「わたくしもマーセルも、あなた方に振り回された……ということは確定ですわね」
自分が思っている以上の、冷たい声。
陛下がオリヴィエさまの血筋を王家に入れたい――または、神聖力を持つ者を王家に入れたいという理由で、トレードされたということなの?
そんな理由で、わたくしはあの血がにじむような努力を強いられていたということなの?
そんな、そんなのって……!
ぐっと拳を握りしめて震わせていると、レグルスさまがぽんぽんと優しく肩を叩いてくれた。
まるで、「落ち着け」と伝えるように……
数回深呼吸を繰り返し、わたくしはレグルスさまを見上げた。彼の表情はとても柔らかく、その笑みを見るだけでなぜか心が安堵した。
――わたくし、きっと、彼に惹かれているんだわ――……
マティス殿下には感じなかった感情。この感情をきっと『恋』というのだろう。
「ブレンさま。わたくしとマーセルのトレードは、これで終わりでしょうか?」
「はい。鎖は完璧に解きました。もうあなたたちの中身が入れ替わることはないでしょう」
「中身が、入れ替わる……?」
オリヴィエさまの声が震えていた。そして、情報過多になったのか、ふっと気を失ってしまったようだ。ノランさまとマーセルが「オリヴィエ!」や「お母さま!」と声を上げる。
「……オリヴィエさまには、申し訳ないことをしましたわね」
わたくしの口から、『お母さま』と呼ぶことはないでしょう。今までずっと、マーセルを実の娘だと信じて育ててきたオリヴィエさま。
「……どうして、知ったのですか?」
「マティス殿下に聞きましたの。……本来ならば、マーセルが公爵令嬢だということを」
嘘ではない。あのときのわたくしは『マーセル』だったけれど、ね。
「これで失礼しますわ。――さようなら、カースティン男爵」
「まっ……!」
引き止めようとするノランさまをじっと見つめる。彼は、諦めたように目を伏せた。
マーセルを残して、わたくしたちはその場をあとにし、ここまで来るまでに乗っていた馬車に乗り込み、今度はわたくしの――いえ、ベネット公爵邸に向かった。レグルスさまも、ブレンさまも、クロエも一緒に。
こうして『カミラ』として公爵邸に行くのは、とても久しぶりのような気がする。
客人を連れて帰ってきたわたくしに、公爵邸のメイドや執事たちは驚きを隠せないようだった。
「お父さまたちはどこへ?」
「あ、えっと、執務室にいらっしゃいます」
「わかったわ、ありがとう」
お父さまたちがどこにいるのかを尋ね、返ってきた言葉にお礼を伝えてからずんずんと執務室に足を運ぶ。
執務室の前に立ち、ノックもせずに扉を勢いよく開いた。
「ごきげんよう、お父さま。――お母さまとお兄さまも、こちらにいらっしゃったのですね」
「カミラ! なんてはしたない真似を!」
お母さまが睨みつけてきた。わたくしは目元を細めてお母さまをじっと見つめる。その眼光の鋭さに、怯んだように息を呑むのを見て、ツカツカと足音を立ててお父さまに近付き、口を開く。
「わたくしとマティス殿下の婚約を白紙にし、わたくしをベネット家から解放してください」
「い、いきなりなにを言っているんだ、カミラ!」
