いつまでも、夢見せる王子じゃいられない

 ライブを終え、楽屋で軽く息を整えた後、真琴はそのまま打ち上げに残ることにした。

「やっぱり、戻ってきたな」
 店の奥のカウンターに座る遼が、真琴を見て静かに言った。
 まるで、それが当然だったかのように。
 真琴は、一瞬足を止める。
 ……どれくらいぶりだろう、ここに来るの。

 ライブハウス「Beat Cellar」。
 この場所が好きだったのに、真琴はずっと足を遠ざけていた。
 噂を気にして、遼に迷惑がかかることを恐れて――。

 でも、今日はもうそんなことを考えていない。
 真琴は軽く息を吐き、カウンターの隣の席に腰を下ろした。
「……なんだよ、それ」
 冗談めかして言うと、遼は肩をすくめた。
「お前なら、絶対ここに戻ってくるって分かってた」

 さらっと言われたその言葉に、真琴は思わず聞き返す。
「そんなに自信あったの?」
「そりゃな」

 遼は、グラスを軽く傾けながら、当たり前のように続けた。
「思ってた通り、今日のお前、最高だった」
「……え?」
 予想していなかった言葉に、一瞬息をのむ。
 遼は、特に気負うこともなく淡々と言葉を続けた。
「ドラム、すげぇよかった。リズムのキレも、バンドを引っ張る力も」

 氷がグラスの中でカランと音を立てる。
「でも、それ以上に……」
 遼は真琴をじっと見つめる。
「めちゃくちゃ楽しそうだった。迷いがなくなったんだろ?」

 全部見抜かれてる。真琴はギュッと拳を握る。

「私、ちゃんと吹っ切れたよ」
 そう素直に言うと、遼は満足げに微笑んだ。
「そりゃ、いいことだ」

 グラスを軽く持ち上げる仕草が、どこか優しい。
「で、お前、これからもライブやるんだろ?」
「もちろん。"桜影" は、まだまだこれからだよ」
 真琴は迷いなく頷いた。

「……いいね」
 遼は、それ以上何も言わなかった。
 でも、その表情から、「お前らなら大丈夫」と言ってくれているのが分かった。

 真琴は、グラスを取って、一口飲み、カウンターの奥に目をやった。
「ねぇ、マスター」
「ん?」
「なんか、甘いものある?」
「お、来たねぇ。ライブ後の糖分補給?」
「そういうの、必要でしょ?」

 マスターは笑いながら、チョコレートケーキを出してくれた。真琴はフォークを手に取る。
 その様子を、遼は黙って見ていた。

「……何?」
「いや」
「なんか言いたそうじゃん」

 遼は、ふっと小さく笑う。
「いや、やっぱお前はこうじゃないとな、って思っただけ」
 その言葉に、真琴は少しだけ頬を赤らめる。

 でも、不思議と悪い気はしなかった。
 真琴は戻ってきた。
 そして――遼も、ずっとここで待っていてくれた。
 もう、逃げる理由なんてないよな。

 真琴は、そう思いながら、チョコレートケーキをひと口食べた。
 甘さが、いつもより少しだけ心地よく感じた。
 真琴は、軽音部の部室でバンドメンバーの前に立ち、深く息を吸い込んだ。

 ステージでは王子様として振る舞う。
 でも、ステージを降りたら、私は私でいる。
 それを、ようやく自分で選べるようになった。
「私、決めた。ステージでの王子様はやめない。でも、ステージを降りたら、もう演じるのはやめる。自然体に戻るよ」

 静寂が落ちた。
 最初に反応したのは、樹里だった。
「……マコっちゃんがそう決めたんなら、協力するよ」
 口調はいつも通りのサバサバしたものだったが、その言葉には信頼があった。
 ああ、樹里はこういうやつだよな。

 真琴は少し笑って、目を詩音へと向けた。
 詩音は、一瞬驚いたようだったが、すぐに目を閉じ、深くうなずいた。
「……うん」
 ただそれだけだった。でも、それだけで十分だった。
 彼女の表情は、まるで 「伝わった」 と言っているようで、感謝の気持ちがこもっているのが分かった。
 真琴は、一番最初に「ステージと日常を切り分けること」の大切さを示してくれたのは、詩音だったと改めて実感した。

