わたくしの心が締め付けられるように痛み、ぎゅっと胸元に手を置いて服を掴んだ。
「せめて……あの子には、殿下に嫁いで幸せになってもらいたいと、そう思っている」
「……いいえ、いいえ、公爵さま。あのままでは、カミラさまは幸せとは程遠いところにいってしまいます。お願いします、マティス殿下とカミラさまの婚約を白紙にしてください……! そして、カミラさまを自由にしてください……!」
自由になりたいと、わたくしの心が叫んでいる。
この歳まで育ててくれた恩はあるけれど、わたくしはもう、自由になりたい。
お父さまたちに……ベネット公爵家に縛られることなく、自由に生きたい……!
切実な願いを聞いて、お父さまたちは息を呑んだ。
「カミラさまは、マティス殿下を愛していないことをご存知でしょう……!?」
「……カミラとマティス殿下の婚約は、陛下が希望したことだ」
「……陛下は、マーセル嬢とカミラ嬢の生家が入れ替わっていることを、ご存知なのですか?」
探るようにレグルスさまが尋ねる。
お父さまは少しだけ目を見開き、「さぁ、な」とつぶやいた。
……おそらく、陛下は知っていて、わたくしをマティス殿下の婚約者にしたのだろう。
ゆっくりと深呼吸を繰り返して、昂った気持ちを落ち着かせる。
「……マティス殿下は、カミラさまを想っていないでしょう……?」
「想い合うふたりが結びつくということは、貴族の世界では難しいのだよ、マーセル」
幼い子を言い聞かせるように、お父さまはそう言った。
……そうね、お兄さまの婚約者も貴族……侯爵家の令嬢だ。
だけど、それでも……!
「そういう結婚って、長続きするもんなんですか?」
「れ、レグルスさま?」
「いや、うちの国は恋愛結婚が主だから、ちょっと気になって」
レグルスさまはわたくしに向かってウインクをした。その姿を見て、ほんの少しだけ、心が軽くなる。
大丈夫、わたくしにはレグルスさまたちがいてくれる。自分に味方がいるということが、これほどまでに心強いとは……
「貴族同士の繋がりを、強固にする必要がある」
「なぜ? そこまで雁字搦めにしないと、ほつれてしまうほどの繋がりなのですか?」
「……貴殿にはわからんさ。リンブルグは貴族同士の繋がりが薄いと聞く」
「そうでもありませんよ? ただ、俺らは裏切ったらどんなことになるのかを、『知っている』だけで」
……知っている?
貴族の繋がり……この国にとって、貴族同士の繋がりは、おそらく貴族の暮らしを豊かにするためのもの。
平民たちの生活はどうなのか……わたくしにはわからない。
レグルスさまはカクテルの入ったグラスをゆらゆらと揺らしながら、お父さまに笑顔を見せた。
「リンブルグは貴族の繋がりが薄い? 逆ですよ。他国の貴族との繋がりは強固です。それは貿易だったり、農業だったり、互いに足りないものを補うためのもの。だからこそ、リンブルグにはいろんな国の人たちがやってくる」
一度言葉を切り、グラスを動かしていたのを止め、くっと一口飲む。
「――そう、亡命した貴族や戦で住む場所を失った人たちも。そんな人たちが集まってリンブルグは大きくなった。我が国の民たちは幸せそうに暮らしていますよ。スラムもないし、みんなが自由に生きられる国ですから。……この国とは違って、ね」
挑発するような視線を受けて、お父さまたちが言葉を呑んだ。
……リンブルグのことは少しだけレグルスさまたちから聞いただけだったけれど、この国の在り方とはまったくと言っていいほど違うのね……
「カミラ嬢の幸せを願うのならば、マティス殿下とは結婚しないほうが良いでしょう。彼には意中の相手がいるのですから。……そうだな……どうしても、彼女とマティス殿下を結婚させるというのなら、一つ、賭けをしてみませんか?」
「賭け、だと……?」
「ええ。俺とマティス殿下が一騎打ちをするのです。勝敗がわかりやすいでしょう? 勝ったほうがカミラ嬢を娶る。……一ヶ月後にはパーティーがありますからね。そのときにでも。どれだけ強いのか、パフォーマンスにもなりますし」
……騎士学科で、マティス殿下に勝てる人はいないと聞いている。
どうして、そんな賭けをしようと思ったのかしら……?
わたくしが呆然としていると、お父さまはぽかんと口を開け、肩を震わせて笑い出した。
「面白い、陛下にそう伝えてみよう」
「ええ、必ず伝えてください」
……ところで、わたくしの意向は無視ですか……?
