いつまでも、夢見せる王子じゃいられない

 当日、4人は老人ホームに到着すると、温かい拍手で迎えられた。

「……思ってたより、ちゃんとしてるな」
 樹里が呟く。

 簡易的に作られた舞台の前には、多くのご老人たちが座り、今か今かと開演を待ちわびていた。
 楽器のセットアップを終えると、舞台袖から詩音が現れた。

「……は?」
 真琴は思わず声を漏らした。
 詩音は、華やかなコスプレ用の着物を身にまとい、堂々と舞台に立っている。
 あいつ、ここまでやる気だったのか……

 この日の主役は、間違いなく詩音だった。
 真琴が "王子様" を演じる必要は、どこにもなかった。

 最初は、演歌の部。
 詩音は、練習のときとまったく違う雰囲気で歌い出した。
 少し大げさな手振りを交え、小節を効かせ、深めのビブラートに情感を込める
 ……え、こんなに本格的だったっけ?

 まるでプロの演歌歌手のような堂々とした歌唱。
 観客のご老人たちが、一瞬にして惹き込まれていくのが分かった。
 その空気に、樹里がノってきた。
 間奏部分で、ギターを掲げ、真琴と早紀に視線を送る。
(アドリブ、入れるぞ)

「えっ、やるの?」
 戸惑いながらも、真琴と早紀はすぐにリズムとコード進行を繰り返す。

 樹里は、歌うかのような"泣きのギター" を披露する。
 ……すげぇ。
 まるで、昭和の演歌番組で聴くような、情感たっぷりのギターサウンド。
 演奏が終わると、客席から大きな拍手が巻き起こった。

 詩音は、演歌の部が終わると、さらりと着物を脱ぎ捨てた。
 現れたのは、昭和のアイドルのようなミニスカートの衣装。
「……マジか」

 詩音は、少し照れながらもアイドルスマイルを見せると、そのまま振り切った ぶりっ子全開 のパフォーマンスでアイドル歌謡を歌い上げた。もともとアイドル顔の詩音が、その気になってアイドルを演じると、とんでもない破壊力を持つ。
 樹里が思わずギターを弾きながら吹き出すほどだった。

 ご老人たちは手拍子をしながら、「かわいいねぇ!」と歓声をあげている。

 詩音は、完全にステージを支配していた。

 アイドル歌謡の部が終わると、詩音は金髪のカツラをかぶり、今度はアメリカンオールディーズを披露。
 軽快なリズムに合わせ、ノリノリでステップを踏みながら歌う詩音。
 そのエネルギッシュなパフォーマンスに、ご老人たちの表情がパッと明るくなった。

 立ち上がって、ステップを踏む人。
 手拍子を打ち、笑顔で口ずさむ人。
 車いすの人も、座ったまま軽く体を揺らしてリズムを取っている。
 懐かしい青春のサウンドに涙する人までいる。

 その光景を見て、真琴は思った。
 ……音楽って、こんなに人を楽しませられるんだ。

   ◇◇

 最後の曲を終え、詩音は一旦舞台袖に引っ込んだ。
 そして、今度は普通の制服姿に着替えて戻ってきた。

「いや~、楽しかったねぇ!」
 ご老人たちが、口々に言う。
「今日は、私たちの演奏を聴いてくれて、本当にありがとうございました!」
 いつもの詩音のまま、自然にご老人たちに挨拶をする。

 ステージ上では、あれほど振り切っていたのに、
 降りた瞬間、普段の詩音に戻っていた。

 それが、ご老人たちにとっても心地よかったのか、
 彼女の言葉に、また温かい拍手が送られる。

 真琴は、ご老人たちの笑顔を見ながら、じんわりと胸にこみ上げるものを感じた。
 演奏を聴いて喜んでもらえることが、こんなに幸せなことだったなんて――。

 そして、ふと、詩音のステージでの姿を思い出す。
 ステージって、日常の延長じゃない。ステージだからこそ、見せられる夢があるんだ。

 詩音は、あれだけのパフォーマンスをしても、降りれば普通の女子高生に戻る。
 その姿を見せることで、"ステージとは何か" を自然と伝えていた。

 ……そっか
 真琴は、詩音からのメッセージを受け取った気がした。
 "王子様のままじゃなくてもいい"
 "ステージの自分と、普段の自分を切り分ければいい"

