心奈はフワッとベッドに下ろされたかと思うと、いつの間にか紫音に組み敷かれていた。
「…怖かったり、少しでも不快を感じたら殴ってでもいいから止めてくれ。」
そういう彼も何かに怯えている様に見えて、
「大丈夫…紫音さんなら、怖く無い。」
その整った綺麗な顔に、心奈は初めて自分から手を伸ばして触れてみる。
ビクッと震えるそのスベスベの頬を撫ぜてみる。彼の全ては私のもの…そう思うと愛しさが込み上げて、笑顔が溢れる。
「…怯えているのはむしろ俺の方だな。心奈の発作を一度見てるから、また俺のせいでそうなってしまったらって…怖いんだ。」
彼の優しさが身に染みる。
「大丈夫です。」
その言葉が合図になって、キスの嵐が降り注ぐ。顔中至る所にキスを落とされ、耳たぶを舐められ、それだけで心奈の心臓はドキドキと早金のように時を刻み出す。
最後に唇を奪われれば、もう彼の事以外考えられないぐらい思考が蕩けていった。
いつの間にかパジャマのボタンは取り外されて、ブラとショーツだけの姿を晒される。思わず両腕を交差して隠すと、
「隠さないで、全部俺に見せてくれ。心奈の嫌がる事はしないから。」
懇願にも似た視線を向けられ、勇気を振り絞って腕を解くと、サッとブラも取り外されてしまう。
「綺麗だ…。」
指と指を絡ませて固定されれば、彼の視界から逃げる事なんて不可能で、その恥ずかしい時間は何故かしばらく続く。
まるで標本の蝶にでもなったような気分で、羞恥心で耐えられなくなる。
「紫音さん…そんなにじっと見ないで、恥ずかしいです。」
そう訴えるまで続けられた。
「ごめん。つい、感無量で…。この姿を見る事が出来るのは俺だけだって感動してた。」
「もちろんです…だから、恥ずかしいので早く…。」
先を続けて欲しくて懇願してしまう。
彼は嬉しそうに微笑みを浮かべ、
「じゃあ、触るよ全て。君の身体で俺が触れた場所が無いくらいに…。」
そう言ったかと思うと、胸の頂に指を這わせ優しく胸を揉みしだかれる。
そこからはもう無我夢中で、与えられる快楽に何が何だかわからなくなって…甘く漏れてしまう声も、乱れる吐息も抑える事が出来なくなる。
ありとあらゆる場所をその綺麗な長い指で触れられて、どこを触れられても感じてしまうほど敏感になって、何度も達してしまう。
そして、ついに1つになれた時、痛みなのか、感動なのか喜びなのか分からないけど涙が溢れる。
「大丈夫?痛く無いか?呼吸をちゃんと、整えて…しばらくこのままでいるから。」
彼だって苦しそうに見えるのに…
心奈は幸せを噛み締める。この痛みさえも彼の為なら乗り越えられる。いつか、抱えている心の病いさえも乗り越えて行けるだろうと…。
「おはようございます。」
24時間365日年中無休のコンビニは、昼でも夜でも入店時に『おはよう』と挨拶を交わす。
「おはよう、ここちゃん。今夜も冷え込むね。雪はまだ降って無かった?」
気さくに話しかけて来るのはここの店長である野田真幸(のだ まさゆき)45歳コンビニチェーンのエリアマネージャーをしていたが突然会社を辞め、フランチャイズのコンビニオーナーになったという、変わった経歴の持ち主だ。
「外、寒かったです。…雪、降るかも知れませんね。」
私、葉月心奈(はずき ここな)25歳、笑わない女と言われるほどに、日々を淡々と冴えない顔で生きている。
肩下まで伸びた髪を1つにまとめ、黒縁メガネに前髪は被るくらい。
根暗、オタク、モブ子…ネガティブなワードが似合う…それが今の私。
自分で言うのもなんだけど、高校、大学と順風満帆な人生だった。卒業後一流商社に勤め、側から見たらきっと羨ましいくらいだっただろう…
だけど…その会社を半年前に退職した。
私なりに一生懸命頑張って、会社の役に立てる人材になろうと足掻いたけれど…。
結局…セクハラに新人社員イジメ…
それに耐えかねてコンプライアンスの部署に相談すれば『君が弱いからだ。隙があったからだ』と逆に責められ人格を否定された。
心は疲弊し誰も信じられなくなり、遂には精神病を発症…。会社に行く事が出来なくなった。
限局性恐怖症…私につけられた病名だ。特に男性を怖いと感じる男性恐怖症になってしまった。半年経った今でも男性の目を見るのが怖くて、見られるだけで怯えてしまう。
