「カイルが、グレグの使いっていうのは、本当なの?」
「あぁ、本当だ。呪いを受けたウィンフレッドが、どんな姫なのか様子を見てこいと言われて、やってきた」
彼はこちらを警戒しながらも、赤い琥珀色の髪と目をした私を、まっすぐにじっと見ている。
「あなたもグレグに捕まっているの?」
「は? どういうことだ」
「使いって、あなたもどこかの国でグレグにさらわれて、カラスにされちゃったとか?」
「え? ちょっと話が見えない。どういうこと?」
「だから、カイルも私のようにグレグに魔法をかけられて、逃げられないまま使われてるとか?」
彼は一瞬、きょとんとした顔を見せたかと思ったとたん、お腹を抱えて笑い始めた。
「あはははは! 誰がそんなヘマするかよ。俺は奴に直接頼み込んで弟子にしてもらったんだ。なにせグレグさまは、世界一の魔法使いだからな」
彼はその美しい顔に、ニヤリと得意気な笑みを浮かべる。
「弟子をとったの? あのグレグが? それでカイルは、彼と一緒にいるってこと?」
「あぁ、そうだ」
カイルは上機嫌で、フンと鼻を鳴らした。
グレグの呪いのことを知ってから、その大魔法使いについて書かれたありとあらゆる書物をかき集め、徹底的に調べあげた。
遙か昔から生きていて、いまいくつなのか誰も知らないこと。
あらゆる魔法に長けていて、変幻自在に姿かたちを変え、どこへでも自由に飛んで行けること。
人嫌いで、権力や支配に興味がなく、常にどこかに身を隠し、誰も彼の居場所を知らない等々……。
「グレグはいま、どこにいるの?」
「フッ。そんなこと、教えられるワケないだろう」
「弟子がいるだなんて、聞いたことなかったわ」
「そうだろうな。俺だってまだ、そうと認められてはないんだから」
「ちょっと待って。じゃあカイルが、勝手に弟子を名乗ってるってこと?」
「それは違う。そうじゃない」
彼の身分を疑い始めた私に、カイルは一生懸命次の言葉を探していた。
「そ、そうじゃなくて……。その、なんて言うか、弟子として認めてもらうための初仕事が、お前の偵察だったってこと」
「それなら、もう失敗してるじゃない」
「失敗ではない! これからお前のことを探って報告すれば、仕事をしたことになるだろう」
「それじゃあ、私に何のメリットもないわ」
「お前のメリットってなんだよ」
「呪いを解いてもらうこと」
私はソファーに腰掛けたまま、グレグの使いだという窓枠に腰掛けた幼い少年を見上げた。
「グレグに伝えて。あなたの元へは行かない。ここに残って、父も母も兄たちも、この城にいるみんなのことも守る。どうしても私が欲しいのなら、直接顔を見せなさいって」
「お前なんかが、グレグに敵うわけないだろう」
「呪いを解くための条件を出せって言ってるのよ。問題解決のためには、交渉が必要でしょ」
「言いたいことはそれだけか?」
私はもう一度、彼の蒼い目をしっかりと見据えた。
「私はグレグのものにはならない。ラドゥーヌ王家にかけられた呪いを解くための、条件を教えて」
「分かった。ではお前の言葉を、そのまま伝えておこう」
彼は座っていた窓枠を掴むと、そのままそこに立ち上がり背を向けた。
「じゃあな、姫さま。またいつか会えるといいな」
パッと大きなカラスに姿を変えると、彼は滑るように夜の闇の中へ飛び去ってゆく。
慌てて駆け寄った窓から身を乗り出すと、私はありったけの声で叫んだ。
「カイル! さっきの返事、ちゃんと持ってきなさいよ! 『またね』じゃなくて、ここで待ってるから! じゃないと絶対、許さないんだからね!」
カラスは空高く舞い上がると、夜空に大きな円を描く。
彼はそのまま、明かりの消えた街の向こうへゆっくりと飛び去っていった。
朝になり、食事を運んできたドットと共にテーブルにつく。
いつもなら簡単な健康観察を済ましてすぐ退出してしまうのに、今朝はそうはいかないらしい。
ドットは昨夜門番を勤めた兵士からさっそく報告を受けていたらしく、私はパンとスープを食べながら詳細な説明を求められていた。
「本当よ。夜中に外の空気が吸いたくて、窓を開けたら大きな蛾が入ってきてびっくりしただけなの。すぐに追い払ったから、大丈夫だって言ったのよ」
「本当にそれだけだったのですか?」
「ここには、ちゃんと結界が張られているのでしょう?」
「もちろんです。それが破られたような気配はありません」
「だったら問題ないんじゃない?」
ドットはこの国一番の魔法使いで、宮廷に仕える魔法庁の長官だ。
そのドットが張った結界をすり抜けて来られたということは、やはり人畜無害な魔法使いだったのだろう。
グレグの使いだと言っていた。
この塔や城の中にも、ドット以外の魔法使いは沢山いるし、私の部屋の門番として、彼らが当番にあたることもある。
「ドットより弱くて簡単に倒せる魔法使いなら、結界をすりぬけられる?」
「魔力が弱く敵意がないのなら、その可能性はあります」
「だったらやっぱり、こちらに害はないってことね」
彼は何かを諦めたようにため息をつくと、卵を食べるために持っていたナイフとフォークを皿の上に置いた。
「それでも、わずかな変化や気になることがあれば、必ず私にご報告ください。すぐにです。少しでも遅れてしまえば、あなたをここに閉じ込めてまで、守ろうとしている意味がありません」
「もちろんよ。すぐに相談するわ」
カイルのことは……。もう少し、黙っておこう。
ドットを刺激して、カイルを怖がらせたくない。
それにもう一度彼がここに現れて、グレグからの返答を伝えてくれないことには、交渉の中身を相談することも出来ない。
