いつまでも、夢見せる王子じゃいられない

 軽音部室に入ると、辻村先生と樹里のギター談義が続いていた。

「いやいや、先生、それはねぇ、歪みの深さが違うんよ」
「お前な、オーバードライブとディストーションの違いくらい、いい加減分かってるだろ」
「分かってるっつーの! でも、こっちのアンプ通すとさ……」
 相変わらず、ギターの話になると先生も本気になるんだな。

 真琴は、そんなやり取りを微笑ましく思いながら、部室の奥に進んだ。
 その気配に気づいた辻村先生が、ふと顔を上げる。

 先生は、真琴の顔をじっと見たあと、ニヤリと口角を上げた。
「なんか、最近表情が柔らかくなったな。」
 真琴は、一瞬驚いたように目を瞬かせる。
「え?」
「いや、ちょっと前まではどこか力が入りすぎてたが……今のお前は、なんつーか、肩の力が抜けてる感じだな」
……先生、そんなとこまで見てたのか。
 気づかれるとは思っていなかった。
 でも、そう言われてみれば、確かに最近は "力まない自分" でいられるようになった。

 真琴は、自然と微笑みながら答えた。
「王子様は、ステージだけにしたんです」
 その言葉に、先生は少し目を細め、ギターの弦を軽く弾いた。
「……それは ‘卒業’ じゃなくて ‘兼業’ だな」
 先生は、意味ありげに笑う。
「まぁ、そっちの方がらしいかもな」
その言葉に、真琴はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
「兼業王子様、いいねぇ」
横から樹里がちゃちゃを入れる。
「ま、ウチらは協力するだけだけどね」
「ありがと」
 短くそう答えたが、その言葉には心の底からの感謝 がこもっていた。

   ◇◇

「それにしてもさ」
 樹里がギターのネックを軽く指でなぞりながら、ふと話題を変えた。
「まだ噂になってるぜ、真琴の男の話」
「……やっぱ、広まってるか」
「そりゃな。アイドルに熱狂するファン心理と同じっしょ」
 樹里は肩をすくめる。
「"王子様の真琴" は ‘みんなのもの’ だと思ってるやつがいるんよ」
「……そうかもしれない」

 真琴は、再燃した噂が全然鎮火する気配もないことを知っていた。
「最近おとなしくなったのは、男の影響じゃないか」
「遼さんって人が真琴先輩を変えたんじゃ?」
 そんな憶測が飛び交っていることも。

 しかし、先生は特に表情を変えずにギターをポロンと弾いた。
「まぁ、それくらいのことで、お前がバタバタするとは思えないけどな」
 真琴は目を瞬かせた。
「……気にしないでいいってことですか?」
「気にしないでいいとは言ってない。ただ、お前がどうするか次第だな」

 辻村先生は、弦を押さえて音を止めると、目を細めた。
「誰かに決めてもらわないと自分の道を選べないなら、そりゃダメだ」
「……私は、自分で選びました」
「なら、それでいい」
 それだけ言うと、先生はまたギターを鳴らした。
 その音が、何かを肯定するように聞こえた。
「……決まったよ」
 真琴がそう言うと、部室の空気が一瞬だけ静まった。
「Beat Cellarの推薦で、夏のバンドフェスに出ることになった」
「マジで!?」
 詩音がぱっと顔を輝かせる。
「うわーっ、やばい! 楽しみだぁ!!」
 両手を挙げて飛び跳ねながら、全身で喜びを表現する。
「フェスでライブなんて、最高じゃん!」
「まぁな」

 真琴も、フェスの出演が決まったこと自体は嬉しい。
 自分たちも Beat Cellarでライブをしてきた し、ステージの経験もそれなりにある。
 でも、このフェスは明らかに規模が違う。

 ライブハウスで活躍し、すでに多くの固定ファンを持つバンドばかりが集まる。
 観客の数も、普段のライブとは比べものにならないほど多い。

 しかも、噂はいまだ全然沈静化していない。
 フェスとなれば、桜陽女子高から来る観客の中には、彼女のことを "王子様" ではなく、 "噂の人" として見に来る人もいるかもしれない。

