「店やろうってさ…やっぱ夢にしかすぎないんだよね。語るのは面白かったけど、俺たちそのためにどんだけ頑張らなきゃいけないわけ?途方もない金額だろ。俺、むりなんじゃねえかなって正直、思ってた」
「え…」
あんなに楽しそうに夢を語ってたじゃない。店の間取りとか使うコーヒーとか具体的に決めてたのは、なんだったの?
「やっぱさ、夢は夢なんだよな。紗枝はちょっと世間知らずなところがあるからさ。夢見ちゃったと思うんだけど…俺には、子供のために働いて、家庭を作るほうが、リアルなんだよね」
「私とだって…子供つくって家庭をつくることはできるよね?」
もう無理だとわかっていても、言わずにはいられなかった。
うん、と務はコーヒーを一口、口にした。
「実を言うと、紗枝と結婚するイメージってあんまりしてなかった。紗枝、真面目じゃん。仕事もうちのこともきっちりやるし…すごいなと思うけど…俺は、寛げなかった」
「えっ…」
予想外のとこから飛んできた矢が紗枝の胸に刺さった。
「なんか頑張りすぎっていうか…私すごいのよ、っていつもアピールされてるみたいで、
俺のこと、頼りにもしないし。正直、二人の夢の話でもしないと間がもたないって言うか…苦肉の策だったんだよね」
すうっと血の気が引いたのを紗枝は感じた。務と夢を語るのが、あんなに楽しかったのに。務には重荷だったのだ。そして、仕事も夢のために頑張ろうと思ってやってきた。
それも務には苦痛だったのだ。
今まで、よかれと思ってやってきたことが、すっかりひっくり返されてしまった。
私は務の…お荷物、だったの?
…ぽろり、と涙が流れた。
務は、さすがに紗枝の涙には動揺したようだった。
「…ごめん。紗枝には悪いと思っているけどさ、そういうことだから。もう、会うのはよそう」
ぶわん、と視界がゆがんだ気がした。
この人…多分、悪いとか言ってるけど、本気じゃないんじゃないかな…
きっと私があっさり別れてくれるって踏んでる。
務の気持ちは、もうまなちゃんに向いてしまってるんだ…
ぼろぼろ涙を流すこともできた。でも、それは務の予想通りのような気がして嫌だった。紗枝は、バッグからハンカチを出して、涙をぬぐった。
「わかった…もう会わない。カフェのバイトも辞める」
務は、ほっとした顔をした。それを見ても、悔しかった。でも、カフェでまなと務が一緒にいるところを、見るのは耐えられなかった。明日のシフトで辞表を出そう。
その後、務がいろいろ言っていたけれど、頭には入らなかった。
目の前にコーヒーと並んで、水の入ったコップがある。
紗枝がいるのに、まなに手を出して妊娠させた。明らかに非があるのは務だと思う。
ふつう、こういう時、相手に水をかけたりするのかな…
でも、紗枝にはそんな気力も残っていなかった。
一緒にいて寛げなかった、という務の言葉が、紗枝の胸の内をぐっと締めあげていった。
気が付けば、喫茶店を出て、ふらふらと歩いていた。務の言葉がぐるぐると頭の中で繰り返される。手にしたと思っていたものが何もなかったつらさ。
歩きながら、ぼろぼろと涙があふれていく。涙をふいて、でもやっぱり涙が出たけれど、一人になりたくて家路を急いだ。アパートの部屋に帰ると、電気もつけずにベッドに倒れこんだ。
明け方まで、泣いたりぼんやりしたりして過ごした。
翌日。午後2時頃、さすがにベッドから抜け出した。自分でいれたコーヒーを飲みながら、務と別れる、ということを改めて考えてみた。
務と店をやる日のために、わずかな額だが、毎月貯金をしていた。微々たるものだがダブルワークでもカツカツの生活の紗枝には、捻出するのが大変だった。
紗枝は24歳で、お洒落したり、化粧品を買ったりしたかった。しかし、貯金しようと思うとそれは無理な話だった。実家から持ってきた服に、たまにファストファッションを買い足し、化粧品はプチプラ製品でなんとかごまかしている。
そんな節約生活も、務と店をやるためだった。しかし、その夢が壊れてしまった。
じゃあ、節約を辞めて、少しのんびり過ごす?
そこまで考えて、あ、と気づいた。務にカフェの仕事を辞める、と言ってしまった。
泣き明かして、少し落ち着いた今でも、店で務とまなが一緒にいるところを見るのはやはり嫌だった。
そうか…仕事、探さなきゃいけないんだ。
コールセンターもそうだが、紗枝は、人と接する仕事が好きだ。
飲食の求人は多いので、なんとか仕事はみつかるだろう。
「おまえに何ができる」
ふいに、脳裏に、父の、呪いの言葉が再生された。
普段はあまり考えないようにしているが、心が弱っているとき、必ずこの言葉が紗枝の心の中でよみがえる。
紗枝は、地元の大学を卒業するまで、バイトや就職活動を禁じられていた。その変わり、お茶や茶道、華道、裁縫、と花嫁修行を徹底して仕込まれた。
「いまどき花嫁修行してる子なんて、いないよ」
紗枝は、父にささやかな抵抗を示したが、全くとりあってもらえなかった。
父が、紗枝に花嫁修行を強いるのには、訳があった。
紗枝の姉、花江は、子供のころから成績優秀で、地元の国立大学に入学した。そこで、同級生の彼氏ができ、一緒に就職活動をしたところ、同じ一流商社に就職できることになった。就職して三年目にもなると、姉は彼氏と結婚したい、と言うようになった。
彼氏がカナダに海外赴任になる、というのも結婚したくなったきっかけだったらしい。
姉はの学力だと、東京の大学に行くことだってできた。父がそうさせなかった。大学も就職も、地元で、自分の傍にいてほしい、という明確な気持ちがあった。
なので、彼氏と結婚して、カナダへ行く、というのは、父の予想していた姉の人生とは大幅に違っていたので、大反対した。
もともと強気な姉は、その反対を押し切ってカナダへ行ってしまった。小さな教会で、二人だけの結婚式をした。その時の撮った写真はハガキにして、紗枝のもとに送られてきた。姉は、嬉しそうに微笑んでいて、自分の人生を堂々と生きているのがわかった。
紗枝は、父の言いつけに逆らえず、花嫁修業をしていたが、いつしか自分も姉のように家を出たい、という気持ちが膨らんできていた。
でも、家を出てどうしたらいいのか。どうやって稼げばいいのか、見当もつかない。
習い事にはせっせと通っていたが、どれも人に教えられるほどではない。
友人たちは、すでに就職活動に趣き、なんらかの結果を手にしている。
紗枝は働くのが嫌ではなかった。自分がどれくらい稼げる人間なのか、試してみたい気持ちがあった。
ある日、友人の京香に誘われて、こっそり就職セミナーに行った。大手の文具メーカーで、会社の人と面談することができた。文房具には愛着があったので、滑らかに自分の文房具の思いなども伝えた。
紗枝はその文具メーカーで就職試験と面接を受け、合格した。
天にも昇る気持ちで、意気揚々とその結果を父に報告した。
待っていたのは、平手打ちだった。
「勝手なことをしおって。お前に何が、できる」
「わ、私にだって働くことがぐらい…」
「その考えが甘いんだ。ろくにバイトだってやったことがないだろう。お前は、社会を知らなすぎる。とてもやっていけない」
「そんな。バイトだって、したかったのを、父さんが禁止したんじゃない。でも、私、この文具会社の仕事、とってもやってみたいの。勤務先は東京になるけど、私、頑張ってみる」