 そして、早紀が静かに口を開いた。
「私たちも、自然に振る舞うことが大事よ」
 彼女の落ち着いた声が、すとんと真琴の胸に落ちた。

 そうだ。私たちが無理をやめれば、周りも自然に変わっていく。

 バンドメンバーは、王子様キャラの真琴も、素の真琴も知っていた。
 だからこそ、特に驚きもせず、"ようやく決めたんだな" という空気だった。

   ◇◇

 その日から、真琴は軽音部内では自然に振る舞うようになった。バンドメンバーとのやり取りは、今までと何も変わらない。
 でも、真琴の中での感覚は少し違っていた。
 今までは、どこか無意識に王子様でいなきゃって思っていた。

 力を抜いて、飾らずに話す。
 ふざけるときはふざけて、疲れたときは素直に「疲れた」と言う。
 そんなやり取りが、バンドメンバーだけでなく、軽音部の空気全体に広がるのには、時間はかからなかった。

「真琴先輩、なんか最近、すごくいい感じですね!」
 ある後輩がそう言ってくれたとき、真琴は「ああ、これでいいんだ」と心の底から思えた。
 そうして、真琴は 「王子様としての私」も「自然体の私」も受け入れながら、前に進む決意を固めた。
 軽音部内では、真琴が自然体でいることに誰も違和感を抱かなくなった。
 バンドメンバーをはじめ、後輩たちも「王子様でいなくても、真琴先輩はかっこいい」と受け入れ始めていた。

 しかし——軽音部の外では、違った。

 ある日の昼休み、廊下を歩いていると、後輩たちのひそひそ話が耳に入った。
「真琴先輩、なんか最近おとなしくなったと思わない?」
「うん。なんか、前みたいにキリッとしてなくない?」
「まさか……男の影響?」

 その言葉に、真琴は思わず足を止めた。
 ……なんだ、それ。
「男の影響?」
「私が変わったのは、遼のせい?」

 真琴が今、自然体でいることは、ただ「無理をしなくなっただけ」のはずだった。
 けれど、王子様キャラを続けてきたせいで、少しでも変化があれば 「何か理由がある」 と捉えられてしまう。
 そうか……私が "自然体" に戻ったことが、逆に "変化" だと思われてるのか。

 まさか、こんな形で"王子様の彼氏問題"が再燃するとは思わなかった。

   ◇◇

 数日後、真琴は校内でさらにざわつきを感じるようになった。
 遠巻きに話している後輩たちの視線を感じる。
 噂が、また広がり始めていた。

「やっぱり男だよね? だって、あのライブハウスの人……」
「遼さんっていうんでしょ? 技術系のすごい大学生で、バンドの機材とか詳しいらしいよ」
「なんでそんな人と知り合いなの?」
「ていうか、真琴先輩って……やっぱり彼氏持ちなの?」

 真琴の中に、じわじわと嫌な感覚が広がった。
 ……またか。

 前にもこんなことがあった。
 後輩たちは、「王子様である真琴」が恋愛することに動揺し、噂を広めた。
 そして今回も、「真琴がおとなしくなったのは、遼の影響だ」 という憶測が独り歩きしている。

「私は、変わったわけじゃない。ただ、無理をしなくなっただけなのに」
でも、周囲の目には、それが 「恋をして変わった」 という風に映ってしまう。

   ◇◇

 その日の放課後、軽音部の部室。
 いつも通りバンドの練習を終え、機材を片付けながら、真琴はぽつりと口を開いた。

「なあ……」
 その声色が少し沈んでいるのに、樹里がすぐ気づいた。
「ん? どした?」
「……噂がまた広がってる」

 その言葉に、詩音と早紀も手を止めた。
「噂?」
「"真琴先輩、最近おとなしくなった" とか、"男の影響じゃないか" とか」
 その言葉に、樹里は思わず苦笑した。
「は? 何それ。なんで男の影響って発想になるん?」
「"王子様が変わるなんて、普通の理由じゃない" って思われてるんだよ」
 真琴は、自嘲気味に笑う。
「私にとっては、ただ"無理をやめただけ"なんだけどな」

