パチン、とブレンさまが指を鳴らす。それと同時に、わたくし、マーセル、そしてノランさまが「うっ」と小さく呻いてテーブルに手を置いた。
「……こんな、ことが……できるとは……」
「すみません、ちょっと衝撃がありましたねー」
ブレンさまの言葉が、先程とは違うところから聞こえる。
ハッとして顔を上げ、座っている席順を見ると、わたくしとマーセルの場所が入れ替わっていた。
――もとに、戻っている……?
呆然として手のひらを見つめるわたくしとマーセルに、レグルスさまが問いかけた。
「二人がもとに戻っている?」
「ついでに、カミラさまに絡みついていた鎖と、マーセル嬢に絡みついていた鎖も解きました。これで隠された属性と、魔法が使えるようになりましたよ」
マーセルは自分の手のひらから、ブレンさまに視線を移し、信じられないとばかりに目を大きく見開く。
わたくしも、目を閉じて自分の隠された属性を探ってみる。
いったい、わたくしにどんな属性が隠されているというの――……?
「……ああ、なるほど。ちょっと失礼」
レグルスさまの声が聞こえる。カタンと立ち上がり、歩く音。そして、わたくしの肩に手を置いて「そのまま」と真剣な声色でささやかれ、頬に熱が集まってしまう。
肩に置かれた手が、温かい。……いえ、どんどん温かみを増していく。
そして、その温かみがどんどんと心臓のほうに向かっている。
とん、と優しい温かさが当たるような、そんな感覚。
当たった場所から、なにかを引っ張り出されるような――……
「いくよ」
「え?」
短い言葉とともに、わたくしの身体からなにかが溢れる感覚がした。
目を開けてみると、身体が淡く光っていて、思わず目を丸くしてしまう。
ぱさり、となにかが落ちる音が聞こえてそちらに顔を向けると、刺繍を取りにいっていたオリヴィエさまが、信じられないものを見たとばかりに目を大きく見開いていた。
「……神聖力……? どうして、カミラさまが、その力を……?」
困惑するように声を震わせるオリヴィエさま。その瞳には確かに『恐怖』が見えた。
「オリヴィエ……」
「あなた……、どうして、カミラさまが神聖力を持っているの? あれは、あの力は……」
「すみません、神聖力とはなんですか?」
それまで黙っていたクロエが挙手して、首をかしげて問う。その問いに、オリヴィエさまは我に返ったみたいで、手のひらで目元を覆い、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「神聖力とは――わたくしの家系に伝わる、力なのです」
「……家系の、力?」
オリヴィエさまはこくりとうなずき、目元から手を離すとふらふらとした足取りでノランさまに近付く。ノランさまが彼女の手を取ると、マーセルとわたくしを交互に見て眉を下げて彼を睨みつけた。
「――わたくしの家系は代々、神殿で暮らしていたのです。神聖力を持っているから、信徒のためにその力を使うため……。神聖力を持つ人は決まっておらず、わたくしに宿る神聖力は少ないものだったので、神殿よりは王都で暮らしたほうが良いだろうという両親の勧めで学園に入学しました」
淡々とした口調で語り始めるオリヴィエさまに、わたくしたちは顔を見合わせた。彼女はさらに言葉を続ける。
「学園に入学し、一度は殿下――今では陛下、ですわね。と、恋仲になったこともありました。ですが、わたくしは男爵の娘。身分が釣り合わないから、彼のもとを去ったのです。……きっぱりと諦めて、ノランさまと結婚して子を授かり、その子を大切に育てていました。なのになぜ、マーセルではなく、カミラさまに神聖力が宿っているのですか……?」
ふるふると肩を震わせる。彼女はいったい、どんな感情を持っているのかしら……?
