「申し訳ありません、マティス殿下。わたくし、カミラさまにお話がありますの。二人きりで」
「しかし、それはあまりにも危険ではないか?」
彼にとって『わたくし』は危険人物なのね。愛されていないことは知っていたけれど、チクチクと胸が痛むわ。
「大丈夫です。ねえ、『カミラさま』?」
「え? ええ……」
彼女ははっとしたように顔を上げ、こちらをじっと見ている。そして、きゅっと唇を結んで神妙な表情でうなずいた。
「それでは、ごきげんよう」
すっとカーテシーをして、彼から離れる。他の学生たちも、わたくしたちのことを見ていた。その視線を振り切るように彼女の手を取って歩きだす。
そして、空いている教室に入り、扉を閉めて――目の前の『カミラ』を見つめた。
「貴女、マーセルね?」
「はい。……では、あなたはカミラさま? これはどういうことですか? 私が憎いから……マティスさまを奪ったから、こんな嫌がらせを!?」
被害妄想もここまでくれば天晴ね。ふるふると震えて泣く姿を見て、わたくしが作り上げた『完璧な公爵令嬢』の像がガラガラと崩れていくことを予感し、長々とため息を吐く。
「がんばってマティスさまを手に入れたのに……!」
「貴女、がんばるところが違うのではなくて? ここは学園よ?」
王立レフェーブル学園。
わたくしたちはそこの学生だ。
この学園は学生たちが自分の得意な分野で就職できるようにサポートしてくれる学園なので、学生数は多い。
選べる学科は騎士、傭兵、魔術師、召使となかなか自由。
女性でも騎士を目指す人もいるし、男性でも召使を目指す人がいる。その人たちをサポートするのが、この学園だ。
わたくしは『魔術師』、マーセルは『召使』を受講しているから、頻繁に顔を合わせることはなかったのだけど……なぜかここ最近、マーセルはわたくしの前に現れてマティスとイチャイチャしているところを見せつけてから去っていた。
嫌がらせ、よね。
「カミラさまがすぐに婚約破棄してくれなかったから……!」
「お言葉ですけど、わたくしとマティス殿下の婚約は生まれたときから決まっていたのよ。婚約破棄を願うなら、いろんな人に話を通さないといけないの。……ああ、ちょうど良かったじゃない。貴女、わたくしの身体になったのだから、両親に婚約破棄をお願いしたらいいわ」
「……! そっか、そうよね! 私、がんばって説得してみせます!」
ぱぁっといきなり表情が明るくなった。……わたくしの顔でそんな顔をされると、なんだか別人のように見えるわ。
「善は急げ、今すぐに伝えてきますわ!」
意気揚々と教室を出ていくのを眺めながら、……ベネット邸まできちんと辿りつけるのかしら? と小首をかしげる。メイドたちも、家族も、あんな『わたくし』を見たらどう思うかしらね。
お母さまは間違いなく怒り狂うだろうから、明日ちゃんと学園に登校できるかも怪しい。
両肩を上げてゆっくりと息を吐く。
公爵家の令嬢――カミラ。それがわたくしの名前。
生まれたときからの婚約者、マティス殿下とはあまり良い関係を築いているとは言えない。
だって、彼はこのレフェーブル学園で男爵家の令嬢、マーセル――この身体の持ち主と、付き合い始めた。
わたくしと彼が出会ったのは三歳の頃。両親と一緒に王城まで足を運んだ日……婚約者として紹介された。そこから、わたくしの地獄が始まったのよねぇ。
マティス殿下は第一王子だから、彼を支えられる人になりなさいって。いろんなことを叩き込まれたのよね。できなかったら失望のまなざしを向けられたり、『その程度のこともできないの?』と責められたりとなかなか大変だったわ。
――さて、彼女はどのくらい耐えられるかしらね?
「マーセル、ここにいたのか……!」
教室の扉が開いて、マティス殿下が笑みを浮かべながらわたくしに……いいえ、『マーセル』に近付いてくる。
マーセルを前にすると、そんな優しい表情を浮かべられるのね。なんだかいろいろと複雑な気持ちだわ。
「大丈夫かい? カミラにいじめられなかった?」
こんなに甘い声で……マーセルとは話すのね。『カミラ』の前とは大違い。
彼のことは好きでも嫌いでもないと思っていたけれど、もはやどうでもいいに変わっていったのは、入学してからあっという間だったわ。
「大丈夫ですよ。ただ、お話をしていただけですもの」
「そうかい? ……まぁ、きみがそう言うのなら、信じるよ」
そっとわたくしの頬に……いいえ、この身体の持ち主はマーセルだったわ。
マーセルの頬に触れて愛おしそうに目元を細める彼に、わたくしは頭が痛くなってきた。
婚約者がいながら、『マーセル』と恋人になった彼の考えがまったくわからない。
「階段から落ちたんだ。医者に診てもらおう?」
「え、ええ……」
わたくしに対する態度と、『マーセル』に対する態度があまりにも違いすぎて引いてしまう……のは、仕方ないことよね?
