もう一度起こそうとしたところで、
どこかの部屋から物音が聞こえた。
誰かが出てくる。
そこでこの状況を見られては、
越してきて早々印象が悪い。
かと言ってこのまま消えるわけにも…
瞬時に様々な可能性を考慮したところで、
雅俊は自分にとっては一番最悪な結論を得た。
ちっ…と小さく舌打ちをして、
その女の両脇に手を伸ばした。
それから無理矢理抱きかかえると、
想像以上の軽さに驚いた。
まだ子供かと思わず焦ったが、
背丈もあるし、それはなさそうだった。
さすがに、20代ぐらい…か?
「おい、歩けるか」
虚しく独り言を呟いて、
雅俊は女を一先ず玄関に入れた。
玄関に座らせてから明かりをつけると、
その刺激でか、女は眉間に皺を寄せた。
それからゆっくりと目をあけると、
これまた色素の薄い大きな黒目が
雅俊を捉えた。
雅俊は誤解のないよう
なるべく距離を取って言った。
「起きたか」
いい迷惑と思う反面、
目を開けてくれたことにほっとした。
何も言わず見上げてくるその顔は、
やはり人間離れした人形のようだ。
猫のような形をした薄い唇が
ゆっくりと動いた。
「…起きた」
意外にも大人びた声だ。
見た目からもっと幼いかと思ったが、
どうやら声帯はそうでもないらしい。
「それなら、帰ってくれ」
「ここは?」
「ソレイユの807号室。
俺の家の前で、あんたは寝ていた。
邪魔だったし誰か来たから
仕方なくここに入れただけだ」
「807…私、808」
やはり隣か…
雅俊が狙っていた角部屋は、
このよくわからない女が手にしていたらしい。
女はゆっくりと立ち上がった。
背はそこまで小さくはないが、
佇まいが子供のそれだった。
雅俊は背中越しにドアを開けた。
帰ってくれ、の意を込めて。
女はゆっくりと歩を進めて、
ドアを出たところで振り返った。
「そういえば、君は、誰?」
どこか懐かしいような
よく知っているような香りが漂う。
雅俊は余計なことを考える前に
もう一度女を見下ろして言った。
「誰でもない」
それから黙ってドアを閉めた。
コツコツと足音が遠のき、
やがてドアが閉まる音が聞こえた。
今度こそ家に帰れたことを確認して、
雅俊は片付けに取り掛かった。
「ぁ…」
廊下に置きっぱなしにしていた
段ボールを回収して…。
3日後。
雅俊はかつて勤めていた職場に戻ってきた。
街から少し離れた高台にある、
東都南大学病院。
以前はここの勤務医だったが、
今日からは週2日の契約で
ここの総合外科部門で
麻酔科医として働くことが決まっている。
更衣室に入ると、
前と同じロッカーに名札が貼られていた。
着替えを済ませて、
受付に向かう途中にある
麻酔科医室のドアを叩いた。
「失礼します」
既に部屋にいた数人の医局員が
視線を向ける。
「おぉー!」
「おかえりなさい!」
壁に並ぶ各々のデスクや、
中央のテーブルに腰かけた面々が
比較的歓迎ムードで雅俊を迎えた。
「相変わらずのイケメンですね、兄さん」
「お前の兄さんじゃないだろ」
弟の親友である宮越潤が、
立ち上がって雅俊に手を伸ばす。
それに応えるように握手を交わすと、
腕をバシッと叩かれる。
さすが元バスケ部。
その爽やかな表情と対照的に
力加減に容赦がない。
皆の反応を聞いてか、
奥から医局長の東郷が
また一段と成長した大きなお腹を抱えて
顔を出した。
「あ、期待の新人、帰還したか」
表情も口調もいたって真面目だが、
柔らかい声でこういうことを言う人だ。
雅俊は徐々に言葉にし難い
この感覚を思い出してきた。
「復帰して早々申し訳ないんだけどね、
生後3日の心臓、お願いできるかね」
「早々ですね」
雅俊は表情を変えることなく言った。
「おまけに松島つけとくからさ」
そう言って振られた、
茶髪に潤を真似たかのようなパーマの
若者が立ち上がった。
「色々教えてあげてよ」
「よろしくお願いしますっ
藤原パイセン!」
「…」
雅俊は近づいてきた松島を
真顔で見つめ、再び東郷に向き直った。
「情報もらえますか」
「あれ、もしかして松島のこと見えてないか」
印刷した術前情報を受け取って
雅俊はサッと目を通した。
東郷が笑っている皆の方を見て
あくまでもクールに続けた。
「まあそうだよね、
俺もたまに見えない時あるし」
「ちょ、ひどいっすよ、東郷さん」
松島がそう言うと再び笑いが起こるも、
雅俊は生後3日の子の情報に