「……正直、どう思う?」
 真琴がぽつりと尋ねると、樹里が即答した。
「なにが?」
「噂のこととか……このフェスのこととか」
 樹里は呆れたように鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「騒ぐやつは騒がせとけばいい。こっちは音で黙らせりゃいいんよ」
 そして、ギターを軽くポロンと鳴らしながら、にやりと笑う。
「いつも通り、最高の演奏すればいい。それだけやろ?」
 彼女の言葉は、どこまでもシンプルで力強い。

 真琴は、その言葉にどこか安心する。
 大事なのは、周りがどう見るかじゃない。自分たちが、どう演奏するか。
 すると、早紀が静かに口を開いた。
「あとは、信じるだけよ」
 その言葉に、真琴が早紀を見た。
「私たちが積み重ねてきた音をね」
 穏やかだけれど、芯の強さを感じさせる声だった。

 詩音が再び楽しそうに笑う。
「大丈夫、大丈夫。フェスでライブなんて、楽しみだぁ!」
 彼女の無邪気な笑顔を見て、真琴の迷いは自然と消えていった。

 このフェスは、"試される場" かもしれない。
 でも、それ以上に "自分たちの音楽を届ける場" なんだ。
「よし、最高のライブしよう」

 真琴の言葉に、バンドメンバー全員が力強くうなずいた。
 真琴は久しぶりにBeat Cellarを訪れた。
 中はまだ営業前で、照明は落とされている。だが、カウンターの奥ではマスターが準備をしていた。

「お、真琴じゃねぇか」
 マスターはグラスを拭きながら、軽く手を挙げた。
「どうした? バンドの準備は順調か?」
「はい。まあ、なんとか……それより、推薦してくれてありがとうございました」
 真琴はカウンターに歩み寄り、頭を下げる。
「マスターのおかげで、フェスに出られることになりました」
「お前らの実力なら、当然だろ」
 マスターは淡々と言いながらも、どこか誇らしげだった。

「でもな——あのフェスはレベルが高いぞ」
 グラスを置き、真琴に目を向ける。
「今までのライブと同じつもりでやると、飲み込まれる。しっかりやれよ」
「……はい」

 フェスに出ることが決まってからずっと、どこか漠然とした緊張感があった。Beat Cellarでのライブは何度も経験している。でも、今回のフェスは規模もレベルもまったく違う。
 自分たちは、本当にあの場で通用するのか——。

「……緊張してんのか?」
 唐突に声をかけられ、真琴は少し驚いた。
 カウンターの奥、テーブルに片肘をついて、雑誌をめくっていた遼がこちらを見ていた。
 彼は特に興味なさそうにページをめくりながら、もう一度言う。
「フェス、楽しみじゃねぇの?」
「……まあ……してるって言ったら、ちょっとはしてるかも」
 真琴は正直に答えた。
「へぇ」
 遼は雑誌を閉じ、軽く背伸びをする。
「お前でも緊張することあるんだな」
「そりゃするよ」
「意外」
 からかうように言うでもなく、ただ淡々とそう言われた。
「でも、やるしかないしね」
 真琴は、いつものように気を引き締めようとした。

 だが、遼はあっさりと言った。
「まあ、お前なら大丈夫だろ」
 その一言に、真琴は言葉を失った。

 マスターにも「しっかりやれよ」と言われたし、バンドのメンバーも気合いを入れていた。
 でも、遼はただ「大丈夫」と言った。
「……なんで?」
 無意識に口をついて出る。
 遼は、少し考えるように視線を泳がせた後、当たり前のように答えた。
「そりゃ、お前の演奏、何度も聞いてるからな」
「……」
「下手なやつなら、最初から推薦されてねぇよ。」
 遼はそう言うと、興味がなさそうにまた雑誌を開く。