毎日、精神安定剤が欠かせない。
だけど、それでも地元に帰る勇気が無くて、親には未だ会社を辞めた事を伝えられないでいる。
今がどん底ならば、後は上がるしか無いのだけれど…深い穴に落ちたまま半年。
這い上がる勇気も気力もないまま、未だ仄暗いどん底に身を潜めている。
夜中のコンビニを訪れる客は少なくて、終電も過ぎれば誰も来ない時間帯も訪れる。
今夜みたいに寒い日は特に人足も減るだろう…
12時も半を過ぎた頃、入荷のトラックがやって来る。今夜は店長と2人体制だ。
夜中は普段3人体制なのだけれど、今日入る筈の学生が風邪で急きょ休みになった。
「ここちゃん、悪いんだけど品出し先にしてくれる。バックヤードにある品物から補充して欲しいんだ。」
店長の声で掃除をしていた手を止めて、先に品出しに入る。
「本当、君みたいな働き者が夜間に入ってくれて助かるよ。学生は気分次第で休みがちだからさ。」
店長の愚痴が止まらない。
「私、風邪をひきにくい体質なので…。」
と、ボソボソ答える。
「やっぱ、夜中に働いてくれる人を探すのって大変でさ。特に女子は怖いだろ?夜中は強盗が入ったりとか、無きにしもあらずだからさ。」
野田店長のおしゃべりは続く…
「私は夜の方が働きやすいので…。」
「昼間は普段何してるの?昼夜逆転?いつ寝てるの?」
2人だけをいい事に質問責めに合う。
普段は『私語は慎んで』と言ってる人が…。
「朝方帰ってから寝てます。お昼には起きて資格の勉強を…。」
「偉いね!勉強してるんだ。じゃあ、いつかは商社にまた戻るの?」
「今はまだ…分かりません。このままじゃいけないなって思ってはいますけど…。」
私の小さな足掻きは現実身を帯びず…この落ちた穴の心地良さを知り、未だ上を見たまま動けない現状だ。
「心奈ちゃんってよく見ると可愛いからさ。結婚とかして誰かに養って貰えば?
俺じゃ、おっさんだから君の眼中には無いかぁ〜。もうちょい若かったら、是非お嫁に来て欲しいくらいだよ。40過ぎると1人が楽で結婚とか考えなくなったな。俺は一生独身でいいや。」
1人でペラペラと話しを進める店長は、若干のコンプラ案件を平然と並べ立て楽しそうに笑う。
「私…結婚とか興味ないんで…。」
私は一言それだけ伝えると、レジ前に人影を見つけ駆けつける。
「いらっしゃいませ。いつものタバコで良いですか?」
この時間帯、大抵やって来るのは常連のお客様で、この方は1日1回この時間帯にタバコを買いにやって来る。
「ああ、25番と…肉まん。後、これも。」
そう言って客はレジ台に、ホットのミルクティーを置く。
見た目30代男性。作業着姿は交代勤務だろうか…。日焼けした手は節々立っていて、太くてゴツい指をしている。爪の先に黒く油が付着しているから仕事帰りだろう…。
左薬指には指輪が光る、既婚者だ。
見た目がなんであろうと、この指に指輪をはめてると言う事実は、私をいくらかホッとさせる。
この年代で指輪をしてない男は既婚者だろうと、浮気性の女好き…または、既に浮気相手がいる可能性あり。
それにしても…ミルクティーなんて珍しい。ミルクティーは大概女子の飲み物だ。
「俺がミルクティーなんて柄じゃ無いって?」
顔見知りの常連客だからそんな軽口をたたいて来る。
「…甘党なんですね。」
私は目も合わさないスンとした雰囲気のまま、そう言って商品を渡す。
「嫁が最近起きて待っててくれるからさ。…ちょっとしたお土産だよ。」
照れ笑いしたこの客は、私にとって安全ラインの白判定だ。
「良い旦那さんですね。お会計1280円になります。」
終始目線は合わさないが、少しだけ肩の力をを抜いてお釣りを渡す。
「…笑うんだな…初めて見た。」
そう言って客は『じゃあな。』と言って去っていった。
そう、私は愛想の無い店員だ。誤解を招く事もあるが、これでも精一杯の接客をしているつもり…。
笑わないんじゃ無く、笑えないだけ…。
品出しに戻ろうとすると、今度は駆け込んできた女性が小さなビンを差し出して来る。
『早くしてっ!』とでも言いたげだ。
ビンにはウコンの文字…
手を見れば真っ赤な付け爪に輝くダイヤの指輪。夜のお店の人だろう…いわゆるキャバ嬢。
『お疲れ様です。』と心で伝えお釣りを渡す。
