夢見る契約社員は御曹司の愛にスカウトされる

 今日は最後の出社日。

 朝の満員電車に揺られ、吊革につかまって見える外の景色ともお別れだ。

 莉愛は四年間、大好きだったチョコ菓子で有名な千堂製菓の契約社員として働いていた。

 この沿線のこの時間、朝の混雑した電車に乗るのも今日で終わりかと思うとなんだかそれもつらいと思えなかった。

 しかも、普段は立っている座席に今日はすんなり座れてしまった。これも頑張って働いてきたご褒美かもしれない。

 次の駅で目の前に立つ人が変わった。

 二週間前くらいから、毎日この車両で見かけていた人。背の高い綺麗な顔立ちの男性だった。

 携帯電話を見ている人が多い中で、いつ見ても背筋を伸ばして遠くを見ているのが印象的だった。

 それが今日の彼は下を向いて辛そうに肩で息をしていた。

 いつもと違う、絶対に具合が悪いんだと確信した。

 莉愛はすぐに立ち上がり、目の前の彼の腕を引いて自分の代わりに座席へ座らせた。

「……っ!」

 驚いたんだろう。赤い顔を上げてこちらを見た彼に向かって、人差し指を立ててシーっと言った。

 満員電車だ。ほとんどの人が目の前の携帯の画面に夢中となって気づかないでいる。

 彼は莉愛と一緒で三駅先の駅で降りる。そのことを知っているのだ。

 駅に着いた。

 莉愛は彼の為に通り道を作るようにして人波をかきわけ出口へ向かった。

 後ろをついてきた彼の腕を引いて電車を降りた。心配だったからだ。そのまま彼の腕を引っ張ってホームのベンチへ行く。

「……!」

「どうぞベンチに座ってください」

「は……君……」
「具合が悪いんですよね?顔を赤くして肩で息をしているし、いつもと違うからすぐにわかりました。あ、そんな顔しないで……怪しいものじゃありません。あなたのことは最近いつも同じ車両で見かけていたから知っていただけです。それに同じ駅で降りるから……それだけです。あの、大丈夫ですか?」

「ああ……ありがとう……」

 彼はやっと警戒心を解いたのか、下を向いて座った。

 莉愛はお弁当を入れている小さなバックを開けて、中から保冷剤を出した。

 そして自分のハンカチにそれを包んで彼のおでこにあてた。

 彼はびくっとして、莉愛を見上げた。

 ハンカチを抑えている莉愛に気づいて、自分でそのハンカチを抑えた。

 莉愛は手を離した。すると、彼はふうッと息を吐いた。

「お弁当用の保冷剤でごめんなさい。ハンカチに包んだから痛くはないかなと思って……。顔が赤いからきっと熱がありますよ。冷やした方が楽かなと思って……こんなのしかなくてごめんなさい」

「いや、色々とありがとう。冷たくて……気持ちがいいよ」

「少しでも楽になったならよかったです。この後どうしますか?私は会社へ行かないといけないんですけど……」

「ああ、少し休んだら僕も行くから気にしなくていい。この後は車で迎えがきているんだ」

「そうだったんですね。それなら大丈夫かな。じゃあ……お先に失礼します。どうぞお大事に」

「君、これを返さないと……」

 彼はハンカチに包まれた保冷剤を見せた。
「保冷剤も、ハンカチもたくさんあるので、返してもらわなくて大丈夫です。それに私、この電車を使うのは今日までなんです。だからもう会わないから気にしないでください」