 真琴は、ぽかんとしながら、どこか胸の奥が温かくなるのを感じた。
 ……なんでだろう、遼に言われるとすっと落ち着く。

 そんな自分が少し不思議だった。
「ま、フェスではせいぜい暴れてこいよ」
 遼はそう言って、軽く手を振った。

「はいはい」
 真琴は苦笑しながら、カウンターを離れた。背後でマスターが笑うのが聞こえた。

「お前、ほんと口数少ねぇな、遼」
「必要なことしか言わないだけっすよ」

 真琴は扉を開けながら、小さく笑った。
 緊張は消えたわけじゃない。
 でも、少しだけ、軽くなった気がした。
 リハーサルを終えた真琴たちは、一旦ステージを降り、水を飲みながら本番の準備をしていた。
 会場は、すでに盛り上がりを見せているなか、いよいよ桜影の本番ステージが始まる。

 このフェスは今までのライブとは規模も観客の熱気も違う。
 それでも、自分たちはここに立つべきバンドだ。

 指先の力を抜き、肩を落ち着け、意識を整える。
 観客の前に立つときは、"王子様"として最高のパフォーマンスをする。
 大きく深呼吸すると、スイッチが入った。表情を引き締め、堂々とした態度を作る。
 そして、真琴は軽くスティックを回しながら微笑んだ。
「——よし」
 すると、その瞬間だった。

「……そういう顔してるほうが、やっぱり様になるな」
 低く落ち着いた声が耳に届く。振り向くと、遼が立っていた。
「そりゃね。俺はステージでは王子様だから」
 真琴はいつもの余裕を取り戻し、前髪を軽くかきあげた。
「いい王子様っぷりだ。けど——」
 遼はふっと笑い、静かに言った。
「——もっと楽しめよ。"王子様" なら、ファンを夢中にさせるくらいの勢いでな」
 ——ドキッ。
 真琴は一瞬、息を飲んだ。
 ……遼は、王子様の私も、ちゃんと認めてくれる。

"王子様"は、自分が演じる一つの側面でしかない。でも、それすらも「真琴の一部」として受け入れてくれている。
「……もちろん。俺が本気出したら、みんな釘付けにしちゃうぜ?」
 あえて軽い調子で言う。

 遼は「それなら期待してる」と短く答えると、そのまま去っていった。

   ◇◇

 ステージの照明が落ち、会場が一瞬静まる。
 観客のざわめきが広がる中、照明の落ちたステージからスティックを合わせる軽やかな音が響いた。

 ——パシッ。

 次の瞬間、照明が点灯し、中央に据えたドラムの後ろに立つ真琴の姿が浮かび上がる。
「——待たせたな」
 低く響くその声に、観客が一斉にどよめいた。
「桜影、ここに参上!」
 真琴は堂々とした笑みを浮かべ、スティックを掲げた。

「今日は最高に楽しんでいけよ!」
 ——「キャーー!!」
 歓声が一斉に沸き起こる。
 まさに"王子様"。その立ち姿、仕草、堂々たる佇まいに、観客の目は完全に釘付けだった。

 1曲目は、アップテンポのロックナンバー
「1曲目、ぶちかましていくぞ!」
 カウントと同時に、早紀のベースと真琴のドラムが疾走感のあるビートを刻む。
 そのリズムに乗るように、樹里のギターが勢いよく鳴り響き、詩音のボーカルが一気に観客を引き込む。
 観客のボルテージが一気に上がるのを感じながら、真琴は冷静にビートを刻む。
 ——悪くない。
 セットリストの中でも、最も勢いのあるナンバー。
 観客は自然と手を上げ、リズムに乗り始める。
 大歓声がステージを包み込む。

 勢いそのままに、次の曲へ。エモーショナルなロックバラードだ。この曲では、詩音のボーカルの魅力が最大限に発揮される。
 詩音の透き通った声が、静かに空間を染めていく。
 詩音の歌を、一番いい形で届けよう。真琴は、早紀と息を合わせながら、楽曲の抑揚をしっかりとコントロールする。
 観客は静かになり、その音楽に聞き入っていた。