男性恐怖症の私にはまず出来ないお仕事だから、尊敬すら覚える。
今の家賃を考えれば、高収入の仕事に就がなければやっていけないのが現実だけど…。
はぁーと人知れずため息を吐いて、お客様を見送る。
その後もポツポツと常連客が来て、飲料の補充に検品作業、淡々と仕事をこなしていると、段々に空が明るくなっていく。
気が付けば薄っすら地面には雪が積もる。
都会の雪はパニックを生む。これは雪対応のグッズを並べなければと、倉庫に入り準備をする。
雨が降り出せば、傘やカッパ、タオルなんかがよく売れる。それを素早く察知して店頭に出すのも店員の役割だ。
「ありがとう。それ買っておいたの忘れてたよ。」
私が靴に貼る滑り止めシールを店頭に並べると、店長がそう言って来る。この滑り止めシールは靴底に貼ると、雪の日でも滑らないと言う便利グッズだ。
「いえ。私も買って帰ろうと思って…。」
きっと今朝は、道路が渋滞でバスもタクシーもつかまらないだろう。自転車なんてもっての外だ。家まで歩いて帰るしか無い。
「週末で良かったな…。この感じだと明日は電車も運休かもしれない。」
店内から空を見上げて店長が言う。
退勤まであと30分…。
そのタイミングで店内の電話が鳴る。
ああ…もしかして…。
頭に不安がよぎる中、店長は舌打ちしてバックヤードに戻って行った。しばらくして戻って来た店長が、申し訳なさそうに私に言う。
「ごめん。ここちゃん…1時間延長出来るかな?」
嫌な予感は的中して、もれなく1時間の延長戦に入る。
「…大丈夫ですよ。」
『悪いね』と、手でごめんという素振りをして、店長はバックヤードに戻って行く。
きっと、雪で来れなくなったバイトの代わりを探して、いろいろなところに電話をかけてる筈だ。
私はどうせ帰ったって、誰かが待ってる訳でも無いし、この先の予定がある訳でも無いから…良いけど…。
帰りたかったな…と、空を見上げてため息を吐く。
朝も6時を過ぎると、駅前のコンビニは活気付いてくる。土曜の休日部活に向かう学生や、大きな荷物を持った旅行客など、店内の人口密度は一気に上がる。
レジには客が行列を作り、私は淡々とその列をさばいて行くしかない。
「釣りは要らない。」
低く重低音のよく通る声を聞き、始めてハッと顔を上げる。
一万円を渡されて、買ったのはたったの缶コーヒー1つ。さすがの私も慌て、
「お客様…ちょっと!」
と、声をかければ…既に出入り口を出て行く後ろ姿…。
客も沢山まだ列をなしている…。
どうしよう。と、動転するが次から次へと来る客に急かされ、追う事も出来ずに目で追う事だけしか出来なかった。
黒の皮手袋に…黒のロングコート、背丈は…180センチを軽く超えていた。お釣りを置いって行ってしまった客の特徴を思い出しながら、なかなか終わらない客の波をなんとか店長と2人でこなす。
気が付けば7時半…そこでやっと、次のバイトがやって来てバトンタッチ出来たのは8時だった。
「怒涛の忙しさだったな…。」
一緒にバックヤードに引っ込んだ店長も、さすがに疲れの色を見せる。
3人のバイトと飛び込みの助っ人バイトが1人入り、やっと終わる事が出来た。
「お疲れ様でした。
あの…店長。お釣りは要らないと帰ってしまったお客様がいて…お釣りが9780円なんです。どうすれば…。」
「ああ、さっきの長い列の時の…?すげぇな。釣りは要らないなんて言ってみたいもんだよ。とりあえず、今月中は預かっておいて…来なかったら警察に回すしかないな。」
意外とクリーンな商売をしている店長は、マニアル通りこなす手筈だ。
「分かりました。」
そこから、PCを使い防犯カメラでその時の映像を探し出す。時間帯と特徴を伝えれば、意外と簡単にその人物は見つかる。
「この、黒いコートの男だね。顔は…ちょっと鮮明じゃないけど…多分、こういう客はまた、釣りは要らないって言って来るかもしれないから、見つかりやすいだろ。ただ、また来るかは分からないけど…。」
そう言って店長は写真を印刷して、一応全バイトに通達する為に壁に貼る。
「なんか…モデルみたいな奴だな。180センチ越え…羨ましい。」
そう呟く店長を横目に、
「では、私はこれで。お先に失礼します。」
使命は果たしたとばかり、私はバックヤードを出た。