 詩音が静かにうなずいた。
「……確かにね。今までずっと王子様だったから、"普通" に戻るのが、みんなにとっては"異変"に見えるのかも」
 早紀が冷静に分析する。
「つまり、"真琴は王子様だからこそ、強くてかっこよかった" って思ってる人がいるってことね」
「そう。でも、それは違うんだ」
 真琴は、拳をぎゅっと握った。

「私は、王子様でいることが強さじゃない。無理をしなくても、私は私のままでかっこよくいられるはずなのに」
 その言葉を聞いて、樹里がニヤッと笑う。
「ほら、それが分かってるなら大丈夫っしょ」
「……え?」
「そいつらが何言おうとさ、ウチらは知ってるし。真琴は真琴のままで、十分かっこいいって」

 真琴は、驚いたように樹里を見る。
 ……そうか。

 バンドメンバーは、何も疑わず、真琴の変化を受け入れてくれた。
 それは 「王子様キャラがあるかないか」は関係なく、真琴自身を見てくれているからだった。

   ◇◇

 その夜、真琴は「Beat Cellar」へ向かった。
 久しぶりに遼と向かい合い、ぽつりと呟く。
「……やっぱり、噂って簡単に広がるんだな」
 遼は、いつものように淡々とグラスを傾けながら答えた。
「また言われてるのか?」
「うん。"真琴は男の影響で変わった" って」
 遼は少しだけ眉を上げたが、特に驚いた様子もなかった。
「それで?」
「……前みたいに、私が王子様を続けてたら、こんなことにならなかったのかなって」

 その言葉に、遼は静かに微笑んだ。
「そう思うなら、戻るか?」
「……いや」
 真琴は、すぐに首を振った。
「私は、もう無理しないって決めたから」

 遼は、少しだけ満足そうに頷いた。
「じゃあ、それでいいんじゃないか」

 そのシンプルな言葉に、真琴は少しだけ肩の力が抜けた。
 ……そうだ。私は、もう戻るつもりなんてないんだ。
 バンドメンバーはすでに受け入れてくれている。軽音部の中でも、自然体でいることが普通になりつつある。

 あとは——軽音部の外の人間にも、それを見せていくだけだ。
 私は、変わったんじゃない。
 私が自分自身に戻っただけ。

 そのことを、堂々と示すために。
 軽音部室に入ると、辻村先生と樹里のギター談義が続いていた。

「いやいや、先生、それはねぇ、歪みの深さが違うんよ」
「お前な、オーバードライブとディストーションの違いくらい、いい加減分かってるだろ」
「分かってるっつーの! でも、こっちのアンプ通すとさ……」
 相変わらず、ギターの話になると先生も本気になるんだな。

 真琴は、そんなやり取りを微笑ましく思いながら、部室の奥に進んだ。
 その気配に気づいた辻村先生が、ふと顔を上げる。

 先生は、真琴の顔をじっと見たあと、ニヤリと口角を上げた。
「なんか、最近表情が柔らかくなったな。」
 真琴は、一瞬驚いたように目を瞬かせる。
「え?」
「いや、ちょっと前まではどこか力が入りすぎてたが……今のお前は、なんつーか、肩の力が抜けてる感じだな」
……先生、そんなとこまで見てたのか。
 気づかれるとは思っていなかった。
 でも、そう言われてみれば、確かに最近は "力まない自分" でいられるようになった。

 真琴は、自然と微笑みながら答えた。
「王子様は、ステージだけにしたんです」
 その言葉に、先生は少し目を細め、ギターの弦を軽く弾いた。
「……それは ‘卒業’ じゃなくて ‘兼業’ だな」
 先生は、意味ありげに笑う。
「まぁ、そっちの方がらしいかもな」
その言葉に、真琴はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
「兼業王子様、いいねぇ」
横から樹里がちゃちゃを入れる。
「ま、ウチらは協力するだけだけどね」
「ありがと」
 短くそう答えたが、その言葉には心の底からの感謝 がこもっていた。