「あのね、ドット……」
「はい。なんでございましょう、ウィンフレッドさま」
私は生まれつきくるくると巻く、赤い琥珀色をした髪をそっと撫でた。
この髪も髪と同じ色をした目も、肖像画で見るひいお爺さま、15代国王ユースタスさまにそっくりだと、いつも思っていた。
ひいお祖父さまは直接、グレグと剣を交わしたことのある人。
「ドットは、グレグがどんな人か知っているの?」
「もちろん直接会ったことはありませんが、彼の仕業だと噂される話は、あちこちに残っています」
「本当に悪くて酷い魔法使いだったのよね」
「そうです。彼を甘くみてはいけません」
カイルは大丈夫なのだろうか。
そんな恐ろしい魔法使いに弟子入りなんかして。
あどけない表情をしながら、凛とした仕草の彼を思い浮かべる。
グレグからいいように扱われていなければいいんだけど……。
「ウィンフレッドさま」
ドットの透き通るような淡いブルーグレーの目が、私の気持ちを推し量るかのようにじっとのぞき込む。
「必ず、お知らせくださいね。お約束でございます」
「わ、分かってるわよ。そんな睨まなくても、分かってるって……」
そうは言ったものの、ドットの目は確実に怒っている。
どうやら彼を誤魔化すことは、私には難しいらしい。
「あのね、ドット」
「はい。なんでしょうかウィンフレッドさま」
彼は目を閉じ、すました顔で食事を続ける。
「実は少し、お願いがあって……」
「なるほど。それではウィンフレッドさま。こういうのはいかがでしょうか……」
私はドットと相談して、いくつか必要と思われるモノを用意してもらった。
彼は何も言わず、その準備を整えてくれる。
そうして待っていたのに、その日の夜になっても、カイルは塔に現れなかった。
私は閉じ込められた狭い部屋で、一人本を読んで過ごす。
ドットと立てた作戦は、すっかり頭に入っていた。
それに飽きたらぐるぐる部屋の中を歩き回りながら歌を歌って、彼が来るのを待つ。
刺繍をしても絵を描いていても、外へ出られなければ何も楽しくない。
一人で閉じこもっているのは、それが重要なことだと分かっていても、とても気持ちが苦しい。
私は来ないカイルを待ちながら、退屈な日々をただ過ごしていた。
誕生日まではまだ随分時間がある。
カイルとグレグは、いまどこで何をしてるのだろう。
私より背の低い幼いカイルが、年齢不詳の恐ろしい大魔法使いに、酷い扱いを受けている姿を思い浮かべ、身を震わせる。
いくら願ってもどうしようも出来ないまま、5日目の夜を迎えた時、ようやくカラスが塔を訪れた。
「遅い! もう来ないかと思ってた」
窓を開けると、黒く大きなカラスが部屋に飛び込んで来る。
何かを探るようにぐるりと部屋を一周すると、彼は入ってきた窓辺に舞い降りた。
「お前はソファーに座れ」
「分かったわよ。随分警戒心が強いのね」
最初に彼を捕まえたのが、失敗だったかしら。
私は仕方なく窓からゆっくりと離れ、指示された通りソファーに腰掛ける。
それを見届けると、彼は姿をカラスから少年に変えた。
「ふっ。お前の方こそ、俺が怖くないのか?」
「怖くなんかないわ。私が恐れる必要なんて、どこにもないもの。どうしてすぐに来なかったのよ」
カイルは窓辺に座ったまま片膝を立てると、そこに腕を置いた。
「グレグさまは、南の海へ海獣を捕らえに出発したんだ。その準備で忙しかったんだよ」
「南の海?」
ここは海から遠く離れた内陸の国だ。
私も海を直接見たことはない。
「随分遠い所まで出掛けたのね」
「そうだよ。大きな牙と角を持つ海獣さ。海の漁師が困ってるっていうんで、討伐に行ったんだ」
「悪い魔法使いのグレグが?」
「魚がお好きなんだ。新鮮な魚が手に入りにくいと知りお怒りになって、海獣退治に乗り出していったんだ」
「……。そう。で、呪いを解いてもらうための、条件を聞いてきてくれたんでしょうね」
「そんなもの、あるわけないだろ」
カイルは立てた膝についた肘から、自分の指をペロリと舐めた。
「天下無敵のグレグさまが、譲歩するなんてあり得ないね。欲しいものがあれば、必ず手に入れられてきたお方だ。だが安心しろ。お前のことも一度手に入れれば、すぐに飽きて帰されるだろう。大人しく捕まったフリさえしておけば、俺が後から逃がしてやる」
「そんなことをして、カイルは罰を受けないの?」
「罰? 何だそれ」
「カイルは、グレグから酷い扱いをされてないのかなって」
「俺の心配をしているのか? 呆れたお姫さまだな」
彼は顔を天井に向けると、幼い顔に似合わずケラケラと高らかに笑った。
「グレグさまの100年前の気まぐれなんて、もうとっくに忘れてるよ。確かにあの時はこの場所で大戦争をしたかもしれないが、もう昔の話だ。恨んでなんかいない。グレグさまだって、いつまでも田舎娘一人にこだわったりするような方じゃない」
「ならどうして、呪いを発動させたのよ」
「その時に仕込んだものが、100年経って動き出したってだけだ。わざわざ自分で来ず俺を見に寄こしたってことは、面倒だと思っている証拠。俺の報告次第では、話がウマくまとまるかもしれないぞ」
「どうしてあなたは、グレグと一緒に南の海へ行かなかったの?」
「なぜそんなことを、お前が知りたがるんだ?」
「……。きっと役立たずだから、置いていかれたのね」
「なっ、そんなことを言うようなら、俺はもう仲介役なんてやらないぞ!」
バサリと彼の背に黒い翼が広がる。
このまま飛び帰ってしまおうっていうの?