 今まで、どちらかしか選べないと思っていた。
 でも、そうじゃないのかもしれない。

 "ステージでは王子様でいい"
 "でも、降りたら、自分に戻ってもいい"

 それなら――
 軽音部の部室。

 練習が終わり、片付けを終えたあと、真琴はゆっくりと椅子に腰を下ろした。窓の外から差し込む夕陽が、柔らかく部屋を照らしている。
 ……どうするべきなんだろう。

 老人ホームでの演奏以来、心の中にあった違和感と向き合っていた。

 "ステージはステージ"――詩音のパフォーマンスを見て、それがよく分かった。
 真琴はステージを降りても、"王子様" を演じ続けていた。

 最初は、みんなが求めるからだと思っていた 後輩たちの憧れの的として、カッコよくあろうとしてきた。
 それが、いつの間にか――"そうしなければならない" というプレッシャーになっていた気がする。
 ……でも、急にキャラを変えたら、みんなはどう思うんだろう。

 後輩たちの反応が怖かった。今さら「王子様をやめます」と言ったら、ショックを受ける子もいるかもしれない。
 それに、あの篠原凜花みたいな過激派がまた何かしでかすかもしれない。
 どうすればいいんだ……

 考えれば考えるほど、堂々巡りだった。
 そんなとき、ふと目の前に早紀が座った。
「……真琴、何か悩んでる?」
 落ち着いた声が、静かに響く。

「……バレた?」
 苦笑しながら、真琴は頬をかいた。
「まぁね。普段の真琴なら、こんな風に悩んでる顔はしないから」
「……そっか」
 真琴は、少し躊躇ったあと、素直に口を開いた。
「……実はさ。王子様キャラをやめたいって思ってる。でも、いきなりやめたら、周りがどう反応するか分からなくて……」
 早紀は、黙って話を聞いていた。
 そして、真琴が話し終わると、少し考えるように目を伏せた。

 やがて、静かに口を開く。
「いきなり全部を変えるのは、たしかにリスクがあるわね」
「……やっぱそう思う?」
「ええ。でも、急にキャラを変えるんじゃなくて、"自然体の真琴を受け入れてくれる人" を少しずつ増やしていけば、無理なく変われるんじゃない?」

「……自然体を受け入れてくれる人?」
「まずは、私たちバンドメンバーから始めるの」
「私たちは、真琴が"王子様" を演じなくても大丈夫だって分かってるわ。だから、練習中や普段の会話では、無理にキャラを作らなくていいようにするの」
「うん……」

「たとえば、部室ではもっと自然体でいられるようにする。樹里も詩音も、真琴が変わることを受け入れてくれるはずだから」
「たしかに……あいつらなら、何も言わずに普通に接してくれそうだな」
「まずは、"王子様じゃない真琴" を、バンドメンバーの前で定着させることね」

「次は、軽音部の後輩たち」
「……後輩たちかぁ」
「全部員を一気に変えようとしなくてもいいの。話しやすい子や、元々自然体の真琴を知ってくれてる子から始めてみるのはどう?」
「どうやって?」
「たとえば、詩音や樹里が"真琴って意外と普通の女子っぽいよね" って後輩に話すの」
「……ああ、そういう感じか」

「それとなく、周りに"真琴は王子様キャラを演じてるだけじゃなくて、素の部分もある" って認識してもらう」
「なるほど……」
「軽音部の中で"王子様" じゃなくても大丈夫になれば、学校全体にも自然と広がっていくわ」
「……」

「いきなりキャラを変える必要はないわ。でも、"素の真琴を受け入れてくれる人" を少しずつ増やしていけば、無理なく変われるはずよ。そして、最終的にどうするかは、真琴が決めればいいの」

 真琴は、静かにその言葉を噛みしめた。
「……そっか。いきなり変えるんじゃなくて、少しずつ広げていけばいいんだ」
「そう。それなら、無理なく変われるし、真琴もプレッシャーを感じずに済むはずよ」
「……うん。ちょっと気が楽になったかも」