   ◇◇

「それにしてもさ」
 樹里がギターのネックを軽く指でなぞりながら、ふと話題を変えた。
「まだ噂になってるぜ、真琴の男の話」
「……やっぱ、広まってるか」
「そりゃな。アイドルに熱狂するファン心理と同じっしょ」
 樹里は肩をすくめる。
「"王子様の真琴" は ‘みんなのもの’ だと思ってるやつがいるんよ」
「……そうかもしれない」

 真琴は、再燃した噂が全然鎮火する気配もないことを知っていた。
「最近おとなしくなったのは、男の影響じゃないか」
「遼さんって人が真琴先輩を変えたんじゃ?」
 そんな憶測が飛び交っていることも。

 しかし、先生は特に表情を変えずにギターをポロンと弾いた。
「まぁ、それくらいのことで、お前がバタバタするとは思えないけどな」
 真琴は目を瞬かせた。
「……気にしないでいいってことですか?」
「気にしないでいいとは言ってない。ただ、お前がどうするか次第だな」

 辻村先生は、弦を押さえて音を止めると、目を細めた。
「誰かに決めてもらわないと自分の道を選べないなら、そりゃダメだ」
「……私は、自分で選びました」
「なら、それでいい」
 それだけ言うと、先生はまたギターを鳴らした。
 その音が、何かを肯定するように聞こえた。
「……決まったよ」
 真琴がそう言うと、部室の空気が一瞬だけ静まった。
「Beat Cellarの推薦で、夏のバンドフェスに出ることになった」
「マジで!?」
 詩音がぱっと顔を輝かせる。
「うわーっ、やばい! 楽しみだぁ!!」
 両手を挙げて飛び跳ねながら、全身で喜びを表現する。
「フェスでライブなんて、最高じゃん!」
「まぁな」

 真琴も、フェスの出演が決まったこと自体は嬉しい。
 自分たちも Beat Cellarでライブをしてきた し、ステージの経験もそれなりにある。
 でも、このフェスは明らかに規模が違う。

 ライブハウスで活躍し、すでに多くの固定ファンを持つバンドばかりが集まる。
 観客の数も、普段のライブとは比べものにならないほど多い。

 しかも、噂はいまだ全然沈静化していない。
 フェスとなれば、桜陽女子高から来る観客の中には、彼女のことを "王子様" ではなく、 "噂の人" として見に来る人もいるかもしれない。

「……正直、どう思う?」
 真琴がぽつりと尋ねると、樹里が即答した。
「なにが?」
「噂のこととか……このフェスのこととか」
 樹里は呆れたように鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「騒ぐやつは騒がせとけばいい。こっちは音で黙らせりゃいいんよ」
 そして、ギターを軽くポロンと鳴らしながら、にやりと笑う。
「いつも通り、最高の演奏すればいい。それだけやろ?」
 彼女の言葉は、どこまでもシンプルで力強い。

 真琴は、その言葉にどこか安心する。
 大事なのは、周りがどう見るかじゃない。自分たちが、どう演奏するか。
 すると、早紀が静かに口を開いた。
「あとは、信じるだけよ」
 その言葉に、真琴が早紀を見た。
「私たちが積み重ねてきた音をね」
 穏やかだけれど、芯の強さを感じさせる声だった。

 詩音が再び楽しそうに笑う。
「大丈夫、大丈夫。フェスでライブなんて、楽しみだぁ!」
 彼女の無邪気な笑顔を見て、真琴の迷いは自然と消えていった。

 このフェスは、"試される場" かもしれない。
 でも、それ以上に "自分たちの音楽を届ける場" なんだ。
「よし、最高のライブしよう」

 真琴の言葉に、バンドメンバー全員が力強くうなずいた。
 真琴は久しぶりにBeat Cellarを訪れた。
 中はまだ営業前で、照明は落とされている。だが、カウンターの奥ではマスターが準備をしていた。