「待って! カイルが本当に、グレグの使いだという証拠がないわ。あなたがその正体を明らかに出来ない以上、交渉役として私たちがあなたを選ぶことも、ありえないってことよ」
これはドットからの入れ知恵だ。
彼にはカイルのことを、全て正直に話している。
まずは正体を確かめろと、指示を受けていた。
「フッ。なるほど。そういうことか。だったらいいだろう」
彼はそう言うと、自分の来ていたシャツのボタンを一つ一つ外し始めた。
「ちょ、何してんのよ!」
目を逸らそうとした瞬間、彼の細く痩せた白い肌が顕わになる。
むき出しになった左肩から胸にかけて、私の脇腹に現れたのと同じ、リコスチナの花輪に大蛇が描かれた、グレグの紋章がくっきりと赤黒く刻まれていた。
「これが偽物だというのなら、近づいて自分の目で確かめるんだな。おっと。どこぞの魔法師から仕入れたらしい、マジックアイテムは置いていけ。投げたいなら投げてもいいが、それを使ったとたん、俺がここに来ていることを周囲にバラされるんだろ? そうなったら、もう話し合いはお終いだ。首を洗って、仲間の魔法師共々、震えながらお前の誕生日が来るのを待っていればいい」
見つかった。どうして分かったの?
彼は薄明かりの中で、私の全身から一つ一つ確かめるようにそれらのものを見ている。
彼の正体を暴き、行動を追跡するための目印となるペイントボールだったのに。
決して強い魔法なんかじゃない。
ドットに頼んで持って来てもらった、街のどこにでも売られている、小さな子供に使う迷子防止用のアイテムだ。
「おもちゃのような魔法でも、カイルは恐れるのね」
「目には見えなくても、それくらいのものを無効化するくらい、簡単だ。魔力や力なんかの問題じゃない。これは信頼の問題だよ、姫さま。それに、あいつらのことだ。どうせくだらない仕掛けがしてあるに違いない」
「……。分かったわ。どうすればいいの」
「グレグさまは、しばらく海から戻っては来られない。その間に、呪いを解いてもらうための条件を考えるんだ。俺が相談に乗ってやる。そうすれば、お前は無事解放される」
彼の言葉を、どれだけ信用していいのかが分からない。
私の味方になってくれるっていうの?
カイルは暗闇のなかじっとたたずむ私に、不敵な笑みを浮かべた。
「これでもまだ、信用出来ないか?」
「いいえ。分かったわ。マジックペイントは置いていく。あなたの言った通り、これは信頼の問題よ。だからその紋章を確かめさせて」
私はスカートの中に隠し持っていた様々なマジックアイテムを、全てぽとぽと床に落とす。
「ファイヤーボールやサンダーボールまであるじゃないか! どんだけ信用ないんだよ!」
「仕方ないじゃない。私には魔法や武器は全く使えないもの」
一歩彼に近づくと、すぐにカイルはおしゃべりな口を閉じた。
月明かりの中、そっと手を伸ばし、白く浮かぶ薄い肌に手を伸ばす。
彼はじっと、私に触れられるのを待っていた。
伸ばした指の先が、胸に刻まれた禍々しい大蛇に触れる。
柔らかな肌の持つ確かな温もりが、指先を通じて伝わってくる。
この紋章は、私のと同じだ。
「あなたも私と同じように、グレグに呪いをかけられているのね」
「そんなことは、どうだっていいだろ。お前は自分のことだけを考えてろ」
「本当に、カイルはあなた自身の意志で、グレグの元にいるの?」
そのとたん、彼は触れる私の手を振り払った。
細い指で、すぐにシャツのボタンを留めてゆく。
「無駄話はお終いだ。条件を言え」
「そんなもの、すぐに決められるわけないじゃない。グレグは何を望んでいるの? それがカイルに分かる?」
「……。何も望んでなんかいないさ。欲しいのは代償だけだ」
「代償?」
彼はそれには答えず、窓枠に跪くと人の形をしたまま、背に闇夜と同じ色をした翼を広げた。
「決まったら、この窓から俺を呼べ。お前の声を聞けば、すぐに飛んで来てやる」
「待って。仲直りのしるしよ。どうか受け取って」
私はバスケットに詰めこまれたクッキーの中から、カイルが以前食べ損ねた種入りのクッキーを差し出した。
