は、天涯孤独な期間限定恋人へと初恋を捧げる

「ところで、堂本紗理奈は朝が弱い性質なのだろうか?」

 近江に真剣な表情を向けられてしまい、紗理奈の心臓がドキンと大きく跳ねた。

「ええっとですね」

 冷や汗が流れ落ちていく。
 紗理奈は朝起きるのがとても苦手だ。
 学生時代なんかは、兄が起こしてくれていたからどうにかなっていたようなものだ。
 けれども、兄がいなくなってしまって、目覚まし時計を三個準備して、なんとか仕事に迎えているといった調子である。

(うう、誤魔化したいけれど……)

 近江とは、これから一緒に暮らす予定だ。こんなところで見栄を張って嘘を吐いたとしても、ゆくゆくはバレてしまう。今の内に真実を告げておいた方が良いだろう。
 紗理奈が考えあぐねていると、近江が先に口を開いた。

「俺もあまり寝起きがよくないタイプでな」

「ですが、今日は時間バッチリでしたよね?」

「ああ、それはな。今日、君と約束をしていると話したら、部下の一人が朝まで起きておけと言って、朝方まで飲みに付き合わされたんだ」

「え?」

 紗理奈は目を真ん丸に見開いた。

「すごく心配性な部下でな。『近江警視正は、見た目も良いし、仕事もできるし、武道にも長けているし、どうしてだか婦警たちには大人気だが、何分感情に乏しいし、人との関わりが苦手だから、心配だ』とよく話してくる」

 近江は自分自身が容姿端麗で頭脳明晰であることを否定はしていないようだった。さらに言えば、人間関係構築に問題ありげな発言を部下からされているようだが、近江本人はあまり気に留めていないようだった。

(感情の機微に乏しいというか……)

 どちらかと言えば正直な部類の男性だし、紗理奈個人としては、見ていて面白くはある。

「部下の方と仲が良いんですね」

 なんとなく後輩たちから慕われている印象がある。
 紗理奈が告げると、近江が淡々と返事をした。

「職場の人間に対して、仲が良いかどうかはあまり気にしていなかったが、そうかもしれないな」

「そんな気がします」

「そうか。だが、元々同期たちからよく飲みに誘われていたんだが、この職位に就いてからは飲みに誘われなくなったんだ」

「それはまあ、上司がいると飲みづらいからでは?」

 紗理奈は近江の話に前のめりになった。

「それもそうなんだが。昔は、女性達と飲み会をするからと無理やり連れて行かれることが多かったんだがな……」

 なぜかそこで近江が言い淀んだ。紗理奈の新聞記者としての血が騒ぎはじめる。

「もしかして、『お前を連れて行くと女性が集まるが、女性達はお前のところにばかり行くから、ムカつく』とかなんとか言われてしまったとか?」

 彼女が喜々として問いかけると、彼が「ん?」と反応した。

「君は、俺の張り込みでもしていたのだろうか?」

 どうやら紗理奈の勘は当たったようだ。

「いいえ、特には。近江さん、すごくカッコイイので、もしかしてと思いまして」

「そうか。まあ、そういう経緯で、女性達が一緒の飲み会に誘われても、俺の方から断わるようにしていたんだが、昨日は強引に誘われてしまってな」

 つまるところ、昨晩の近江は、いわゆる合コンに誘われていたのだろう。

(だとしたら、昨日も合コン?)