「お、真琴じゃねぇか」
 マスターはグラスを拭きながら、軽く手を挙げた。
「どうした? バンドの準備は順調か?」
「はい。まあ、なんとか……それより、推薦してくれてありがとうございました」
 真琴はカウンターに歩み寄り、頭を下げる。
「マスターのおかげで、フェスに出られることになりました」
「お前らの実力なら、当然だろ」
 マスターは淡々と言いながらも、どこか誇らしげだった。

「でもな——あのフェスはレベルが高いぞ」
 グラスを置き、真琴に目を向ける。
「今までのライブと同じつもりでやると、飲み込まれる。しっかりやれよ」
「……はい」

 フェスに出ることが決まってからずっと、どこか漠然とした緊張感があった。Beat Cellarでのライブは何度も経験している。でも、今回のフェスは規模もレベルもまったく違う。
 自分たちは、本当にあの場で通用するのか——。

「……緊張してんのか?」
 唐突に声をかけられ、真琴は少し驚いた。
 カウンターの奥、テーブルに片肘をついて、雑誌をめくっていた遼がこちらを見ていた。
 彼は特に興味なさそうにページをめくりながら、もう一度言う。
「フェス、楽しみじゃねぇの?」
「……まあ……してるって言ったら、ちょっとはしてるかも」
 真琴は正直に答えた。
「へぇ」
 遼は雑誌を閉じ、軽く背伸びをする。
「お前でも緊張することあるんだな」
「そりゃするよ」
「意外」
 からかうように言うでもなく、ただ淡々とそう言われた。
「でも、やるしかないしね」
 真琴は、いつものように気を引き締めようとした。

 だが、遼はあっさりと言った。
「まあ、お前なら大丈夫だろ」
 その一言に、真琴は言葉を失った。

 マスターにも「しっかりやれよ」と言われたし、バンドのメンバーも気合いを入れていた。
 でも、遼はただ「大丈夫」と言った。
「……なんで?」
 無意識に口をついて出る。
 遼は、少し考えるように視線を泳がせた後、当たり前のように答えた。
「そりゃ、お前の演奏、何度も聞いてるからな」
「……」
「下手なやつなら、最初から推薦されてねぇよ。」
 遼はそう言うと、興味がなさそうにまた雑誌を開く。

 真琴は、ぽかんとしながら、どこか胸の奥が温かくなるのを感じた。
 ……なんでだろう、遼に言われるとすっと落ち着く。

 そんな自分が少し不思議だった。
「ま、フェスではせいぜい暴れてこいよ」
 遼はそう言って、軽く手を振った。

「はいはい」
 真琴は苦笑しながら、カウンターを離れた。背後でマスターが笑うのが聞こえた。

「お前、ほんと口数少ねぇな、遼」
「必要なことしか言わないだけっすよ」

 真琴は扉を開けながら、小さく笑った。
 緊張は消えたわけじゃない。
 でも、少しだけ、軽くなった気がした。
 リハーサルを終えた真琴たちは、一旦ステージを降り、水を飲みながら本番の準備をしていた。
 会場は、すでに盛り上がりを見せているなか、いよいよ桜影の本番ステージが始まる。

 このフェスは今までのライブとは規模も観客の熱気も違う。
 それでも、自分たちはここに立つべきバンドだ。

 指先の力を抜き、肩を落ち着け、意識を整える。
 観客の前に立つときは、"王子様"として最高のパフォーマンスをする。
 大きく深呼吸すると、スイッチが入った。表情を引き締め、堂々とした態度を作る。
 そして、真琴は軽くスティックを回しながら微笑んだ。
「——よし」
 すると、その瞬間だった。

「……そういう顔してるほうが、やっぱり様になるな」
 低く落ち着いた声が耳に届く。振り向くと、遼が立っていた。
「そりゃね。俺はステージでは王子様だから」
 真琴はいつもの余裕を取り戻し、前髪を軽くかきあげた。
「いい王子様っぷりだ。けど——」
 遼はふっと笑い、静かに言った。
「——もっと楽しめよ。"王子様" なら、ファンを夢中にさせるくらいの勢いでな」
 ——ドキッ。
 真琴は一瞬、息を飲んだ。
 ……遼は、王子様の私も、ちゃんと認めてくれる。