「これには、魔法も毒も入ってないわ。本当よ。信じているのなら、いますぐこれを食べて」
彼は私の指しだしたクッキーをじっと見つめる。
不意にカイルの体が、窓枠からふわりと動いた。
彼は翼を広げたまま体を折り曲げ、私の手から直接、パクリと口に咥える。
「じゃあな。決まったら呼べよ」
もぐもぐと口を動かしながらそう言うと、彼は夜空へ飛び去っていった。
翌日の夕方になって、ドットが昨晩の報告を求めにやってきた。
固く扉の閉ざされた小さな部屋で、二人で軽い夕食をとる。
「本当に彼がまた現れたのですか? 相手に気取られてはと、こちらも気配は隠していましたが、全く気づきませんでした。結界も、破られた様子はありません」
「彼の胸に、くっきりとグレグの紋章があったの。私の腰にあるものと同じよ。自分から望んで弟子入りしたって言ってたけど、彼も私のように、どこからかさらわれて来たんじゃないかしら」
ドットは手にしていたパンを皿に置くと、コクリと首をかしげた。
「グレグが弟子をねぇ。そんなタイプには思えませんけどね」
「『代償がほしい』って言ってたわ。グレグが欲しいのは、代償だけだって」
「代償ですか?」
「なんのことだと思う?」
彼は淡いブルーグレーの目をグッと閉じると、眉間にシワを寄せる。
「あー……。こんなことを申し上げて、ウィンフレッドさまがご不快にならなければいいのですが……」
「今さらドットが、そんなこと気にする必要ある?」
「彼はかつて、あなたのひいお祖母さまであるヘザーさまを愛していました。だから、その代わりを……と、いうことではないでしょうか」
「私が? どうしてよ!」
私がひいお祖母さまの身代わり?
相手をしろっていうの?
そんなこと絶対に嫌。
ただただ気持ち悪い、吐き気がする。
「ですから、我々は全力でウィンフレッドさまをお守りすると……」
「冗談じゃないわ! もういい。この件に関して、私は一切譲歩するつもりはありません。徹底的に戦うから、そのつもりでいて!」
「かしこまりました。もちろん我ら一同、そのつもりでございます」
ドットがいつになく真剣な表情をしている。
もしかしたら、かつてのように長い戦いになるかもしれない。
戦争を始めるのに、口実なんていらない。
大魔法使いに攻められたら、この城にどれほどの被害が出ることだろう。
それを思うだけで、胸が苦しくなる。
「ごめんなさい。私なんかのために……」
「代償に関しては、他のものを考えましょう。一番手っ取り早いのはお金ですが、そのような交渉を、ウィンフレッドさまお一人に任せていいものかと……」
「大丈夫よ、ドット」
カイルは魔法使いだ。それは間違いない。
たとえグレグの使いだとしても、彼自身も魔法を使っている。
能力としてはドットほどではないかもしれないけど、ドットのような大魔法使いと彼が一緒になれば、魔法師同士まともに話し合いが出来るとは思えない。
「誕生日までにはまだ時間があるわ。何とかカイルにお願いして、グレグとちゃんと話し合いが出来るようにするから」
「いつでもすぐに、どんなことでも、私にご相談ください」
「もちろんそのつもりよ」
ドットが一礼して部屋を出ていく。
残された私は、とたんに恐怖に襲われた。
腰につけられた印は、肌が赤く痛くなるまでこすっても、決して落ちることはない。
高い塔の窓からは、人通りで賑わう夕暮れの城下町がどこまでも広がっていた。
普通に外を歩き、誰かと会って毎日を過ごす日常が当たり前の世界に、私だけが取り残されたみたい。
西日は赤い琥珀色の髪を、よりいっそう赤く照らした。
「グレグのバカー! どうして私にこんなことしたのよー!!」
そう叫んで、窓枠にすがりつく。
あふれ出る涙を、このままボロボロとこぼしてしまっては、負けな気がした。
強くならなくちゃ。私が私自身でいられるために!
窓の下でうずくまった耳に、不意に羽音が聞こえる。
窓から身を起こすと、カラスは開いた隙間から部屋へ飛び移る。
呼べばって、さっきの悪口で?