「ダメだ。就職して東京行きなんて、ますます許せん。内定は辞退しろ」
「父さん!」
まさか、せっかくもらった内定まで辞退しろと言われるとは思わなかった。
「父さん、お願い。私、家を出て自分でやってみたいの。自分の力を試したいのよ」
「自分の力?笑わせる。学校の成績でも、大した事なかったじゃないか。その文具メーカーに合格したのだってまぐれだろう。とっとと内定を辞退しろ。いいな」
紗枝は、合格して、嬉しかった気持ちを見事にぺしゃんこにされてしまった。
そのあと、父よりは話を聞いてくれる母に、相談した。
母は、困った顔をした。
「紗枝ちゃんが働きたいっていう気持ちはわかるけど…花江が海外に行っちゃったでしょ。お母さんも、できれば紗枝ちゃんには家にいてほしいのよ。それと…内定を辞退しなかったら、お父さん、強硬手段に出るわよ」
「え?」
これ以上、何をされると言うんだろう。
「お父さんの知り合いの社長さんで、四十くらいの人がいるんだけど、若いお嬢さんのお嫁さんを探してるの。お父さん、紗枝にいいんじゃないか、とか言ってた。まだ話はそこまで進んでないけど…内定を辞退しなかったら、強引にお見合いさせられて、結婚に持ち込もうとするでしょうね」
「な…!」
紗枝はあまりのことに言葉を詰まらせた。母に向き直って言う。
「じゃあ、内定を辞退したら、その四十の人とのお見合いはなしになるの?」
「そうなるわね。お父さんも、もっと見合い相手を吟味したいでしょうし」
22歳の紗枝には、四十歳の男性との結婚は全くイメージできなかった。母の言う通り、父は、こうと決めたらやってしまうタイプの人間だ。どんなに紗枝が嫌がっても、見合いさせ結婚まで持ち込むだろう。
紗枝は数日悩んだが、仕方なく文具メーカーの内定を辞退した。大学を卒業しただけで、いきなり四十男と結婚するのは、冷静に考えても恐ろしかった。
それが夏のことで、季節が変わり、卒業式も近づいてくると、紗枝はだんだん、家を出たい気持ちがまた膨らんできた。
内定をもらった時の、あの「家から出られるんだ!」という嬉しさが忘れられなかった。
見合いの話もいくつかすでにきていたが、どれも乗り気になれない。
来週、初めての見合いがある、という卒業式の翌日。紗枝は家出を決行した。
もう当分会えなくなるだろう、と思い祖母の家に寄った。子供の頃から、可愛がってくれた、いつも紗枝の味方をしてくれた祖母だった。
家を出る理由を話すと、祖母は何も言わずにまとまった額のお金を貸してくれた。
一人暮らしをするのに、敷金礼金をどう工面しようかと悩んでいたので、それはありがたかった。
「おばあちゃん、絶対返すからね」
「私は、あんたが、実はしっかりしているのを、よく知っているよ。自分を見捨てずに頑張りなさい」
自分を見捨てない、ということがどういうことか、すぐにはわからなかったけれど、紗枝は大きく頷いて、言った。
「行ってくるね」
上京して、紗枝はコールセンターの仕事を見つけた。すぐに働くことができるのが魅力だった。やり始めると、紗枝はお客様と接する、という仕事が好きなことに気づいた。コールセンター勤務が落ち着くと、カフェのウエイトレスも始めた。電話の向こうで、そしてカフェの店先で、お客様を笑顔にさせられる。そんなささやかな喜びがあった。
それでもダブルワークはやはり体がきつい。嫌なお客様に出くわすこともあるし、嫌味を言う上司だっている。少しずつ東京での日々が色あせてきた。
そんな毎日の先に務との出会いがあった。
務と一緒に店をやる夢は、少し疲れを感じてきた紗枝のエネルギー源になった。
もしも、務と結婚して、本当に店を持てたら。
「お前に何ができる」と、言った父に、一人前になった、と認めてもらえるのではないか。
その思いは、強く、紗枝の心の奥底に根付いていた。
しかし、そんな夢も務との別れで、なくなってしまった。
務とつきあっていた半年の間、紗枝はいろんな想像をしていた。
結婚して務と一緒に暮らす部屋のインテリアや、照明。そんなに広くない部屋かもしれないが、ガスコンロは二口にして、務と一緒に料理をする。余裕があったら観葉植物をたくさん置きたい。二人の誕生日や記念日には、ささやかでもちゃんと祝う。
夢を見ることは、楽しかった。
でも、それも、もうおしまいだ。
日曜の夜。遅番のカフェの仕事を終えて、紗枝は、店長に退職願を渡した。
「急で申し訳ありません」
紗枝は深く頭を下げた。
店長は、ため息をついたが、仕方ないね、と言った。
「いきなり来なくなる奴もいるからさ。言ってもらえてよかったよ」
店長は泣いて腫れた目をした紗枝を見て、察してくれたようだった。務とまなのことも、もう知っていたのかもしれない。
ありがたいことにまなは休みだったので、顔を合わせないですんだ。厨房には務がいたが、目を合わせなかった。務も紗枝を見ることなく、鍋を振っていた。
アパートに帰宅すると、体が疲れているだけでなく、気持ちも重かった。今夜は、眠れないかもしれない。でも、明日はコールセンターの仕事がある…何か気持ちをほぐすことはないか、と考えて、やっぱりお菓子を焼こう、という気になった。
こういう時…落ち込んで何もできない時はお菓子を焼けばいい。
本棚から一番好きなお菓子作りの本を取り出す。専門的なもので、難しいレシピが多く、つくったことのあるのはその本の半分くらいだ。
うちにある材料で作れて、手のこんだレシピを探し出した。小麦粉やバターを秤で丁寧に測っていく。気を抜いたら失敗するだろう。このお菓子が成功したら、失恋の痛手が薄くなる、そう信じて紗枝は手を動かしていった。
二種類のクッキーは焼きあがった。
食欲はなかったが、お菓子が焼きあがるときの独特の香りは、やはりよいものだった。気をぬくと暗く沈みそうになる紗枝の気持ちを和らげた。
味見をしたら、上々の出来栄えだった。クッキーが冷めるのを待ち、半分ずつセロファンの袋にいれる。
きゅっと赤いリボンを結んで袋の口を閉じた。明日、コールセンターの芦田さんと前橋さんにあげよう。喜んでもらえるといいな。
ラッピングまでしてしまうと、きちんと達成感がやってきた。
少しだけほっこりして、ハーブティーを飲む。
ちょっとだけでも眠れますように。カーテンの隙間から見える宵闇を見ながらそう思った。
月曜日。なんとかコールセンターの仕事は終えることができた。帰り道、紗枝は、まっすぐ部屋に帰りたくなかった。
ゆっくり、街中を歩いていく。
気が付くと、いつの間にか駅前の繁華街から外れていた。
「もどらなくちゃ。全然知らないところに来ちゃった」
ふっ、と引き返そうとしたとき、小さな灯に目を奪われた。店先の看板を明るく照らしている。古いレストランのようだった。入口の近くに黒板が立てかけてある。
その黒板には、コースメニューの下のほうに、デザートとコーヒーの価格も書き込まれていた。決して安価では、ない。
務と食事するのは大抵、居酒屋やファミレスだった。
こんなちゃんとしたレストランに、上京して来たことがなかった。
節約暮らしを考えたら、この店に入ることは、できない。
でも…失恋して、夢もなくなった、今日みたいな日くらい、いいんじゃない?
