「あなたさまの体に浮かび上がった紋章は、魔法を扱う者なら誰もが知る恐ろしい大魔法使い、グレグ・ルドスキーの紋章です。その刻印を持つ者は、彼の所有物であるという証」
彼は床まで引きずる真っ白な法衣をふわりとなびかせ、席についた。
テーブルに置かれた湯気の立つティーカップに、私は髪と同じ色をした赤い琥珀色の目を伏せる。
「ウィンフレッドさまの体に浮かび上がった魔法の刻印が、我々の与えた加護の力を打ち破りくっきりと現れた以上、グレグもまたあなたの存在に気づいたことでしょう」
それを知った父と母の愛は重かった。
グレグの呪いを恐れた父王は、16の誕生日を過ぎるまで、私をこの城の最奥にある高い塔のてっぺんに閉じ込める決定を下す。
おかげで私は、こうしてこの狭い塔の上で退屈な毎日を送っている。
「16の誕生日まで、まだ半年もあるのよ。それまで私を、ここに閉じ込めておくつもりなのかしら」
お父さまとお母さまに泣きつかれ、二人の兄たちにまで懇願されたからこそ、こうして閉じ籠もることに了承した。
了承はしたんだけど……。
「あー! もう退屈! 退屈過ぎて我慢できなーい!」
たった2日でもう飽きた。
狭い部屋にたったひとりぼっち。
話し相手もいなければ、どこかに出掛けることも出来ない。
「紋章がはっきりと現れた以上、いつグレグが現れるか分かりません。ウィンフレッドさまがこの歳まで無事にいられたのは、我々の加護があってこそなのですよ」
「そんなことは、もう散々言われたので分かってます!」
フン。だからって何よ。
ドットだって他の魔法師たちだって、どれだけ頑張ってもこの紋章を取り除くことが出来なかったくせに。
塔のてっぺんの狭い一室といっても、丸い形をした部屋の壁の半分は運び込まれた本で埋め尽くされ、床には真っ赤なふかふかの絨毯が敷かれている。
ベッドは使い慣れた天蓋付きのベッドを運んでもらったし、お茶をしたり編み物や刺繍、読書をするのに十分な大きさの丸テーブルと肘掛けが二つと、ソファーも用意されていた。
石造りの壁にはタペストリーや絵画が飾られ、火をおこす暖炉もある。
本棚の横にはお菓子や飲み物、お腹が空いた時のパンも常に常備されていた。
「ですがウィンフレッドさま。これもみな、あなたのことを心配してのことなのです」
「もちろんそれは分かってるけど、退屈なものは退屈なの!」
紋章によって発熱していた体温が下がり調子が戻ったとたん、完全にここに閉じ込められてしまった。
「15代国王とヘザーさまを巡る戦いの話は、物語にも描かれるほどすさまじいものでした。城下にも、その記憶をまだ残すものもございます」
「ドットは実際にその戦いを見たの?」
「いえ。私は見ておりませんが、話はよく伝え聞いております」
彼は淹れたての紅茶にミルクを注ぐと、静かにスプーンでかき混ぜた。
15代国王として王位につく前、王子の地位にあったユースタスさまと、森に住む木こりの娘であったヘザーさまは運命的に出会い、恋に落ちた。
初めは使用人として城に入ったヘザーさまに、同じように恋をしたのがグレグだった。
グレグはヘザーさまを我が物にしようと、王子の目を盗んで彼女をさらい、森の奥へ隠してしまう。
愛する人を奪われ怒ったユースタス王子は、グレグの居場所を見つけ出し、兵を引き連れ戦いを挑んだ。
三日三晩続いた剣と魔法の戦いは、城の周囲にあった森を全て焼き尽くしたという。
「グレグは狡猾かつ残忍。目的のためなら手段を選ばない男です。彼の元に連れて行かれれば、たとえウィンフレッドさまといえども、命の保証はありません」
「私のことは、ドットや国の騎士たちが守ってくれるんじゃないの?」
「もちろんです。今も城全体だけでなく、この塔には特別強力な結界を張り巡らせ、兵士や魔法師たちによる厳重な警戒をさせております。絶対に姫さまを、グレグに奪われるようなことはさせません」
そうね。ドットだけではなく、彼らにも私のせいで迷惑をかけているのは分かってる。
我が儘を言ってはいけない。
多くの人が心配してくれている。
「……。ありがとう。心から感謝しています。皆にもよろしく伝えておいてね」
私だって、正体不明の恐ろしい魔法使いのところへ連れて行かれたくなんかない。
少なくとも、100年も前から生きている大魔法使いだ。
16にもならない私なんて、おもちゃのネズミくらいのようなものだろう。
会った瞬間、踏み潰されてしまうかもしれない。
魔法の火で、あぶり殺されてしまうかも。
怖くなって少しだけ大人しくなった私に、ドットは白い肌に微かな笑みを浮かべた。
「もっと本を持ってこさせましょう。刺繍や編み物だけでなく、絵や何か楽器のようなものを練習なさるのもよいかもしれません」
「そうね。退屈しのぎには丁度いいかも」