わたくしは、マーセルがどんなふうにマティス殿下と接していたか知らない。なので、下手に芝居をするよりは、わたくしはわたくしのまま彼と接したほうが良いかしら?
今の彼なら、『マーセル』の中身が『わたくし』だと疑いもしないでしょうし。
彼はすっと手を差し出した。エスコートをするつもりみたいね。わたくしのときはそんなこと、こちらから言わなければしなかったのに。
本当、いろいろな意味で複雑な気持ちにしてくれるわね。
そっと彼の手を取ると、ふわりと身体が浮いた。
「ま、マティス殿下!? わ、わたくし、自分で歩けますわ!」
「いいや、ダメだよ。昨日は激しく愛してしまったからね」
「――ッ!」
……ああ、そう。そうなの。そういう関係なのね。婚約者がいながら……呆れてなにも言えないわ。
大人しくなったわたくしをどう思ったのか、彼は上機嫌で保健室まで足を進めた。
保健室には女性がいた。見覚えがある。マティス殿下の主治医の一人だ。彼女は『マーセル』を厳しい目で見ていた。彼はわたくしを椅子に座らせると、両肩に手を置く。
「階段から落ちたんだ。診てやってほしい」
「……かしこまりました。殿下のお心のままに。……女性の治療ですので……」
「ああ、そうだね。いくら私が彼女のすべてを見ているといっても、恥じらうだろうからね」
パチンとウインクして彼は出ていった。ぞわっと鳥肌が立ったわ。なにあれ、本当にマティス殿下なの? あれが? 本当に?
「あなた、本当にどういうつもりなの? 階段から転がり落ちて、殿下の気を引こうという作戦?」
二人きりになった途端、彼女が冷たい声を浴びせてきた。まぁ、確かにそう思うわよね、この状況では。
「だんまり? まぁ、良いわ。殿下に言われたから治療はしてあげる。本当、どうしてあなたみたいな人が殿下の傍にいるのかしら……!」
彼女はいやいやながら『マーセル』を治療してくれた。
階段から転がり落ちたというのに、かすり傷だけだった。丈夫なのね、この身体。
てきぱきと治療をしてくれる彼女を眺める。確か、王城で何度か会ったことがあるわ。陛下が抱えている医療班のひとりだったはず。
真面目過ぎて、この学園に追い出されたのよね。マティス殿下の主治医として。とはいえ、彼には別の主治医がついているので、彼女はこの学園で保険医の手伝いをしている……らしい。
彼女はとても正義感が強く、曲がったことが大嫌いだと聞いている。だから、マティス殿下とマーセルのことも良く思っていないのだろう。
「……ありがとうございました、クロエさま」
「……どうして私の名を、知っているの?」
名前を呼んだら、露骨にいやな顔をされた。……え、マティスって彼女の名を呼んだことがないのかしら……? 目を丸くして彼女を見ると、わたくしをじっと見つめてから視線をそらした。
「もう部屋に戻りなさい」
「はい。ありがとうございました」
立ち上がってカーテシーをすると、クロエは複雑そうにわたくしを見る。
「それでは、失礼します」
くるりと踵を返して保健室から出ようとすると、彼女がわたくしの手首を掴んだ。どうしたのかしら? と彼女を見ると「……あなたは誰?」と怪訝そうな表情で問われ、息を呑んだ。
もしかして、もうわたくしがマーセルではないとバレたの?