紗枝は、思い切って、自分の背中と、店のドアを同時に押した。
レストランのカウベルがからん、と鳴った。
「いらっしゃいませ」
きりっとしたベストと蝶ネクタイの初老の男性が紗枝を見て、言った。紗枝は自分が場違いな気がして、小声で言った。
「あの、コーヒーとデザートだけでも…?」
男性はウエイターらしく、にっこりと笑った。
「もちろんでございます。こちらへどうぞ」
そう言って、店の奥に案内された。
ブルーのテーブルクロスの敷かれたテーブルが四つ。その内の一つに、男性が一人で座っていた。その男性と紗枝以外、客はいなかった。
男性客の隣のテーブルに、紗枝は座った。初老のウエイターが言う。
「デザートでしたら、本日のケーキがおすすめです」
「では、それとコーヒーを」
「かしこまりました」
ウエイターが去ってからしばらくして、またやってきた。紗枝のテーブルに、美しい器に乗ったケーキが置かれた。お菓子の本を見るのが好きな紗枝は、ケーキのきれいなグリーンを見て、ピスタチオだとわかった。
そっとフォークで一口食べると、甘さの中に少し酸味があり、それがアクセントになっていた。
「美味しい…!」
コンビニのスイーツも美味しいけれど、やっぱり本格的なものとは別物だ。
ケーキと一緒にきたコーヒーも美味しかった。
こんな美味しいところ、務に教えてあげたら、とつい考えてしまい、はっとする。
だめだ。もう、務とはいられないんだ。
そう思ったら、もう昨日で枯れたのでは、と思っていた涙がまた出てきた。
だめ。泣き止まなきゃ。
ゆっくり、ケーキを食べていく。優しい口どけに心が少し落ち着く。
食べ終えて、再びコーヒーを味わおうとした時、
「あの」
隣のテーブルの男性が声をかけてきた。
紗枝は、自分に言われてるのかわからず、辺りをきょろきょろしたが、紗枝の他に誰もいない。
男性は言った。
「食事はされないんですか?」
「え?ええ…私は、これだけで」
何故そんなこときくのだろう。やっぱりこういうレストランでデザートだけはおかしなことだったのか。
「お腹がすいていないとか」
「いえ、あの」
言葉に詰まってしまった。務に別れを切り出されてから、ろくに食事をしていない。ケーキを食べてひと心地ついたせいか、空腹感を感じられるようになっていた。
「いきなりですみません。あの、よかったらここのコース料理を一緒に食べてもらえませんか?」
「えっ」
そう言われて男性のテーブルを見ると、二人分のナプキンとカトラリーが用意されていた。
「実は、これから食事をするはずだった相手にドタキャンされたんです」
「は、はあ…」
「僕は、ものを無駄にするのが嫌いで。今夜の彼女の分の食材が無駄になってしまうのがものすごく許せない。よかったら、彼女の分を食べてほしいんです。もちろんおごります。ここの鴨のコンフィは美味しいですよ」
彼女…この人も、ふられたのかな。
そう思うと、なんとなく断れない。独りぼっちで食べるコース料理は味気ないだろう。
「本当に、よろしいんですか…?」
普段だと断っただろう。しかし、ふられた気持ちを味わっている紗枝には、男性の申し出を断るのがひどく冷酷なことのように思えたのだ。
「ええ。どうぞ」
男性は、紗枝に向かいの席にすわるように促した。
紗枝はそっと立ち上がり、隣のテーブルについた。
向かいあった男性を改めて見る。
男性は、ぬけるように色の白い肌をしていた。そして、切れ長の目をまつ毛がふちどっている。すっと通った鼻筋に、薄い唇。絵に描いたような美形だ。着ているシャツは薄い水色で、生地から高級品だとすぐにわかった。しかも、そんな服のせいだけではない、品の良さが、その男性にはあった。
きれいな人、だな…。
初老のウエイターは、紗枝が席を変わったのに何も言わず、静かに近づいてきて、給仕を始めた。
紗枝は、ナプキンを膝に置いた。
「前菜のカリフラワーのムースにコンソメジュレといくらを添えたものございます」
ケーキの皿もソースが華やかに添えられて綺麗だったけれど、この前菜もまた、美しく盛られていた。男性は、早速食べ始めた。
「うん。やはりここが一番だな」
「あ…美味しい」
料理を口にして、思わず紗枝がそう言うと、男性は言った。
「そうでしょう。この料理を無駄にするなんて、考えられない。人生を損してると思うよ」
少し怒りの滲んだ声に、紗枝はどう答えていいかわからず、言葉を探した。
「えっと…何か、急用だったんじゃないですか。ご家族に何かあったとか」
「いや…俺が、『君は俺の好みでは全然ないが、結婚というのはそれでもやっていくものだろう。縁があったということでまずは食事をしよう』と、言ったのが気に食わなかったらしい」
「え…好みじゃない、って言っちゃったんですか?」
紗枝は驚いた。それは、言われたら確かに憤慨するかも。
「そう。最初にそう言っておいた方が、相手にも誠実だろう?後になって好みじゃなかった、なんて不誠実だ」
どきん、と紗枝の中で心がざわつく。そうだ、務が、紗枝のことを重いともっと前に言ってくれていたら。こんなことにはならなかったかもしれない。
「それはそうかも、しれないですけど」
男性は、手慣れた仕草で料理を口にしている。紗枝は続けた。
「でも…自分が好意を持ってる相手に、好みじゃない、って言われたら、やっぱり傷つくと思います」
男性は、ふっと顔をあげ、紗枝と目線を合わせた。
「そうか…俺は、どうやら鈍感なタイプらしい。そんな風には思ってやれなかった」
男性は前菜を食べ終え、ポケットから名刺を取り出した。
「名乗りもせず、失礼だったね」
紗枝の前にに差し出された名刺を受け取る。
建築士 佐々木 誠司
そう書いてあった。建築士さんなんだ、と紗枝は思った。紗枝も改めて名乗る。
「水内紗枝と言います。お料理、美味しいです」
「それはよかった。昔からこの店が好きでね。きみがいなかったらコース料理を二人分食べていたかもしれない」
「そんなに?」
思わず、紗枝は笑った。二人前食べる佐々木を想像してしまっていた。
「…やっと笑ったな」
目を伏せたまま、佐々木は言った。
あ、と紗枝は思った。佐々木は紗枝がさっき泣いていたのを知っていて、わざときつめのことを言ったり、暴言を吐いたりしたのかもしれない。こちらの気持ちをほぐそうとしてくれていたのだ。暴言が顔に似合わない…と思っていたので、やっとパズルのピースがきちんとはまったような気持ちで佐々木を見た。
紗枝は、胸の内がしゃんとするのを感じた。いつまでもくよくよしたって始まらないのだ。
「あの、佐々木さんは、どういうものを建てられるんですか」
ん、と佐々木は目を上げた。
次の皿が運ばれてきた。
「ああ…最近だと、イーストタワーに、サンシャインモールかな」
「えっ」
紗枝は、驚いた。どちらも最近、ネットによく載っている、人気のスポットだ。何より規模が大きい。あんな壮大なものをこの人が設計したのか、と思うと、紗枝は目を見開いてしまった。
「すごいですね。普段、出かける方じゃないんですが、そんな私でも知っている有名スポットです。一流の建築士さん、なんですね」
「さあな。一流かどうかはわからないが、もらった仕事は必死にやるよ。最近も大きな仕事が終わったばかりで。仕事中は、ろくに食べないというか、食べるのを忘れるんでね。仕事明けにここで飯を食うのを楽しみにしてたんだ」
紗枝は、感心した。文字通り寝食忘れて仕事するということか。そんなに打ち込めるものがあっていいな、とも思う。
「好きなことをされているのっていいですね」
「うん。まあ、そうだな。アイデアが浮かばないときは、たまらないけどな」
「そんな時は、どうするんですか」
「散歩とか音楽を聞いたり…特に散歩はいい。自然に触れると、いいものが降ってくるときがある」
なるほど。その人ならではの解決策があるものなのだ、と紗枝は改めて思った。
「君は、どんな仕事をしているのかな」
矛先が自分に向いてしまった。
「コールセンターの仕事と、夜はカフェでウエイトレスしています」
「へえ。ダブルワークなんだ。大変じゃないのか」
「いえ…それに、実は昨日、カフェは辞めたんです。だからまた飲食店の仕事を探すつもりです」
「飲食に限らず、今はいろんな仕事があるだろう。こだわりがあるのか?」
「ええ…人と接する仕事が好きなんです」
「そうか、どっちの仕事もお客様対応だな。でも、嫌な客もいるだろう」
「コールセンターの仕事は、半分くらいお客様のクレームを聞かなきゃいけないんですけど、ずっと聞いていると、うまくおさめるポイントが必ず見えてくるんです。それで、なんとかお客様に納得してもらえた時、すごく嬉しいですね」
「仕事のいいところを見つけられたら、もう半分は成功しているようなもんだ。じゃあ、カフェの仕事のいいところは?」
「忙しい時って、勝手に体が動くんです。次はあれしよう、これしようって、どんどんやれる。もちろん、お客様に呼ばれたら即対応して。本当に混んでいるときって嵐みたいなんですけど、嵐が過ぎ去った後に、なかなかのやりきった感があって。それも好きなところです。あと、お客様が美味しいって、言ってるのを聞くと、自分が作ったわけじゃないのに、すごく嬉しくなります」
「…そうか。仕事を面白がれるのもひとつの才能だからな。人には二つパターンがある。嫌なことばかりフォーカスしてしまう人間と、いいことばかりフォーカスできる人間と。
君はどうやら後者みたいだ。ある意味、幸せになる力があるってことだ」
「幸せに…なる?」
紗枝は、驚いた。自分の中では、もちろん、仕事に対してきついな、しんどいな、と思う時もある。しかも、二日前に彼氏に最低な形でふられたばかりだ。
そんな自分に幸せになる力なんてあるとはなかなか思えない。紗枝は言った。