「いずれ自由になれる日がやって参ります。それまで共に戦いましょう。誕生日が最悪の一日になるだなんて、誰にとってもあってはならないことです」
面談代わりのお茶を終えたドットが、他の仕事に戻るため狭い塔の部屋を出る。
唯一の出入り口を塞ぐ重い木の扉が開かれた。
屈強な男性兵士が二人がかりでようやく開くことの出来るような扉だ。
自ら望んでここに居るとはいえ、気持ちはずっしりと重くなる。
こんなにも長い間たった一人きりでいるなんて、今まで一度もなかった。
閉められた扉の向こうで、かんぬきのかけられる音が聞こえる。
誰も居なくなった薄暗い部屋で、ランプの明かりを消した。
たった一つの窓の外では、すでに太陽も隠れている。
真っ暗になった部屋で盛大にため息をつくと、ベッドの上へ飛び込んだ。
紋章が浮き上がる直前まで、あれだけ毎日楽しく過ごしていた日々が嘘のよう。
沢山のお友達に囲まれピクニックへ行ったり、お茶会をしたり。
乗馬や流行の演劇を見に行く約束もしていた。
街で開かれる、初夏を彩るパンタニウムの花祭りも、もうすぐなのに。
我慢しなくちゃと分かっていても、一人になった夜の部屋では、涙があふれて止まらない。
川遊びに行きたい。ボートに乗りたい。生まれたばかりの子馬は、もう私のことを忘れてしまったかも。
ドット以外の人は危険があるからと、誰もこの部屋に会いに来てくれない。
話も出来ない。助けてと叫びたくても、叫ぶことすら許されない。
めそめそと一人泣いて過ごす夜を、あとどれくらい過ごせばいいの?
誕生日まであと半年って本気?
どうしてグレグは、私にこんな紋章なんて付けたんだろう。
なんで私?
こんなの、全然私のせいじゃないじゃない。
ただ生まれてきただけで、何にも悪いことなんてしていない。
なのにどうして……。
星も見えない真っ暗な夜の窓を、コツコツと叩く音が聞こえた。
「誰?」
何かが窓の外でうごめいている。
足音を忍ばせ明かりもつけずにそっと近寄ると、一羽の大きなカラスと目があった。
彼はもう一度、くちばしでコツコツと窓を叩く。
「どうやってここまで入って来たの?」
ドットから、決してよそ者をこの部屋に招き入れるなと言われている。
だけど、カラスが相手だ。
この国一番の魔法使いがかけた結界なのだから、敵意あるものなら全て排除されているはず。
この窓から見下ろす庭に、小鳥も虫も木の葉も飛んでいた。
それらは全て害のないものだから、入ってこられたのよね。
そうじゃなきゃ、すり抜けられないもの。
だけど……。
カラスは大きな黒い目でこちらを見つめながら、しきりにカクカクと左右に首をかしげている。
「ふふ。いいわ。入れてあげる。私もずっと一人ほっちで、寂しかったの」
掛けがねをカチリと外す。
わずかに開いた窓から、カラスはサッと中に滑りこんだ。
部屋を素早くぐるりと一周したかと思うと、中央でふわりと体を浮かせる。
そのままテーブルの上に、バサリと着地した。
鋭い爪が木の板に当たって、カチカチと音をたてている。
「ちょっと待ってね。いま明かりを付けるから」
テーブルに置かれたろうそくに慌てて明かりを灯す。
カラスはせわしなく首を傾けぴょんぴょん跳びはねながら、部屋の様子をうかがっていた。
「どうしてここまで来たの? 怪我してる? 何かに襲われた?」
もっとよく見たいけど、このカラスは普通のカラスより一回り大きい気がする。
近くで見るとわりと大きな鳥の部類だ。
突然襲われたらと思うと、自分で引き入れておきながら、大胆な計画にかなり緊張している。
「何か食べる? お菓子なら沢山余っているの」
カラスから目を離さないようにしながら、ゆっくりと部屋を移動する。
もし危険な動きをしたら、すぐに壁にかけられた非常用のベルを鳴らすつもり。
扉の外で番をする兵士たちが、駆けつけてくる。
「あなたは何が好き? 種入りのクッキーなんてどうかしら」
バスケットにかけられた布巾を取り払う。
今日の昼に焼き上がったものを、さきほどドットが運んできたものだ。
色とりどりのクッキーやメレンゲ、スコーンなどの焼き菓子が、びっしりと並べられている。
「ジャム入りのものもあるみたい。あなたはどっちが好き?」
アーモンドと野いちごのジャムが入ったクッキーを一枚ずつ小皿に並べ、そっとカラスに近づける。
コトリと置いた皿をしばらく不思議そうに眺めていたが、カラスは種入りのクッキーを気に入ったようだ。
何度かくちばしでつついて確かめたそれをパクリと咥えると、そのまま丸呑みにしようとしている。
くちばしに対して大きすぎるそれと格闘するカラスの気がこちらからそれた瞬間、私はガバリとそこへ飛びかかった。
「捕まえた!」
「ギィヤァッー!」
大きなカラスは叫び声をあげ、腕の中で翼をばたつかせ大暴れしている。
だけど、こんな程度じゃ負けない!