「わたくし、もう全部知っておりますの。あなた方がわたくしの本当の家族ではないことも、本当は男爵家に生まれていたことも、陛下がどうしてわたくしをマティス殿下の婚約者であることを望んだのかも!」
しん、と静まり返った執務室の中で、レグルスさまがわたくしに近付き、お父さまたちに視線を巡らせる。
「証人が必要なら、俺とブレン、それからクロエも証人になるぜ?」
この三人は、先程までカースティン男爵邸で同じことを聞いていた。さらにブレンさまがすっと人差し指を立てると、ふわふわとした煙がでてきて、その煙の中にあの話をしていたわたくしたちが映っていた。
――その内容を知り、公爵家の人たちはゆっくりと息を吐き、苦々しそうに表情を歪める。
「わたくしはもう、あなた方の愛情を求めません。最初は、愛されたかった。どうしていつも、わたくしにだけ冷たいのか、悩んで……あなた方の望むようにすれば、いつかきっと愛してくれると信じていた。……でも、もう良いのです。こんなこと、終わりにしましょう……!」
言っているあいだに、涙が出そうになった。なんとか涙をこらえて、ぐっと拳を握りしめた。
――家族に、愛されたかった。褒めてもらいたかった。優しく微笑んでほしかった。でも、それももう、今日で終わり。
「わたくしを、自由にしてください……!」
そう切実に伝えると、お父さまの瞳が揺れた。
「自由になって、どうするつもりだ? お前は、ベネット公爵令嬢であることには変わりないんだぞ!」
「――リンブルグへ行きます」
その言葉だけは、凛とした声で言えた。レグルスさまはこちらを見る。ぱぁっと明るく笑う姿を見て、わたくしも同じように笑みを浮かべる。
「わたくしを望んでくれる人と、一緒にいたいのです」
心の底からの言葉に、お父さまたちが言葉を呑んだのがわかった。
「――これがわたくしの……カミラ・リンディ・ベネットとしての、最初で最後のわがままですわ」
ブレンさまがカースティン男爵家でのことを魔法で見せてくれたから、わたくしとマーセルの中身がトレードされていたことも理解したのだろう。お母さまはその場に崩れ落ち、お兄さまも呆然としていた。お父さまも顔を伏せ、「こんな、ことが……」と小さくつぶやく。
――実の娘にはできないことを、わたくしにはしていたのね。
「……陛下には、話してみよう」
「お願いします。わたくしはもうこれ以上……この国に、いたくありません」
それだけ、つらい日々を過ごしていた。
ぽんっと肩を叩かれて、弾かれたように顔を上げる。……わたくし、いつの間にかうつむいていたのね。
「リンブルグ王太子として、そしてただの『レグルス』として、俺は彼女を望んでいる。だからこそ、マティス殿下との婚約を白紙にしてもらう」
――優しい人。こんなわたくしを、まだ望んでくださる。
「どうして、カミラをそんなに……?」
お母さまの声が震えていた。まるで、信じられないとばかりに。
「――姿勢が綺麗だったんだ。数多の令嬢の中で、誰よりも。その凛とした姿に惹かれた。それだけでは理由になりませんか?」
お母さまに視線を向けて問いかける。……彼と会ったのは、本当に一瞬の出来事だったはずだ。それなのに……その頃から、わたくしを想ってくださっていたの?