"王子様"は、自分が演じる一つの側面でしかない。でも、それすらも「真琴の一部」として受け入れてくれている。
「……もちろん。俺が本気出したら、みんな釘付けにしちゃうぜ?」
 あえて軽い調子で言う。

 遼は「それなら期待してる」と短く答えると、そのまま去っていった。

   ◇◇

 ステージの照明が落ち、会場が一瞬静まる。
 観客のざわめきが広がる中、照明の落ちたステージからスティックを合わせる軽やかな音が響いた。

 ——パシッ。

 次の瞬間、照明が点灯し、中央に据えたドラムの後ろに立つ真琴の姿が浮かび上がる。
「——待たせたな」
 低く響くその声に、観客が一斉にどよめいた。
「桜影、ここに参上!」
 真琴は堂々とした笑みを浮かべ、スティックを掲げた。

「今日は最高に楽しんでいけよ!」
 ——「キャーー!!」
 歓声が一斉に沸き起こる。
 まさに"王子様"。その立ち姿、仕草、堂々たる佇まいに、観客の目は完全に釘付けだった。

 1曲目は、アップテンポのロックナンバー
「1曲目、ぶちかましていくぞ!」
 カウントと同時に、早紀のベースと真琴のドラムが疾走感のあるビートを刻む。
 そのリズムに乗るように、樹里のギターが勢いよく鳴り響き、詩音のボーカルが一気に観客を引き込む。
 観客のボルテージが一気に上がるのを感じながら、真琴は冷静にビートを刻む。
 ——悪くない。
 セットリストの中でも、最も勢いのあるナンバー。
 観客は自然と手を上げ、リズムに乗り始める。
 大歓声がステージを包み込む。

 勢いそのままに、次の曲へ。エモーショナルなロックバラードだ。この曲では、詩音のボーカルの魅力が最大限に発揮される。
 詩音の透き通った声が、静かに空間を染めていく。
 詩音の歌を、一番いい形で届けよう。真琴は、早紀と息を合わせながら、楽曲の抑揚をしっかりとコントロールする。
 観客は静かになり、その音楽に聞き入っていた。

 最後は、激しいロックナンバー。
「ラスト、全力でぶっ飛ばしていくぞ!!」
 真琴の力強い叫びとともに、最後の楽曲がスタート。
「——キャー!!!」
 観客が歓声をあげる。

 早紀はどんなに樹里と詩音が暴れても、冷静に正確なリズムを刻み続ける。
 それがあるからこそ、樹里はギターソロで存分に暴れ回るし、詩音もアドリブを入れながら最高のボーカルを届ける。
「——っしゃああ!!!」
 ここからドラムの見せ場だ。真琴は、スティックを高く掲げ、スネアとバスドラを交互に叩きながら"魅せる"ドラムソロを炸裂させる。激しいスティックさばきに、観客は息を呑む。
「……ヤバい、カッコよすぎる……!」

 ——そして、最後の一撃。
 真琴が全身を使ってスネアを炸裂させると同時に、全楽器がぴたりと止まる。
 ——静寂。
 一瞬の間があった後、観客から大歓声と拍手が巻き起こった。

「ありがとうございました!!」
 詩音が叫び、真琴もマイクを取り、堂々と微笑む。
「また会おうぜ!!」

——ライブ終了。

 だが、観客の興奮はまだ冷めやらず、拍手と歓声が鳴り止まない。
 桜影のステージは、確実にこのフェスの伝説になった。
 照明が落ち、ステージを後にする。
 耳の奥にはまだ観客の歓声が残っていた。

 バックステージに戻ると、詩音が両手を高く上げて叫んだ。
「イエーーーッ!! 楽しかったぁぁ!!」
「客もノリノリだったし!!」
 樹里もギターを抱えたまま興奮を隠しきれない。

「……成功ね」
 早紀が冷静に言うものの、その目には確かな満足が見えた。
 真琴はスティックをクルクルと回しながら、自然と笑みを浮かべる。
「まぁ、悪くなかったな」
 そう言いながらも、全身が心地よい達成感で満たされているのを感じる。