「バカね! 私がそんな簡単に騙されると思ったの? あなたグレグでしょ! 野性のカラスならふらふらとこんな夜中に、塔のてっぺんに来るワケないもの!」
「分かった、分かった! 分かったから離せ!」
しっかり掴んだ腕の中で、カラスはまだ暴れている。
「離すもんですか! 衛兵! 衛兵! いますぐ扉を開けなさい!」
「待て!」
ボンッ! と音がしたかと思うと、目の前に真っ白い煙がもくもくと上がる。
カラスの姿は跡形もなく消え去り、そこに現れたのは、金髪のおかっぱ頭に鮮やかな蒼い目をした、12、3歳くらいのまだ幼さの残る少年だった。
「俺はグレグじゃない。グレグの使いだ!」
「グレグの使い? どういうこと?」
少年は茶色い皮のブーツにズボンを履き、白いシャツの上に蒼い目と同じ色をした蒼のベストを身につけていた。
それは金の刺繍で縁取られ、まるでどこかで見たことのある王子さまのよう……。
「だ、だから、俺はグレグさまに、ウィンフレッドがどんな王女なのか見てこいと言われ、ここまで寄こされたんだ!」
「ウィンフレッドさま!」
不意に、背後で重い木の扉をドンドン叩く音が聞こえる。
部屋の騒ぎに気づいた衛兵が、門の外で声を荒げた。
「どうかされましたか? 入ってもよろしいか!」
そう聞いておきながらも、扉はもうギギギと音を立て開き始めている。
私は慌てて開きかけているその隙間に飛び込むと、少年の姿が彼らから見えないよう隠した。
「あ! ご、ごめんなさい。窓を開けたら大きな羽虫が飛び込んできちゃって。そ、それで、ちょっとびっくりしちゃっただけだから」
「そうなのですか? それは申し訳ございませんでした。ですがいちおう、部屋を改めさせていただきますね」
兵士は扉を押し開けると、そこから中へ入ることなく周囲を見渡した。
カラスに化けていた少年の姿は、いつの間にか見えなくなっている。
「本当に、大丈夫なのですね」
「え、えぇ。また何かあったら、すぐに呼ぶわ」
「かしこまりました」
彼は生まれつきであろう勇ましい顔に、グッと眉をよせしかめ面をして気合いを見せる。
兵士はギロリと部屋をもうひと睨みしてから、ようやく扉を閉めた。
完全に扉が閉まった後で、ほっと胸をなで下ろす。
ランプの明かりを掲げ、薄暗い部屋で消えてしまった男の子の姿を探した。
「ねぇ。捕まえたりしないから、もう一度出てきて。お願い。あなたと話がしたいの。名前を教えて」
赤い絨毯の向こうには石造りの壁が広がり、置かれたテーブルとソファーには、本当に誰の姿も見えなかった。
「全く。とんだお転婆姫だな」
少年の声が聞こえた。
彼は開け放された窓枠に腰掛け、今にもそこから飛び降りて逃げ出してしまいそうな雰囲気だ。
「待って。逃げないで。もう捕まえたりしないから」
私より幼いような、まだあどけない顔をした背の低い少年は、用心深くこちらをうかがっている。
「もしまたヘンな動きしたら、俺はこのまま飛び降りて、二度とここへはやって来ないからな!」
「あなたがいたいのなら、ずっとそこにいてもいいわよ。もう絶対ヘンなことしない」
窓へ一歩近づいた私に、彼はビクリと全身を震わせる。
「だからそこから動くな! これ以上近づいたら、俺は本当に飛び去るぞ!」
「分かった。分かったわよ。もうここから動かない」
すっかり彼を怖がらせてしまった。
私はあえて彼に背を向けると、ゆっくりとソファーに腰を下ろす。
「これだけ離れていれば、問題ないでしょう?」
「……。ま、まぁ、それなら悪くないだろう」
少年はようやく、落ち着いて話をする気になったようだ。
もぞもぞと体を動かすと、石造りの窓枠に座り直す。
「あなたの名前は? 名前はなんていうの?」
「カイル。カイルだ」
サラサラとした真っ直ぐな肩までの髪が、金色に光る水面のように夜風にふわりと揺れた。
真っ白な肌に目の覚めるような蒼い目は、本当にどこかの物語に出てくる少年王のよう。
「カイルが、グレグの使いっていうのは、本当なの?」
「あぁ、本当だ。呪いを受けたウィンフレッドが、どんな姫なのか様子を見てこいと言われて、やってきた」
彼はこちらを警戒しながらも、赤い琥珀色の髪と目をした私を、まっすぐにじっと見ている。
「あなたもグレグに捕まっているの?」
「は? どういうことだ」
「使いって、あなたもどこかの国でグレグにさらわれて、カラスにされちゃったとか?」
「え? ちょっと話が見えない。どういうこと?」
「だから、カイルも私のようにグレグに魔法をかけられて、逃げられないまま使われてるとか?」
彼は一瞬、きょとんとした顔を見せたかと思ったとたん、お腹を抱えて笑い始めた。
「あはははは! 誰がそんなヘマするかよ。俺は奴に直接頼み込んで弟子にしてもらったんだ。なにせグレグさまは、世界一の魔法使いだからな」
彼はその美しい顔に、ニヤリと得意気な笑みを浮かべる。
「弟子をとったの? あのグレグが? それでカイルは、彼と一緒にいるってこと?」
「あぁ、そうだ」
