予感
渋谷駅で待ち合わせした。俊平は前回と同じ服装でやってきた。なつみはクールな白と黒のモノトーンで決めている。今日はファッションチェックは必要なさそうだ。俊平が「お昼はどこにしようか」と尋ねると、なつみは「トンカツ屋」と即答した。俊平が案内したのは、前回なつみがご馳走になった店である。
「仕事、決まったのか?」
「それがなかなか決まらなくてさ。当面の生活費はあるけど、早く就職しないといずれ貯金も底をつくよ」
「やりたいこと、なさそうね。あったら非正規労働者なんかやってないでしょ」
なつみは俊平に突っ込みを入れる。
「なんか特技は、ないの?」
俊平は苦笑いを浮かべる。
「好きなこと、なさそうね」
「資格は持ってるの?」
すると、俊平が「もし持ってたら非正規なんかやってないよ」と答えた。なつみは少し考え込みながら尋ねる。「部活動とか、やってた?」
その一方で、なつみはフジテレビの番組で名物アナウンサーとして出演することが決まっていた。ローカル局から全国区への進出が現実となり、「もしこれで全国区になったらどうしよう」と不安が頭をよぎる。ローカル局での安定した生活のほうが良かったのでは、あのときプロ野球選手からのプロポーズを断らなければ良かったのではないか、と後悔の念も浮かんできた。確かに、プロポーズされたのはすごいことだったけれど、彼とはたまに食事に行くだけの仲で、特別な付き合いがあったわけではない。それなのにいきなりプロポーズだなんて、なつみを甘く見ているのか。まるでロマンスのない、恋愛の醍醐味がない。多分、結婚生活も彼が引退したら価値がなくなるだろう。マスオさん的な旦那もいいが、なつみはまだ27歳だ。なつみと会ってから、あっという間に1週間が過ぎた。俊平はまだビジネスホテルで寝起きしている。ラジオのスイッチをひねると、アイドルグループ乃木坂46の「気づいたら片想い」が流れている。テレビのチャンネルを変えると、ドキュメンタリー番組に切り替わった。マカオのカジノに挑戦しに来た二人組が映っている。彼らは1週間の予定でギャンブルを楽しむらしい。持ってきた資金は、汗水流して稼いだ300万円。俊平も少しは使ったが、貯金300万円を持って上京してきた。しかし、驚いたのは、彼らが「お金を使い切ったら帰る」と話していたことだ。俺も同じように300万円を使い切ったら、次はホームレス生活が待っているかもしれない、とふと思った。チャンネルを変えると、今度はニートの若者が市議会議員の選挙に少ない資金で立候補した話が放送されていた。結果は敗北だった。俊平はまだ250万円あるが、頭の中に浮かんできたのは、工場で一緒に働いていた派遣社員の知り合いのことだ。彼は高卒で愛知県に就職し、10年間で200万円を貯めたが、田舎に帰ってパチンコですべて使い切ってしまったという。彼らに共通するのは、使い切った後には何も残らないが、後悔もしていないことだ。もし俺がこのお金を使い切ったら、鬱病にでもなりかねないかもしれないと、俊平はふと怖くなった。俊平がリモコンを操作していると、間違えて地上放送ボタンに触れてしまった。「名物女子アナ祭り」が放送されていて、そこに登場しているのは、1週間前に一緒に食事をしたなつみだった。彼女は俊平とは違う世界の人間だ。もう会うことはないだろう。翌日、ビジネスホテルを出た俊平は東京駅に向かい、大阪行きの新幹線に乗り込んだ。食い道楽の街、大阪。とにかく美味しいものを食べようと、当てもなく訪れた。時計を見ると15時を過ぎていて、お腹が空いてきた。駅前にあるたこ焼き屋に入ると、香ばしいソースの匂いが漂っている。出来立てのたこ焼きを頬張ると、今まで味わったことのない美味しさに感動した。俊平の心にはっきりと「これだ」という思いが湧き上がった。得体の知れない感動に包まれた俊平は、大阪駅に戻り、電車に乗って兵庫県明石へ向かった。釣りが趣味の俊平は、無性に釣りがしたくなったのだ。明石でのタコ釣り。いつか一度は挑戦してみたかった。
「名物女子アナ」と題した番組に登場したなつみ。全国のお茶の間に顔を出したものの、彼女の胸には何か虚しさがこみ上げてくる。一日限りのスター。同僚や番組関係者の間では、「ローカルからやってきたアナウンサー」「逮捕された上尾との密約があっての起用」などと噂されている。このままでは、バラエティの世界に飲み込まれ、やがて芸人の仲間入りか。27歳、もう清純派アナウンサーでは通用しない。どろどろとした沼に浸かっていくようなキャラだ。どんなに模索しても、芸人への階段を上がる道しか見えない。そんな折、NHKの人気アナウンサーが退職するというニュースが飛び込んできた。なつみはこのアナウンサー、牧野陽子(45歳)を尊敬していた。