 早紀は、静かに微笑んだ。
「私たちは、どんな真琴でも支えるわ」
 真琴は、その言葉に、ほんの少し、心が軽くなるのを感じた。
 早紀との会話を経て、真琴の中でひとつの答えが見え始めていた。いきなり変わる必要はない。でも、少しずつ自然体になっていけばいい。
そのためにも、自分の原点であるライブに戻るべきだと思った。

「……また、Beat Cellarでライブ、やろう」
 真琴がそう言うと、バンドメンバーの顔が一斉に明るくなった。
「おおっ! やる気出てきたじゃん!」
 詩音が嬉しそうに微笑む。
「決まったなら、練習あるのみね」
 早紀はいつも通り淡々としているが、どこか嬉しそうだった。

   ◇◇

 練習が終わり、機材を片付けていると、樹里がふと尋ねた。
「で、次のライブでも王子様やるん?」
 真琴は、一拍置いてから、はっきりと答えた。
「やるよ。私は、ステージの上では、王子様だからね!」
 その瞬間、樹里の眉がほんのわずか動いた。
 樹里は、すぐに気づいたようだった。真琴が「俺」ではなく、「私」と言ったことに。

 真琴は、ずっと一人称を「俺」にしていた。
 それが自然だと思っていたし、そうしなきゃいけないと思っていたから。
 ステージの上で王子様を演じる。
 でも、それは "求められているから" ではなく、"私がそうしたいから" だ。
 それに気づいたからこそ、"俺" じゃなくて "私" という言葉が自然と出たのかもしれない。

 樹里は、その小さな変化をすぐに察したようだった。
 一瞬、何かを考えるような表情をしたあと、彼女は笑った。
「……そっか」
 その短い言葉には、たくさんの意味が込められている気がした。

「ならさ、ウチらも最高にカッコよくやるしかないっしょ!」
「もちろん!」
 詩音が元気よく応じる。
「バンドとして、最高の演奏をするだけよ」
 早紀も静かに頷いた。

バンドのメンバーは、真琴の変化を感じ取っていた。
言葉にはしないけれど、みんなの目が、次のライブに向けての強い意志を語っている。

   ◇◇

「Beat Cellar」――久しぶりのライブハウス。
 観客の熱気が高まる中、真琴たちはステージに上がった。
 その瞬間、メンバーの気持ちがひとつになるのを感じた。
 ――大丈夫。今日の私たちなら、最高のライブができる。

 詩音がマイクを握る。
「Beat Cellarのみんなー! 今日も盛り上がる準備はできてるー!」
「おおおおーっ!」
 客席から歓声が返る。

 真琴はスティックを握り、メンバーを見渡した。
(いくぞ――!)
 そして、バンドの音が、ライブハウスに響き渡った。

 ドラムのビートが走り出す。ギターとベースが重なり、詩音の歌声が響く。
 真琴は、いつも以上にかっこよかった。
 MCも、パフォーマンスも、完全に"王子様"だった。

 でも、それはもう、無理に作ったものではなかった。
 "ステージはステージ" と割り切ったことで、迷いがなくなり、吹っ切れたのだ。
 真琴が吹っ切れたことで、バンド全体のパフォーマンスも、自然と引き上げられた。

 詩音はいつも以上に観客を煽る。
「もっと声出してー!」と煽ると、客席から大きな歓声が返る。

 樹里は、ノリに乗ってギターをかき鳴らす。ソロも決まり、アドリブも冴えていた。
 早紀のベースは、ステージを支える土台となり、厚みのあるサウンドを作り上げていた。
 真琴のドラムは、バンドを牽引し、音の流れを作っていく。
 ――これが、私たちの音だ。

