東都南大学病院は、この辺りで唯一
小児心臓外科が存在する病院だ。
昔からいる、やせ型の梶木教授が、
子どもを手術台に移動させている。
この梶木教授の腕を頼りに、
全国から心臓疾患を持った子どもが
この病院にやってくる。
だが、後から入ってきた女医には
雅俊は見覚えがなかった。
「あの女医は?」
無事挿管を終えた松島が、
人工呼吸器に搭載されたパソコンに
諸々記載しながら言った。
「伊東先生です。
去年からうちに来たんですよ」
教授より後から来ては、
子どもをちらっと見て
すぐにルーペを装着。
器械出し看護師に一声かけると、
すぐに手洗いに行ってしまった。
その後ろ姿を見届けて、
松島が言った。
「自由人なんですって」
「教授に消毒させて、
先に手洗いに行くのか」
梶木が子どもの体を
温めた消毒薬で拭いている。
普通は下っ端が手術の準備を済ませている間に
教授や先輩が先に手洗いにいくものだが。
「あんまり話してるの見たことないんですよ、
誰も」
「誰も?」
「誰も」
梶木が「手、洗ってきまーす」と言って
ルーペをつけながら部屋を出て行った。
2人の会話を聞いていたのか、
ベテランである外回り看護師が
会話に混ざってきた。
「藤原先生!お久しぶりです~!」
お久しぶりなことに驚いたが、
雅俊は小さく会釈した。
「すみれちゃんね、
先生は初めて見るわよね」
「そうですね」
あの女医はどうやら、
伊東すみれというらしい。
目元しか見えなかったが、
看護師がそう呼ぶということは
やはり若手なのだろう。
松島が雅俊の考えを察してたように言った。
「ああ見えて、大阪で
バリバリやってたらしいですよ」
「大阪か」
「和久田教授って知ってます?」
「あぁ」
大阪の心臓外科医の名誉教授である
和久田教授を知らない医療者はいないだろう。
「すみれ先生は、和久田教授のもとで
下積みを積んだ叩き上げなんですって」
松島まで下の名前で呼ぶことに引っかかったが、
いちいち突っ込むのも面倒なのでやめた。
「まだ若く見えるが、やり手なのか」
「うちの小児心臓はあの2人で
もってるようなものなのよ」
ベテラン看護師がそう言うと、
手洗いを終えたすみれと梶木が戻ってきた。
ベテラン看護師が、
2人にガウンを着せに向かった。
松島がシリンジポンプを確認しつつ言った。
「結構幼く見えますよね」
「目元しか見えないから
何とも言えないが、そうだな」
「俺一回だけ顔見たことありますけど、
結構可愛い顔してましたよ」
どうでもいい情報だが、
言わんとしていることはわかる。
松島は構わず喋り続けた。
「ああ見えて潤さんと同期ですよ」
ということは、自分の弟と
同い年ということになる。
「…31か」
「意外ですよね。
ちなみに独身」
「どこ情報だよ」
「俺情報っス」
松島の自信満々な顔にため息をついてから、
雅俊は再びパソコンで血液検査データを確認した。
「一回血ガスとっておくか」
「はい」
外科医の準備が整ったところで、
梶木が「タイムアウト」とか細い声をかけた。
「梶木です」
「伊東です」
「麻酔科、松島です」
「藤原です」
「器械出し、細谷です」
「外回り、遠藤です。
患者さんの紹介、お願いします」
「荒井ベビー、生後3日、女児。
ファロー四徴症のVSDに対して…」
普段は下の人間が言う患者紹介も、
なぜか教授が進めていた。
「…以上です。お願いします」
手術がスタートし、
人工心肺を回すまでの勝負が始まった。
本来、ファロー四徴症の手術は
早くても生後半年から手術をするが、
今日の子は横隔膜ヘルニアを併発している。
そのため、生後3日という
生まれたてでの大手術となったのだろう。
「新生児の心臓は、
饅頭より小さく、
豆腐より柔らかい。
少しのミスの少量の出血も
命取りになることがある」
それだけ外科医の手技が問われる。
雅俊は、松島に小声で説明しつつ、
麻酔科医として必要な知識を伝えた。
梶木が手を進めつつ言った。
「心臓抑えてます」
それが麻酔科医に言っていることだと、
オペを経験していれば理解に容易い。
雅俊が「はい」と返事をすると、
すみれが顔をこちらに向けた。
普通は皆、顔を下げて
ルーペの奥から直接見る。
だがすみれは、ルーペ越しに
大きくなったその目で雅俊を見ていた。
「…」
だが、何も言わずにまた術野に目を向ける。
雅俊も何事もなくモニターに視線を戻した。
すると後ろから松島が
雅俊の耳に顔を寄せた。
「さすがですね、藤原先生。
あのすみれ先生が見惚れるほどとは」