 紗理奈の胸がなんとなくざわついた。おそるおそる尋ねてみる。

「そう言われれば、近江さんは飲み会に昨晩行っていたんですよね?」

「そうだな。他部署の同期たちに突然呼ばれたんだ」

 紗理奈は固唾を飲んで見守った。

「最近、交際相手が出来たと話して、女性達も参加しているような飲み会には行きたくないと断っていたんだが、どうしてだかしつこく誘われてな」

「交際相手? ええっと、近江さんに交際相手が出来たんなら、さすがに私と一緒に暮らすのは良くないんじゃ?」

「何を言っている? 交際相手とは、君のことだ」

「え!?」

 紗理奈は衝撃を受けた。

「警察の皆さんは、犯人が捕まるまでの間の保護対象だって、だから一応恋人の体裁をとっているんだって御存知なんじゃないんですか?」

「敵を欺くならまず味方からというのは鉄板だろう? 俺たちが期間限定の恋人同士であることは、俺たちしか知らない機密事項だ」

「そうだったんですね」

「そもそも俺としては期間限定のつもりは……」

 紗理奈は近江の呟きは無視した。

「最近出来た恋人のことを知りたいと言われてしまったんだ。どうやら、さしで飲みたかったらしい。君のことを根掘り葉掘り聞いて来られたが、そもそも詳細は知らないし、下手に喋っていないので安心してほしい」

 近江は誠実な人物のようで、彼女がいるのに合コンに積極的に向かうタイプではないようだ。
 それにしても……
 かなりモテるタイプの男性のようだが、どうして三十近くまで誰とも交際して来なかったのだろう。
 女性はどちらかと言えば、選り取り見取りな印象の方が強い。
 ますます謎が深まっていく。
 すると、近江がじっと紗理奈の顔を凝視してきていた。
 この世の者とは思えないほどの美形に、そんなにじっと見られると、紗理奈も戸惑ってしまう。

「ええっと?」

「何か考え事をしているようだったが、何かおかしなことがあったら教えてほしい。何を悩んでいたのだろうか?」

 紗理奈が何かに悩んでいると思ったようだ。

「それはですね、ちょっと考えていまして……そのう、今日、私は寝坊しちゃったじゃないですか?」

「確かにそうだな」

「だから、一緒に暮らし始めたら、二人して寝坊しそうで心配ですね、なんて……」

 すると、近江がふいっと顔を背けた。

(やっぱり二人して寝坊するのは嫌だった?)

 紗理奈が戸惑っていると、近江がポツリと呟いた。

「君が一緒に暮らすのに前向きで良かった」

 こちらから覗く近江の肌は真っ赤で、かなり恥ずかしがっていることに気付いてしまった。年上男性のそんな姿を見ていると、紗理奈まで恥ずかしくなってきてしまう。
 無表情な近江の可愛い姿を目の当たりにしてしまい、紗理奈の胸がきゅんと疼いた。

(相手が美形だからって、現金よ、紗理奈)

 紗理奈が掌をヒラヒラさせて、火照った頬を覚ますことにする。
 すると……

「あとは一つだけ頼みがある」

 近江の声がなんとなくか細い。

「どうしましたか?」

 だがしかし、なかなか返事がない。
 紗理奈が業を煮やしかけていると……

「良ければ、着替えてもらえないだろうか?」

 突然、近江から着替えを促されて面食らってしまう。
 さっさと引っ越しに取り掛かりたいということだろうか?
 それにしたって、どうしてだか近江がこちらを振り向いてくれない。

「近江さん?」

「パジャマの、胸元」

 そこから、近江の声はどんどん小さくなっていく。
 胸元と言われたので、紗理奈は自身の胸元を覗く。

「……っ!」

 パジャマの胸元がはだけたままだったことに気付いてしまう。
 羞恥に耐えられず、紗理奈は声にならない声を上げたのだった。


 紗理奈は、近江のマンションへと引っ越しすることになった。
 先日は気になっていなかったが、「近江グループ」が建設したと記載されていた。

(近江って名字、関西の方が多いって勝手に思い込んでたけれど、関東にも多いのね)

 紗理奈が準備した段ボールも数箱だったので、近江が全て運んでくれた。
 宛がわれた部屋はフローリングの十畳ぐらいの広い部屋だった。
 マンション内の説明をされたが、まるでモデルルームそのままのように綺麗だった。