 演奏の一体感が増していく。
 バンドの結束が、音に乗り、観客を巻き込んでいく。

 ライブも終盤、最後の曲。詩音が煽る。
「最後の曲、いくよー!!」
 ドラムのカウントが響く。

 真琴はスティックを振り上げ、最後の曲が始まる。
 力強いビートが鳴り響く。
 ギターが、ベースが、ボーカルが――すべてが一つに重なる。

 そして、最後の音が鳴り終わると――
「おおおおおおおおお!!!」
 ライブハウス全体が、大歓声に包まれた。

   ◇◇   

 ステージを降り、メンバーと余韻に浸っていると、
 次に出演するバンドのリーダーが近づいてきた。

「……いいライブだったな」
 真琴が顔を上げると、「Beat Cellar」のトリを務めるバンドのリーダーが立っていた。
「バンドとしての一体感がすごかったよ」
 その言葉に、詩音が嬉しそうに微笑む。
「いやぁ、最高のライブだったもんね!」
 樹里は満足げにギターを肩にかけ直す。

「演奏の迫力もそうだけど、何よりお前ら、楽しそうにやってたよな。音楽って、そういうのが大事だろ?」
「……楽しそう、か」
 真琴は思わず呟いた。
 たしかに……今までで一番、自然に楽しめたライブだったかもしれない。

「俺たちも、気合入れないとヤバいな」
 バンドリーダーは、そう言って拳を軽く握る。
「いい刺激もらったよ。お互い、最高のライブしようぜ」
「……ああ!」

 真琴は、バンドメンバーと目を合わせながら力強く応えた。
 ライブを終え、楽屋で軽く息を整えた後、真琴はそのまま打ち上げに残ることにした。

「やっぱり、戻ってきたな」
 店の奥のカウンターに座る遼が、真琴を見て静かに言った。
 まるで、それが当然だったかのように。
 真琴は、一瞬足を止める。
 ……どれくらいぶりだろう、ここに来るの。

 ライブハウス「Beat Cellar」。
 この場所が好きだったのに、真琴はずっと足を遠ざけていた。
 噂を気にして、遼に迷惑がかかることを恐れて――。

 でも、今日はもうそんなことを考えていない。
 真琴は軽く息を吐き、カウンターの隣の席に腰を下ろした。
「……なんだよ、それ」
 冗談めかして言うと、遼は肩をすくめた。
「お前なら、絶対ここに戻ってくるって分かってた」

 さらっと言われたその言葉に、真琴は思わず聞き返す。
「そんなに自信あったの?」
「そりゃな」

 遼は、グラスを軽く傾けながら、当たり前のように続けた。
「思ってた通り、今日のお前、最高だった」
「……え?」
 予想していなかった言葉に、一瞬息をのむ。
 遼は、特に気負うこともなく淡々と言葉を続けた。
「ドラム、すげぇよかった。リズムのキレも、バンドを引っ張る力も」

 氷がグラスの中でカランと音を立てる。
「でも、それ以上に……」
 遼は真琴をじっと見つめる。
「めちゃくちゃ楽しそうだった。迷いがなくなったんだろ?」

 全部見抜かれてる。真琴はギュッと拳を握る。

「私、ちゃんと吹っ切れたよ」
 そう素直に言うと、遼は満足げに微笑んだ。
「そりゃ、いいことだ」

 グラスを軽く持ち上げる仕草が、どこか優しい。
「で、お前、これからもライブやるんだろ?」
「もちろん。"桜影" は、まだまだこれからだよ」
 真琴は迷いなく頷いた。

「……いいね」
 遼は、それ以上何も言わなかった。
 でも、その表情から、「お前らなら大丈夫」と言ってくれているのが分かった。

 真琴は、グラスを取って、一口飲み、カウンターの奥に目をやった。
「ねぇ、マスター」
「ん?」
「なんか、甘いものある?」
「お、来たねぇ。ライブ後の糖分補給?」
「そういうの、必要でしょ?」

 マスターは笑いながら、チョコレートケーキを出してくれた。真琴はフォークを手に取る。
 その様子を、遼は黙って見ていた。

「……何?」
「いや」
「なんか言いたそうじゃん」

 遼は、ふっと小さく笑う。
「いや、やっぱお前はこうじゃないとな、って思っただけ」
 その言葉に、真琴は少しだけ頬を赤らめる。

 でも、不思議と悪い気はしなかった。
 真琴は戻ってきた。
 そして――遼も、ずっとここで待っていてくれた。
 もう、逃げる理由なんてないよな。

 真琴は、そう思いながら、チョコレートケーキをひと口食べた。
 甘さが、いつもより少しだけ心地よく感じた。
 真琴は、軽音部の部室でバンドメンバーの前に立ち、深く息を吸い込んだ。