お父さまはパチンと指を鳴らして魔法を解いた。
そして、「それでは、これで」と三人は去っていく。
残されたわたくしたちは、彼らがラウンジを出ていくのを見送ってから、一斉に息を吐いた。
「ごめん」
「……なにについての、謝罪でしょうか」
レグルスさまが肩をすくめて、ちょっとだけバツが悪そうに頬を人差し指でかく。
わたくしがじっと彼を見つめると、彼は深々とこちらに向かって頭を下げた。
「きみの意向を無視して、一騎打ちを申し込んだ」
「……それは、勝算があることなのでしょうか?」
そう問いかけると、レグルスさまは頭を上げてニヤリと口角を上げる。
正直、わたくしには彼の強さがわからない。
魔術師学科では騎士学科と合同訓練をしたことがないから……
ブレンさまは強いと話していたけれど、マティス殿下の実力だってかなりのもの……だと思う。
「大丈夫、必ず勝つから」
「……レグルスさまを信じますわ。自由にしてくださいね」
「もちろんさ。その前に……戻れるといいね」
本当にね。
曖昧に微笑みを浮かべると、「疲れただろう?」と気遣ってくれた。
みんなでラウンジをあとにして、レグルスさまが予約してくれた部屋に足を進める。
移動中、クロエが心配そうにわたくしを見ていることに気付いた。
そっと彼女に手を伸ばすと、がしっと手を掴んでくれた。伝わってくる彼女の体温に、なぜか心が満たされる。
レグルスさまとブレンさまが部屋まで案内してくれて、「ゆっくり休んで」と微笑む。こくりとうなずいて部屋に入った。
「わぁ……」
「素敵な部屋ですね」
白を基調にした部屋は清潔感があってとても心地良い。ところどころに飾られている色とりどりの花たちもとてもきれい。
「……お風呂に入りたいわ」
「準備しますね」
「待って、クロエ。……一緒に入らない?」
クロエは「え?」と目を瞬かせた。それから「えええっ!?」と声を上げた。
その声を聞いて、くすくすと笑う。
わたくしは浴室に向かって歩く。扉を開けて中を確認した。うん、とても広いので、充分二人で入れるわ。
バスタブにお湯を溜め始めると、クロエが慌てたように浴室まで追ってきた。
「カミラさま、冗談ですよね!?」
「本気よ? 貴女、わたくしの侍女になるのでしょう? お風呂のときにどうすれば良いのかを教えてあげる」
にこりと微笑むと、一瞬身体を硬直させ、それから「なるほど……?」と首をかしげる。
まぁ、この身体はマーセルのものだけど。
お湯が溜まるまで、一休みしましょう。
「ねえ、クロエ。貴女、侍女の経験はないのよね?」
「え、ええ」
「じゃあ、お茶の淹れ方を教えてあげるわ。わたくし好みの味を覚えてもらいたいの」
「は、はい。わかりました!」
さすが王室御用達ホテル。良い設備が整っている。
おそらく、お茶を頼めばすぐに用意してくれるだろう。
自分たちでも淹れられるように、数多くの茶葉もあるし……ゆっくり休めるようにカモミールティーでも淹れようかしら?
クロエにお茶の淹れ方を教えると、彼女は素直に聞いてくれて、わたくしが説明したことを一度で覚えてお茶を淹れてくれた。
こくりと一口飲んで、優しい味に思わず笑みが浮かぶ。
「美味しいわ」
「それは良かったです」
安堵したように息を吐くクロエを見て、彼女をじっと見つめた。
「どうしました?」
「……クロエ、貴女の歩む道は、本当に侍女で良いの?」
わたくしの――カミラの侍女になってくれると、クロエは言った。それは医者の道を閉じることに繋がるのではないかと……そう思って、彼女に問いかける。
クロエは一瞬きょとんとした表情を浮かべて、それから「なにを言い出すかと思えば……」とおかしそうに肩を震わせた。……笑い事ではないのでは……?
「この国に残ったとしても、私の医者としての道は閉ざされるでしょう。私のことを良く思っていない人が多いですからね。それなら、カミラさまと新しい道を歩いてみたい。リンブルグという、未知の土地を!」
心底楽しそうに言い切ったクロエの勢いに、飲み込まれそうになった。
カップを置いて、彼女の手をぎゅっと握る。
そして、心からの「ありがとう」を言葉にした。
「あ、そろそろ溜まったかしら。クロエ、バスタオルとバスローブの準備をお願いしても良いかしら?」
「もちろんですよ」
クロエは「きっとここら辺……」と小声でつぶやきながら、バスタオルとバスローブを探し当て、しっかりとその手に持つ。
わたくしは浴室に向かい、お湯が溜まったのを確認してから、お湯を止める。ふと、視界に入浴剤が入った。
せっかくだから使ってみましょう、と入れてみる。
あ、お湯が白くなった。
保湿効果がありそうな入浴剤ね。甘いミルクの香りが鼻腔をくすぐる。
ゆっくり浸かると疲れが取れそう……
……デートは楽しかったけれど、お父さまたちとの会話は疲れたわ。
ベネット公爵家の人たちにとって、わたくしって本当に存在価値なさそうよね……
まぁ、そんなことは考えるのをやめましょう。
「今日はわたくしがクロエにやるわね」
クロエが浴室まで来てバスタオルとバスローブを置くのを見て、声をかける。
「え?」
「ほら、脱いで脱いで」
「カミラさま!?」
慌てたようなクロエの声。わたくしは気にもせずに彼女の衣服を脱がし始めた。
クロエが着ている服って、脱がしやすくて良いわね。着るのも楽そう。
リンブルグの服装ってどんな感じなのかしら?