「自由に使ってほしい」

「ありがとうございます」

 男性とルームシェアだなんて初めてでドキドキしてしまう。
 紗理奈は自室に戻ると、段ボールの荷解きを始めた。
 必要最低限、大事なものだけ持って来た。

「ふう、なんだかホテルに住むみたいね」

 とりあえずスマホの時計を見ると、そろそろ昼だ。
 料理は苦手だが、兄と一緒に暮らしてきた経緯があるため、簡単なものなら作れる。

「せっかくだから、何か作ろうか聞きに行こうかしら」

 真新しい扉を開けて廊下へと出る。

「そういえば、近江さんはどこに行ったのかしら?」

 リビングからテレビの音が聞こえる。
 紗理奈はそっと足を踏み入れた。
 すると、黒革のソファの上に寝転がっている人影が見える。

「近江さ……」

 紗理奈は声を掛けようとしたが口を噤んだ。
 近江が寝息を立てて眠っていたからだ。

(昨日は飲み会だって話していたし、朝方近くまで飲んでいたって話していたから、寝せておきましょう)

 それにしたって彫像か何かのように整った顔立ちをしている。
 サラリとした黒髪なんかはモデルもかくやだ。

(ちょっとだけ黒豹とか黒猫みたいな感じがする男の人)

 警察官としてキリリとしているところは黒豹のようだが、純真な少年のような時には黒猫のような印象がある男性だ。
 近江からは好きにして良いと言われているので、システムキッチンへと足を運ぶ。
 料理をすると話していた通り、料理道具には使用した形跡があるが、ほとんどマンションに帰って来ないのだろう。新品同様だった。
 調味料やスパイスなんかも色々と揃えられている。結構料理をするタイプのようだ。もしくは形から入るタイプ。

(近江さんの性格的に、形だけではなさそうよね)

 生真面目にスケールなんかで分量を量って調理していそうだ。
 ちゃんと米櫃も準備されていて、湿気のない暗所に保管されていた。
 一人暮らしには不釣合いなほど大きな冷蔵庫を開く。一人分だからだろう。ところどころに食材が置いてあった。

「これだけ食材があれば、ちょうど良いわね」

 紗理奈はそこでハタと気づく。

(かなり几帳面な性格だから、作る料理を決めて食材を購入してそう。だったら、勝手に何か作ったら怒られるかしら?)

 少々心配になったが、牛乳の消費期限は今日までのようだし、野菜だってしなびる前に使ってやった方が良い。
 紗理奈は怒られるのを覚悟で、料理に挑むことにした。
 自室から愛用のオレンジにデイジー柄が躍るエプロンを身に着け、緩やかな茶髪を黒いリボンでポニーテールに結ぶ。賞味期限が切れそうな調味料なんかも荷物に入れておいて良かったと思う。

「よいしょっと」

 フライパンと菜箸を準備するとバターを熱しはじめる。一口大に切った鶏もも肉と米を投入して炒めた。しばらく経ってから、持参の白ワインを加えて、アルコール分を飛ばした後、水を入れて煮込んだ。数分経った頃に、牛乳とキャベツを入れて、しばらく煮込む。

「スパイスがちゃんと揃っているわね」

 紗理奈は調味料は目分量で入れるタイプだ。水気が飛んできた頃に、粉チーズと塩コショウをささっと入れて味を調えた。

「よし、完成ね」

 ありあわせの食材でリゾットを完成させた。
 ほくほくと湯気がって、ミルクとコショウの香りが美味しそうだ。
 白い皿が二枚あったので、そちらに中身を移す。
 黒いトレーがあったので、皿を乗せて、ダイニングにあるブラウンの机の上に並べ始めた。
 ちょうど、その時。

「甘くて良い香りがするな」

 近江が目を覚まし、むくりと身体を起こした。

「ごめんなさい、起こしてしまいましたね。後は、勝手にキッチンを借りてしまいました」

「いいや、こちらこそ料理を準備してもらえるとは、感謝する」

 近江が立ち上がるとテーブルへと近づいてくる。黒いスーツのジャケットは脱いでしまっている。白いワイシャツ姿だが、ネクタイは留めておらず、第二ボタンまで開けているので、骨ばった鎖骨が覗いている。やや中性的ともとれる顔立ちの男性だが、こう見ると男性的だ。
 優雅な所作で椅子を引いて着席すると、両手を合わせた。