 ステージでは王子様として振る舞う。
 でも、ステージを降りたら、私は私でいる。
 それを、ようやく自分で選べるようになった。
「私、決めた。ステージでの王子様はやめない。でも、ステージを降りたら、もう演じるのはやめる。自然体に戻るよ」

 静寂が落ちた。
 最初に反応したのは、樹里だった。
「……マコっちゃんがそう決めたんなら、協力するよ」
 口調はいつも通りのサバサバしたものだったが、その言葉には信頼があった。
 ああ、樹里はこういうやつだよな。

 真琴は少し笑って、目を詩音へと向けた。
 詩音は、一瞬驚いたようだったが、すぐに目を閉じ、深くうなずいた。
「……うん」
 ただそれだけだった。でも、それだけで十分だった。
 彼女の表情は、まるで 「伝わった」 と言っているようで、感謝の気持ちがこもっているのが分かった。
 真琴は、一番最初に「ステージと日常を切り分けること」の大切さを示してくれたのは、詩音だったと改めて実感した。

 そして、早紀が静かに口を開いた。
「私たちも、自然に振る舞うことが大事よ」
 彼女の落ち着いた声が、すとんと真琴の胸に落ちた。

 そうだ。私たちが無理をやめれば、周りも自然に変わっていく。

 バンドメンバーは、王子様キャラの真琴も、素の真琴も知っていた。
 だからこそ、特に驚きもせず、"ようやく決めたんだな" という空気だった。

   ◇◇

 その日から、真琴は軽音部内では自然に振る舞うようになった。バンドメンバーとのやり取りは、今までと何も変わらない。
 でも、真琴の中での感覚は少し違っていた。
 今までは、どこか無意識に王子様でいなきゃって思っていた。

 力を抜いて、飾らずに話す。
 ふざけるときはふざけて、疲れたときは素直に「疲れた」と言う。
 そんなやり取りが、バンドメンバーだけでなく、軽音部の空気全体に広がるのには、時間はかからなかった。

「真琴先輩、なんか最近、すごくいい感じですね!」
 ある後輩がそう言ってくれたとき、真琴は「ああ、これでいいんだ」と心の底から思えた。
 そうして、真琴は 「王子様としての私」も「自然体の私」も受け入れながら、前に進む決意を固めた。
 軽音部内では、真琴が自然体でいることに誰も違和感を抱かなくなった。
 バンドメンバーをはじめ、後輩たちも「王子様でいなくても、真琴先輩はかっこいい」と受け入れ始めていた。

 しかし——軽音部の外では、違った。

 ある日の昼休み、廊下を歩いていると、後輩たちのひそひそ話が耳に入った。
「真琴先輩、なんか最近おとなしくなったと思わない?」
「うん。なんか、前みたいにキリッとしてなくない?」
「まさか……男の影響?」

 その言葉に、真琴は思わず足を止めた。
 ……なんだ、それ。
「男の影響?」
「私が変わったのは、遼のせい?」

 真琴が今、自然体でいることは、ただ「無理をしなくなっただけ」のはずだった。
 けれど、王子様キャラを続けてきたせいで、少しでも変化があれば 「何か理由がある」 と捉えられてしまう。
 そうか……私が "自然体" に戻ったことが、逆に "変化" だと思われてるのか。

 まさか、こんな形で"王子様の彼氏問題"が再燃するとは思わなかった。

   ◇◇

 数日後、真琴は校内でさらにざわつきを感じるようになった。
 遠巻きに話している後輩たちの視線を感じる。
 噂が、また広がり始めていた。

「やっぱり男だよね? だって、あのライブハウスの人……」
「遼さんっていうんでしょ? 技術系のすごい大学生で、バンドの機材とか詳しいらしいよ」
「なんでそんな人と知り合いなの?」
「ていうか、真琴先輩って……やっぱり彼氏持ちなの?」