マーセルを演じるつもりはないので、バレたらバレたでよいのだけど。
「さっきから、私に対する態度がマーセルではないわ。それに、彼女は絶対に私の名を口にしない。殿下が話すこともないでしょうから」
「――ふふっ、素晴らし慧眼ね、クロエ。そうよ、わたくしは『マーセル』ではないわ。マティス殿下は気付いていないみたいなのに、やっぱりこういうのは女性のほうが鋭いのかしらね?」
くすくすと笑いながらそういうと、彼女は大きく目を見開いて「……カミラさま?」とつぶやいた。
婚約者にも気付かれていないのに、あまり接したことのない彼女が先に中身が違うことに気付くなんて、なんだか不思議だわ。
「……信じられません……。どうして、マーセルの中にカミラさまが……?」
「わたくしもよくわからないの。マーセルが階段を転がり落ちたとき、わたくしとぶつかって……目を開けたら中身が入れ替わっていたのよ」
「……魔法でもかけられたのでしょうか……?」
人格を入れ替える魔法なんて、あるのかしら? あとで図書館で調べてみましょう。
「ねえ、それより聞きたいことがあるのだけど……。マーセルとマティス殿下が婚前交渉をした場合って、わたくし、慰謝料を請求しても良いかしら?」
首をかしげて問うと、クロエはふっと微笑みを浮かべて「もちろんですわ」と答えてくれた。
そうよね、良いわよね。……その前に、元の身体に戻ることを考えないといけないけれど、ね。
「わたくしはこれから、『マーセル』の評判を上げるわ。逆に、マーセルは『わたくし』の評判を落とすでしょう」
マーセルがわたくしの評判を上げられるとは思わない。でも、わたくしは彼女の評判を上げることができるはず。公爵家の令嬢として、生きてきたわたくしには。
彼女には、がんばってわたくしの評判を落としてもらわないといけないわね。マティス殿下との婚約を白紙にしてもらうために。
――わたくし、彼の妻になるのは絶対にいやだわ。そして、公爵家の生贄になるのも、絶対にいや。勘当されたいほどに。
そのために……しっかりと公爵家を振り回してちょうだい、マーセル。
慰謝料は、しっかりと請求させてもらうけれどね!
わたくしが保健室の外に出ると、マティス殿下が廊下で待っていた。こちらに気付くと、パッと嬉しそうに微笑みを浮かべて、「身体は大丈夫かい?」と優しく問いかける。
……なので、わたくしはほんの少しだけ、演技をすることにした。
「ええ、転んだところは大丈夫でしたわ。ですが、その……予想以上に体力を削ってしまっているみたいで……しばらく、ゆっくりと部屋で休みたいのですが……だめでしょうか?」
上目遣い(絶対に『カミラ』ではしないことだわ)でお願いすると、彼は心配そうに眉を下げて「ああ、ゆっくりと休んでくれ」と部屋まで送ってくれた。わたくしは彼女の部屋を知らなかったから、助かったわ。
マーセルの部屋の前でマティス殿下と別れ、中に入る。がらんとした殺風景な部屋で少し驚いた。花の一つも飾っていない。
すとんとベッドに座って窓の外を見ると、夕日が沈んでいくところだった。一人きりになってなんだか気が抜けたみたいで、ベッドに横たわる。
家探しするみたいでちょっと気が引けるけれど、彼女の授業の内容を確認したほうが良いわよね? 明日から、彼女が受講している授業を受けるのだから。どんな授業を受けているのか、先に調べておかないと。
むくりと起き上がって、必要そうなものを探していく。机の引き出しの中にテキストがあった。ぱらぱらと捲り……読めないくらいに汚れているのを見て、眉根を寄せる。
マーセル、貴女、嫌がらせを受けていたのね。
マティス殿下はそれを知っているのかしら? ……知っているから、マーセルの傍にいたのかもしれないわね。
だとしたら、あまり得策とは言えないわね。マーセルのことをマティス殿下が庇えば庇うほど、嫌がらせが増えるだけだと思うのだけど……そこまで考えてはいないようね。
パラパラとテキストを眺めていると、『負けない』という文字が出てきたわ。彼女が書いたであろうその文字を、そっとなぞった。
それにしても、テキストがこれではね……。明日の授業、どうしましょう。一応持っていってみようかしら? 内容は……全然わからないけれど。
とはいえ、マーセルは召使学科のはずだから、いつもわたくしの侍女たちがしているようなことを学んでいる……のよね?
とりあえず、今日はもう休まないといけないわね。
改めて辺りを見渡して、ゆっくりと息を吐く。お腹も空いていないし、今日はもう休んじゃいましょう。
……あまりにも殺風景だから、あとで花を飾ろうかしら。
着替えようと思い、クローゼットを開けてまた驚いた。
あまりにも枚数が少なくて。
ネグリジェを取り出してから着替え、ぱたんとクローゼットを閉じてベッドに潜り込む。
もしかしたら、元の身体に戻っているかもしれないと考えながら、目を閉じた。