とても笑える気にはなれなかった。
無論、元から笑うタイプではないのだが。
患者氏名:荒井ベイビー、生後3日、女児
疾患:ファロー四徴症、先天性横隔膜ヘルニア
予定術式:心室中隔欠損閉鎖術、肺動脈狭窄解除術
まだ名前すら登録されていない、
生まれたばかりの子ども。
低酸素により青白く、
体中に点滴の管が刺さった新生児が、
ベッドで眠ったまま手術室に入室した。
「とりあえず、いつも通りやってみろ」
「はい!」
子どもの心臓手術は、大人に比べて
かなりシビアだ。
そのためスタッフの誰もが緊張し、
気合と責任感のもとに動く。
各々のプロたちが集い、
生まれたての子どもを救うのだ。
小児心臓の手術につける麻酔科医は少ない。
無論、それは看護師も同じだ。
誰でもできる手術ではない。
雅俊は復帰して早々こんな大手術に
つくとは思っていなかったため、
些か油断していたことを後悔した。
だが、一先ずは松島にやらせてみることにした。
その間に自分は、
昔の感覚を思い出す必要がある。
「新生児の挿管経験は?」
「1、2回です」
「じゃあできる」
「スパルタ~…」
松島の手元を見つつも、
雅俊は当たりを見渡した。
ME(臨床工学技士)の増山は見覚えがあるが、
他の若手や看護師はあまり記憶にない。
だが、年を重ねているところを見ると、
恐らく昔からいるベテランだろう。
人の顔と名前を覚えるのは
昔から苦手だった。
東都南大学病院は、この辺りで唯一
小児心臓外科が存在する病院だ。
昔からいる、やせ型の梶木教授が、
子どもを手術台に移動させている。
この梶木教授の腕を頼りに、
全国から心臓疾患を持った子どもが
この病院にやってくる。
だが、後から入ってきた女医には
雅俊は見覚えがなかった。
「あの女医は?」
無事挿管を終えた松島が、
人工呼吸器に搭載されたパソコンに
諸々記載しながら言った。
「伊東先生です。
去年からうちに来たんですよ」
教授より後から来ては、
子どもをちらっと見て
すぐにルーペを装着。
器械出し看護師に一声かけると、
すぐに手洗いに行ってしまった。
その後ろ姿を見届けて、
松島が言った。
「自由人なんですって」
「教授に消毒させて、
先に手洗いに行くのか」
梶木が子どもの体を
温めた消毒薬で拭いている。
普通は下っ端が手術の準備を済ませている間に
教授や先輩が先に手洗いにいくものだが。
「あんまり話してるの見たことないんですよ、
誰も」
「誰も?」
「誰も」
梶木が「手、洗ってきまーす」と言って
ルーペをつけながら部屋を出て行った。
2人の会話を聞いていたのか、
ベテランである外回り看護師が
会話に混ざってきた。
「藤原先生!お久しぶりです~!」
お久しぶりなことに驚いたが、
雅俊は小さく会釈した。
「すみれちゃんね、
先生は初めて見るわよね」
「そうですね」
あの女医はどうやら、
伊東すみれというらしい。
目元しか見えなかったが、
看護師がそう呼ぶということは
やはり若手なのだろう。
松島が雅俊の考えを察してたように言った。
「ああ見えて、大阪で
バリバリやってたらしいですよ」
「大阪か」
「和久田教授って知ってます?」
「あぁ」
大阪の心臓外科医の名誉教授である
和久田教授を知らない医療者はいないだろう。
「すみれ先生は、和久田教授のもとで
下積みを積んだ叩き上げなんですって」
松島まで下の名前で呼ぶことに引っかかったが、
いちいち突っ込むのも面倒なのでやめた。
「まだ若く見えるが、やり手なのか」
「うちの小児心臓はあの2人で
もってるようなものなのよ」
ベテラン看護師がそう言うと、
手洗いを終えたすみれと梶木が戻ってきた。
ベテラン看護師が、
2人にガウンを着せに向かった。
松島がシリンジポンプを確認しつつ言った。
「結構幼く見えますよね」
「目元しか見えないから
何とも言えないが、そうだな」
「俺一回だけ顔見たことありますけど、
結構可愛い顔してましたよ」
どうでもいい情報だが、
言わんとしていることはわかる。
松島は構わず喋り続けた。
「ああ見えて潤さんと同期ですよ」
ということは、自分の弟と
同い年ということになる。
「…31か」
「意外ですよね。
ちなみに独身」
「どこ情報だよ」
「俺情報っス」
松島の自信満々な顔にため息をついてから、
雅俊は再びパソコンで血液検査データを確認した。
「一回血ガスとっておくか」
「はい」