 真琴の中に、じわじわと嫌な感覚が広がった。
 ……またか。

 前にもこんなことがあった。
 後輩たちは、「王子様である真琴」が恋愛することに動揺し、噂を広めた。
 そして今回も、「真琴がおとなしくなったのは、遼の影響だ」 という憶測が独り歩きしている。

「私は、変わったわけじゃない。ただ、無理をしなくなっただけなのに」
でも、周囲の目には、それが 「恋をして変わった」 という風に映ってしまう。

   ◇◇

 その日の放課後、軽音部の部室。
 いつも通りバンドの練習を終え、機材を片付けながら、真琴はぽつりと口を開いた。

「なあ……」
 その声色が少し沈んでいるのに、樹里がすぐ気づいた。
「ん? どした?」
「……噂がまた広がってる」

 その言葉に、詩音と早紀も手を止めた。
「噂?」
「"真琴先輩、最近おとなしくなった" とか、"男の影響じゃないか" とか」
 その言葉に、樹里は思わず苦笑した。
「は? 何それ。なんで男の影響って発想になるん?」
「"王子様が変わるなんて、普通の理由じゃない" って思われてるんだよ」
 真琴は、自嘲気味に笑う。
「私にとっては、ただ"無理をやめただけ"なんだけどな」

 詩音が静かにうなずいた。
「……確かにね。今までずっと王子様だったから、"普通" に戻るのが、みんなにとっては"異変"に見えるのかも」
 早紀が冷静に分析する。
「つまり、"真琴は王子様だからこそ、強くてかっこよかった" って思ってる人がいるってことね」
「そう。でも、それは違うんだ」
 真琴は、拳をぎゅっと握った。

「私は、王子様でいることが強さじゃない。無理をしなくても、私は私のままでかっこよくいられるはずなのに」
 その言葉を聞いて、樹里がニヤッと笑う。
「ほら、それが分かってるなら大丈夫っしょ」
「……え?」
「そいつらが何言おうとさ、ウチらは知ってるし。真琴は真琴のままで、十分かっこいいって」

 真琴は、驚いたように樹里を見る。
 ……そうか。

 バンドメンバーは、何も疑わず、真琴の変化を受け入れてくれた。
 それは 「王子様キャラがあるかないか」は関係なく、真琴自身を見てくれているからだった。

   ◇◇

 その夜、真琴は「Beat Cellar」へ向かった。
 久しぶりに遼と向かい合い、ぽつりと呟く。
「……やっぱり、噂って簡単に広がるんだな」
 遼は、いつものように淡々とグラスを傾けながら答えた。
「また言われてるのか?」
「うん。"真琴は男の影響で変わった" って」
 遼は少しだけ眉を上げたが、特に驚いた様子もなかった。
「それで?」
「……前みたいに、私が王子様を続けてたら、こんなことにならなかったのかなって」

 その言葉に、遼は静かに微笑んだ。
「そう思うなら、戻るか?」
「……いや」
 真琴は、すぐに首を振った。
「私は、もう無理しないって決めたから」

 遼は、少しだけ満足そうに頷いた。
「じゃあ、それでいいんじゃないか」

 そのシンプルな言葉に、真琴は少しだけ肩の力が抜けた。
 ……そうだ。私は、もう戻るつもりなんてないんだ。
 バンドメンバーはすでに受け入れてくれている。軽音部の中でも、自然体でいることが普通になりつつある。

 あとは——軽音部の外の人間にも、それを見せていくだけだ。
 私は、変わったんじゃない。
 私が自分自身に戻っただけ。

 そのことを、堂々と示すために。
 軽音部室に入ると、辻村先生と樹里のギター談義が続いていた。

「いやいや、先生、それはねぇ、歪みの深さが違うんよ」
「お前な、オーバードライブとディストーションの違いくらい、いい加減分かってるだろ」
「分かってるっつーの! でも、こっちのアンプ通すとさ……」
 相変わらず、ギターの話になると先生も本気になるんだな。