「失恋していても…幸せになれるでしょうか」
「ドタキャンで逃げられた男にそれをきく?」
紗枝は、はっとして、口に手を当てた。
「ご、ごめんなさい、つい」
「冗談だよ。まあ、俺の場合、失恋までもいかないしな。相手に気持ちがなかったんだから傷つくまでもない。…でも、君は気持ちがあったみたいだな」
「そうですね…ありました。でも、こうして佐々木さんとお食事をさせてもらって、落ち着きました。素敵なお料理って嫌なことを忘れさせてくれますね」
「気持ちを切り替えられるのは、美徳だよ。いいことだ」
紗枝はスープを飲みながら、佐々木のことを不思議に思っていた。全然好みじゃない人と強引に結婚しようとしている、少し変わった人に見えたけれど。こちらの話をしっかり聞いて、しかも肯定してくれる。お世辞でもない。
なんか…思ったより、ちゃんとした人なんだな…。
そう思うと、改めて疑問がわいてきた。
「あの…その、そもそもなんで、気持ちのない方と結婚しようと思ったんですか?」
結婚するということは、相手と生活することでもある。好みじゃない人と結婚するメリットがわからない。
「…ちょっと事情があってな。早急に結婚しなきゃいけないんだ。結婚の相手を吟味しだすと永遠に終わらない気がしてな…とりあえず、俺に好意を持っているようだったから、決めたんだが…俺のいらない言葉で、ダメになったな」
佐々木は、ふっと息を吐いた。美形で、すごい建物を造る建築士で、何も不自由はないように見えるけれど、うまくいかないことだってあるんだ。
自分だけがつらいわけじゃない。こうして佐々木と食事しなかったら、いつまでも悲劇のヒロインをやってしまうところだった。そう思わせてくれたことにも、感謝の気持ちがわいてきた。
料理は滑らかに進んでいき、どれも素晴らしく美味しかった。町の外れにあるので、きっと隠れ家的なお店なのだろう。誰にも教えず、そっと自分のものにしておきたくなる店だ。
佐々木の言うように、メインの鴨のコンフィは、確かに美味しかった。滋味があって
ここ二日ほどろくに食事していなかった紗枝には、願ってもない味だった。
「美味しいですね」
紗枝がそう言うと、佐々木は満足そうに微笑んだ。
「この後に、デザートもある。俺は、これがまた楽しみでね」
「甘いものがお好きですか?」
「そうだな。大きな仕事をした後なんか、つい買ってしまうな。最近だと高階デパートの和菓子売り場で買った豆大福も美味かったな」
「洋菓子は買われないんですか?」
「いや、そんなことはない。たまたま昨日は、和菓子の気分だっただけだ」
そこに、コースメニューの最後であるデザートが運ばれてきた。
「チョコレートのテリーヌか。美味そうだ」
「本当に」
ピンクの縁取りの皿にちょこんと乗ったそのテリーヌは、見ただけで味の濃厚さが伝わってくるようだった。
早速食べ始める佐々木を見て、紗枝もそっと一口、口にした。やわらかで、しっかりチョコの味がする。テリーヌならではの食感のせいで、チョコの存在をより深く感じることができる。
「最高だな…何か、ひとつ隠し味が入れてあるな…」
「そうですね。私もそう感じました」
「チョコとはまた違う甘さで…」
「そうなんです、ちょっとフルーティで…」
「そうかフルーツだ。だとすると」
「桃のリキュール!」
佐々木と紗枝の声が同時に発せられた。顔を見合わせて微笑む。
「桃のリキュールを思いつくなんて、君もかなりの甘党だな」
「私はその、なんていうか、買うより、作るほうが多いんです」
「作る?お菓子を?」
「はい。中学の頃からの趣味で。気分転換にお菓子を作ることは、私の中でちょっとした習慣になっていて。しんどくてそれをふっきりたい時は、お菓子を作るんです。そうすると、ちょっとダメージが薄れるんです」
「ほう」
「あのお菓子が焼きあがった時の、香りとか達成感とか…落ち込んでいるときはすごい威力を発揮して。私、何度もお菓子に救われてるんです。今日、このお店に来たのも、失恋したから、少し贅沢して、人の作ったお菓子を食べようと思って」
「そうか。少しは気持ちが晴れた?」
「ええ。だいぶしゃんとしてきました。食べ物って単純に元気にしてくれますよね。他のお料理も美味しかったし」
「そうなんだよ。この店は。隠れ家的存在で、今日みたいに早い時間に来ると、貸し切り状態で食べれるんだ。八時頃だったら満席だよ」
「そうだったんですね。じゃあ、タイミングもよかった」
「そうだな。…ただ…俺にはちょっと量が足りない」
「えっ、結構な品数でしたよね」
「そうなんだが、男としては、もう少し食べたい感じなんだ。しかし、アラカルトを頼むほどでもないな…ちょっとした焼き菓子でも食べたいところだ」
紗枝は、はっとした。自分が焼き菓子を持っていることを思い出したのだ。明日、前橋さんに渡そうと思っていたクッキー。でも…
「あの、佐々木さんは、手作りお菓子に抵抗はないですか。よく言うでしょう、人が作ったおにぎりは食べられない、とか」
「手作りだろうが、美味しければなんでもいいが?」
紗枝は、こんな素晴らしい料理の後に、自分の焼いたクッキーを差し出すのは気が引けたが、このまま佐々木と店の前で別れたら、もう何もお礼できずに終わってしまう。落ち込んだ気持ちを立て直してくれた、お礼をちゃんとしたい。
芦田さんも美味しいと言ってくれてたし、私としても成功した方だし…紗枝は、えいっと自分の背中を押した。バックからラッピングされたクッキーを取り出す。
「あの、これよかったら召し上がってください。クッキーなんです」
「へえ。じゃあ、これが君の」
「はい。私が作りました。友人は美味しいと言ってくれてましたが…お口汚しになるかもしれませんが、私にできるお礼は、これくらいなので、受け取ってもらえませんか?」
佐々木の顔がぱっと明るくなった。
「ぜひ食べたいね。早速いただいても?」
「もちろんです」
佐々木は、ラッピングのリボンをほどき、一枚クッキーを食べた。
「なんだ、これ」
どきりと、した。一流建築士には、紗枝の味では、やはりダメだったか。
「こんな美味いクッキー食べたこと、ないぞ」
「は…」
どうやら、気に入ってもらえたらしい。続けて2枚、3枚、と佐々木は結局、紗枝が渡したクッキーを平らげてしまった。
佐々木は食べ終えると、急に何かを考え込んだ。
あれ、最後の1枚のクッキーが美味しくなかったとか?ナッツ味って好みが別れるから。悪かったな、これじゃお礼にならない…
「美味すぎる」
ぼそっと佐々木は言った。
「え?」
「君は、他にもお菓子を焼けるんだろうな。焼き菓子とかケーキとか」
「ええ、まあ…」
「毎日、焼くのは大変だろうか」
「いえ、好きな作業なので、できると思いますが、そうすると問題は誰に食べてもらうかなんです。一人で食べきれないから…このクッキーも職場に『悪いけど食べて』って食べてもらっていて。毎日だったら顰蹙を買うでしょうね。だから落ち込んだ時にしか作らないようにしています」
「俺が食べる」
「え?」
「君の作ったお菓子は、俺が食べるよ。毎日食べたい。紗枝さん」
毎日?と紗枝が戸惑っていると、佐々木はきっぱりとこう言った。
「俺と、結婚してください」
紗枝は、自分の耳を疑った。
「あの、今なんて…?」
「俺と結婚してほしい。俺は、結婚にはなんのメリットもない、と諦めていたが、君とだったら、そうじゃない」
「な…」
紗枝は、あまりの言い草に呆然とした。この人は、なんてことを言い出すんだろう。
少し、間を置いて、気持ちを落ち着かせてから、紗枝は言った。
「佐々木さん。気持ちのない結婚をしようとしてダメだったわけでしょう。私からこういうのも失礼ですが、あの、同じ轍を踏もうとしてらっしゃいますよ」
「いや、踏んでない。だって今回はちゃんと俺にメリットがある。君の作ったお菓子が毎日食べられる」
「そんな、今日お会いしたばかりですよ。いきなり結婚なんて飛躍しすぎです」
「そうか…最近、俺と結婚したい女性とばかり会っていたから、女性は、皆俺と結婚したいもんだと思っていた。君はそうじゃないんだな」
はあ、と紗枝は、ため息をついた。
イケメンでお金持ちって、こういう風になっちゃうんだ。困ったものだな。
「私、結婚は、ちゃんとお互いのことを知ってからしたいです。そうして、自分と一緒に人生を共にすることができる伴侶なのか、選びたいです。私、土曜日に彼氏にフラれたばかりで。その彼とも簡単に交際したことや、夢を一緒に語って、私だけがもりあがってしまった、ということに後悔があります。だから、次の恋は、もっと慎重にしたいんです」
「ふうん…夢、ね」
佐々木は紗枝の言葉が伝わっているのかいないのか、まだ何か考えている。
「君はダブルワークをしていたんだよな。こう言ってはなんだが、経済的にきついんだろう。しかもさっきカフェの仕事の方は辞めていて、飲食の仕事を探すと言っていた」
「…そうです」
話の筋が見えなくて、紗枝は怪訝な顔をした。
「俺なら、君にいい仕事を紹介できるかもしれない」
「え?」
「結婚の話は、ちょっと脇に置いておこう。俺の結婚だって早急に決めたいが、君も生活がかかってるから、早い方がいいよな。どうかな、明後日、もう一度会えないか」
結婚の話から、仕事の話へ。目まぐるしい展開に紗枝はついていくのがやっとだった。
仕事とひとことで言っても、いろんな仕事がある。佐々木は、さっきまでは悪い人ではない、と思っていたが、結婚話を出されれてから、やっぱり変な人だと思い始めていた。
その人からの仕事の紹介…なんか怪しい。
だが、今まで通りだっら、ダブルワークで時給の安い飲食の仕事をすることになる。
好きな仕事だが、体力的にきつい面もある。
…佐々木さんの、話を、聞くくらいなら、いい…?