彼はそんなことを気にする様子はなく、キョロキョロと部屋を見渡した。
「魔法の気配はしないな。どうやら、やっとまともに交渉するつもりになったらしい」
「と、当然でしょ。私だって本気なんだから」
「条件を聞こう。何なら出せる?」
カラスはテーブルの上から、本棚へ飛び移った。
首を高く掲げ、本の背表紙を順番に見ている。
「条件なんて、なにもないわ」
「何もないとは?」
カラスは背を向けたまま言った。
ランプの灯りが揺れる。
「諦めたのか。賢い選択だ。グレグの元へ顔さえ出せば、すぐに帰してやる」
「違う。そうじゃない」
カラスはようやく、その首をこちらに向けた。
「無条件で呪いを解きなさい。私は何も悪いことしてない。グレグに何一つ関わりなんてないのに、どうしてこんな勝手なことが出来るの? 余計なことしたのは、アンタたちの方でしょ。代償なんてものは、何もない。私はなにも、彼に負うべきものなんてないわ」
「なるほど。お前の言い分ももっともだ。確かに何も悪くない」
カラスは再びテーブルに飛び乗った。
真っ黒で丸く小さな目が、じっと私を見つめる。
「だがこれは、先代からの約束だ。お前たちは、昔自分たちの祖先が交わした約束を、なかったことにするのか?」
「あんたたちの時代のことは、あんたたちで解決してよ! 私は私よ。昔のことなんて知らない。だからなに? 私は私のしたいようにするから」
「そうか」
カラスは全身の羽根を膨らますと、ブルッと体を振るわせた。
「だったら、こちらも好きにさせてもらう。お前がそう言うのなら、文句はないだろう?」
「私をここから連れて行って、どうするつもりなの」
「そんなこと、俺が知るわけないだろう。全てはグレグさまの思いのままだ」
「卑怯者。そんなことで、私が怯むとでも思った?」
「あはは。どの口がそんなことを言う?」
カラスは黒く大きな翼を、部屋一杯に広げた。
「グレグが恐ろしくないというのなら、どうしてこんな所に閉じこもっている? 好きに動けばいいじゃないか。なぜお前たちは守りを固める? どんな脅しがあろうとも、屈せずいつものように過ごしていればいい。好きなように歩き、好きな場所で眠ればいい。そうしないのは、なぜだ」
白煙が上がる。
カラスはその姿を少年王カイルへと変えた。
細い金色の髪をサラリとなびかせ、彼は細い腕を真っ直ぐに私に差し出す。
「自由になりたいのなら、ここから抜け出せばいい。お前が望むなら、どこへでも連れて行ってやろう。グレグの目の届かない所に、俺なら連れて行ける。どうだ、ウィンフレッド。一緒に来ないか」
ランプの灯りに、彼の作る影が伸びる。
私が力一杯握りしめれば、すぐに潰れてしまいそうなほどとても小さく白い手だ。
だけどこの手を掴んでしまえば、今すぐにでもここから抜けだし、自由になれる気がした。
「本当に、どこへでも連れて行ってくれるの?」
「約束しよう。お前の望むままだ」
彼に一歩近づく。
自由になるための鍵は、もう目の前だ。
そっと腕を差し出す。
ここから抜けだし、どこに隠れよう。
カイルとなら、きっと何だって出来る。
ドットも手伝ってくれるだろう。
私は国を逃れ、王女という立場も捨て去り、本当に自由に……。
「なんてね! そんな手に乗ると思った?」
私は彼の手を、パンと弾き返す。
「あはははは! バカね。それで私が同意したら、そのままグレグの所へ連れて行くって魂胆でしょ。そんな見え透いたウソに、誰が騙されるもんですか!」
「何だと? 本当にここから逃がしてやろうと思ったのに! 何だお前。もういい。絶対にお前のことなんか、信用しないからな!」
「上等よ。それでこそグレグとの仲介役に相応しい態度だわ。無条件降伏。それ以外こっちに選択肢はないから!」
「だったら全面戦争だ。それで文句ないんだな」
「あんたこそ何のために、ここまでグレグに使わされてきたの? こっちから引き出せるのが無条件降伏だけだなんて、無能もいいところだわ」
「わざわざ俺を使いにださせた、グレグさまの善意をないがしろにする気か?」
「そっちこそ、本当はラドゥーヌ王家が怖いんじゃないの? 一度は戦いに敗れ、撤退させられているのよ。あれから100年たって、こちらはさらに軍事力を増強し、経済的にも国は豊かになり、抱える兵も魔法師も増えてるわ。そこへずっと姿を隠していた過去の遺物が現れて、今さらどうしようって言うの?」
カイルはピタリと動きを止めた。
かと思った瞬間、お腹を抱えて笑いだす。
「あはは! ホントお前は面白いな。そっか。グレグはずっと隠遁生活をしてたからな。確かに当時を知る者は少ない。彼自身もすっかり世間知らずになった。俺も……。そろそろ潮時なのかな」
「グレグのところから、逃げる気になった?」
私はパッと身を乗り出すと、彼の手をしっかりと握りしめた。
「カイルがそう言うなら、私はあなたを助けるわ。この紋章を消してもらえるよう、カイルの分までお願いしてみましょうよ」
彼は幼くあどけない表情にフッと諦めたような笑みを浮かべると、私の手をそっと振り解いた。
「俺はグレグからは逃げられない。逃れるなんてことは、絶対にあり得ないんだ」