 真琴は、そんなやり取りを微笑ましく思いながら、部室の奥に進んだ。
 その気配に気づいた辻村先生が、ふと顔を上げる。

 先生は、真琴の顔をじっと見たあと、ニヤリと口角を上げた。
「なんか、最近表情が柔らかくなったな。」
 真琴は、一瞬驚いたように目を瞬かせる。
「え?」
「いや、ちょっと前まではどこか力が入りすぎてたが……今のお前は、なんつーか、肩の力が抜けてる感じだな」
……先生、そんなとこまで見てたのか。
 気づかれるとは思っていなかった。
 でも、そう言われてみれば、確かに最近は "力まない自分" でいられるようになった。

 真琴は、自然と微笑みながら答えた。
「王子様は、ステージだけにしたんです」
 その言葉に、先生は少し目を細め、ギターの弦を軽く弾いた。
「……それは ‘卒業’ じゃなくて ‘兼業’ だな」
 先生は、意味ありげに笑う。
「まぁ、そっちの方がらしいかもな」
その言葉に、真琴はふっと肩の力が抜けるのを感じた。
「兼業王子様、いいねぇ」
横から樹里がちゃちゃを入れる。
「ま、ウチらは協力するだけだけどね」
「ありがと」
 短くそう答えたが、その言葉には心の底からの感謝 がこもっていた。

   ◇◇

「それにしてもさ」
 樹里がギターのネックを軽く指でなぞりながら、ふと話題を変えた。
「まだ噂になってるぜ、真琴の男の話」
「……やっぱ、広まってるか」
「そりゃな。アイドルに熱狂するファン心理と同じっしょ」
 樹里は肩をすくめる。
「"王子様の真琴" は ‘みんなのもの’ だと思ってるやつがいるんよ」
「……そうかもしれない」

 真琴は、再燃した噂が全然鎮火する気配もないことを知っていた。
「最近おとなしくなったのは、男の影響じゃないか」
「遼さんって人が真琴先輩を変えたんじゃ?」
 そんな憶測が飛び交っていることも。

 しかし、先生は特に表情を変えずにギターをポロンと弾いた。
「まぁ、それくらいのことで、お前がバタバタするとは思えないけどな」
 真琴は目を瞬かせた。
「……気にしないでいいってことですか?」
「気にしないでいいとは言ってない。ただ、お前がどうするか次第だな」

 辻村先生は、弦を押さえて音を止めると、目を細めた。
「誰かに決めてもらわないと自分の道を選べないなら、そりゃダメだ」
「……私は、自分で選びました」
「なら、それでいい」
 それだけ言うと、先生はまたギターを鳴らした。
 その音が、何かを肯定するように聞こえた。
「……決まったよ」
 真琴がそう言うと、部室の空気が一瞬だけ静まった。
「Beat Cellarの推薦で、夏のバンドフェスに出ることになった」
「マジで!?」
 詩音がぱっと顔を輝かせる。
「うわーっ、やばい! 楽しみだぁ!!」
 両手を挙げて飛び跳ねながら、全身で喜びを表現する。
「フェスでライブなんて、最高じゃん!」
「まぁな」

 真琴も、フェスの出演が決まったこと自体は嬉しい。
 自分たちも Beat Cellarでライブをしてきた し、ステージの経験もそれなりにある。
 でも、このフェスは明らかに規模が違う。

 ライブハウスで活躍し、すでに多くの固定ファンを持つバンドばかりが集まる。
 観客の数も、普段のライブとは比べものにならないほど多い。

 しかも、噂はいまだ全然沈静化していない。
 フェスとなれば、桜陽女子高から来る観客の中には、彼女のことを "王子様" ではなく、 "噂の人" として見に来る人もいるかもしれない。

「……正直、どう思う?」
 真琴がぽつりと尋ねると、樹里が即答した。
「なにが?」
「噂のこととか……このフェスのこととか」
 樹里は呆れたように鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「騒ぐやつは騒がせとけばいい。こっちは音で黙らせりゃいいんよ」
 そして、ギターを軽くポロンと鳴らしながら、にやりと笑う。
「いつも通り、最高の演奏すればいい。それだけやろ?」
 彼女の言葉は、どこまでもシンプルで力強い。