何しろ、今日はコース料理をご馳走になってしまったし、紗枝の気持ちをしゃんとさせてくれた。その恩義がある。無下に断るのもどうだろう、という気になってくる。
「じゃ、じゃあ…お話を、聞くだけなら」
「決まりだな。じゃあ、明後日の夕方にしよう。迎えに行く。そして、その仕事関係の人と引き合わせるよ」
「わかりました。お願いします」
食後のデザートとコーヒーも、もう食べ終えていた。
店の中にちらほらと客が入り始めている。
佐々木と紗枝は席を立ち、食事代はもちろん佐々木が払った。紗枝は自分だけが食べたケーキとコーヒーのセットだけでも払おうとしたが、佐々木は譲らず、それも払ってくれた。
店を出て、紗枝は改めてお辞儀をした。
「今晩は、美味しいお料理をありがとうございました」
「そうだな、この店の名前にぴったりの夜だったな」
「店の名前?」
店に入る前にみたけれど、さっと見て読めなかった。
「うん。Koyoi というんだ。今宵出会えてよかった、の今宵だ」
「へえ…」
なんだか、口の中で転がすと響きがいい。今宵。
「送っていくよ」
そういえば、佐々木はノンアルコールカクテルを飲んでいた。店の駐車場に黒い高級車が
置いてあった。紗枝は恐縮したが、佐々木は「女性を一人で帰すわけにはいかない」と言って半ば強引に紗枝を車に乗せた。数十分後、車は紗枝のアパートの前に到着した。
「じゃあ、今宵はこの辺で失礼します」
今宵という言葉を使ってみたかった。
「うん。明後日の17時に、ここに迎えにくる」
「よろしくお願いします」
紗枝は頭を下げた。すると佐々木が何か思いついたようだった。
「紗枝さん、ちょっとお願いがあるんだが…」
翌日の夜。
「建築士なのはわかったけど。いきなり結婚しようなんて、ぶっとんでるわねえ」
高校時代からの親友で、今でも紗枝の地元に暮らす、京香が言った。紗枝から電話したのだ。
「そうでしょ。変な人だよね。なんか訳ありだったけど、それにしたって…ちょっと感覚がおかしいよね」
「イケメンでお金持ち。言うことないのに、性格に難ありかあ、なかなかうまくいかないね」
「京香、佐々木さんの性格がよかったら、結婚話に乗った、と思ってるの?私、失恋したばかりで、そんな気になれないよ」
「えー。そお、サンシャインモール造った人なんて、ビッグすぎて、あたしだったら即プロポーズにOKしちゃうかも。お金持ちで、イケメン、問題ないよね」
「もう、他人事だと思って…」
「でも、安心した」
「うん?」
「紗枝、失恋した割には、いつもと同じ声出せてるよ。以前だったら、もっと死にそうな感じになったと思う。その佐々木さんって変わってるけど、いいカンフル剤だったかもね」
確かに。失恋の痛手は佐々木のことを考えると薄くなっていくような…。
「で、佐々木さんの紹介する仕事って何なんだろうねえ」
「そこなのよ。それがね、佐々木さん、お菓子焼いてきてくれっていうの」
「どういうこと?」
「理由は言わなかったけど、別れ際にお願いされて。お菓子を3種類焼いて持ってきてほしいって。どういうつもりなんだろう」
「うーん、その紹介してもらう人に、あいさつ代わりに手土産とか?紗枝のお菓子は美味しいから、ちょっとしたポイント稼ぎになるかも」
「そうかな…だって、その紹介相手が甘党じゃなかったら迷惑でしょ」
「そうだけど。紗枝のお菓子は、美味しいよ。よっぽど甘いものダメな人じゃなかったら、喜ばれると思うよ」
「ありがとう」
「もしかして、佐々木さんが食べたいだけだったりして。毎日紗枝のお菓子が食べたいからってプロポーズしたんでしょ」
「まさか」と。紗枝は笑ったが、次の瞬間、ありえるかも、と思えてきた。
「まあ、よくわからないけどどう転んでもいいように丁寧にラッピングしておくわ」
「そうね。それがいい。お仕事、決まったら連絡して」
「了解」
それから他愛ない話をいくつかして、電話を切った。紗枝はその後、約束のお菓子を作った。カフェのバイトがない分、時間はたっぷりある。作り終えて、ベッドに入った時は、部屋中に甘い匂いがして、何だか楽しかった。務への執着も随分、少なくなってきた。
明日、どうなるんだろう…そう思いながら、眠りについた。
翌日。コールセンターから帰宅し、身支度を整えると、早速アパートの下に佐々木の車が停まった。
すぐに紗枝のスマホが鳴って、佐々木から着いたよ、と言われた。前回、逢ったときに、連絡先は交換していた。
紗枝は、ワンピースにジャケットを羽織った。スーツじゃなくていいから、きちんとめの恰好で、と佐々木に言われていたのだ。部屋を出て、佐々木の車に乗った。
「お疲れ様です」
佐々木も紗枝同様、仕事を終えて来てくれているはずだ。
「いや。今は。そんなに仕事がたてこんでないからな。その膝にあるのがお菓子?」
「あ、そうです。3種類ほど」
紗枝は、お菓子の箱を用意して、綺麗にラッピングしていた。
「どんなのか、楽しみだな」
佐々木が機嫌よさそうに言った。
まさか本当に佐々木が食べるんじゃ、と紗枝はこっそりくすりと笑った。
車は街を通り過ぎ、郊外の住宅街に入っていった。だんだん、家並みが豪邸ばかりになっていく。これは…高級住宅街、だわ。
紗枝は、疑問がわいてきた。どこかのビルだとかカフェとかで仕事相手を紹介されるのかと思っていた。どなたかのお宅にお邪魔するのだろうか。
紗枝が、佐々木に聞こうとすると、佐々木が、着いたよ、と言った。
車から降りて、目の前にあったのは、高い塀がに囲まれた、大きなお屋敷だった。豪邸ばかりのこの辺りでも、一番大きな家かもしれない。
紗枝は何がどうなるのか見当もつかず、心配になってきた。
「さて。紗枝さん、リラックスしてくれていいからね。顔が緊張してるよ」
「そ、それはしますよ。こんな立派なお宅…」
佐々木がさらりと言うので、紗枝は思わず弱音を言った。
「そうか?まあ、大丈夫だよ」
佐々木が呼び鈴を押すと、エプロン姿の中年の女性がドアから出てきた。
「誠司さん、いらっしゃいませ。奥様がお待ちです」
「ありがとう、みつさん。あがらせてもらうよ」
家政婦らしいみつさんの後に二人でついて行くと、広いリビングが現れた。6人は座れそうな長いソファに、60代くらいの女性が座っていた。彼女を取り囲む家具や調度品は、ひと目でわかるほど高級品ばかりだった。
ソファ前のローテーブルには、お茶の用意がしてあった。女性は、佐々木と紗枝の顔を見るなり、立ち上がった。
「誠司さん、会うのは久しぶりね。なかなか顔を見せないから、心配してたのよ。あなたの見合いがうまくいかない話ばかり聞こえてくるから」
佐々木は苦笑した。
「どうも見合いには向いていないようです。美佐子さんが、お変わりなくて嬉しいですよ」
「私には、いいことを言ってくれるのに、どうしてお見合いじゃダメなのかしらねえ。あ、そちらのお嬢さんが伺っていた方かしら」
視線を女性から向けられ、紗枝は慌ててお辞儀をした。
「初めまして。水内紗枝、と言います」
「紗枝さん、こちら、俺の母方の叔母で、美佐子さん。はっきり言うと、この界隈の女ボスだ」
「いやだ、よしてよ。ちゃんとサブリナ会、会長っていう肩書があります。あ、紗枝さんにサブリナ会なんて言っても、わからないわよね。この辺りのマダム、そうね五十代から七十代前半くらいの人が入っている会なの。皆で美味しいものを食べたり、おしゃべりに興じたりする、気楽な会よ。誠司君は大の甘党だから、たまにサブリナ会のパーティにも呼んであげてるの。イケメンだから、マダムたちがみんな喜んじゃって。いつもちょっとしたアイドルよね」
「勘弁してくださいよ、マダムたちにおもちゃにされる身にもなってください。というか、そのサブリナ会にも関係のある話を今日持ってきたんです」
「あ、そうだったわね。紗枝さん」
「は、はい」
二人の話を聞いていることしかできなかったので、名前を呼ばれてドキリとする。
「随分、美味しいお菓子を焼かれるそうね。誠司さんは舌が肥えてるから、彼のお墨付きはなかなかもらえないのよ。いきなりで悪いけれど、私にも食べさせてもらえないかしら?」
「え…あ、はい。私ので、よければ」
紗枝は驚いた。昨日京香と話したようなポイント稼ぎの手土産とは違うようだ。紗枝は、ちらりと佐々木を見た。佐々木は、頷いた。紗枝は、ドキドキしながら、持ってきたお菓子のラッピングをほどいた。テーブルの上には、最初からお菓子を食べるつもりだったのか、皿とフォークが用意されていた。