 最後は、激しいロックナンバー。
「ラスト、全力でぶっ飛ばしていくぞ!!」
 真琴の力強い叫びとともに、最後の楽曲がスタート。
「——キャー!!!」
 観客が歓声をあげる。

 早紀はどんなに樹里と詩音が暴れても、冷静に正確なリズムを刻み続ける。
 それがあるからこそ、樹里はギターソロで存分に暴れ回るし、詩音もアドリブを入れながら最高のボーカルを届ける。
「——っしゃああ!!!」
 ここからドラムの見せ場だ。真琴は、スティックを高く掲げ、スネアとバスドラを交互に叩きながら"魅せる"ドラムソロを炸裂させる。激しいスティックさばきに、観客は息を呑む。
「……ヤバい、カッコよすぎる……!」

 ——そして、最後の一撃。
 真琴が全身を使ってスネアを炸裂させると同時に、全楽器がぴたりと止まる。
 ——静寂。
 一瞬の間があった後、観客から大歓声と拍手が巻き起こった。

「ありがとうございました!!」
 詩音が叫び、真琴もマイクを取り、堂々と微笑む。
「また会おうぜ!!」

——ライブ終了。

 だが、観客の興奮はまだ冷めやらず、拍手と歓声が鳴り止まない。
 桜影のステージは、確実にこのフェスの伝説になった。
 照明が落ち、ステージを後にする。
 耳の奥にはまだ観客の歓声が残っていた。

 バックステージに戻ると、詩音が両手を高く上げて叫んだ。
「イエーーーッ!! 楽しかったぁぁ!!」
「客もノリノリだったし!!」
 樹里もギターを抱えたまま興奮を隠しきれない。

「……成功ね」
 早紀が冷静に言うものの、その目には確かな満足が見えた。
 真琴はスティックをクルクルと回しながら、自然と笑みを浮かべる。
「まぁ、悪くなかったな」
 そう言いながらも、全身が心地よい達成感で満たされているのを感じる。

 Beat Cellarでのライブとは違う。
「バンドとしての手応え」 を、初めてこんなにも強く感じた。
「なぁ、次のライブ、すぐにやろうぜ!」
 樹里が勢いよく言う。
「それもありね」
 早紀も珍しく前のめりだ。
「うんうん、またこんなライブやりたいよね!」
 詩音も同意し、メンバーがみな高揚感に包まれる。

 ……もっとやりたい。
 真琴は、改めてそう思った。

   ◇◇

 バックステージの熱が少し落ち着いた頃、遼が控えスペースに現れた。
「……で、お前的にはどうだった?」
 真琴の前に立ち、何気ない口調で尋ねる。
「最高だった」
 即答だった。
 遼は少しだけ目を細める。
「まぁ、お前ならそう言うと思ったよ」
「ふふん、俺のライブ、どうだった?」
 真琴はスティックをくるりと回しながら、わざと王子様スマイルを向ける。
 遼は特に動じることなく、軽く肩をすくめる。
「言うことねぇよ。客は楽しんでたし、お前らも楽しんでた。それがすべてだろ」
 その言葉を聞いた瞬間、真琴の中で何かがふっとほどけた。
 ……やっぱり、遼はそういう人だ。
 ただ、ステージでの真琴も、素の自分も、全部ひっくるめて"お前"だと言ってくれる。
「……そっか」
 ふと、心の中で小さくつぶやいた。
 遼の前では、どんな自分でもいいんだな、と。

   ◇◇
 
「おーい、マコっちゃん! 」
 真琴が振り向くと、バンドメンバーが集まっていた。
「もしかして——桜影の王子様を射止めた年上の彼氏!?」
 詩音がニコニコしながら言う。
「そんなんじゃないよ!」真琴はすぐに反応する。

 樹里は、遼をちらりと見て、口元を軽くゆがめた。
「あー、そういや詩音と早紀は初対面か。こいつがウチの王子様が ‘ちょっと特別扱い’ してる人ね。」
「それはどういう意味かしら?」
 早紀が冷静に尋ねる。
「いや、マスターがやたら推してる ‘優秀な建築オタク’ ってだけ」
「勝手に変な肩書つけるな」
 遼が淡々と突っ込むが、樹里はフフッと笑った。