「俺がマティス殿下に勝ったら、婚約を白紙にすると、約束してください」
「……それで、陛下が納得すると思うかい?」
「いいえ。ですが、マティス殿下も望んだら? 自分の息子が婚約を白紙にしたいほど、マーセル嬢を望んでいると知ったら?」
にぃっと口角を上げるレグルスさまに、思わず目をパチパチと瞬かせた。
そういえば、マティス殿下は一度もわたくしとの婚約を白紙にするとは、言っていなかったわね。
マーセルを娶るとは言っていたけれど……それは、どちらのことを言っているのかしら。
……いえ、どちらでも構わないわ。
わたくしは、マティス殿下と結婚するつもりはないもの。
「――マティス殿下が、カミラとの婚約を白紙にしたいわけがないだろう」
「なぜ?」
「ベネット公爵家のものと結婚すれば、ベネット公爵家がマティス殿下を支えることになる。それは、彼が王位に近付くということだ」
「――偽りの公爵令嬢でも?」
ああ、わたくし、こんなに冷たい声が出るのね、と何度でも感心しちゃう。
わたくしの言葉に、ぴくりとお父さまの眉が跳ねた。
「わたくしは、あなたたちと血の繋がりのない、ただの他人ですわ」
家族に愛されたかったわたくしは、もういない。
マーセルの身体に入り、彼女として過ごすことでわたくしの心はもう固まったのよ。
ベネット公爵家の人々から愛されることは、もう望まないということを。
「カミラ!」
「お兄さまだって、本当はマーセルを可愛がりたいのでしょう? そうですわよね、マーセルは本当の妹ですもの。偽物のわたくしと違って」
目元を細めてお兄さまを睨みつける。彼の瞳は揺れていた。
なぜ、動揺するのかしら。ベネット公爵家の人たちは、ずっとわたくしのことを『家族』と認めていなかったのに。
「――ッ」
立ち上がったお母さまが、わたくしに手を上げようとしているのが見えた。すっと目を閉じて衝撃を待つ。
――でも、いつまで経っても衝撃はこなかった。
そっと目を開けると、レグルスさまがお母さまの手首を掴んでいるのが見え、目を大きく見開く。
「家族に対しても、他人に対しても行うことではありませんよね。それとも、この国ではこうやって子どもを育てるのですか?」
レグルスさまがわたくしを庇ってくれた。そして、お母さまに冷たい言葉を浴びせている。彼の言葉に、お母さまは「離しなさいっ」と声を荒げた。
「どうしてそこまで、カミラ嬢を『完璧な公爵令嬢』にしようとしたんですか? カースティン男爵夫妻の子だから、にしては厳しすぎる気がするのですが?」
呆れたようなレグルスさまの声に、お母さまは忌々しそうに表情を歪め、お父さまが立ち上がりそっとお母さまの方に手を置く。
「……マティス殿下の婚約者として、完璧な公爵令嬢が必要だからだ」
「完璧な公爵令嬢、ねぇ……。カミラ嬢、きみは完璧になりたいかい?」
こちらを振り返り問いかけるレグルスさま。
わたくしはゆっくりと首を左右に振った。……無理よ、わたくしには。
「いいえ。わたくしは、完璧ではありませんもの」
マーセルの身体に入って、召使学科の人たちを見て気付いたの。
普通の令嬢や令息は、『完璧』とは程遠いところにいるのだと――……
「公爵家の令嬢として、お母さまたちに厳しく育てられ……わたくしは、わたくしの自我を押し殺して生きていました」
ベネット公爵家で過ごしていた年月を思い出しながら、一度言葉を切った。わたくしの前にいるレグルスさまの背中がとても大きく見える。
手を伸ばして、彼の服を軽く掴む。そのことに驚いたのか、レグルスさまが目を丸くしてわたくしに視線を向け、それからふっと表情を緩めて小さくうなずいた。
まるで、これからわたくしが伝えることを、肯定するかのように。
「――わたくしは、この国から出ていきます。誰がなんと言おうとも。レグルスさまたちと一緒に、リンブルグルに行きますわ」
そして、わたくしはわたくしの人生をやり直すの。一から。
――そのとき、隣にいてほしいのは――……レグルスさまだ。
「ここまで育てていただいたことには、感謝しております。……それと同時に、恨んでもいます。あの部屋にわたくしを閉じ込めて、自我を奪ったことを」
幼い頃から繰り返されたこと。言うことを聞かなければ閉じ込められていた部屋。
家族に愛されたかったわたくしの気持ちを、利用していたこと。
「あなた方に利用されるわたくしは、もういませんわ」
声は、震えなかった。
よく言った、とばかりにレグルスさまがうなずく。
「さようなら、ベネット家の方々。――それを、伝えにきたのです」
お母さまから習ったカーテシーをして、ベネット家の三人を置いて執務室から出ていった。
ブレンさまが鎖を解いてくれたおかげで、身体の中に力がみなぎってくるようだわ。今のわたくしに、怖いものはないと思えるくらいに。