紗枝は皿を借りて、作ってきたお菓子を並べた。
イチジクのショコラに、タルトタタンにシュークリーム。
「まあ、これは美味しそうね。誠司さんも食べるでしょう」
「もちろんですよ。それが楽しみできました」
「底抜けねえ。あ、もちろん紗枝さんも食べてね」
三人でソファに座り、紗枝がシュークリーム以外を切り分ける。3種類のお菓子のそれぞれを、皿にのせた。
「ちょっとしたお茶会ね」
美佐子は、ポットにあった紅茶をカップに注いで、自分と二人に配した。
「いただきます」
美佐子は、早速、タルトタタンを一口、口に入れた。
すると、大きく目を見開いて、言った。
「…美味しいわ。手作りお菓子の域を超えてるわね。しっとりしていて、口当たりもいい」
「俺は、クッキーしか食べてなかったんですが、読みが当たりました。他のものも、すごく美味い」
「あ、ありがとうございます」
まさかお菓子の品評会になるとは思っていなかった紗枝は、恐縮することしかできない。
佐々木と、美佐子は、3種類のお菓子をそれぞれ食べ終えてしまった。
美佐子は、感嘆のため息をつきながら、言った。
「どれも、すごく美味しい。プロの味みたいってよく言われるでしょう?」
「たまに、ですが。友人にそう言われます」
「こんなに美味しいものが自分で作れたら最高ね。…紗枝さん、私に、お菓子の作り方を教えてもらえないかしら」
「えっ。私が、ですか?」
驚いて佐々木を見る。佐々木は、にっこり笑った。
「そうなんだ。美佐子さんも俺も甘党で、よく一緒に甘いものを食べる機会があるんだが、その時に美佐子さんが必ず言うんだ。私もこんなの作れたらいいのにって」
「そうなの。若い頃は、お菓子の本と格闘して、作ってみたりしたんだけど、全然うまくいかなかったわ。自分で作るのは諦めたけど、未だに作ってみたいなあ、という気持ちがくすぶっていたの。ねえ、紗枝さん。私にお菓子作りを伝授してくれない?最初は、簡単なものからでいいから」
紗枝は、驚いていた。しかし美佐子は裕福なマダムだ。その気になれば、有名パティシェのお菓子教室なんて、難なく行けるだろう。
「ほんとに…私のお菓子でいいんですか?」
自分のお菓子にそんな価値があると思えず、紗枝は言った。
「そうよ。今、食べたみたいなのが作ってみたいの。それで…ホームパーティーなんかしたときに、私が焼いたのよ、って言ってみたいわ」
「はあ…」
どうやら美佐子は、本気で紗枝のお菓子を気に入ってくれているらしい。
「有名な料理研究家のお菓子教室にも行ったことがあるけど、先生を取り囲んで手順を見るだけで、結局、うちに帰ってきて、作ったりはしなかったわ。だからね、紗枝さんには大勢でやるお菓子教室をやってほしいんじゃなくて、マンツーマンで、私に教えてほしいの。場所はうちのキッチンを使ってもらっていいから」
お菓子の作り方を、私が美佐子さんに教える。つまり、それは。
「じゃあ…佐々木さんが、言ってた、私に仕事を紹介するっていうのは」
「そう。美佐子さんにお菓子作りを指南する。慣れてきたら、サブリナ会の皆さんのお宅で出張お菓子教室をやったらいい。皆さん甘いものが大好きだ。喜ばれるよ」
「出張お菓子教室…」
「君は、人と接する仕事が好きだと言っていた。適任だと思ったんだが」
「それは、そうですが…」
自分にそんなことができるだろうか、という不安が拭えない。
「あ、そうだ受講料のお話をしていなかったわね。何か一つ、お菓子の作り方を教えてもうとして、これくらいでどうかしら」
手元にあった手帳に、美佐子はさらっと数字を書いて、紗枝に見せた。
紗枝は、息を飲んだ。0が、多すぎる。
「こ、こんなにもらっていいんでしょうか?」
「あら、だってここまで来る交通費に材料費まで入っているのよ。これくらいは当然でしょう」
あっさり言われたが、紗枝がカフェに勤めていた時の時給の十倍だ。
「紗枝さん。金額をもらいすぎなんて思う必要はないよ。このサブリナ会の皆さんは、刺激を求めてるんだ。いつも似たようなお菓子を食べて喋るだけなのに飽きてらっしゃる。紗枝さんからお菓子作りを習えたら、新鮮な時間を過ごせるだろう。それに見合うお金はもらっていいと思うよ」
佐々木が言った。
紗枝は、ドキドキしてきた。自分にマダムたちに教えることなんて、できるだろうか。でも、この十年、お菓子を作るときは、精魂込めて作ってきた。プレゼントすると、必ず友人には喜ばれた。そして、さっき、目の前で美佐子も佐々木も美味しいと言ってくれた。
これはチャンスかもしれない。紗枝は、自分の背中を胸の内で、思い切り押した。
「私でよければ…出張お菓子教室、やらせてください」
手に汗をかいていた。
「商談成立ね。じゃあ、もうちょっと細かいことを詰めましょうか」
それから一時間ほど、紗枝と美佐子はこれからやるお菓子教室について、話し合った。基本的に月二回、日曜日の午前中に美佐子の家にやってきて、一緒にお菓子を作って作り方を覚えてもらう。台所も見せてもらって、紗枝が持ってくる道具に何が必要かもメモした。
佐々木は、そんな二人を見守りつつ、お茶を飲んでいた。
初回のお菓子教室の日取りは、早速今度の日曜日からになった。夕飯もうちで食べていきなさいよ、と美佐子は言ってくれたが、さすがにそれは遠慮した。それに、教室で何のお菓子を焼くのか、うちでいろいろ考えてみたかった。
帰りも送ってくれるという佐々木の車に乗り込む。しばらく車を走らせてから、佐々木は言った。
「うーん、お菓子だけじゃ物足りないな、一緒に蕎麦でも食べない、紗枝さん」
「確かにお蕎麦なら食べられそうです。でも、佐々木さんお仕事がお忙しいのでは」
一流建築家だ、設計はもちろん、打合せなど多いのではないだろうか。
「明日のあさイチで業者との会議があるが、今夜は空いている。じゃあ、蕎麦に決まりだな」
佐々木がそう言って連れて行ってくれたのは、そこから二十分ほどにある、古民家をリノベーションした蕎麦屋だった。四人がけのテーブルが、それぞれ太い柱で仕切られていて、照明も間接照明で仄明るい。仕切りられた空間はたっぷりあって、隣の席の客の声は聞こえない。静かで、落ち着いた店だ。
佐々木は天ざるを、紗枝はざるそばだけを注文した。
「あの、今日は、本当にありがとうございました。思いがけず、いい仕事を紹介してもらって。うまくいくかは不安ですけど」
「そうか?不安がる要素は何もない、と思うが。美佐子さんともさっきうまくいってたしな。もうこの時点で、美佐子さんが喜んでいる顔が思い浮かぶけどな」
「そうでしょうか…ずっと自分で作ってきたばかりだったので。教える、ということが上手にできるか心配です」
そうか、と佐々木は少し考えた。
「じゃあ、手順とか書いたレシピを作成すればいい。君はそらで作れるだろうが、美佐子さんは初心者だからな、口伝えだけでは覚えられないかもしれない」
「あ…そうですね。手取り足取りのマンツーマンでも、後でレシピを見返したいですよね。そうします。…佐々木さんは、いつもこんな風なのですか?」
「うん?」
「なんて言うか…出会ったばっかりの人に仕事を紹介するとかアドバイスするとか、何だか手なられてらっしゃるから」
「そうだなあ。確かにそういう世話を焼くのは好きかもしれないな。この間、食事したときに言ったろう。物でも人でも無駄にするのが嫌いなんだ。何か才能を持ってる人がいて、それを宝の持ち腐れにしとくのは、本当にもったいない、と思う。だから、俺の人脈が活かせるんなら、人をつなげるのは厭わないかな。そうやって縁組して、うまくいった時は、自分のことのように嬉しい」
はあ、と紗枝は頷きながら、感心した。建築士というと、建設物を建てておしまいのイメージがあるが、佐々木はどうやらそれだけではないのだ。ビッグプロジェクトの中心ともなれば、人脈の広さも紗枝の想像を超えているだろう。そんな中、人の才能を見いだし育てることもしている…突然結婚の話が出てきた時は面食らったが、紗枝が思っていた以上に、懐の深い人なのかもしれない。
注文した蕎麦がやってきた。食べると、麺がほどよい固さできりっとしていて、美味しい。つゆも絶品だ。
「美味しいです」
紗枝は思わず笑顔になって言った。
「紗枝さんは美味そうに食べてくれる。ご馳走しがいがあるな」