「どうして? あなたは一体、何をしたの?」
「俺のことは、俺のことだ。余計な口を挟むな」
彼はそう言うと、窓枠にひょいと乗り移る。
「今夜はここまでだ。グレグが呼んでいる。俺の方も、彼から条件を聞き出しておこう。どこまで譲歩すれば、呪いを解く気になるのか。何とか聞き出してみるよ」
「あ、ありがとう……」
カイルは窓から飛び降りた。
その瞬間翼を広げ、夜空へとふわりと浮き上がる。
「ねぇカイル! また来てね。絶対に約束よ!」
カラスに姿を変えた彼は、返事の代わりに空で大きく円を描くと、そのまま夜空へ飛び去って行った。
カイルとは確かに約束をしたはずなのに、翌日もその翌日になっても、塔の窓へ姿を現さなかった。
呼べばすぐ来てくれるとは言っていたけど、本当に呼んでしまっていいものかも分からない。
彼がもしグレグと交渉してくれているのなら、その邪魔をしても悪いとも思う。
こちらの条件もまだ整わないのに、頻繁に呼び出すわけにもいかない。
出来ることなら彼の方からこちらを訪ねて来てほしいと思うのは、贅沢な悩みなのかな。
窓辺に椅子を置き、ぼんやりと外を眺める。
今日は一日雨の降るどんよりとした天気だ。
こんな日の方が、逆に気持ちは楽になれる。
部屋に閉じ込められているのは、私だけじゃない。
どうせ外に出られないのなら、部屋で過ごすことも苦にはならない。
立ち上がり、本棚にズラリと並んだ背表紙に目を通す。
ふとそのうちの一冊に目がとまった。
グレグがひいお祖父さまと戦った様子を、物語としてまとめたものだ。
一度は読んだ記憶のあるそれを手に取ると、パラリと表紙をめくった。
木こりの娘として森で働くヘザーは、母親を早くに亡くし父と二人静かに暮らしていた。
そこへ15代国王ユースタスが身分を隠し、少数のお供だけを引き連れ狩りにやってくる。
怪我をした国王を王と知らず手当をし、二人は恋に落ちた。
ユースタスをまだ王だと知らず、身分の高い貴族の一人だと思っていたヘザーは、王宮に招かれ、ユースタスの正体を知る。
身分違いの恋に悩むヘザーに近づいたのが、国王殺害をもくろむグレグだった。
彼はヘザーに近づき、巧みに彼女を誘惑する。
しかし、一途に王を慕っていた彼女は、決してグレグにはなびかなかった。
やがて国王ユースタスとヘザーは結婚することに。
嫉妬心に燃え上がるグレグは、ヘザーを誘拐し森の奥へ隠してしまう。
王宮での結婚式当日、ヘザーに化けたグレグは花嫁姿で式に臨み、その日の夜、彼はユースタスを殺害しようとヘザーの姿のまま王を襲った。
ヘザーの異変に気づいていた王は、グレグの変身を見破るも、ヘザーはグレグに隠され居場所が分からない。
王の寝所から逃げ出したグレグを追いかけ、王はヘザーの居場所を突き止める。
ヘザーに恋をしていたグレグは、彼女を牢獄に閉じ込め、自分のものになるよう迫っていた。
国王ユースタスに化けたグレグは、ヘザーを連れ出し彼女に結婚を迫る。
婚姻を結ぼうとしたその直前で、王はヘザーの元にたどり着いた。
激しい戦いの末、王は無事ヘザーを取り戻したものの、グレグの怒りは収まらない。
天を突くドラゴンと化したグレグは、ヘザーのいた森を焼き払ってしまう。
王は彼を討ち取ろうと軍を出し、追い出すことに成功するが、その去り際、グレグはヘザーに呪いをかけた。
『ヘザーの血を引く娘がラドゥーヌ王家から生まれたら、16の誕生日の日にお前の代わりにもらい受ける』と。
私は開いていた本を閉じると、それを棚に戻した。
この物語の続きが、まさか自分に降りかかってくるなんて夢にも思わなかった。
どうしてお父さまとお母さまは、こうなることが分かっていて、私が生まれてくることを望んだの?
どうせなら、お兄さまたちのように男に生まれてくればよかった。
グレグがもし、本当に私を望んでいるのだとしたら、このまま結婚させられてしまうの?
見ず知らずの年老いたお爺さんが結婚相手だなんて、そんなの絶対にイヤ!
塔の窓ガラスを、コツコツと叩く音が聞こえた。
薄曇りの雨の中、一羽の大きなカラスがそこにとまっている。
「カイル! 来てくれたのね」
窓を開けると、彼はやはり部屋を一周してから、ふわりとテーブルに舞い降りた。
「雨が降って仕事にならないからな。ちょっと顔を見に寄っただけだ」
「夜しか来られないのかと思ってた」
「そんなこと、あるわけないだろ」
「仕事って? なにをしているの」
カラスは豪快に身震いすると、全身についた雨の滴を振り落とす。
「お前には関係ない」
「……。そうかもしれないけど、別に聞いたっていいじゃない」
「それで、まだこんな所に閉じこもっているのか」
彼はカラスのまま、赤い絨毯と石作りの壁に囲まれた丸い部屋を見渡した。
「仕方ないでしょ。これは私の意志だけじゃなくって、お父さまとお母さまも心配してのことなんだから」
彼は濡れた羽根を一本一本口にくわえ、くちばしを使って身だしなみを整える。
「誕生日までは身の安全は保証されている。グレグさまもその日までは襲ってこないから、普通に出ても大丈夫だぞ」
だったら、カイルはどうするの?