「へぇ〜、でも、やっぱりちょっと ‘特別な人’ なのは間違いないんじゃない?」
 詩音がからかうように言う。

 バンドメンバーは茶化しながらも、なんとなく察し始めていた。
 フェスの熱気が少し落ち着いた頃、学校が始まった。

 カフェテリアに入ると、すぐに後輩たちの話し声が耳に入る。

「ねえねえ、フェス見た!? 桜影、めちゃくちゃかっこよくなかった!?」
「真琴先輩、ちょっと心配してたけど、王子様も健在だったし、むしろさらにかっこよくなってた……!」
「やっぱり真琴先輩がNo.1だよね!!」

 学校のあちこちで、フェスの話題が上がっている。真琴は自然と笑みを浮かべた。

 ふと、遼の言葉が蘇る。
 ——「もっと楽しめよ。"王子様" なら、ファンを夢中にさせるくらいの勢いでな」
 もう、"王子様"に縛られているわけじゃない。
 "演じなきゃ" じゃなくて、今は"楽しんで王子様をやれる"。

 それに——。
 あのライブで、桜影の"王子様"が変わってしまうのでは、という不安は払しょくできたようだ。
 一部の生徒はまだ動揺しているかもしれない。それでも、真琴は大多数は"変わらない"自分を受け入れているという感触を得ていた。

   ◇◇

 昼休みが始まる頃、部室に向かっていた真琴は、部室から整備を終えて部室から出てきた遼を見かけた。
 軽音部の機材メンテナンスのため、辻村先生が知り合いの「詳しい人」に手伝いを頼んでいると聞いていたが、それがまさか、遼だったとは……。

 真琴と遼は、気づけば校門の外まで一緒に歩いてきていた。
「……で、どうだったの? 機材の調子は」
「悪くない。ただ、長く使うなら手入れがもう少し必要だな」
「ふーん、そっか。……まさか、先生が遼に頼むとは思わなかったよ」
「マスター経由で話が来た」
 遼が肩をすくめる。

「まぁ、お前の学校なんじゃないかって、なんとなく察したけど」
「察したなら、前もって言ってくれよ」
 真琴は呆れたように言いながらも、どこか心地よかった。
 学校の外で会うことはあっても、こうして"こっちの世界"に遼がいるのは、なんか不思議だ。
 ふと、そんなことを思っていた、そのとき——。

「——真琴先輩!!」
 鋭い声が、背後から響いた。
 ……やべ。
 真琴が振り向くと、そこには篠原凜花を先頭にした数名の後輩女子たちが立っていた。

「何してるんですか、こんなところで……!」
「それに、この人……!」
「真琴先輩、お願いです! 私たちのところに戻ってきてください!」

 真琴は小さくため息をついた。
「戻るって……私はどこにも行ってないだろ?」
「違うんです! 私たちの王子様として……ずっといてほしいんです!」
「男の影響で変わるなんて……そんなの、嫌です!!」

 ——まるで言い聞かせるように、後輩たちは一斉に口々に言った。
 ……面倒なことになったな。

 真琴は少しだけ目を伏せる。

 ここで何を言っても、彼女たちの思いは簡単には変わらない。
 遼は隣で腕を組み、静かに様子を見ていた。

 だが、後輩たちの言葉がさらにヒートアップし始めると、彼はゆっくりと口を開いた。

「……フェスは見たろ?」
 後輩たちは、一瞬戸惑ったように顔を見合わせる。
「君たちの ‘王子様’ は、最高だったろ」
 その言葉に、凜花をはじめとする後輩たちは、ぎゅっと唇を噛む。

 確かに、フェスの真琴は圧倒的だった。
 今まで以上に堂々と王子様を演じ、観客を魅了していた。
「だったら、それでいいじゃないか」
 遼は、それだけ言って肩をすくめた。