 Beat Cellarでのライブとは違う。
「バンドとしての手応え」 を、初めてこんなにも強く感じた。
「なぁ、次のライブ、すぐにやろうぜ!」
 樹里が勢いよく言う。
「それもありね」
 早紀も珍しく前のめりだ。
「うんうん、またこんなライブやりたいよね!」
 詩音も同意し、メンバーがみな高揚感に包まれる。

 ……もっとやりたい。
 真琴は、改めてそう思った。

   ◇◇

 バックステージの熱が少し落ち着いた頃、遼が控えスペースに現れた。
「……で、お前的にはどうだった?」
 真琴の前に立ち、何気ない口調で尋ねる。
「最高だった」
 即答だった。
 遼は少しだけ目を細める。
「まぁ、お前ならそう言うと思ったよ」
「ふふん、俺のライブ、どうだった?」
 真琴はスティックをくるりと回しながら、わざと王子様スマイルを向ける。
 遼は特に動じることなく、軽く肩をすくめる。
「言うことねぇよ。客は楽しんでたし、お前らも楽しんでた。それがすべてだろ」
 その言葉を聞いた瞬間、真琴の中で何かがふっとほどけた。
 ……やっぱり、遼はそういう人だ。
 ただ、ステージでの真琴も、素の自分も、全部ひっくるめて"お前"だと言ってくれる。
「……そっか」
 ふと、心の中で小さくつぶやいた。
 遼の前では、どんな自分でもいいんだな、と。

   ◇◇
 
「おーい、マコっちゃん! 」
 真琴が振り向くと、バンドメンバーが集まっていた。
「もしかして——桜影の王子様を射止めた年上の彼氏!?」
 詩音がニコニコしながら言う。
「そんなんじゃないよ!」真琴はすぐに反応する。

 樹里は、遼をちらりと見て、口元を軽くゆがめた。
「あー、そういや詩音と早紀は初対面か。こいつがウチの王子様が ‘ちょっと特別扱い’ してる人ね。」
「それはどういう意味かしら?」
 早紀が冷静に尋ねる。
「いや、マスターがやたら推してる ‘優秀な建築オタク’ ってだけ」
「勝手に変な肩書つけるな」
 遼が淡々と突っ込むが、樹里はフフッと笑った。

「へぇ〜、でも、やっぱりちょっと ‘特別な人’ なのは間違いないんじゃない?」
 詩音がからかうように言う。

 バンドメンバーは茶化しながらも、なんとなく察し始めていた。
 フェスの熱気が少し落ち着いた頃、学校が始まった。

 カフェテリアに入ると、すぐに後輩たちの話し声が耳に入る。

「ねえねえ、フェス見た!? 桜影、めちゃくちゃかっこよくなかった!?」
「真琴先輩、ちょっと心配してたけど、王子様も健在だったし、むしろさらにかっこよくなってた……!」
「やっぱり真琴先輩がNo.1だよね!!」

 学校のあちこちで、フェスの話題が上がっている。真琴は自然と笑みを浮かべた。

 ふと、遼の言葉が蘇る。
 ——「もっと楽しめよ。"王子様" なら、ファンを夢中にさせるくらいの勢いでな」
 もう、"王子様"に縛られているわけじゃない。
 "演じなきゃ" じゃなくて、今は"楽しんで王子様をやれる"。

 それに——。
 あのライブで、桜影の"王子様"が変わってしまうのでは、という不安は払しょくできたようだ。
 一部の生徒はまだ動揺しているかもしれない。それでも、真琴は大多数は"変わらない"自分を受け入れているという感触を得ていた。

   ◇◇

 昼休みが始まる頃、部室に向かっていた真琴は、部室から整備を終えて部室から出てきた遼を見かけた。
 軽音部の機材メンテナンスのため、辻村先生が知り合いの「詳しい人」に手伝いを頼んでいると聞いていたが、それがまさか、遼だったとは……。

 真琴と遼は、気づけば校門の外まで一緒に歩いてきていた。
「……で、どうだったの? 機材の調子は」
「悪くない。ただ、長く使うなら手入れがもう少し必要だな」
「ふーん、そっか。……まさか、先生が遼に頼むとは思わなかったよ」
「マスター経由で話が来た」
 遼が肩をすくめる。