カイルは上機嫌で、フンと鼻を鳴らした。
グレグの呪いのことを知ってから、その大魔法使いについて書かれたありとあらゆる書物をかき集め、徹底的に調べあげた。
遙か昔から生きていて、いまいくつなのか誰も知らないこと。
あらゆる魔法に長けていて、変幻自在に姿かたちを変え、どこへでも自由に飛んで行けること。
人嫌いで、権力や支配に興味がなく、常にどこかに身を隠し、誰も彼の居場所を知らない等々……。
「グレグはいま、どこにいるの?」
「フッ。そんなこと、教えられるワケないだろう」
「弟子がいるだなんて、聞いたことなかったわ」
「そうだろうな。俺だってまだ、そうと認められてはないんだから」
「ちょっと待って。じゃあカイルが、勝手に弟子を名乗ってるってこと?」
「それは違う。そうじゃない」
彼の身分を疑い始めた私に、カイルは一生懸命次の言葉を探していた。
「そ、そうじゃなくて……。その、なんて言うか、弟子として認めてもらうための初仕事が、お前の偵察だったってこと」
「それなら、もう失敗してるじゃない」
「失敗ではない! これからお前のことを探って報告すれば、仕事をしたことになるだろう」
「それじゃあ、私に何のメリットもないわ」
「お前のメリットってなんだよ」
「呪いを解いてもらうこと」
私はソファーに腰掛けたまま、グレグの使いだという窓枠に腰掛けた幼い少年を見上げた。
「グレグに伝えて。あなたの元へは行かない。ここに残って、父も母も兄たちも、この城にいるみんなのことも守る。どうしても私が欲しいのなら、直接顔を見せなさいって」
「お前なんかが、グレグに敵うわけないだろう」
「呪いを解くための条件を出せって言ってるのよ。問題解決のためには、交渉が必要でしょ」
「言いたいことはそれだけか?」
私はもう一度、彼の蒼い目をしっかりと見据えた。
「私はグレグのものにはならない。ラドゥーヌ王家にかけられた呪いを解くための、条件を教えて」
「分かった。ではお前の言葉を、そのまま伝えておこう」
彼は座っていた窓枠を掴むと、そのままそこに立ち上がり背を向けた。
「じゃあな、姫さま。またいつか会えるといいな」
パッと大きなカラスに姿を変えると、彼は滑るように夜の闇の中へ飛び去ってゆく。
慌てて駆け寄った窓から身を乗り出すと、私はありったけの声で叫んだ。
「カイル! さっきの返事、ちゃんと持ってきなさいよ! 『またね』じゃなくて、ここで待ってるから! じゃないと絶対、許さないんだからね!」
カラスは空高く舞い上がると、夜空に大きな円を描く。
彼はそのまま、明かりの消えた街の向こうへゆっくりと飛び去っていった。
朝になり、食事を運んできたドットと共にテーブルにつく。
いつもなら簡単な健康観察を済ましてすぐ退出してしまうのに、今朝はそうはいかないらしい。
ドットは昨夜門番を勤めた兵士からさっそく報告を受けていたらしく、私はパンとスープを食べながら詳細な説明を求められていた。
「本当よ。夜中に外の空気が吸いたくて、窓を開けたら大きな蛾が入ってきてびっくりしただけなの。すぐに追い払ったから、大丈夫だって言ったのよ」
「本当にそれだけだったのですか?」
「ここには、ちゃんと結界が張られているのでしょう?」
「もちろんです。それが破られたような気配はありません」
「だったら問題ないんじゃない?」
ドットはこの国一番の魔法使いで、宮廷に仕える魔法庁の長官だ。
そのドットが張った結界をすり抜けて来られたということは、やはり人畜無害な魔法使いだったのだろう。
グレグの使いだと言っていた。
この塔や城の中にも、ドット以外の魔法使いは沢山いるし、私の部屋の門番として、彼らが当番にあたることもある。
「ドットより弱くて簡単に倒せる魔法使いなら、結界をすりぬけられる?」
「魔力が弱く敵意がないのなら、その可能性はあります」
「だったらやっぱり、こちらに害はないってことね」
彼は何かを諦めたようにため息をつくと、卵を食べるために持っていたナイフとフォークを皿の上に置いた。
「それでも、わずかな変化や気になることがあれば、必ず私にご報告ください。すぐにです。少しでも遅れてしまえば、あなたをここに閉じ込めてまで、守ろうとしている意味がありません」
「もちろんよ。すぐに相談するわ」
カイルのことは……。もう少し、黙っておこう。
ドットを刺激して、カイルを怖がらせたくない。
それにもう一度彼がここに現れて、グレグからの返答を伝えてくれないことには、交渉の中身を相談することも出来ない。
「あのね、ドット……」
「はい。なんでございましょう、ウィンフレッドさま」
私は生まれつきくるくると巻く、赤い琥珀色をした髪をそっと撫でた。
この髪も髪と同じ色をした目も、肖像画で見るひいお爺さま、15代国王ユースタスさまにそっくりだと、いつも思っていた。
ひいお祖父さまは直接、グレグと剣を交わしたことのある人。
「ドットは、グレグがどんな人か知っているの?」