 真琴は、ゆっくりと後輩たちに向き直った。
「私は、これからもステージでは ‘王子様’ でいるよ」
 その言葉に、後輩たちの顔が明るくなる。

 ——が、その次の言葉で、彼女たちは息をのんだ。
「でも、ステージを降りたら、私は ‘普通の女子高生’ に戻る」
 静かながらも、はっきりとした声。
 後輩たちは、その言葉の意味を理解し、動揺する。

「えっ……?」
「そんな……」
 凜花が、不安げに真琴を見つめる。

「私が ‘桜影の王子様’ であることは変わらない。でも、それは ‘ステージの上’ だけ」
 真琴は、少し笑った。
「だから ‘私生活’ にまで、王子様であることを求められても、応えられないんだ」

 後輩たちは、言葉を失ったまま、視線を落とす。
 遼は、真琴の強い意志を感じ取り、それ以上は何も言わない。
「……そう、ですか」
 凜花が、小さな声で呟く。
「……真琴先輩が、そう決めたなら……」
 ほかの後輩たちも、次々にうなずき、静かにその場を離れていく。
 真琴は、彼女たちの背中を見送りながら、ふっと息を吐いた。

 静かになった校門前。
「……ふぅ」
 真琴は、ため息をつきながら、スティックを回す。
「……ありがとな」
「俺は何もしてない」
「いや、してる。ずっと……支えてくれてる」
 ふっと笑いながら、真琴は遼の顔を見上げた。

 そして、ぽつりと言う。
「だから、私も遼のことが、好き……」

 遼が短く息をのむ。
 しかし、驚いたのは一瞬だけ。
「そりゃ、よかった」
 そう言いながら、遼は真琴の肩をそっと抱いた。

 真琴は、一瞬、戸惑いの表情を見せた。
 けれど、その腕の温かさに包まれた瞬間、ふっと力が抜け、遼に寄りかかった。
 ……私は、この人にずっと支えられていたんだ。

 そっと目を閉じ、遼の腕の中に身を預ける。
 王子様の真琴も、素の真琴も、もうどちらでもいい。
 そのどちらも、ちゃんと"私"だから。

 遼もそれを分かってくれている。
 だから——。これで、いいんだ。
 Beat Cellarの奥の席。
 真琴はコーラを一口飲み、ふと視線を上げた。

「……卒業したら、どうするつもり?」
 向かいに座る遼は、グラスを傾けながら、少しだけ目を細める。
「俺?」
「そう。建築の道に進むのは分かってるけど……具体的には?」
「大学院に進むつもりだよ。今の研究をもっと掘り下げたいし、いずれは独立も考えてる」
「そっか」
 真琴は少しうなずいた。

「それで、真琴は?」
「……」
 答えに詰まる。
「卒業しても、バンドは続けたいって思ってる」
「そうか」
「でも、まだメンバーには話してない」
「どうして?」
「……多分、誰も言い出しにくいんだと思う」

 バンドのメンバーは、普段から何でも話せる関係だ。
 それでも、“卒業後どうするか” という話題だけは、誰も口にしてこなかった。
「……まだ、結論が出てないから、怖いんだよな」
「怖い?」
「もし、みんなが『進学に専念するからバンドは辞める』って言ったら?」
「……なるほど」
 遼は静かにうなずいた。

「真琴は、メンバーがそれぞれの道を選ぶことを尊重してる。でも、本音は、バンドを続けたくて仕方ないってことか」
「……まぁ、そういうこと」
 真琴は苦笑しながら、グラスを持ち上げる。