「まぁ、お前の学校なんじゃないかって、なんとなく察したけど」
「察したなら、前もって言ってくれよ」
 真琴は呆れたように言いながらも、どこか心地よかった。
 学校の外で会うことはあっても、こうして"こっちの世界"に遼がいるのは、なんか不思議だ。
 ふと、そんなことを思っていた、そのとき——。

「——真琴先輩!!」
 鋭い声が、背後から響いた。
 ……やべ。
 真琴が振り向くと、そこには篠原凜花を先頭にした数名の後輩女子たちが立っていた。

「何してるんですか、こんなところで……!」
「それに、この人……!」
「真琴先輩、お願いです! 私たちのところに戻ってきてください!」

 真琴は小さくため息をついた。
「戻るって……私はどこにも行ってないだろ?」
「違うんです! 私たちの王子様として……ずっといてほしいんです!」
「男の影響で変わるなんて……そんなの、嫌です!!」

 ——まるで言い聞かせるように、後輩たちは一斉に口々に言った。
 ……面倒なことになったな。

 真琴は少しだけ目を伏せる。

 ここで何を言っても、彼女たちの思いは簡単には変わらない。
 遼は隣で腕を組み、静かに様子を見ていた。

 だが、後輩たちの言葉がさらにヒートアップし始めると、彼はゆっくりと口を開いた。

「……フェスは見たろ?」
 後輩たちは、一瞬戸惑ったように顔を見合わせる。
「君たちの ‘王子様’ は、最高だったろ」
 その言葉に、凜花をはじめとする後輩たちは、ぎゅっと唇を噛む。

 確かに、フェスの真琴は圧倒的だった。
 今まで以上に堂々と王子様を演じ、観客を魅了していた。
「だったら、それでいいじゃないか」
 遼は、それだけ言って肩をすくめた。

 真琴は、ゆっくりと後輩たちに向き直った。
「私は、これからもステージでは ‘王子様’ でいるよ」
 その言葉に、後輩たちの顔が明るくなる。

 ——が、その次の言葉で、彼女たちは息をのんだ。
「でも、ステージを降りたら、私は ‘普通の女子高生’ に戻る」
 静かながらも、はっきりとした声。
 後輩たちは、その言葉の意味を理解し、動揺する。

「えっ……?」
「そんな……」
 凜花が、不安げに真琴を見つめる。

「私が ‘桜影の王子様’ であることは変わらない。でも、それは ‘ステージの上’ だけ」
 真琴は、少し笑った。
「だから ‘私生活’ にまで、王子様であることを求められても、応えられないんだ」

 後輩たちは、言葉を失ったまま、視線を落とす。
 遼は、真琴の強い意志を感じ取り、それ以上は何も言わない。
「……そう、ですか」
 凜花が、小さな声で呟く。
「……真琴先輩が、そう決めたなら……」
 ほかの後輩たちも、次々にうなずき、静かにその場を離れていく。
 真琴は、彼女たちの背中を見送りながら、ふっと息を吐いた。

 静かになった校門前。
「……ふぅ」
 真琴は、ため息をつきながら、スティックを回す。
「……ありがとな」
「俺は何もしてない」
「いや、してる。ずっと……支えてくれてる」
 ふっと笑いながら、真琴は遼の顔を見上げた。

 そして、ぽつりと言う。
「だから、私も遼のことが、好き……」

 遼が短く息をのむ。
 しかし、驚いたのは一瞬だけ。
「そりゃ、よかった」
 そう言いながら、遼は真琴の肩をそっと抱いた。

 真琴は、一瞬、戸惑いの表情を見せた。
 けれど、その腕の温かさに包まれた瞬間、ふっと力が抜け、遼に寄りかかった。
 ……私は、この人にずっと支えられていたんだ。

 そっと目を閉じ、遼の腕の中に身を預ける。
 王子様の真琴も、素の真琴も、もうどちらでもいい。
 そのどちらも、ちゃんと"私"だから。

 遼もそれを分かってくれている。
 だから——。これで、いいんだ。