「もちろん直接会ったことはありませんが、彼の仕業だと噂される話は、あちこちに残っています」
「本当に悪くて酷い魔法使いだったのよね」
「そうです。彼を甘くみてはいけません」
カイルは大丈夫なのだろうか。
そんな恐ろしい魔法使いに弟子入りなんかして。
あどけない表情をしながら、凛とした仕草の彼を思い浮かべる。
グレグからいいように扱われていなければいいんだけど……。
「ウィンフレッドさま」
ドットの透き通るような淡いブルーグレーの目が、私の気持ちを推し量るかのようにじっとのぞき込む。
「必ず、お知らせくださいね。お約束でございます」
「わ、分かってるわよ。そんな睨まなくても、分かってるって……」
そうは言ったものの、ドットの目は確実に怒っている。
どうやら彼を誤魔化すことは、私には難しいらしい。
「あのね、ドット」
「はい。なんでしょうかウィンフレッドさま」
彼は目を閉じ、すました顔で食事を続ける。
「実は少し、お願いがあって……」
「なるほど。それではウィンフレッドさま。こういうのはいかがでしょうか……」
私はドットと相談して、いくつか必要と思われるモノを用意してもらった。
彼は何も言わず、その準備を整えてくれる。
そうして待っていたのに、その日の夜になっても、カイルは塔に現れなかった。
私は閉じ込められた狭い部屋で、一人本を読んで過ごす。
ドットと立てた作戦は、すっかり頭に入っていた。
それに飽きたらぐるぐる部屋の中を歩き回りながら歌を歌って、彼が来るのを待つ。
刺繍をしても絵を描いていても、外へ出られなければ何も楽しくない。
一人で閉じこもっているのは、それが重要なことだと分かっていても、とても気持ちが苦しい。
私は来ないカイルを待ちながら、退屈な日々をただ過ごしていた。
誕生日まではまだ随分時間がある。
カイルとグレグは、いまどこで何をしてるのだろう。
私より背の低い幼いカイルが、年齢不詳の恐ろしい大魔法使いに、酷い扱いを受けている姿を思い浮かべ、身を震わせる。
いくら願ってもどうしようも出来ないまま、5日目の夜を迎えた時、ようやくカラスが塔を訪れた。
「遅い! もう来ないかと思ってた」
窓を開けると、黒く大きなカラスが部屋に飛び込んで来る。
何かを探るようにぐるりと部屋を一周すると、彼は入ってきた窓辺に舞い降りた。
「お前はソファーに座れ」
「分かったわよ。随分警戒心が強いのね」
最初に彼を捕まえたのが、失敗だったかしら。
私は仕方なく窓からゆっくりと離れ、指示された通りソファーに腰掛ける。
それを見届けると、彼は姿をカラスから少年に変えた。
「ふっ。お前の方こそ、俺が怖くないのか?」
「怖くなんかないわ。私が恐れる必要なんて、どこにもないもの。どうしてすぐに来なかったのよ」
カイルは窓辺に座ったまま片膝を立てると、そこに腕を置いた。
「グレグさまは、南の海へ海獣を捕らえに出発したんだ。その準備で忙しかったんだよ」
「南の海?」
ここは海から遠く離れた内陸の国だ。
私も海を直接見たことはない。
「随分遠い所まで出掛けたのね」
「そうだよ。大きな牙と角を持つ海獣さ。海の漁師が困ってるっていうんで、討伐に行ったんだ」
「悪い魔法使いのグレグが?」
「魚がお好きなんだ。新鮮な魚が手に入りにくいと知りお怒りになって、海獣退治に乗り出していったんだ」
「……。そう。で、呪いを解いてもらうための、条件を聞いてきてくれたんでしょうね」
「そんなもの、あるわけないだろ」
カイルは立てた膝についた肘から、自分の指をペロリと舐めた。
「天下無敵のグレグさまが、譲歩するなんてあり得ないね。欲しいものがあれば、必ず手に入れられてきたお方だ。だが安心しろ。お前のことも一度手に入れれば、すぐに飽きて帰されるだろう。大人しく捕まったフリさえしておけば、俺が後から逃がしてやる」
「そんなことをして、カイルは罰を受けないの?」
「罰? 何だそれ」
「カイルは、グレグから酷い扱いをされてないのかなって」
「俺の心配をしているのか? 呆れたお姫さまだな」
彼は顔を天井に向けると、幼い顔に似合わずケラケラと高らかに笑った。
「グレグさまの100年前の気まぐれなんて、もうとっくに忘れてるよ。確かにあの時はこの場所で大戦争をしたかもしれないが、もう昔の話だ。恨んでなんかいない。グレグさまだって、いつまでも田舎娘一人にこだわったりするような方じゃない」
「ならどうして、呪いを発動させたのよ」
「その時に仕込んだものが、100年経って動き出したってだけだ。わざわざ自分で来ず俺を見に寄こしたってことは、面倒だと思っている証拠。俺の報告次第では、話がウマくまとまるかもしれないぞ」
「どうしてあなたは、グレグと一緒に南の海へ行かなかったの?」
「なぜそんなことを、お前が知りたがるんだ?」
「……。きっと役立たずだから、置いていかれたのね」
「なっ、そんなことを言うようなら、俺はもう仲介役なんてやらないぞ!」
バサリと彼の背に黒い翼が広がる。
このまま飛び帰ってしまおうっていうの?