「話した方がいいんだろうな、早めに」
「そうだな」
 遼はグラスを置き、静かに微笑んだ。

「でも、真琴だけが悩んでるわけじゃないと思うぞ」
「え?」
「メンバーだって、同じこと考えてるはずだ」

 その言葉に、真琴は少し考え込んだ。
 ……みんなも、同じこと考えてる?そうかもしれない。
 けど、それを確かめるのが、まだ怖かった。

   ◇◇

 そのとき、店の入り口でカウベルが鳴った。

「お?」
マスターがカウンターの向こうから声をかける。
「樹里ちゃん、今日はどうした?」
「んー、ちょっと愚痴りに来た」
「親がさ、大学行けってうるさいんよ」
「へぇ……」
マスターはグラスを拭きながら、軽く肩をすくめる。
「でも、そんなこと俺に相談されても何も言えないぞ」
「だから、相談じゃないよ。愚痴りに来たっていったっしょ」

 樹里はぼやきながら、カウンターに腰掛ける。
 ……樹里も進路で悩んでるんだ。

 真琴はグラスを持ち上げながら、樹里の言葉に耳を傾ける。
 そして——。

「そういや、真琴君、来てるよ。奥の席で遼と話してる」
 ……マスター!! 余計なこと言わなくても……!

 真琴が思ったときには、もう遅かった。
 樹里が振り返り、こっちに向かって歩いてくる。

  ◇◇

「おー、なんだ、お前らデート?」
 樹里はニヤリと笑いながら、テーブルに手をついた。
 真琴は、これまでなら「違う」と即座に否定していたが、それも無粋だと思い、今日は少しだけ肩をすくめてみせた。
「そう思うなら、そうなんじゃない?」
「ふーん。否定しないんだ。そんで、何話してたん?」
「……バンドのこれからこと」
「バンド?」
「卒業しても、続けたいって思ってる。でも、みんながどう考えてるか分からないから、まだ話せてなかったって話」

 樹里は腕を組みながら、少し考え込んだ後、口を開いた。
「まあ、ウチは続ける気だけどな」
「え?」
「でも、ウチの親は大学行けってうるさいしなー。正直、どうすっかは決めかねてる。音楽で食っていけたら、それが一番。でも、そんな甘い世界じゃねぇしな」
「……そうだな」
「でも、ひとつ言えるのは、簡単にやめる気はないってこと」
「……」
「つーか、マコっちゃんが続けたいって言うなら、ウチらもちゃんと考えるっしょ」

 真琴は、樹里の言葉に小さく笑った。
 ……遼の言った通りだった。

「じゃあ、そろそろみんなで話すか」
「お、決心ついた?」
「まぁな」
「よし、じゃあ詩音と早紀にも伝えとく!」

 そう言って、樹里はスマホを取り出し、グループチャットを開く。
 真琴は、隣でグラスを傾ける遼を見て、そっと礼を言った。
 ……ありがとう、遼。

 遼は軽く微笑みながら、グラスを軽く持ち上げた。
 練習が終わり、バンドメンバーは部室で軽く談笑していた。

「そういやさー」
 ギターをケースにしまいながら、樹里 が何気なく話を切り出した。
「この前、Beat Cellar 行ったら、真琴と遼がデートしててさぁ」
「……は?」
 詩音が興味津々で顔を上げる。

「マスターも ‘真琴が最近よく来てる’ って言ってたし、こりゃもうガチで付き合ってるなーって」
 ニヤリとしながら話す樹里に、詩音は期待を込めた目を向けたが——
「……別に驚くことじゃないでしょ?」
 早紀 が冷静に返した。

「え?」
 樹里は少し拍子抜けして、真琴を見た。
「いや、お前らも、もっとこう ‘えー!? いつから!?’ みたいな反応ないん?」
「いや、むしろ ‘ようやく’ って感じだよね?」
 詩音が言う。
 樹里はしばらく黙った後、斜め上に視線を投げた。
「確かに、今さら感あるか……。」
「でしょ?」
 詩音がニコリと笑う。

「でもまあ、良かったじゃん、マコっちゃん。公認カップルってことで。」
 真琴は少し照れくさそうにしながらも、特に否定はしない。

「で、チャット投げた話題だけどさ——」
「卒業まであと半年くらいだけど、みんな進路どうするん?」

「早紀は受験でしょ?」
 詩音が早紀を見て言うと、彼女は静かにうなずいた。
「ええ。今までも両立してきたけど、本格的に勉強に集中するから、しばらくバンドは抜けるつもり」
「でも、受験終わったら戻るってことでいいんよね?」
 樹里が確認すると、早紀は迷いなく「もちろん」と返す。