二人でこっそり会うことが出来なくなるじゃない。
そう言いたい思いは、飲み込んでおく。
「大丈夫って言われたって、結局城の中から出られないことには、変わりないもの」
「はは。まぁそれもそうか」
窓の外には、どんよりとした雨模様が広がっていた。
「なんなら、俺と一緒に城内を散歩するか?」
「カラスのままで?」
「人の姿でいる方がマズいだろ」
頭の中で、ぐるりとよく考えてみる。
今日は、ドットが城にいない。
二人の兄と共に、遠征に出掛けてしまった。
国境の見回りに行くのを、どうしても気にかかるところがあるとかで、数日城を空けるらしい。
昨日の朝早くに出発したから、もう遠くへ行ってしまっている。
何かあっても、すぐには戻って来られないだろう。
「……。お城の中だけならいいわ」
「あぁ。少しでもお前を、部屋の外に出してやるよ」
そう言うとカラスは、私の肩にちょこんと飛び乗った。
翼が顔に当たって、なんだか少しくすぐったい。
「俺は先に東の庭園に回っておく。そこに、王族専用の庭園があるだろう」
「小さな噴水のあるところ?」
「そうだ。そこの東屋で待っている」
とまった肩を蹴って、カラスは窓から飛び去った。
待ってるって言われても、私は本来なら、ずっとここに閉じこもっていないといけないんだけど……。
仕方なく、分厚い木の扉を叩く。
内側からしか開けられないようにしてもらった連絡用の小窓を開けると、すぐに兵士が顔を覗かせた。
「いかがなさいましたか、ウィンフレッドさま」
「ねぇ。少し散歩がしたいの。ちょっとだけ外に出てもいいかしら」
彼らは顔を見合わせると、少し困ったような表情を見せた。
「しかし、それはドットさまの許可がないことには……」
「少しだけよ。お城からは絶対に出ないわ」
「で、ですが、それは……」
「いいから! 早く開けてちょうだい」
私に強く言い切られては、彼らはもう逆らえない。
しぶしぶ扉を開けた兵士たちに、背中を反らし、ふんぞり返って態度は大きく出していても、心の中では謝っておく。
無茶を言ってごめんなさい。
「あなたたちは、このまま部屋の警備を続けていてね」
「か、かしこまりました」
カイルが待っている。
急いで行きたいけど、あまり急いでは怪しまれるから、フンと鼻を鳴らしツンと上を向いて、腰に手を当てたまま怒ったフリして階段を下りる。
ドットが戻って来たら、叱られるかな。
だけど私には、どうしてもカイルが悪い人には見えない。
私はそれを、ただ自分自身で確かめたいだけ。
一人で塔の長い階段を下りると、城の中へ入る。
よくよく考えてみれば、こうやって一人で歩くのも久しぶり。
城内一階の、吹き抜けになっている廊下を歩く。
円柱の並ぶその廊下の段差下は、芝の生えた通路のような庭になっていた。
すれ違う侍女たちが、私の姿を見るなり悲鳴を上げ、慌てて頭を下げる。
ま、塔から抜け出したのがバレるのも、時間の問題か。
「ごきげんよう。気晴らしのために、少し出てきたの」
「はい。ごきげんよろしゅうございます。ウィンフレッドさま!」
外はどんよりと曇った霧雨模様だ。
正直、雨よけのケープも羽織っていないのに、外になんか出たくない。
濡れるのは避けたいけど、人目が少ない今がチャンスといえば、絶好のチャンスだ。
私は意を決すると、霧雨の中、外へ飛び出した。
廊下から下庭への段差を飛び越えると、城壁に沿って走る。
たっぷりと雨を含んだ芝から水が跳ね、ブーツもスカートの裾もびしょびしょに濡れてしまっているけど、気にしてなんていられない。
しばらく走ると、四角く刈られた背の高い常緑樹の生け垣が見えた。
その角を曲がると、今はほとんど人の訪れることのない古い庭がある。
カイルの待っている東屋は、その中央にあった。
普段は閉じられているはずの細い鉄格子に触れると、鍵が開いていた。
錆びついた扉をわずかに開き、素早く中に入る。
丸い屋根のついた噴水と東屋は、もう目の前だ。
「カイル!」
「なんだ。服が濡れているじゃないか」
カラスのカイルは、もう動かなくなった噴水の縁にとまっていた。
屋根はそれをすっぽり覆うようにして、取り付けられている。
「雨の日に呼び出したりするからじゃない」
「濡れたままでは風邪を引く」
彼はカラスのまま、クイとくちばしを上下に揺らした。
魔法で風を沸き起こし、干上がった噴水の中に落ちていた枯れ葉を一カ所に集めると、そこに火を付けた。
「これくらいでも、ないよりはましだろう」
「カイルも魔法が使えるのね」
「魔法使いの弟子だからな。ここの宮廷魔法師くらいのレベルなら問題ない」
火はカイルの魔法によって調整されているのか、時間をかけてゆっくりと燃えている。
確かにこの城には国内外から集められた優秀な魔法師が沢山いるけど、カイルのように人からカラスに姿を変えたうえに、変わらず魔法まで使える者はいない。
「ねぇカイル。ここはとても古い庭よ。どうして知ってるの」
「俺は普段は、空を飛んでいるカラスだからな」
「え! カイルって、元々はカラスなの?」
「人間だ! グレグの魔法で、こうなっているだけだ」
彼はちょっぴり恥ずかしそうに、パタパタと足をならす。
本物のカラスに、表情があるかどうかは分からない。
だけど、今目の前にいる真っ黒い大きな鳥には、豊かな感情があるように思えた。
「噴水も壊れて動かないから、もうすぐこの庭園ごと取り壊して新しくする予定よ」
「……。そうか。なら最後に、お前と見られてよかった」
霧雨の続く薄曇りの中で、彼は荒れ果てた庭を眺める。
くちばしで何もない噴水の縁をコンと突ついた。
「カイルは、ヘザーさまを知ってるの?」
「いや。ただ遠くから、見ていただけだ。彼女はこの庭のこの場所が好きだった。カラスの俺は、そこの木に止まって、彼女がここに座っているのをずっと見ていた」
温かい日の光にあふれた、かつての美しいこの庭園を思い浮かべる。
波打つよう黄金に輝く長い髪をした妃が、一人あふれる噴水の前にたたずんで誰かが来るのを待っている。
彼女が会いたいと願っているのは、夫である優しい王さま?