「待って! カイルが本当に、グレグの使いだという証拠がないわ。あなたがその正体を明らかに出来ない以上、交渉役として私たちがあなたを選ぶことも、ありえないってことよ」
これはドットからの入れ知恵だ。
彼にはカイルのことを、全て正直に話している。
まずは正体を確かめろと、指示を受けていた。
「フッ。なるほど。そういうことか。だったらいいだろう」
彼はそう言うと、自分の来ていたシャツのボタンを一つ一つ外し始めた。
「ちょ、何してんのよ!」
目を逸らそうとした瞬間、彼の細く痩せた白い肌が顕わになる。
むき出しになった左肩から胸にかけて、私の脇腹に現れたのと同じ、リコスチナの花輪に大蛇が描かれた、グレグの紋章がくっきりと赤黒く刻まれていた。
「これが偽物だというのなら、近づいて自分の目で確かめるんだな。おっと。どこぞの魔法師から仕入れたらしい、マジックアイテムは置いていけ。投げたいなら投げてもいいが、それを使ったとたん、俺がここに来ていることを周囲にバラされるんだろ? そうなったら、もう話し合いはお終いだ。首を洗って、仲間の魔法師共々、震えながらお前の誕生日が来るのを待っていればいい」
見つかった。どうして分かったの?
彼は薄明かりの中で、私の全身から一つ一つ確かめるようにそれらのものを見ている。
彼の正体を暴き、行動を追跡するための目印となるペイントボールだったのに。
決して強い魔法なんかじゃない。
ドットに頼んで持って来てもらった、街のどこにでも売られている、小さな子供に使う迷子防止用のアイテムだ。
「おもちゃのような魔法でも、カイルは恐れるのね」
「目には見えなくても、それくらいのものを無効化するくらい、簡単だ。魔力や力なんかの問題じゃない。これは信頼の問題だよ、姫さま。それに、あいつらのことだ。どうせくだらない仕掛けがしてあるに違いない」
「……。分かったわ。どうすればいいの」
「グレグさまは、しばらく海から戻っては来られない。その間に、呪いを解いてもらうための条件を考えるんだ。俺が相談に乗ってやる。そうすれば、お前は無事解放される」
彼の言葉を、どれだけ信用していいのかが分からない。
私の味方になってくれるっていうの?
カイルは暗闇のなかじっとたたずむ私に、不敵な笑みを浮かべた。
「これでもまだ、信用出来ないか?」
「いいえ。分かったわ。マジックペイントは置いていく。あなたの言った通り、これは信頼の問題よ。だからその紋章を確かめさせて」
私はスカートの中に隠し持っていた様々なマジックアイテムを、全てぽとぽと床に落とす。
「ファイヤーボールやサンダーボールまであるじゃないか! どんだけ信用ないんだよ!」
「仕方ないじゃない。私には魔法や武器は全く使えないもの」
一歩彼に近づくと、すぐにカイルはおしゃべりな口を閉じた。
月明かりの中、そっと手を伸ばし、白く浮かぶ薄い肌に手を伸ばす。
彼はじっと、私に触れられるのを待っていた。
伸ばした指の先が、胸に刻まれた禍々しい大蛇に触れる。
柔らかな肌の持つ確かな温もりが、指先を通じて伝わってくる。
この紋章は、私のと同じだ。
「あなたも私と同じように、グレグに呪いをかけられているのね」
「そんなことは、どうだっていいだろ。お前は自分のことだけを考えてろ」
「本当に、カイルはあなた自身の意志で、グレグの元にいるの?」
そのとたん、彼は触れる私の手を振り払った。
細い指で、すぐにシャツのボタンを留めてゆく。
「無駄話はお終いだ。条件を言え」
「そんなもの、すぐに決められるわけないじゃない。グレグは何を望んでいるの? それがカイルに分かる?」
「……。何も望んでなんかいないさ。欲しいのは代償だけだ」
「代償?」
彼はそれには答えず、窓枠に跪くと人の形をしたまま、背に闇夜と同じ色をした翼を広げた。
「決まったら、この窓から俺を呼べ。お前の声を聞けば、すぐに飛んで来てやる」
「待って。仲直りのしるしよ。どうか受け取って」
私はバスケットに詰めこまれたクッキーの中から、カイルが以前食べ損ねた種入りのクッキーを差し出した。