「ご馳走って、いけません。お仕事を紹介していただいたんですから、ここは私に払わせてください。お礼がしたいんです」
「お礼なんていらないよ。悪いが女性に払わせたことはない。美味そうに食べてくれたら、それでいいんだ」
「佐々木さん…」
紗枝はふと思った。この間、佐々木との食事をドタキャンした彼女も、こういう佐々木の大人らしい振舞いを見て、惹かれていたのかもしれない。惹かれていたからこそ、好みじゃない、と言われて辛かったのだ。
蕎麦を半分くらい食べたところで、佐々木が口を開いた。
「紗枝さんのお菓子作りは、子供の時から?」
「そうですね…前もちらっとお話しましたが、嫌なこととか落ち込むことがあった時、必ず作ってましたね。手を動かしている内に、気持ちがざわざわしてるのが落ち着くんです。焼きあがった時の香りをかぐと、心がぱあっと華やぐんです。焼きたてのケーキを味見してる時は、もう心が軽くなってますね」
「お菓子によるセラピーだ。お菓子作りはじゃあ、独学で?」
「作り始めは母に教わって…小学校高学年からはもう本を読んで一人で作っていました。お菓子の本がたくさんある家だったんです」
「それで、あんなに上手く焼けるものなんだ。すごいな」
「いえ、厳密には独学ではないです。高校の時、一年だけ、お菓子教室に通いました。ちょっとしたテクニックはそこで叩き込まれたというか」
「そうか、なるほどね。じゃあ、その頃教わった感じを思い出して美佐子さんに教えるといいな」
「そうですね。やってみます。でも…やっぱり腑に落ちません。どうして一度食事しただけの私に、こんなによくしてくださるんですか?」
紗枝だけが、いい目にあってばかりなので、きいてみたくなった。
「さっきも言ったけど、無駄にするのが嫌いでね。紗枝さんのお菓子の才能は活かさないともったいない。それと…俺も、人から才能を見つけてもらった口だからだ」
「じゃあ、建築の方の…?」
「そう。俺の実家は医者一家でね。俺は三人兄弟の末っ子なんだが、上二人の兄が迷いなく医者になってしまった。ところが、どういうわけか、俺には、ちっとも医者になりたい気持ちが芽生えない。親は当然のように俺も医者になると思ってる…勉強は好きだが、なんだかもっと自由度があることがやってみたいと漠然と考えてた。でも何をしていいかわからなくて、中学時代は部屋にこもってプラモデルばかりつくってた。だんだんそれだけじゃ物足りなくなって、ジオラマを作るようになって。ジオラマってわかるかな。模型で街とか公園とかを作るんだ。それをやってたら、家の模型を作るのにはまって…ちゃんと間取りを考えたり、屋根の向きを工夫したり…そしたら、それを見た叔父…美佐子さんの旦那さんだな。彼が、誠司は建築とかそういう方面に行ったら、と言ってくれた。自分の中にはない発想だったから驚いたよ。自分のやってることが仕事につながるんだ、すごい発見だった。それからは建築の本を読み漁って、医者になれっていう親父をなんとかねじ伏せて。学生時代に建築物の海外のコンペで入賞して、それから大手の設計事務所に入れることになって…つまり、叔父さんの一声がなかったら、趣味で模型作ってる、医者になってたかもしれない。そんなことがあったから、才能を持て余してる人間には尽力したい、という気持ちあがあるんだ」
「そうだったんですね…でも、すごいです。学生時代から、ちゃんとやりたいことをやってたって、素敵です。私なんかはな」
花嫁修業、と言いそうになって紗枝を口を閉じた。頑張って建築の仕事をものにしようとしていた佐々木にくらべたら、花嫁修業なんてぬるすぎる。
食事を終えて、車に乗り込んだ。N町にも美味しい蕎麦屋があって、などと他愛ない話しをしていると、佐々木がそういえば、と言った。
「お菓子教室の一回目は今度の日曜日だったよな。よかったら俺が送り迎えをやるよ」
「えっ。そんな貴重なお休みを、いけません。私なら大丈夫です」
紗枝は、美佐子と教室のことで話を詰めている時、美佐子の家の最寄りのバス停を教えてもらい、簡単な地図も書いてもらった。紗枝のアパート近くのバス停から三十分、バスを降りて十分もかからず美佐子の家に着きそうだった。
「バス一本で来れますから…」
紗枝が言うと、佐々木は笑みをもらした。
「君は、わかってないな。ただで送り迎えしようとは思ってないよ」
一瞬、紗枝は疑問に思ったが、すぐに答えは出た。
「佐々木さん、もしかして私が作るお菓子を狙ってるんじゃ…」
「ははは。バレた?今日のも美味しかったしな。美佐子さんに教えて作るわけだろ。ケーキ一個なんて二人で食べきれないだろう。ぜひ味見させてほしいね」
「本当に甘いもの、お好きなんですね」
紗枝は少しばかり唖然として言った。
「そうだな。君が作るお菓子は特別に好きなようだ。今日、食べたのも最高だったし。他の食べてみたくて仕方ないんだ」
紗枝はそう言われて悪い気はしなかった。
「でも、お仕事がお忙しいんじゃ。佐々木さんはお休みの日もお仕事があるんじゃないですか?」
一流建築士だ。何かと忙しそうなイメージがある。
「いや。大きな仕事が終わったばかりなんでね。割と時間があるんだ。じゃあ、9時半に、君のアパートの前に迎えに行く。どうかな?」
そんなに甘えていいのだろうか、と紗枝は思ったが、佐々木はとにかく紗枝のお菓子が食べたいのだ、と思うと気持ちも軽くなった。
「じゃあ、お言葉に甘えます。よろしくお願いします」
また日曜日に、と佐々木は紗枝をアパートに送ると帰って行った。
それから、紗枝にはいろいろやる事があった。どのケーキを美佐子に教えるか選ばなくてはいけない。それが決まったら、そのケーキの試作をして、美佐子に教えるポイントなどをメモする。そして、手書きで、改めて美佐子用のレシピを作成した。
レシピに通常の手順と、ここは難しいかも、という注意点も盛り込んでみた。
美佐子と初めて逢ったのが水曜日だったので、木曜と金曜のコールセンターの仕事の後は、そんなお菓子教室の準備に追われた。
土曜日は、コールセンターも休みで、比較的ゆっくり過ごした。カフェのバイトをしていた時は、朝からカフェに入っていた。こんなにのんびりした朝は久しぶりだった。
リビングで朝のコーヒーを飲みながら明日のお菓子教室のことを考える。準備は丁寧にしたけれど、人に教えるのは初めてだ。少し、緊張もする。
コーヒーの香りを楽しんでいると、ふっとひらめきがあった。
「そうだ」
紗枝はキッチンに向かった。
日曜日。時間通りに佐々木は、紗枝を迎えに来てくれた。
「朝から、ありがとうございます。お疲れではないですか?」
佐々木は、休み返上で来てくれているのだ。
「体力はあるほうでね。休日の早朝は、ジムに行っている。甘いものを食べるにはウエイトコントロールも大事でね」
紗枝は、佐々木を美しい人だと思っていたけれど、そんなに水面下で節制していたのか、と感心した。初めて逢った時こそ、急にプロポーズしてきて、変わった人かと思ったが、それはイレギュラーで、本当の佐々木は自分を律することのできる、きちんとした人なのだ、と紗枝もわかってきた。
日曜日のせいか、道は混んでいなかった。スムーズに、美佐子の家にたどり着いた。お菓子教室の開始時間の十分前だった。
今日も玄関先でみつさんが迎えてくれた。家政婦さんにお休みはないのだろうか、とちらりと思った。
案内されると、エプロンを着けた美佐子が、笑顔で紗枝を迎え、佐々木の顔を見て驚いていた。
「あら、誠司さんが送ってくれたの」
「美味しいお菓子を食べれるとしたら、来ないわけないでしょう」
「でも、今日作ったお菓子はお友達にあげるから食べれないわよ」
「そんな。一切れくらいいいじゃないですか」
「仕方ないわねえ」
まるで漫才のように続く会話に紗枝はクスクス笑った。キッチンに、持ってきた製菓用の道具を並べ始める。綺麗にかたづけられており、使いやすそうなキッチンだ。
「じゃあ、教室スタートっていうことで、いいかしら、先生?」
先生と呼ばれてくすぐったかったが、紗枝は気持ちを引き締めて、頷いて言った。
「では、始めましょう。今日は基本のパウンドケーキです」
佐々木は、お菓子作りの過程には興味がないらしく、リビングでお茶を飲みながら本を読んで、紗枝の作るお菓子を待つようだ。
