美菜や千穂の嫌がらせに構っている暇なんてない。
大丈夫。
私なら、やっていける。
傷ついてなんかない。
学校を出て。
家に向かって、下校する。
通学路には、ぽつぽつと同じく下校する生徒の姿があった。
大体の人がまだ部活をしている時間だから、ここにいる人達はきっと部活に所属していない、いわば帰宅部なんだなと思う。
私は、ひとりで歩きながら。
考え事をしていた。
漫画のことを考えようと思うのに、頭に浮かんでくるのは、美菜や千穂の顔。
二年生になって出来た友達で、この春の始業式の日、声をかけてくれた。
ひとりで下校しようとしていたら、美菜と千穂が近寄って来て、
『同じクラスの塚原さんだよね? 一緒に帰ろうよ』
なんて笑顔を見せてくれた。
安心した。
嬉しかった。
思い出して、目に溜まってきた涙を払おうと、ぎゅっとまぶたを閉じた時。
けたたましい音が、すごい勢いで近寄ってきた。
音のほうを反射的に見る。
町のどこでも見かけるような、よくある乗用車が。
もうすぐそこまで来ていた。
歩道の上に車が乗り込んで来て。
運転手と目が合った。
その人は、真っ赤な顔をしている。
(あ、やばっ)
と思ったら、すぐに全身に衝撃的な痛みが走った。
空が近くなり、そして次の瞬間、地面に突っ伏していた。
アスファルトの硬さを体全部で感じながら、はね飛ばされたんだ、と頭のどこかで理解した。
周りにいた人達が悲鳴を上げたり、スマートフォンを耳に当てて、どこかに電話しているようだった。
遠巻きにいる私と同じ中学の生徒が、真っ青な顔で立ちすくんでいるのが見えた。
それもそうか。
私の血が、あたりを真っ赤に染めていて。
体も小刻みに震えているんだもん。
(死ぬのかな)
まだ死にたくない。
漫画、描きたい。
ちゃんと完成させて、投稿作品でデビュー賞を貰うんだ。
担当さんからの連絡だって欲しい。
「おめでとう」って言われたい。
そうだよ。
きっと私、デビューするんだから。
だから、死にたくない……。
それから。
どれだけの時間が経ったんだろう?
ふと、気がついて。
ぼんやりと目を開けた。
最初に視界に飛び込んできたのは、いつもと違う天井だった。
(白い天井?)
私の住むアパートの天井は、木目の模様がオバケに見える天井だから。
こんなに白い天井なはずがない。
起き上がろうとした。
そしたら全身に痛みが走って。
(起き上がれない!?)
はっきり目を開ける。
まぶたにヒリヒリした痛みが走った。
(あれ?)
私って、どうしていたんだっけ?
確か、下校していたはず。
漫画のことを考えていて。
そうだ、プロットをネームに起こすんだった。
家に帰らなくちゃ。
ここから帰って、ネームの作業をしたい。
だけど。
体が動かない。
頑張っても、痛みが強く、体に力が入らない。
私はキョロキョロとあたりを見渡そうとした。
「!?」
首が思うように動かない。
固定されているらしく、可動域が狭い。
狭いっていうか、ない、って言ったほうが正しいかも。
左右を見ることをとりあえず諦めて。
足元のほうを見てみた。
かろうじて見えた、脚。
「!?」
(これって……、ギプス? 読んだことのある漫画で骨折したキャラが、よくこんな格好してたっけ?)
右脚がギプスで固定されている。
それを見て、だんだん思い出してきた。
(私……、車にはねられたんだ)
そうだ、下校の途中で。
交通事故に遭ったんだ。
手を動かして、脚を触ろうと思ったけれど、それが叶わなかった。
私の右腕にもギプスがあって。
固定されている。
「!?」
ちょっと待って。
右腕が。
使えないってこと?