「ねえ、あなた、これはどういうことなの? なにか言ってよ……ッ!」
涙声のオリヴィエさまに、ノランさまはぐっと唇を噛み締めて、目を伏せた。
「……陛下から、頼まれたんだ」
「……え?」
「きみと、ベネット公爵夫人の妊娠はほぼ同時だったろう。生まれた子を取り替えよう、と陛下に頼まれて……公爵家の令嬢だからと多額の金貨をくださった。陛下は、どうしてもきみの子どもがほしいと言っていた。自分の養子に迎えるわけにはいかないから、生まれたばかりのマティス殿下と婚約をさせると……そうすることで、きみの家系の血を王家に入れることができる、と……」
明かされた真実に、オリヴィエさまはふっと身体から力を抜いて、その場に座り込んだ。
「お母さま!」
マーセルが慌てて彼女に駆け寄り、その手を取ろうとして――オリヴィエさまがパシンと彼女の手を拒絶した。そのことに驚いたのか、ノランさまが「オリヴィエ!」と声を荒げる。
「マーセルは知らなかったことなんだ。お前のことを本当の母だと慕い、ずっと暮らしていた。悪いのは、多額の金貨に目がくらんだ私なんだ……!」
「そして、それを言えないようにした陛下ですねー」
「しかしまぁ……回りくどいやり方だなぁ……」
レグルスさまがぽつりと言葉をこぼす。
わたくしも、そう思うわ。
……でも、確かにこの国の在り方なら、殿下の婚約者に男爵令嬢は選ばないでしょうね。
陛下はそれをわかっていたから、そんなことを提案したの……?
聞いてみないとわからないことだけど……
「わたくしもマーセルも、あなた方に振り回された……ということは確定ですわね」
自分が思っている以上の、冷たい声。
陛下がオリヴィエさまの血筋を王家に入れたい――または、神聖力を持つ者を王家に入れたいという理由で、トレードされたということなの?
そんな理由で、わたくしはあの血がにじむような努力を強いられていたということなの?
そんな、そんなのって……!
ぐっと拳を握りしめて震わせていると、レグルスさまがぽんぽんと優しく肩を叩いてくれた。
まるで、「落ち着け」と伝えるように……
数回深呼吸を繰り返し、わたくしはレグルスさまを見上げた。彼の表情はとても柔らかく、その笑みを見るだけでなぜか心が安堵した。
――わたくし、きっと、彼に惹かれているんだわ――……
マティス殿下には感じなかった感情。この感情をきっと『恋』というのだろう。
「ブレンさま。わたくしとマーセルのトレードは、これで終わりでしょうか?」
「はい。鎖は完璧に解きました。もうあなたたちの中身が入れ替わることはないでしょう」
「中身が、入れ替わる……?」
オリヴィエさまの声が震えていた。そして、情報過多になったのか、ふっと気を失ってしまったようだ。ノランさまとマーセルが「オリヴィエ!」や「お母さま!」と声を上げる。
「……オリヴィエさまには、申し訳ないことをしましたわね」
わたくしの口から、『お母さま』と呼ぶことはないでしょう。今までずっと、マーセルを実の娘だと信じて育ててきたオリヴィエさま。
「……どうして、知ったのですか?」
「マティス殿下に聞きましたの。……本来ならば、マーセルが公爵令嬢だということを」
嘘ではない。あのときのわたくしは『マーセル』だったけれど、ね。
「これで失礼しますわ。――さようなら、カースティン男爵」
「まっ……!」
引き止めようとするノランさまをじっと見つめる。彼は、諦めたように目を伏せた。
マーセルを残して、わたくしたちはその場をあとにし、ここまで来るまでに乗っていた馬車に乗り込み、今度はわたくしの――いえ、ベネット公爵邸に向かった。レグルスさまも、ブレンさまも、クロエも一緒に。
こうして『カミラ』として公爵邸に行くのは、とても久しぶりのような気がする。