 真琴は、その言葉にどこか安心する。
 大事なのは、周りがどう見るかじゃない。自分たちが、どう演奏するか。
 すると、早紀が静かに口を開いた。
「あとは、信じるだけよ」
 その言葉に、真琴が早紀を見た。
「私たちが積み重ねてきた音をね」
 穏やかだけれど、芯の強さを感じさせる声だった。

 詩音が再び楽しそうに笑う。
「大丈夫、大丈夫。フェスでライブなんて、楽しみだぁ!」
 彼女の無邪気な笑顔を見て、真琴の迷いは自然と消えていった。

 このフェスは、"試される場" かもしれない。
 でも、それ以上に "自分たちの音楽を届ける場" なんだ。
「よし、最高のライブしよう」

 真琴の言葉に、バンドメンバー全員が力強くうなずいた。
 真琴は久しぶりにBeat Cellarを訪れた。
 中はまだ営業前で、照明は落とされている。だが、カウンターの奥ではマスターが準備をしていた。

「お、真琴じゃねぇか」
 マスターはグラスを拭きながら、軽く手を挙げた。
「どうした? バンドの準備は順調か?」
「はい。まあ、なんとか……それより、推薦してくれてありがとうございました」
 真琴はカウンターに歩み寄り、頭を下げる。
「マスターのおかげで、フェスに出られることになりました」
「お前らの実力なら、当然だろ」
 マスターは淡々と言いながらも、どこか誇らしげだった。

「でもな——あのフェスはレベルが高いぞ」
 グラスを置き、真琴に目を向ける。
「今までのライブと同じつもりでやると、飲み込まれる。しっかりやれよ」
「……はい」

 フェスに出ることが決まってからずっと、どこか漠然とした緊張感があった。Beat Cellarでのライブは何度も経験している。でも、今回のフェスは規模もレベルもまったく違う。
 自分たちは、本当にあの場で通用するのか——。

「……緊張してんのか?」
 唐突に声をかけられ、真琴は少し驚いた。
 カウンターの奥、テーブルに片肘をついて、雑誌をめくっていた遼がこちらを見ていた。
 彼は特に興味なさそうにページをめくりながら、もう一度言う。
「フェス、楽しみじゃねぇの?」
「……まあ……してるって言ったら、ちょっとはしてるかも」
 真琴は正直に答えた。
「へぇ」
 遼は雑誌を閉じ、軽く背伸びをする。
「お前でも緊張することあるんだな」
「そりゃするよ」
「意外」
 からかうように言うでもなく、ただ淡々とそう言われた。
「でも、やるしかないしね」
 真琴は、いつものように気を引き締めようとした。

 だが、遼はあっさりと言った。
「まあ、お前なら大丈夫だろ」
 その一言に、真琴は言葉を失った。

 マスターにも「しっかりやれよ」と言われたし、バンドのメンバーも気合いを入れていた。
 でも、遼はただ「大丈夫」と言った。
「……なんで?」
 無意識に口をついて出る。
 遼は、少し考えるように視線を泳がせた後、当たり前のように答えた。
「そりゃ、お前の演奏、何度も聞いてるからな」
「……」
「下手なやつなら、最初から推薦されてねぇよ。」
 遼はそう言うと、興味がなさそうにまた雑誌を開く。

 真琴は、ぽかんとしながら、どこか胸の奥が温かくなるのを感じた。
 ……なんでだろう、遼に言われるとすっと落ち着く。

 そんな自分が少し不思議だった。
「ま、フェスではせいぜい暴れてこいよ」
 遼はそう言って、軽く手を振った。

「はいはい」
 真琴は苦笑しながら、カウンターを離れた。背後でマスターが笑うのが聞こえた。

「お前、ほんと口数少ねぇな、遼」
「必要なことしか言わないだけっすよ」

 真琴は扉を開けながら、小さく笑った。
 緊張は消えたわけじゃない。
 でも、少しだけ、軽くなった気がした。