「え……」

「申し訳ないけど先に行きます。お大事に」

「あ、ありがとう……」

 彼に微笑み返すと背中を向けて走り出した。

 ☆ ☆ ☆

 祐樹は具合が悪かったので、連絡先を聞く元気もなかった。

 こちらを何回か振り返りながら手を振り走り去る彼女の背中を見た。後ろで結んだ長い黒髪が揺れている。

 祐樹は手にしたハンカチへ眼を落とした。可愛らしい花柄のピンクのハンカチだった。

 またおでこに乗せてふうっとため息をついた。

 少し経って、ホームの自販機へ向かい水を買った。

 同じベンチへ戻り、バッグからピルケースを出すと薬を出して水と一緒に飲んだ。

 携帯が震えているのに気づき、画面を見た。

 彼はおでこに乗せていた保冷剤をポケットにしまうとヨロヨロと立ち上がった。かなり熱があると自覚した。

 駅の東口にあるロータリーの車寄せまでようやく歩いた。

 出てきた祐樹を見つけた修二は車から出てきた。

「おい、どうしたんだ?遅いじゃないか……既読になったまま連絡がないからさっき電話したんだぞ。もしかして寝坊か?」

「……いや、すまん」
 かすれた声と少しふらついた祐樹に驚いた修二は、とっさに彼の身体を支えた。

「おい、祐樹大丈夫か!熱いぞ、身体。これ絶対熱があるだろ。なんだよ、具合が悪いなら言えよ!無理に来なくても……」

「ああ、さっきホームで薬を飲んで少し休んだ。そのうち効いてくるだろ。連絡せず悪かったな」

「とりあえず、車へ。これ以上停めておけない」

 修二は祐樹を助手席に座らせると、自分も乗って急いで車を出した。

「お前もさ、どうして近くの実家に戻らず、あんな古い家にいるんだよ」

「親父の顔を仕事以外で見るのは嫌だ」

「まったく……本当に仲が悪いな。いまだにそうなのか。まあ、それにしてもこんな都会のど真ん中で早朝の電車通勤をするなんて……日本のラッシュをなめてるだろ」

「確かに……すごいな。久しぶりの日本だったし、ラッシュなんてすっかり忘れてた。まあ明日からは、時間がかかるが車にする」

「そうしろ。今日はどうする?全部キャンセルして帰るか?」

「とりあえず一旦会社へ行ってくれ」

「わかった。帰国して間がないのに相変わらず仕事漬け。無理のしすぎだ。せっかく海外でよくなってきたのに、また再発したら大変だ。部屋で少し休んでろ。スケジュール調整する」

「すまない……頼むよ」
 車は本社の地下駐車場へ入っていく。

「そんな有様を社長に見られたら、すぐさま実家に連れ戻されるんじゃないのか?」

 祐樹は目の上に例の保冷剤をのせた。

「ああ、そうかもしれない。できれば顔を合わせたくない。これも本社へ戻りたくないという俺の知恵熱かもしれん」

「あはは。おい祐樹、額に何のせてんだ?そのハンカチ誰のだよ?女物じゃん!」

 赤信号でこちらを見た修二は彼にかみつくように聞いた。

「これは……秘密だ」

「おい、秘密ってなんだよ!」

「大きな声を出すなよ。頭に響く……」

「具合が良くなったら絶対に教えろよ。お前、俺に内緒で彼女を作るとか許さんぞ。こちとら遠距離で我慢してるっていうのに……」

 ぶつぶつ言う修二を無視して、祐樹はぐったりと少しリクライニングした椅子へ横になった。

 やはりこの保冷剤をのせるとだいぶ楽だ。

 それにこのハンカチからなぜか懐かしい香りがする。

 それがまた気持ちを落ち着かせてくれるのだ。とてもいい。

「修二。午前中は寝る。あと頼む」

 祐樹は与えられた部長室のソファに座ると、あっという間に寝てしまった。

 修二はため息をついて、彼の予備の背広を布団がわりに祐樹の上にかけてやった。

 デスク上の電話線を抜いてから、窓のブラインドを下げた。

 そして黙って部屋を出て行った。


 莉愛がフロアへ入ると部長の朝礼が始まっていた。

「遅れてすみません……」

 営業部の潮見部長がこちらを見て頷いた。管理部門の部長が話し出した。

「おはようございます。今日から新しい商品がかなり入ることになります。海外事業部で買収した会社の商品です。管理部門の皆さんはできるだけ今日中に登録を終えるよう張り切って仕事をしてください。ちなみに商品数は800と聞いています」

「「えー!」」

 皆が顔を見合わせて渋い顔をした。それもそのはず、その数だと残業は確定だ。営業部門の潮見部長も続けた。

「おはようございます。営業のほうですが、以前の打ち合わせで決めていた通り、今日から営業先へその新しい商品をどこにどのくらい卸すのかレクチャーを開始します。わからないことや質問されたことはきちんと調べてから対応してください」

 ここ、国内事業部は管理部門と営業部門に分かれているが、朝礼は一緒で相互に連携を図っている。

 莉愛は入社時に管理開発部門を希望していたが、今は営業を必要としていると入社時に言われて営業へ回された。

 だが、契約社員はあちこちで人手が足りないと仕事を頼まれたりして、結局管理部門の手伝いもしていた。

 実は、莉愛が家業を手伝って仕事をしていた時は、事務だけじゃなく営業も、もちろん店舗での販売もやらざる負えない状況だった。そのせいか、莉愛はパソコンも使えるし、接客も出来る。

 つまり、莉愛は契約社員ながら、何をしてもそこそこできてしまい、営業、管理両方の部門から重宝がられた。

 でも彼女の本当の入社目的は結局果たせずに終わりそうだった。

 莉愛はこの菓子会社で、家業で作っている抹茶を使った菓子を作って提案したかった。幼少からなじんだ大好きな抹茶にお茶席以外の新しい道を作りたかったのだ。
 家業である本山茶舗は創業明治の古い茶舗で、茶問屋だ。