客人を連れて帰ってきたわたくしに、公爵邸のメイドや執事たちは驚きを隠せないようだった。
「お父さまたちはどこへ?」
「あ、えっと、執務室にいらっしゃいます」
「わかったわ、ありがとう」
お父さまたちがどこにいるのかを尋ね、返ってきた言葉にお礼を伝えてからずんずんと執務室に足を運ぶ。
執務室の前に立ち、ノックもせずに扉を勢いよく開いた。
「ごきげんよう、お父さま。――お母さまとお兄さまも、こちらにいらっしゃったのですね」
「カミラ! なんてはしたない真似を!」
お母さまが睨みつけてきた。わたくしは目元を細めてお母さまをじっと見つめる。その眼光の鋭さに、怯んだように息を呑むのを見て、ツカツカと足音を立ててお父さまに近付き、口を開く。
「わたくしとマティス殿下の婚約を白紙にし、わたくしをベネット家から解放してください」
「い、いきなりなにを言っているんだ、カミラ!」
「わたくし、もう全部知っておりますの。あなた方がわたくしの本当の家族ではないことも、本当は男爵家に生まれていたことも、陛下がどうしてわたくしをマティス殿下の婚約者であることを望んだのかも!」
しん、と静まり返った執務室の中で、レグルスさまがわたくしに近付き、お父さまたちに視線を巡らせる。
「証人が必要なら、俺とブレン、それからクロエも証人になるぜ?」
この三人は、先程までカースティン男爵邸で同じことを聞いていた。さらにブレンさまがすっと人差し指を立てると、ふわふわとした煙がでてきて、その煙の中にあの話をしていたわたくしたちが映っていた。
――その内容を知り、公爵家の人たちはゆっくりと息を吐き、苦々しそうに表情を歪める。
「わたくしはもう、あなた方の愛情を求めません。最初は、愛されたかった。どうしていつも、わたくしにだけ冷たいのか、悩んで……あなた方の望むようにすれば、いつかきっと愛してくれると信じていた。……でも、もう良いのです。こんなこと、終わりにしましょう……!」
言っているあいだに、涙が出そうになった。なんとか涙をこらえて、ぐっと拳を握りしめた。
――家族に、愛されたかった。褒めてもらいたかった。優しく微笑んでほしかった。でも、それももう、今日で終わり。
「わたくしを、自由にしてください……!」
そう切実に伝えると、お父さまの瞳が揺れた。
「自由になって、どうするつもりだ? お前は、ベネット公爵令嬢であることには変わりないんだぞ!」
「――リンブルグへ行きます」
その言葉だけは、凛とした声で言えた。レグルスさまはこちらを見る。ぱぁっと明るく笑う姿を見て、わたくしも同じように笑みを浮かべる。
「わたくしを望んでくれる人と、一緒にいたいのです」
心の底からの言葉に、お父さまたちが言葉を呑んだのがわかった。
「――これがわたくしの……カミラ・リンディ・ベネットとしての、最初で最後のわがままですわ」
ブレンさまがカースティン男爵家でのことを魔法で見せてくれたから、わたくしとマーセルの中身がトレードされていたことも理解したのだろう。お母さまはその場に崩れ落ち、お兄さまも呆然としていた。お父さまも顔を伏せ、「こんな、ことが……」と小さくつぶやく。
――実の娘にはできないことを、わたくしにはしていたのね。
「……陛下には、話してみよう」
「お願いします。わたくしはもうこれ以上……この国に、いたくありません」
それだけ、つらい日々を過ごしていた。
ぽんっと肩を叩かれて、弾かれたように顔を上げる。……わたくし、いつの間にかうつむいていたのね。
「リンブルグ王太子として、そしてただの『レグルス』として、俺は彼女を望んでいる。だからこそ、マティス殿下との婚約を白紙にしてもらう」
――優しい人。こんなわたくしを、まだ望んでくださる。
「どうして、カミラをそんなに……?」
お母さまの声が震えていた。まるで、信じられないとばかりに。