「いただかせてもらおう。ああ、リゾットか、懐かしい」

「懐かしい、ですか?」

「そうだ」

 近江はそれ以上は何も告げなかった。

「お口に合えば良いですが」

「俺はどんな料理でも食べるから気にしなくて良い」

 そう言われると紗理奈としても少々癪だった。
 近江が銀のスプーンを手に取り、リゾットを掬うと口へと運ぶ。しばらく口の中で咀嚼した後、ゆっくりと嚥下する。細身だが喉仏がしっかり太くて、上下する様がなんとなく妖艶だった。
 そうして、彼は匙を持ったまま口を開く。

「うまいな」

 近江が柔和な笑みを浮かべた。
 一言だけだったが、心の奥底から満足しているような表情だった。

「どういたしまして」

 トクン。
 紗理奈の心臓が跳ね上がった。
 心なしか頬が朱に染まる。

「どうした?」

 彼女の異変に気付いたのか、近江が真顔で問いかけてきた。

「いいえ、兄に褒められて以来、誰かに褒められたのは久しぶりだなと思って」

「そうか」

 それだけ言うと、近江は伏し目がちになりながら、次の一口を掬って口に運んでいく。
 彼を見習って、紗理奈もリゾットを食べ始めた。
 ふっくらしたご飯が、ほくほくと口の中で踊る。ミルクの甘みが口の中に広がっていくと同時に、コショウが舌先で弾けてスパイシーな香りが鼻腔を通っていく。

(我ながら美味しくできているわね)

 母が兄に習ったという堂本家伝統のリゾットだ。
 なんだか人恋しい時になんかよく作っていた。

「ごちそうさま」

 全てを食べ終えた近江が両手を合わせて「ごちそうさま」と口にした後、紗理奈に向かって話し掛けてくる。

「とても美味だった。俺もこんな風に誰かの手料理を食べたのは、数年ぶりだった。感謝する」

 表情がほとんど変わらない近江から感謝の念を告げられると、紗理奈としても悪い気はしなかった。

「どうしたしまして」

 それからしばらく二人とも喋らなかった。
 昼のバラエティ番組のにぎやかな音声が室内に響く。

「ごちそうさまです」

 紗理奈が全てを食べ干して両手を合わせる。
 すると、近江が話し掛けてきた。

「料理は兄に習ったのか?」

「ええ、そうですね。私が小学生の時に母が亡くなったので」

「そうか。先ほどのリゾットは兄直伝というわけだな」

「はい、そうなんです。お兄ちゃん、コショウをたくさん入れたがるから、小さい頃はよく喧嘩になっていました」

 すると、近江がふっと口元を綻ばせた。

「そうか」

 彼の表情は、どこか過去を懐かしむようなものに見えた。
 ふと、近江が兄と年が近いことに思い至る。

「そういえば、近江さんはおいくつになられるんですか?」

「今年、三十を迎える予定だ」

「三十歳になるんですね」

 兄も生きていたら、それぐらいの年になる。もしかすると、警察学校の同期だったりしないだろうか?