「これには、魔法も毒も入ってないわ。本当よ。信じているのなら、いますぐこれを食べて」
彼は私の指しだしたクッキーをじっと見つめる。
不意にカイルの体が、窓枠からふわりと動いた。
彼は翼を広げたまま体を折り曲げ、私の手から直接、パクリと口に咥える。
「じゃあな。決まったら呼べよ」
もぐもぐと口を動かしながらそう言うと、彼は夜空へ飛び去っていった。
翌日の夕方になって、ドットが昨晩の報告を求めにやってきた。
固く扉の閉ざされた小さな部屋で、二人で軽い夕食をとる。
「本当に彼がまた現れたのですか? 相手に気取られてはと、こちらも気配は隠していましたが、全く気づきませんでした。結界も、破られた様子はありません」
「彼の胸に、くっきりとグレグの紋章があったの。私の腰にあるものと同じよ。自分から望んで弟子入りしたって言ってたけど、彼も私のように、どこからかさらわれて来たんじゃないかしら」
ドットは手にしていたパンを皿に置くと、コクリと首をかしげた。
「グレグが弟子をねぇ。そんなタイプには思えませんけどね」
「『代償がほしい』って言ってたわ。グレグが欲しいのは、代償だけだって」
「代償ですか?」
「なんのことだと思う?」
彼は淡いブルーグレーの目をグッと閉じると、眉間にシワを寄せる。
「あー……。こんなことを申し上げて、ウィンフレッドさまがご不快にならなければいいのですが……」
「今さらドットが、そんなこと気にする必要ある?」
「彼はかつて、あなたのひいお祖母さまであるヘザーさまを愛していました。だから、その代わりを……と、いうことではないでしょうか」
「私が? どうしてよ!」
私がひいお祖母さまの身代わり?
相手をしろっていうの?
そんなこと絶対に嫌。
ただただ気持ち悪い、吐き気がする。
「ですから、我々は全力でウィンフレッドさまをお守りすると……」
「冗談じゃないわ! もういい。この件に関して、私は一切譲歩するつもりはありません。徹底的に戦うから、そのつもりでいて!」
「かしこまりました。もちろん我ら一同、そのつもりでございます」
ドットがいつになく真剣な表情をしている。
もしかしたら、かつてのように長い戦いになるかもしれない。
戦争を始めるのに、口実なんていらない。
大魔法使いに攻められたら、この城にどれほどの被害が出ることだろう。
それを思うだけで、胸が苦しくなる。
「ごめんなさい。私なんかのために……」
「代償に関しては、他のものを考えましょう。一番手っ取り早いのはお金ですが、そのような交渉を、ウィンフレッドさまお一人に任せていいものかと……」
「大丈夫よ、ドット」
カイルは魔法使いだ。それは間違いない。
たとえグレグの使いだとしても、彼自身も魔法を使っている。
能力としてはドットほどではないかもしれないけど、ドットのような大魔法使いと彼が一緒になれば、魔法師同士まともに話し合いが出来るとは思えない。
「誕生日までにはまだ時間があるわ。何とかカイルにお願いして、グレグとちゃんと話し合いが出来るようにするから」
「いつでもすぐに、どんなことでも、私にご相談ください」
「もちろんそのつもりよ」
ドットが一礼して部屋を出ていく。
残された私は、とたんに恐怖に襲われた。
腰につけられた印は、肌が赤く痛くなるまでこすっても、決して落ちることはない。
高い塔の窓からは、人通りで賑わう夕暮れの城下町がどこまでも広がっていた。
普通に外を歩き、誰かと会って毎日を過ごす日常が当たり前の世界に、私だけが取り残されたみたい。
西日は赤い琥珀色の髪を、よりいっそう赤く照らした。
「グレグのバカー! どうして私にこんなことしたのよー!!」
そう叫んで、窓枠にすがりつく。
あふれ出る涙を、このままボロボロとこぼしてしまっては、負けな気がした。
強くならなくちゃ。私が私自身でいられるために!
窓の下でうずくまった耳に、不意に羽音が聞こえる。
窓から身を起こすと、カラスは開いた隙間から部屋へ飛び移る。
呼べばって、さっきの悪口で?