着るのも脱ぐのも楽な服だと良いなとぼんやり考える。……そして、クロエはナイスバディだった。羨ましいくらいに。
「な、なんですか、その目は!」
「なにを食べたらこんなに大きくなるのかしら……」
「目が怖いですよ、カミラさま!」
あら、失礼、と言葉を紡ぐと、クロエは「カミラさまも脱いでください!」とわたくしの服を脱がしにかかった。
でも、その手が止まり困惑したように「え、これどうなっているんですか!?」とパニックを起こした。……これでも簡単な服を着てきたのよ。
マーセルの服って、自分でも着られるようなデザインが多くて助かったわ。
「貴族の令嬢が着る服って、脱がせるの大変ですね……」
「着せるのも大変そうだったわよ」
公爵邸にいた頃を思い出して、くすりと笑う。
わたくしの着替えに、かなりの時間をかけていたもの。
もちろん、着替えだけが理由ではないけれど。
髪型やメイクなんかも時間をかけていたからね。その日の天気ややるべきことによって違うのよ。
だからこそ、学園の制服はとても楽に感じるのだけど……
……マーセルも結構なナイスバディね。
じっとこちらを見つめるクロエの視線の先に気付いて、わたくしは両肩を上げた。
湯船に浸かる前にクロエを椅子に座らせて、シャワーコックを捻る。水からお湯へ変わるのを待ち、彼女の髪を濡らしていく。
クロエの髪は柔らかいのね。全体を濡らしてから、備え付けのシャンプーのポンプを押して泡立てた。
「こんなふうに、泡立ててから髪を洗うの。爪を立てないように、指の腹を使って……」
わしゃわしゃとマッサージするように彼女の頭を洗う。あわあわになったところで、シャワーを使って泡を流す。
そして、もう一度シャンプーを泡立てて、彼女の頭を洗った。
「カミラさまはずっとこうやって……?」
「ええ、手入れされていたわ。自分で洗えるって言ってもね」
肩をすくめながら口にすると、クロエは小さく笑い声を上げる。
「流すから、目を閉じてね」
「はい」
素直に目を閉じるクロエを見て、泡を流す。しっかりと洗い流してから、トリートメントを手にして毛先を中心につけていく。
タオルをお湯で濡らしてからしっかりと絞り、彼女の髪を包み込むように巻いた。
「五分くらいこのままよ」
「……丁寧に手入れされるんですね」
「……貴女、いったい今までどんな髪の手入れを……?」
わたくしがやっていることは、普通のことだと思うのだけど……?
クロエはちょっとだけ乾いた笑いを浮かべて、教えてくれた。
「リンスインシャンプーでがーっと……」
「……よくそれで痛まなかったわね」
クロエのきれいな髪が痛んでなくて良かったと、心底思う。
「良い? クロエ。わたくしの侍女になるのなら、髪の手入れから肌の手入れ、いろいろなことを覚えてもらうわよ」
「は、はい……!」
「そして、貴女もそれをすること」
「え?」
「髪も肌も、手を加えることによって変わるのよ。クロエ、美人なのだから、もっときれいになると思うの」
化粧をしているようにも見えないし……貴族の令嬢のように、バリバリのメイクをしろってことではないのだけどね。
あれって一歩間違えば……いえ、今はそんなことを考えなくても良いわよね。
「……カミラさまのほうが美しいですよ」
「そりゃあ、アレだけ磨かれたら、誰だって美しくなるわよ……」
思わず遠い目を浮かべてしまう。
メイドたちにピッカピカに磨かれて、化粧水やら美容液やらを塗りたくられ……。それが普通だったので、マーセルの身体になって驚いた。
彼女の部屋にあるのは、オールインワンの基礎化粧品だったから。
「公爵令嬢って大変なんですね……」
「その役目も終わりそうで良かったわ」
「……大丈夫ですか?」
心配そうな声に、わたくしは眉を下げて微笑む。
まだ、大丈夫と言い切ることはできないけれど……お父さまたちの考えを聞いて、もう二度とあの場所に戻りたくないと思ってしまった。
「……マティス殿下とレグルスさまは、どちらのほうが強いのかしら?」
「うーん……どちらでしょう。マティス殿下も、腕が立ちますよね」
「ええ。……みんな、彼に遠慮しているのかもしれないけれど……」
マティス殿下に勝とうとしていないかもしれないし……憶測でしかないけれどね。
そんな会話をしていると、五分なんてあっという間に過ぎる。
蒸しタオルを取り、トリートメントを洗い流した。
「こんな感じでやってみてもらえる?」
「かしこまりました」
乾いたタオルでクロエの髪を包み込んでから尋ねる。
彼女は神妙な顔でうなずき、立ち上がってわたくしを椅子に座らせた。
シャワーを手にして、髪を濡らしていく。
わたくしがやったのを真似するように、シャンプーを泡立ててわしゃわしゃと洗っていく。やっぱり覚えるのが早いわね。
心地良い力加減で洗われて気持ち良かった。