それとも、自分を誘惑してくる腹心のグレグ?
そんなヘザーさまを見ながら、カイルは何を思っていたのだろう。
「話はしなかったの?」
「してないな。最期に彼女をみたのは、ユースタス王の即位50年を記念するパレードだった。それ以降、夫妻は息子に王位を譲って、ヘザーは病気の王の看護に努めたが、結局彼は先に逝ってしまった。ユースタスの後を追うようにして、すぐ彼女もこの世を去った」
私は、もちろんグレグの姿を直接見たことはない。
けれども、ユースタス王とその王妃ヘザーさまの肖像画なら見たことがある。
ひ孫である私は、顔の作りだけではなく髪と目の色まで、ユースタス王にそっくりだった。
「ヘザーさまに思い切って、何にも知らないフリして、声をかけてみればよかったのに」
「グレグとは喧嘩してたんだぞ? どうして弟子の俺が話しかけられる。もう終わった事なのに、わざわざ俺なんかが顔を出すべきじゃないだろう」
カラスのままのつぶらな丸い眼は今この瞬間であっても、間違いなく遠い過去にここであった風景を見ている。
「カイルは、ヘザーさまに会いたくてここへ?」
「フッ。少しでもお前に、彼女の面影があったらよかったのにな」
「なにそれ、酷い!」
私が声を荒げると、彼は翼を広げ大笑いしながら飛び跳ねた。
「あはは。ヘザーはお前より、もう少しおしとやかな淑女だったぞ。少なくとも、カラスを騙して捕まえようなんてことは、考えるタイプじゃなかったな」
「だって! 怪しげなカラスが夜中に入り込んできたのよ? 警戒するのは当たり前じゃない」
「はは。それでも、お前が今の王族に大切にされていることは分かった。それを見られただけで、もう十分満足している」
そう言ったカラスは、きっとニヤリと笑みを浮かべたのだと思う。
「グレグからの伝言だ。身代金を用意しろ。金額は5,000億ヴェール」
「5,000億ヴェール? うちの国家予算1年分じゃない!」
「お前の身代金なんだ。妥当な金額だろ」
「そんなの、応じられるわけがないわ!」
「知らん。俺はグレグからの伝言を、そのまま伝えただけだ」
「どうしてそうなるのよ!」
「それが嫌なら、自分たちで条件を考えろ。このままグレグに任せておくと、お前の呪いを解くための値段が、5,000億ヴェールになるぞ」
遠くから、パシャパシャと水の跳ね上がる音が聞こえた。
外套と麻布を抱えた侍女たちが駆け寄ってくる。
「ウィンフレッドさま! このようなところにいらしては、お体を冷やしてしまいます!」
彼女たちの後ろには、複数の兵士たちの姿も見えた。
カラスのカイルは黒い翼を大きく広げる。
「じゃあな、ウィンフレッド。ここの魔法師長が戻ってきたら、そいつらとよく相談するんだな」
侍女たちが東屋に飛び込んで来た。
カイルは彼らと入れ替わるように、霧雨の中へ飛び去る。
「まぁ。なんて大きなカラスなのでしょう。ウィンフレッドさま。イタズラはされませんでしたか?」
兵士たちは東屋の守りを固め、侍女はカイルの焚いてくれた火のおかげでほとんど乾いている赤い琥珀色の髪を拭いた。
「いいえ、大丈夫よ。それより、ドットはいつ戻ってくるのでしたっけ」
「ドットさまは、まだ数日はお戻りになりません。何か伝言があるなら、伝令を出しましょうか?」
「いや、いいわ。それまでに、私も少し考えたいことが出来たから」
侍女たちに連れられ、すっかり古びて荒れ果てた庭を後にする。
空にはまだ、分厚い雲が広がっていた。
「ねぇ。少しだけ、私の部屋に寄ってもいいかしら」