病室のドアが開く音がした。
誰かの足音が近づいてくる。
「千冬! 目が覚めた!?」
お母さんの声だった。
ベッドのそばに来て、
「可哀想に。わかる? 千冬、もう大丈夫だからね。今、先生を呼んでくるからね」
と、私の顔を覗きこんで言った。
「……じゃない」
「え?」
どこかに行こうとしていたお母さんが、私のか細く、掠れた声を聞いて、足を止めた。
「大丈夫じゃないよ」
掠れた声で、でものどに力をこめて、私は話す。
お母さんを見つめる目が、自分でもわかるくらいにきついものになっていた。
「事故に遭ったこと、覚えている? 大変だったけれど、命に別状はないって!! だから、千冬、安心して大丈夫なんだからね!?」
お母さんは涙目で、睨む私の瞳を優しく見つめ返す。
私の目から涙が流れる。
「右腕、これ、どうなってんの? 骨折してんの?」
「そうだよ。右の手首が骨折してる。でもあんた、骨折で済んだんだから! 命は助かったんだよ!! 不幸中の幸いだよ!!」
「何言ってんの!?」
ポロポロ流れていく涙が、頬に染みて痛い。
きっと顔にも傷があるんだと思った。
「右手は利き手なんだよ!? こんな、骨折なんかしてたら、漫画描けないじゃん!! ペンなんか持てないじゃん!!」
「……千冬」
「どうしよう、来月末日が締切なのに……。骨折なんかして……」
「何言ってんの!! 命が助かっただけでも奇跡みたいなものなんだよ!?」
「命が助かっても!! ペンが持てなくちゃ意味なんかないんだよ!!」
私は泣き叫ぶ。
お母さんは信じられない、という表情をして、
「……いい機会じゃない。そんなに追い詰められるなら、漫画を描くことなんかやめなさい」
と、厳しい声を出した。
「はぁ!? 信じらんない!! 何言ってんの!?」
「お母さんは間違ったことは言ってない」
「何それ!! よくそんなこと言えるよね!?」
病室のドアがまた開いた。
スリッパのような、床を擦って歩く足音が近づいてくる。
「すみません、他の患者さんもいらっしゃるので、お静かに願います」
声の主が、私の顔を覗きこんだ。
多分40代半ばくらいの、男性だった。
白衣を着ていて、聴診器を首にかけてぶら下げている。
医師なんだろうな、と思った。
お母さんが、
「先生、千冬が目を覚ましましたっ」
と、報告している。
「お名前、言えますか? 氏名を教えてください」
医師らしい男性は事務的な声で言い、そのことが私を更にイラつかせる。
「塚原 千冬!! もういいでしょう? 帰りたいんですよ!!」
「塚原さん、僕は外科の宮川です。あなたはしばらく帰ることは出来ません」
「千冬、足も手も骨折してるんだよ。体中怪我だってしてるし、無理言わないの」
「お母さんは黙っていてよ!!」
イライラした。
帰りたい。
漫画、描かないといけないし。
ふと気づいて、
「……今日って何日?」
とふたりに尋ねる。
「15日だよ。千冬が事故に遭って、2日経ったの」
そう答えたお母さんに、
「15日!?」
と聞き返す。
「2日も無駄にした!! 2日も!!」
絶望感しかない。
2日あれば、かなりネーム作業は進んだはずなのに。
何にも出来ていないネームを、あと5日で納得のいく状態まで持っていかなくちゃいけない。
そうじゃないと、来月末日までに間に合わない。
「何かあるんですか?」
と、宮川先生がお母さんに尋ねる。
お母さんが宮川先生に説明をし始めた。
それを聞きながら、涙が止まらなくなった。
……わかっている。
こんなの八つ当たりだって。
今すぐ家に帰るなんて無理だってことも。
漫画を描くことが無理だってことも。
だけど。
私は。
諦めたくなくて。
起き上がることすら出来ない。
ペンだって持てない。
それでも。
戦いたかった。
B 4サイズの原稿用紙に。
向かい合いたくて。
仕方がなかった。
全身打撲に加えて、右脚が単純骨折。
右手首は、粉砕骨折。
体や顔にたくさん傷があった。
骨折治療として、手術もしなくちゃいけない状態で……。
とにかく大変な春を終えた。