見惚れるの意味を知らないのかこいつは…
雅俊は松島をじっと睨んでから、
シリンジポンプの設定を変えるのに
しゃがみ込んだ。
5時間の手術が終わり、
子どもを再びベッドに移動させる。
挿管チューブから酸素を送りつつ、
雅俊は梶木やすみれと共に
ベッドを押してハートセンターへ同行した。
専用エレベーターで
ハートセンターへつき、
看護師たちに引き継ぎをする。
「バイタルは安定。
ポンプ設定はこのままで、
後は主治医指示でお願いします」
「了解です」
大量の点滴やモニター類をさばくのも一苦労だ。
「じゃあ後はお願いします」
引継ぎを終えて、
松島と雅俊が立ち去ろうとすると、
帽子を外していたすみれと目が合った。
その赤毛のようなふわふわな髪と、
ルーペを外してよく見えた瞳に、
雅俊は思わず目を見開いた。
「え…」
見つめ合っている2人の間で、
松島が不思議そうに首を振る。
すみれが構わず雅俊に近づいてきた。
「私、君のこと知ってる…」
聞き覚えのある声だった。
高く澄んだ声だが、
大人びている不思議な雰囲気。
雅俊は目の前の事実が
半ば信じられなかった。
まさか家の前で倒れていた謎の女が、
うちの小児心臓外科の若き名医だったとは。
雅俊は何も言葉が出てこず、
ただすみれを見下ろしていた。
そんな雅俊を大きな瞳で見つめて数秒。
すみれはふらっと独特な動きで
ハートセンターを出て行った。
ハートセンターを出たところで、
松島がマスク越しでもわかる
笑みを浮かべて言った。
「藤原せんせ~?
実は知り合いだったんですね?
すみれ先生と。
言わないんだもんな~」
雅俊はエレベーターのボタンを押して
ただドアが開くのを待った。
「知り合いじゃない」
「え、だって向こうが
『君のこと知ってる』って…」
「数日前に一度会っただけだ」
「え、なんで?どこでですか?」
「…きたぞ」
エレベーターの明かりが点滅し、
ドアが開いた。
「そこ隠す必要あります?」
松島がボタンを押して言った。
「いやらしいんだから~」
「…」
雅俊は松島をじろりと睨んだ。
「なに言ってんだ」
「すいやせん」
ぼそっと謝罪しつつも、
松島は横目に雅俊を伺っていた。
雅俊は気にせず
持っていた資料を松島に渡した。
「これ、東郷先生に返しておいてくれ」
「はーい」
その日の夜。
緩和ケア部門への挨拶を済ませ、
買い物をして帰宅すると
時刻は21時を回っていた。
雅俊は、手術以外の日は
緩和ケア部門で、余命の短い
終末期患者への疼痛コントロールを
することになっている。
どんな患者がいるのか見に行っていると
気づいたら今日が終わっていた。
雅俊は買い溜めたスーパー袋を抱えて
ソレイユのエントランスを過ぎた。
一人暮らしが長いため、
こうして夜のスーパーに
行くことも慣れたものだ。
エレベーターに乗ったところで
ポケットに入れていたスマホが震えた。
麻酔科のグループメッセージで
やり取りが行われている。
『これから小児心臓きます。
来れる先輩いらっしゃいますか?』
下っ端からのメッセージだった。
小児心臓につける麻酔科医は少ない。
下の人間が1人で当直をしている際に
緊急手術が入れば、
こうしてベテラン医を呼ぶのが
今の麻酔科では暗黙の了解なのだろう。
雅俊が文字を打つタイミングで
東郷からの返信が出た。
『トイレしたら行きます』
便座に座る熊のスタンプが一つ。
雅俊は黙ってスマホをしまった。
エレベーターを降りて、
廊下に差し掛かったところで
足早に歩いてくる音が聞こえた。
「…」
案の定、すみれだった。
以前と変わらず、まだ夏終わりだというのに
大袈裟なほどに厚着だ。
白のブルゾンは首までしっかり閉めている。
「君、麻酔科の…」
すみれは足を止めて言った。
それから雅俊の手元に目を向けた。
雅俊は気にせず言った。
「急患か」
「そう。今から開く」
"開く"とは、開胸すること、
すなわち手術することを意味している。
すみれは雅俊の持つ袋から目を離さなかったが、
やがてぐぅーと間抜けな音が
2人の間に響いた。
「…食ってないのか」
すみれは自分の腹部に手を当てた。
「カップラーメン待ってたら呼ばれた」
伸びちゃうかな、と呟くすみれに
雅俊は思わず反応してしまった。
「そんなのばっか食ってたら
持たないだろ」
「だって、作ってもどうせ無駄になるから」
小児心臓は急変が多い。
故に突然外科医が呼ばれることは
他の科よりも多いだろう。
ましてや医局員が少ないなら尚更だ。
「…終わったらうちに寄れ。
カレーぐらいなら分けてやる」