「私にとっても ‘桜影’ は大事だから」
「そっか」
 真琴は少し安心する。

「じゃあ、詩音は?」
「ウチはこのまま音楽続けるよ! 音楽ボランティア続けながら、オーディションも受ける!」
「やっぱそうなるよなー。」

 樹里は笑う。
「そんで、マコっちゃんは?」
 真琴は一瞬、言葉を探したが、しっかりと答えた。
「音楽系の専門学校に進んで、バンドも続ける」
「ほほう?」
 詩音が笑う。
「真琴、音楽でプロ目指す気になった?」
「……それはまだ分かんない。でも、やれるだけやりたい」
「そっか。まあ、真琴らしいな」
「んで、樹里は?」
「ウチ? うーん、大学には行くかなー。でも、バンド辞める気はない」
「じゃあ、みんな ‘桜影’ は続けるってことで決定ね!まあ、受験期間は一旦活動休止ってことになるけどね。」
 詩音の言葉に、全員がうなずいた。

「進路はバラバラになっても、練習とかライブは調整できるでしょ?」
 早紀が言うと、樹里も「確かに」とうなずく。
「バンドって、いつか ‘終わり’ が来るもんだって思ってたけど……」
 真琴は、ふとつぶやく。
「続けられるなら、やれるだけやってみたい。」
「うん!」
 詩音が笑顔で頷いた。
「だって ‘桜影’ はまだ終わらないからね!」
 早紀が力強く言うと、全員が視線を交し合った。
 放課後、真琴、樹里、詩音、早紀 の4人は久しぶりに Beat Cellar へ足を運んだ。

「マスター、ちょっといい?」
 カウンターの向こうでボトルを並べていたマスターが向き直って、4人を見てニヤリと笑った。
「おう、桜影勢じゃねぇか。今日は何の用?」
「……ちょっと、挨拶に来たんだ」
 真琴が言うと、マスターは「お?」と興味深そうに眉を上げる。

「挨拶?」
「うん。高校生活もあと半年くらいだし……次のライブが終わったら、受験のために少し活動を休止しようと思って」
「そっか」
 マスターは軽くうなずいた。

「それで、一旦区切りになるから、今のうちにちゃんとお礼を言っておきたくて」
「ふーん」
 マスターは、4人を見回した。
「ま、しばらくライブできなくなるってのは寂しい話だが……でも、お前らが真面目に進路考えてるなら、それも仕方ねぇな」
「うん」
「で?」

 マスターは腕を組み、ニヤリと笑った。
「次のライブは、トリを任せようと思ってたが、それだけじゃつまらないな」
「それだけじゃつまらない、って?」

 詩音が首をかしげると、マスターはカウンター越しに4人を見回した。
「お前ら、フェスで成功して、今やトップクラスの高校生バンドだ。だったら、‘桜影の夜’ をやらねぇか?」
「…… ‘桜影の夜’?」
「そうだ。お前らがメインの ‘卒業記念ライブ’ だよ。」
「マジで?」
 樹里が思わず声を上げる。
「マジだよ」
 マスターは満足そうにうなずく。
「完全なワンマンってわけにはいかないが、倍の枠を用意する。他のバンドも入れるが、桜影がメインだ」
「……」
 真琴は一瞬、言葉を失った。
「そんなこと、してくれるの?」
「当然だろ」

 マスターはグラスを手に取り、軽く振った。
「お前ら、Beat Cellarの ‘顔’ みてぇな存在になってんだからな」
「……そっか」
 真琴はマスターの言葉を噛み締めるようにうなずいた。

 Beat Cellarは、真琴たちが初めて本格的なライブをした場所。
 ここで何度も演奏し、成長してきた。
 そんな場所で、「高校最後の特別ライブ」 をやれるなんて——。

「……やろう」