「そういえば、近江さん、同期の警察に――」

 その時。
 テレビのバラエティ番組が終わり、ニュースに切り替わった。
 女性アナウンサーが流暢な報道をおこなう。

「警視庁が先日の暴力団組員鼠川組組長及び組員幹部を捕縛したとの報道を受け、明後日月曜日に近江警視総監が取材を受けることになっております」

 紗理奈は目を見開いた。

「そう言われれば、警視庁警視総監の名字も近江」

 たまたまだろうか?
 今日はやけに近江の名を目にする気がしていた。

「もしかして、近江という名字は関東に多いんですか?」

「多くはないな」

「だったら、さっきの近江警視総監は近江さんの親戚だったりして? あと、このマンションを建設したグループの近江グループも親戚だったり?」

 紗理奈が何気なく尋ねたところ、思いがけない返答があった。

「そうだ」

「え……!」

 なんとはなしに返事があったので、紗理奈は目を剥いた。

「このマンションを手掛けている近江グループは俺の祖父が会長を勤めているグループだ」

「近江さんは、近江グループの御曹司!?」

「その言い方はあまり好きではないがな。それと、警視総監の近江は、俺の父だ」

「ええっ……!?」

 近江はエリート中のエリート警視正だったのだ。

「父は仕事人間で、幼少期から関わりはあまりないがな」

「そうなんですね」

「そうだ。新聞記者やジャーナリストを名乗るのならば、それぐらいは調べておいた方が良い」

 先ほどまで穏やかな雰囲気だった近江だったが、今は少しだけピリピリした雰囲気を醸しているようだった。

(あまり触れてはいけない話題だったかも)

 紗理奈だってそうだが、家族の話題はかなりセンシティブだ。
 近江が席から立ち上がる。

「あの、機嫌を損ねてしまったのなら、ごめんなさい」

 慌てて声をかけると、近江がキョトンとしていた。

「何の話だ? 俺は皿を洗おうとしているだけだが」

「え? ああ、ごめんなさい、そうだったんですね。だったら一緒に洗いましょう」

 近江が二人分の皿を重ねたので、紗理奈はスプーンを二人分手に取った。
 近江が流しの前に立つと、白シャツの袖を捲くって筋張った腕が露わになった。慣れた手つきで洗剤をつけたスポンジで皿を洗いはじめた。普段から洗い慣れているのだろう所作だ。

「食器洗浄機もあるが、手洗いの方が好きでな」

「そうなんですね。ふきんを借りますね」

 彼が洗った食器を手に取ると、彼女は清潔な布巾で水分を拭き取る。
 近江がペーパータオルで手を拭きながら口を開いた。

「先ほどのリゾット、隠し味に白ワインが入っていたようだったな」

「そうでしたが、あまりお好みじゃなかったでしょうか?」

「いや、俺はどちらかというと和風の料理をすることが多くてな。自宅マンションから持ってきていたのか?」

「ええ、そうですよ。近江さんは、和食が作れるんですね」

「といっても、レシピ本なんかを眺めて作る方だし、みそ汁や肉じゃがなんかの簡単なものしか作れない」

 なんとなく紗理奈の中で想像がついた。

(近江さん、男性だけど割烹着とか似合いそう)

 どことなく古風な印象がある。

「きっちりされているんですね」

「ああ、そういう見方もできるな。今日の礼として、明日の朝食は俺が作ろう」

「ありがとうございます」

「いいや、これからよろしく頼む、堂本紗理奈」

 近江がまた穏やかに微笑んだ。

(これからまた誰かと一緒に暮らして、料理を食べてもらえる)

 紗理奈は兄が死んで以来、天涯孤独だった。
 友人が出来て旅行なんかに一緒に出掛けたりしたが、食事を食べさせるのは本当に久しぶりだった。

(大嫌いな警察だけど……)

 近江になら料理を提供しても良い。

(そういえば、近江さんならお兄ちゃんの友達だった警察官のことを知っているかもしれない)

 今度機会があれば尋ねてみよう。
 こうして――近江と紗理奈の期間限定の同棲生活が幕を開けたのだった。



 近江と紗理奈の同棲生活が始まって二週間近くが経った。
 つまるところ、在宅ワークが始まって早一か月近い月日が経ったということになる。

「ああああ、新聞記者なんて身体張って外に出てなんぼだってのに! 身体がなまって仕方がない! 筋トレじゃなくて、もっと身体を動かしたい! 家だけで仕事とか向いてない!」

 もちろん良い記事を書くために読書をしたり執筆したりするのは大好きだ。だけど、閉鎖的な空間でずっと過ごすのには向いていないと言えよう。

「警察の人たちも身体を鍛えているから、ランニングにでも誘ってみようかしら?」

 とは思うが、いくら私服とは言え警察官たちと毎日仲良くしていたら、脅迫状を送ってきた犯人から怪しまれてしまうに違いない。
 とはいえ、ランニングや水泳などをしている姿を、他人に凝視されるのは好ましくない。