 莉愛が大学を出たころはまだ家の敷地内でお茶カフェも経営していた。

 卒業後は莉愛もそこで働いたり、工場を手伝ったりしていた。

 しかし一年後、家の向かいの通りに有名カフェチェーンが店を出した。するとあっという間に客を取られた。

 莉愛は外で働きたいと両親に頼んだ。お茶カフェではお茶席で出していたような抹茶と和菓子のセット、あんみつなど甘味処のような和の商品ばかりを置いていた。

 莉愛は小さい頃から平気で苦い濃茶を飲んできた。子供時代、そのおともに食べていたのは子供も買えるような一般的なチョコやクッキーなどのお菓子だった。

 莉愛はいつからか手軽なお菓子と砂糖不使用のお茶を組み合わせたいとずっと思ってきた。

 甘い抹茶チョコとかではなく、菓子より苦みのあるお茶の味をメインにした商品があったらいいのにとずっと思い続けてきた。もし就職するなら夢をできるだけ実現できるところがいいと思っていたのだ。

 莉愛の夢を聞かされていた大学時代の友人である葛西が、自分の入社した千堂製菓はどうかと勧めてきたのだ。

 莉愛が千堂製菓の看板チョコを、授業中にこっそりといつも食べていたのを彼は知っていた。

 莉愛は夢が実現できるかもしれないと葛西の話に乗った。元々、きちんとした就活をしたこともなければ、資格を取ったりしていたわけでもない。

 学生時代から店の手伝いばかりしていて、外の社会経験に乏しいことで就活に自信が持てなかったのもある。

 だが、千堂製菓へ中途で入るのには条件があった。正社員ではなく、契約社員だったことだ。契約は一年更新だった。

 正社員がいいと思っていた莉愛は躊躇した。
 ところが葛西は、自分の親族がこの会社にはいるので、すぐに正社員にしてもらえるよう頼んでみるからと彼女を説得した。就職活動も不安だった莉愛はうなずいてしまった。

 でも、正社員になれるというのは目論見違いだった。

 本当なら今頃正社員になっているはずだった。莉愛は結局四年間正社員になれなかった。葛西の口車に乗ったのが間違いのはじまりだった。

 契約社員から正社員になった人はここ二年まったくいなくなった。希望を出しても認められない状態がつづいていた。

 諦めかけていたそんな時、今年正社員になれないなら家へ戻ってくれないかと父から頼まれた。家業の本山茶舗の業績がよくないので、従業員を少し減らさないといけないと相談されたのだ。

 今年こそ、正社員になるつもりで試験を受けた。だけど、先週結果が出て試験を受けた誰もが正社員になれなかった。つまり莉愛のせいではなく、あくまでも会社側にその気がないのだ。莉愛は諦めた。

 そして、父との約束通り、ひと月後の今年の契約満了日で退職を申し出たのだ。今日がその最終日だ。

 朝礼後、最後のルート営業に出た。量販店やスーパーなどへ行って売り上げや状況を把握し、新たな戦略を練ったり、卸す商品を決めたりするのだ。いつものスーパーの男性担当者に言われた。

「個人的には大人向けの商品があってもいいと思うんですよね。これは小さい子から大人まで食べられるお菓子ですけど、チープなイメージもある。もっとこのメーカーみたいに、洒落た大人向けの商品あったほうがいいんじゃないですかね」

「なるほど。具体的にはどんなものがいいでしょうか?」

「ほら、洋酒の入ったのとか……もう少し高価格帯で大人向けのに変えたら少しは売れるんじゃない?」

 この店の売り場担当者はいつも意見を言ってくれるのだが、こちらの要望は全くと言っていいほど聞いてくれない。売り場をこういう風に変えてほしいという莉愛の希望なんて聞きもしない。

 常にメーカーのこちらに商品を変えることばかり頼んでくる。陳列方法などももう少し工夫してみれば売れると思うのだが、自分では何もしようとしない。
「実は以前お話していた新しい商品が近々入ります。洋酒入りのものも、ドライフルーツやナッツを入れたものもあります。パッケージはこんな感じになります」

 海外で買収した新しい会社の商品だ。朝礼で話していたものだが、担当者にタブレットを見せた。

「なんかさ、相変わらずパッケージがださくない?センスないよね、お宅の会社。もっと洒落た感じにできないの?ま、こんなチープな感じだとプレゼントとか絶対大人は選ばないよね」

「……そうですか……」

「そうだよ。本社に言った方がいいと思うな。ま、僕の意見だけどね」

「はい。貴重なご意見ありがとうございました。次回からこの間ご挨拶させていただきました原田がこちらの担当をさせていただきますので、どうぞよろしくお願いします。今までお世話になりました。どうもありがとうございました」

 莉愛は深々と頭を下げた。

「原田さんみたいな男性より、僕は断然本山さんがよかったのにな。いつも僕の意見をこうやって聞いてくれるじゃない。僕は君がいいんだけどな。ねえ、今後はプライベートでたまに食事でもどう?携帯交換しない?」

「すみません。私、彼氏がうるさくてそういうのダメなんです」

「えー、そうなの?残念だな」

「じゃあ、失礼します……」

 莉愛はため息をついた。彼氏がいるなんて嘘だ。

「あの人、うちの商品を絶対嫌いでしょ。悪口ばっかり。最初っから彼氏どころか友達だって対象外だわ」

 莉愛はその後二軒のルート営業を終えると、とりあえず事務所に戻った。