彼はそんなことを気にする様子はなく、キョロキョロと部屋を見渡した。
「魔法の気配はしないな。どうやら、やっとまともに交渉するつもりになったらしい」
「と、当然でしょ。私だって本気なんだから」
「条件を聞こう。何なら出せる?」
カラスはテーブルの上から、本棚へ飛び移った。
首を高く掲げ、本の背表紙を順番に見ている。
「条件なんて、なにもないわ」
「何もないとは?」
カラスは背を向けたまま言った。
ランプの灯りが揺れる。
「諦めたのか。賢い選択だ。グレグの元へ顔さえ出せば、すぐに帰してやる」
「違う。そうじゃない」
カラスはようやく、その首をこちらに向けた。
「無条件で呪いを解きなさい。私は何も悪いことしてない。グレグに何一つ関わりなんてないのに、どうしてこんな勝手なことが出来るの? 余計なことしたのは、アンタたちの方でしょ。代償なんてものは、何もない。私はなにも、彼に負うべきものなんてないわ」
「なるほど。お前の言い分ももっともだ。確かに何も悪くない」
カラスは再びテーブルに飛び乗った。
真っ黒で丸く小さな目が、じっと私を見つめる。
「だがこれは、先代からの約束だ。お前たちは、昔自分たちの祖先が交わした約束を、なかったことにするのか?」
「あんたたちの時代のことは、あんたたちで解決してよ! 私は私よ。昔のことなんて知らない。だからなに? 私は私のしたいようにするから」
「そうか」
カラスは全身の羽根を膨らますと、ブルッと体を振るわせた。
「だったら、こちらも好きにさせてもらう。お前がそう言うのなら、文句はないだろう?」
「私をここから連れて行って、どうするつもりなの」
「そんなこと、俺が知るわけないだろう。全てはグレグさまの思いのままだ」
「卑怯者。そんなことで、私が怯むとでも思った?」
「あはは。どの口がそんなことを言う?」
カラスは黒く大きな翼を、部屋一杯に広げた。
「グレグが恐ろしくないというのなら、どうしてこんな所に閉じこもっている? 好きに動けばいいじゃないか。なぜお前たちは守りを固める? どんな脅しがあろうとも、屈せずいつものように過ごしていればいい。好きなように歩き、好きな場所で眠ればいい。そうしないのは、なぜだ」
白煙が上がる。
カラスはその姿を少年王カイルへと変えた。
細い金色の髪をサラリとなびかせ、彼は細い腕を真っ直ぐに私に差し出す。
「自由になりたいのなら、ここから抜け出せばいい。お前が望むなら、どこへでも連れて行ってやろう。グレグの目の届かない所に、俺なら連れて行ける。どうだ、ウィンフレッド。一緒に来ないか」
ランプの灯りに、彼の作る影が伸びる。
私が力一杯握りしめれば、すぐに潰れてしまいそうなほどとても小さく白い手だ。
だけどこの手を掴んでしまえば、今すぐにでもここから抜けだし、自由になれる気がした。
「本当に、どこへでも連れて行ってくれるの?」
「約束しよう。お前の望むままだ」
彼に一歩近づく。
自由になるための鍵は、もう目の前だ。
そっと腕を差し出す。
ここから抜けだし、どこに隠れよう。
カイルとなら、きっと何だって出来る。
ドットも手伝ってくれるだろう。
私は国を逃れ、王女という立場も捨て去り、本当に自由に……。
「なんてね! そんな手に乗ると思った?」
私は彼の手を、パンと弾き返す。
「あはははは! バカね。それで私が同意したら、そのままグレグの所へ連れて行くって魂胆でしょ。そんな見え透いたウソに、誰が騙されるもんですか!」
「何だと? 本当にここから逃がしてやろうと思ったのに! 何だお前。もういい。絶対にお前のことなんか、信用しないからな!」
「上等よ。それでこそグレグとの仲介役に相応しい態度だわ。無条件降伏。それ以外こっちに選択肢はないから!」
「だったら全面戦争だ。それで文句ないんだな」
「あんたこそ何のために、ここまでグレグに使わされてきたの? こっちから引き出せるのが無条件降伏だけだなんて、無能もいいところだわ」
「わざわざ俺を使いにださせた、グレグさまの善意をないがしろにする気か?」
「そっちこそ、本当はラドゥーヌ王家が怖いんじゃないの? 一度は戦いに敗れ、撤退させられているのよ。あれから100年たって、こちらはさらに軍事力を増強し、経済的にも国は豊かになり、抱える兵も魔法師も増えてるわ。そこへずっと姿を隠していた過去の遺物が現れて、今さらどうしようって言うの?」
カイルはピタリと動きを止めた。
かと思った瞬間、お腹を抱えて笑いだす。
「あはは! ホントお前は面白いな。そっか。グレグはずっと隠遁生活をしてたからな。確かに当時を知る者は少ない。彼自身もすっかり世間知らずになった。俺も……。そろそろ潮時なのかな」
「グレグのところから、逃げる気になった?」
私はパッと身を乗り出すと、彼の手をしっかりと握りしめた。
「カイルがそう言うなら、私はあなたを助けるわ。この紋章を消してもらえるよう、カイルの分までお願いしてみましょうよ」
彼は幼くあどけない表情にフッと諦めたような笑みを浮かべると、私の手をそっと振り解いた。
「俺はグレグからは逃げられない。逃れるなんてことは、絶対にあり得ないんだ」
「どうして? あなたは一体、何をしたの?」
「俺のことは、俺のことだ。余計な口を挟むな」
彼はそう言うと、窓枠にひょいと乗り移る。
「今夜はここまでだ。グレグが呼んでいる。俺の方も、彼から条件を聞き出しておこう。どこまで譲歩すれば、呪いを解く気になるのか。何とか聞き出してみるよ」
「あ、ありがとう……」
カイルは窓から飛び降りた。
その瞬間翼を広げ、夜空へとふわりと浮き上がる。
「ねぇカイル! また来てね。絶対に約束よ!」
カラスに姿を変えた彼は、返事の代わりに空で大きく円を描くと、そのまま夜空へ飛び去って行った。