「そうこうしていたら、もうすっかり夜ね」

 家に引きこもりがちだからか、だんだんと時間の推移に乏しくなってきている。
 紗理奈はとりあえず気分転換のために、部屋の窓を開けた。高層ビルだから転落予防のために全開にすることはできない。地上近くに比べたら、だいぶ空気が薄い気もするが、排気ガスが届かないので、新鮮だといえよう。
 深呼吸をして心を落ち着ける。
 夜の澄んだ空気を肺いっぱいに取り込むと、ささくれ立った心が次第に落ち着いてくる。

「せっかくだから、自宅でヨガでもしようかしら?」

 引っ越しの際にヨガ用のマットも一緒に持ってきていたはずだ。マットでも探そうかと、段ボールを置いてあるクローゼットへと足を運んだところ……

 ガチャリ。

「今帰った」

 近江が帰宅したのだった。

(近江さん、今日は早い!)

 ここ数日、近江は残業がほとんどで家に不在なことが多かった。だから、今日もそうだと思い込んでいたようだ。
 紗理奈は近江を出迎えるために玄関へと向かう。

「近江さん、おかえりなさい」

「ああ、ただいま」

 近江は、いわゆるポーカーフェイスなので、表情が分かりづらいが、なんだか今日は少しだけ疲れているように見えた。

「先にお風呂に行かれますか?」

「ああ、そうするつもりだ」

 近江がスーツのジャケットのボタンを外した後、長い指で赤いネクタイをシュルリと解いた。骨ばった鎖骨が視界に入って、紗理奈の心臓がドキンと跳ねる。

「私はもうお風呂には入っているので、近江さんの分も一緒に料理を作りますね」

「助かる」

 そんなやりとりをしていると……

「新婚夫婦にでもなったみたいで、なんだか気恥ずかしいですね」

 紗理奈が思ったことを喜々として語るが、近江からの返事はない。

(ただの期間限定の恋人同士なのに、さすがに調子に乗り過ぎたのかも)

 近江はと言えば……どうしてだか、大きな片手で顔面を覆っていた。合間から覗く肌は真っ赤だ。
 そんな彼の様子を見ていたら、紗理奈まで赤面してしまうではないか。

(年上の男の人のはずなのに、近江さん、どうしてこんなに純情なの……!?)

 二人でしばらく慌てていたが、近江が咳ばらいをした。

「すまない、それでは先に風呂に入らせてもらう」

 そうして、彼は浴室へと向かって行った。
 紗理奈は台所へと向かう。春先なので、ネットスーパーで新じゃがと菜の花が頼んであったはずだ。冷蔵庫の食材を確認すると調理をはじめる。
 しばらくすると、風呂上がりの近江が、タオルで黒髪を拭きながら姿を現した。

「うまそうな香りがするな」

「そうでしょう? 完成したので、どうぞお座りくださいな」

 紗理奈はテーブルの上に、出来た料理を並べる。
 今日は、肉じゃが、菜の花と豆腐の味噌汁、菜の花と新じゃがのマッシュポテトを作った。紗理奈本人としては、菜の花の緑がフレッシュな献立に仕上がったと思う。
 椅子に座った近江が手を合わせる。

「すまない、いただこう」

「私も食べます、いただきます」

 二人で黙々と食事する。旬の食材を使った料理は、自家製でも絶品だ。
 全てを咀嚼し終わった近江が、「ごちそうさま」と箸を置いた後に、紗理奈に話し掛けてくる。

「君は、見た目は派手だがかなり家庭的なようだな。俺も簡単な和食を作るが、今日は旬の野菜をふんだんに作った品ばかりだった」

「ありがとうございます。貧乏性で、旬の食材の方が安上がりで済みますから、知っているだけなんですよ」

 紗理奈も食事をし終わったので、箸をそっとテーブルの上に置いた。
 真っ向から誰かを褒めるのには慣れているが、褒められるのには慣れていない。
 紗理奈は、なんだか胸がムズムズしてしまう。
 近江は、元々食に関心が薄い性質なのか、何も食べずに帰ってくることがあった。紗理奈は心配して夜食を作ってあげることにしたのだが、毎食こんな感じで褒めてくるものだから、なんだか調子に乗ってしまいそうだ。
 近江が淡々と告げてくる。