お菓子作りは、丁寧な測量から始める。1グラムも狂わせないようちゃんと測ることで、出来栄えが全然違うのだ。その辺は美佐子もわかっているようで、スムーズに進んだ。
ボールに入った室温にしたバターとグラニュー糖をハンドミキサーで混ぜていく。
「あら、泡だて器を使うの?」
「はい、乳化という作業になります。全体がまざったと思ってから、わずかに重く感じる瞬間まで混ぜ続けて、しっかりと乳化させます」
さらに、アーモンドプードル、薄力粉、ベーキングパウダーを入れて、切るように混ぜる。
紗枝はお手本を見せて、美佐子にやってもらった。
「この切るように、ってくせ者よね。お菓子の本に載ってるけど、写真じゃわからないもの」
「そうですね。コツをつかむと簡単ですよ。あ、美佐子さん、今のいい感じです。切るように混ぜる、できてます」
「そう?よかった」
「ここでヘラを返すようにして、ツヤが出るまで合わせます。ここでしっかり合わせておくと、生地がしっとりしますよ」
あらあ、と美佐子が意外そうな声を出した。
「パウンドケーキなんて、材料をさっくり、混ぜておしまい、と思ってたわ。こんなに丁寧にやるものなのね」
紗枝はにっこり微笑んで言った。
「何を丁寧にやるかで、結果が大きく変わるから、やった甲斐がありますよ」
「なるほどねえ」
と、美佐子は感嘆の声をもらした。
その後も作業をし、後はオーブンで焼くだけになった。焼いている間、泡だて器や、使ったボウルなどを紗枝が洗って、美佐子が布巾で拭いた。
「ふふふ、焼き上がりまで待つときのドキドキ感って最高ね」
「そうですね、いい匂いもしてくるし…格別な瞬間ですよね」
「先生の教え方、とってもよかったわ。かゆいところに手が行き届いている感じよ。手書きで作ってきてらったレシピも助かったわ。あれがないと、一人でつくれないもの」
「はい。この教室で作っただけじゃなくて、ご自分の好きタイミングで、また作ってほしくて。お一人で作って成功するのも、また楽しいと思います」
「あーあ。うちの娘も、先生くらい素直だといいのに。なんていうのかな、家事をなんでもみつさんに任せているせいで、『お母さんなんて、何にもできないのね』って、なめられているのよ。娘が幼いときは、必死に家事も育児もやったものよ。今、ちょっとゆっくりしてるだけなのに…。絶対、先生と作ったケーキを今度食べさせて、『お母さん、やるじゃん』って見返してやりたいわ」
「ふふふ。じゃあ、お嬢様がお好きなタイプのケーキを次回、作りましょう。何ケーキがお好きですか?」
「うーん、やっぱりレアチーズケーキには、目がないわね。いろんなお店のを買って、食べ比べしているみたい」
「なるほど。チーズケーキですね」
紗枝は、スマホで撮ったケーキの写真を探した。焼き上がりの記録として、一応自分で作ったお菓子類は、写真に残しておいたのだ。
スマホの画面に、赤いソースのかかったチーズケーキが現れた。
「あら、これも美味しそうねえ」
「私も、チーズケーキを食べるのが好きなので、よく作ります。じゃあ、次回の教室は、これでいいですか?」
「すごい、どんなケーキを作るか、こちらに選ばせてくれるのね。巷のお菓子教室じゃ、こうはいかないわ。大して好きじゃないケーキを作ることだってあるもの。マンツーマンの教室、大当たりね」
美佐子が嬉しそうに言ってくれるので、紗枝も微笑んだ。
そうこうしている内に、オーブンが鳴り、焼き上がりを知らせた。
できあがったのは、きつね色の美しいパウンドケーキだった。少し冷めるのを待って、美佐子と佐々木、紗枝の三人で、食べてみることにした。
テーブルの上には、いつの間にかサンドイッチやサラダといった軽食も並べられていた。みつさんが用意していてくれたらしい。
「お菓子を焼いたらこのくらいの時間になると思って、昼食も食べて行ってほしいの。
先生、お時間は大丈夫?」
「はい…恐縮です。お菓子を教えただけなのに、昼食もごちそうになるなんて」
「何言ってるの、こんなのお安い御用よ。私は、先生とゆっくりお話ができて嬉しいわ」
佐々木も入れて三人で軽食をいただいた。丁寧にいれられた紅茶も美味しい。他愛ない話をして、ケーキが冷めるのを待った。
「そろそろ、ケーキが冷めたかしら?」
「そうですね。いいと思います」
紗枝は、慎重にパウンドケーキをカットして、三人の皿に一切れずつ置いた。三人で同時に食べ始める。
「うん、これも美味いな」
一番に声をあげたのは、佐々木だった。
「本当。しっとりしていて、さくさくね。確か、洋酒を入れたわよね。あれがよく効いてるわ」
「小さいお子さんがいるわけではないので、洋酒をアクセントにしてみました。お気に召されたようで、すごく嬉しいです」
「嬉しいのはこっちの方よ。先生とだったら、こんなケーキが作れるのね。すっかり自信がついたわ。私、この後、もう一回このパウンドケーキ、作ってみるわ。夕方、うちでホームパーティをやるから、来てくれた皆に食べてほしいの。『私が焼いたのよ』って言って、皆を驚かせたいわ」
いたずらっ子な少女のように美佐子が目をキラキラさせてそう言うので、紗枝も嬉しかった。ちょっとお菓子を教えただけで、こんなに喜んでもらえるなんて。高価な受講料をもらえるだけでなく、誰か人の役に立ったことからくる充足感は、紗枝の想像をはるかに超えていた。
美佐子は、そうだわ、と声をあげた。
「ねえ、夕方のホームパーティにも、先生顔を出さない?この間言っていたサブリナ会のメンバーが五人くらい来るの。私、先生を彼女たちに紹介したいわ。そして、先生に私がちゃんと作ったんだ、ってことを証明してほしいの。こんなに美味しいお菓子を食べたら、彼女たち、きっと買ってきたんでしょ、って信じてくれないもの。ね、いいでしょ。先生、いらっしゃいよ。気さくな会よ。それとも何か予定がおありかしら」
「いえ…特に予定は。でも、私なんかが参加して差支えないんですか?」
「全然。大歓迎よ。若い人とお話できるの、皆よろこぶと思うし」
「は、はあ…」
急なお誘いに、戸惑い、思わず佐々木の方を見る。
「行ってみるといい。楽しいマダムたちだから心配いらないよ。今後、お菓子教室をやっていくのに、人脈を作っておくのは大事だ。アピールして、生徒さんを増やしたらいいじゃないか」
そんなに簡単に集客できるだろうか、と紗枝は思ったが、美佐子さんとつきあっていくのにサブリナ会は避けて通れない気がする。早めになじんでおくのは悪くない選択かもしれない。
「アピールできるかわかりませんが…私でお邪魔にならないのなら、行かせてください」
美佐子は、紗枝の返事に喜色満面となった。
「嬉しい!ぜひ楽しみに来てちょうだい。パーティは17時半からよ。誠司さんは、どう?」
「僕もよかったら寄せてほしいですね。今日は紗枝さんの足がわりのつもりで来てるし。
夕方もこちらにお届けしますよ」
「それはよかったわ。じゃあ、誠司君、よろしくね」
紗枝は目をぱちくりした。この教室の送り迎えだけでも恐縮なのに、ホームパーティの送迎までしてくれると言う。
「そ、そんな佐々木さん、ご迷惑じゃないんですか。私にばっかりかまけてられないでしょう」
「来るときも言ったろう。大きな仕事が終わったばかりだから時間はあるんだ。君は気にせず、俺を使うといいよ」
いいよ、と言われても「はい、そうですか」とも言いにくい。
「パウンドケーキも美味いが、みつさんのサンドイッチも最高だ。腕をあげられたのではないですか」
紅茶などを給仕していたみつさんに、佐々木が言った。
「とんでもないです。でも、こうして食べていただけるだけで、ありがたく思っています」
三人ともに頷きながら、食事を楽しんだ。話題はホームパーティの準備の話になり、いつの間にか、紗枝と佐々木は午後を一緒に過ごし、夕方また美佐子の邸宅に来る流れになった。
昼食を食べ終え、ではまた後で、と美佐子に挨拶して、紗枝は佐々木の車に乗った。
「さて。思いがけず時間ができたな。紗枝さん、どこか行きたいところはない?」
佐々木は車を出しながら言った。
「そうですね…私、教室が終わったら自分の部屋へ帰ろうと思っていたので、特にどこも考えていなかったというか…」
「天気がいいからな、公園でも行ってみようか」
紗枝もそれがいい、と思った。気楽な空間で体を伸ばしたかった。美佐子は気さくだが、やはり60代のマダムという貫禄がある。緊張せずにはいられなかった。