「もしも新聞記者の仕事以外で働くのだとしたら、料理を誰かに振舞うのも悪くなさそうだな」

「レストランなんかの経営は私の大雑把な性格だと厳しいと思うんですよね、せっかくだから、誰かの家政婦さんになったりとか? あ、意外と奥さんにも向いてるかな? ……なんて」

 紗理奈が笑いながら返すと、近江が頬を朱に染めながら返事をしてきた。

「その通りだ……誰かの伴侶になるのも向いていると思う」

 紗理奈はまたしてもなんだか恥ずかしくなってきてしまった。

(うう、そんな風に照れながら話してこられたら、私まで照れちゃう)

 頬が熱くて堪らない。それを誤魔化すかのように、紗理奈は席を立った。

「昼に退屈だったから、簡単にお菓子を作ったので、そちらをお持ちしますね」

「かたじけない」

 そうして、冷蔵庫に冷やして置いたジャスミンティーゼリーを二人分持ってくる。透明なグラスにジャスミンティーを注いで砂糖とゼラチンを混ぜて固めただけの簡単なデザートだ。その上にホイップクリームとミントの葉を飾っている。

「まさかデザートまで食べられるとはな。こちらもいただこう」

「どうぞ」

 近江が喜々としてゼリーをスプーンで食した。

「これはうまいな」

「近江さんが、お茶は中国茶でも日本茶でも好きそうで良かったです」

 紗理奈が購入しなくとも、近江のキッチンに、元々色んなお茶の葉が置いてあったのだ。そのおかげで、このデザートを作ることが出来たのだ。
 近江が優雅な所作でゼリーを全て食した。表情が淡々として分かりづらいが、少しだけ明るい印象だ。

「苦みと甘みが絶妙なバランスで、つるりとのど越しも良くて、とても美味だった。ありがとう、ごちそうさま」

「いいえ、どういたしまして。近江さん、好きなデザートがあったら教えてくださいね。また作りますから」

 すると、近江からは思いがけない返答があった。

「教えたいのはやまやまだが、教えてやることはできない」

 先ほどの喜ぶような返事とは違った解答だったため、紗理奈はちょっとだけショックを受ける。

(さすがに距離を縮め過ぎたのかも)

 少々反省していると、近江が理由を告げてくれた。

「こんな風に食事に菓子やデザートなどの甘い食べた経験が俺にはあまりない。だからどんなものがあるのか詳しく知らないんだ」

「えっ!?」

 驚きのあまり、紗理奈の声がひっくり返ってしまった。

「近江さん、甘いもの、ほとんど食べたことがないんですか!?」

「ああ、そうだ」

「いったいぜんたいどうして!?」

 すると、近江が静かな語り口調で話しはじめた。

「俺は幼少期に母を亡くしている」

「え? そういえば、父親である近江警視総監とは、幼少期からあまり関りがないと仰っていませんでしたっけ? だったら、ご両親は……」

「二人ともいないようなものだった。父方の祖母が俺の母親代わりを勤めてくれたんだが、武家家系の出身で厳格な女性でな。かなり厳しくしつけられて、『甘いものは人を堕落させる』と言って、菓子類は全て禁じられていたんだ。祖母ももう亡くなってこの世にはいないがな」

「た、確かに、甘いものの誘惑は危険ですけれど……」

 近江を見ていたら、かなりストイックな雰囲気がある。きちんと整理整頓したり、厳格な祖母の教育の賜物なのだろう。

「もしも近江さんのおばあさんが生きていらっしゃって、今の光景を見つかりでもしたら、私はだらしがないって叱られそうですね。私、すっごく甘いものが好きだから」

「だろうな」

 即答されてしまい、紗理奈は内心落ち込んでしまった。

「この数日一緒に過ごして思うが、お前は確かに祖母に比べるとだらしがない」

 ストレートな言葉の数々に、紗理奈の心は抉れていっていたのが……