どこか自分と似た部分を感じていたからだ。なつみはしばらく休暇をとり、実家のある博多に帰省することにした。その日は土砂降りの雨が降っている。やがて梅雨のシーズンを迎える日本列島だ。明石駅に電車が止まる。終電である。駅を降りて5分ほど歩くと、「卵焼き」と書かれた大きな看板が見えた。卵焼きとは明石焼きのことだ。たこ焼きに似ているが、小麦粉がメインのたこ焼きとは違い、玉子をふんだんに使ってあり、もちもちふわふわしている。俊平はソースをたっぷりかけてから頬張った。ふと、熊本の実家の近くで人気の「マヨたこ焼き」を思い出す。マヨネーズベースで、柔らかくふわっとした食感が特徴だ。塩ダレが絶妙な旨味を引き立てている。外を見ると、さっきまで土砂降りだった雨が小降りになっていた。俊平の博多のアパートには、家財道具がそのまま残っている。東京で住居が見つかったら引っ越すつもりだ。俊平は博多に戻ることに決め、友人に電話を入れると、博多駅まで迎えに来てくれるとの返事が返ってきた。友人の名は岩崎努。高校時代からの親友である。俊平は明るい性格からか、友人には恵まれている。努と会うのは5年ぶり。現在何をしているのかは知らないが、当時はギター片手にバンドをやっていた。今も身分はフリーターだ。努はジーンズに、少し寒い気もするがTシャツ姿で現れ、手にはエレキギターを抱えていた。努は博多でフリーター歴約10年。仕事する以外はバンド活動をしている。中洲にあるライブハウスに顔を見せたのは夜の9時を回っていた。既に努の率いる演奏は終了していたがこれから打ち上げ会があると俊平も誘った。宴会のある居酒屋に到着すると店内は貸切である。ドアを開けると二十名はいるようだ。俊平は努の人脈に驚いた。それに努は生き生きとしている。フリーターの身でありながら生き生きしている彼に脱帽だ。努がやって来ると。
「今日は某プロ野球選手の小枝光一選手が来ています」努は高校時代に野球部に所属していた。どうやら後輩らしい。小枝選手は最近好調を維持している。3週間前から調子が上がっていた。
努の挨拶はまだ続いた。
「もうひとり有名な友人も招待しました」
すると後方の席からひとりの女性が立ち上がった。俊平の目からは二十代の可愛らしい女性だ。
「松田なつみです」皆んながざわめき出した。俊平も驚いた。
渋谷駅で待ち合わせした。俊平は前回と同じ服装でやってきた。なつみはクールな白と黒のモノトーンで決めている。今日はファッションチェックは必要なさそうだ。俊平が「お昼はどこにしようか」と尋ねると、なつみは「トンカツ屋」と即答した。俊平が案内したのは、前回なつみがご馳走になった店である。
「仕事、決まったのか?」
「それがなかなか決まらなくてさ。当面の生活費はあるけど、早く就職しないといずれ貯金も底をつくよ」
「やりたいこと、なさそうね。あったら非正規労働者なんかやってないでしょ」
なつみは俊平に突っ込みを入れる。
「なんか特技は、ないの?」
俊平は苦笑いを浮かべる。
「好きなこと、なさそうね」
「資格は持ってるの?」
すると、俊平が「もし持ってたら非正規なんかやってないよ」と答えた。なつみは少し考え込みながら尋ねる。「部活動とか、やってた?」
その一方で、なつみはフジテレビの番組で名物アナウンサーとして出演することが決まっていた。ローカル局から全国区への進出が現実となり、「もしこれで全国区になったらどうしよう」と不安が頭をよぎる。ローカル局での安定した生活のほうが良かったのでは、あのときプロ野球選手からのプロポーズを断らなければ良かったのではないか、と後悔の念も浮かんできた。確かに、プロポーズされたのはすごいことだったけれど、彼とはたまに食事に行くだけの仲で、特別な付き合いがあったわけではない。それなのにいきなりプロポーズだなんて、なつみを甘く見ているのか。まるでロマンスのない、恋愛の醍醐味がない。多分、結婚生活も彼が引退したら価値がなくなるだろう。マスオさん的な旦那もいいが、なつみはまだ27歳だ。なつみと会ってから、あっという間に1週間が過ぎた。俊平はまだビジネスホテルで寝起きしている。ラジオのスイッチをひねると、アイドルグループ乃木坂46の「気づいたら片想い」が流れている。テレビのチャンネルを変えると、ドキュメンタリー番組に切り替わった。マカオのカジノに挑戦しに来た二人組が映っている。彼らは1週間の予定でギャンブルを楽しむらしい。持ってきた資金は、汗水流して稼いだ300万円。俊平も少しは使ったが、貯金300万円を持って上京してきた。しかし、驚いたのは、彼らが「お金を使い切ったら帰る」と話していたことだ。俺も同じように300万円を使い切ったら、次はホームレス生活が待っているかもしれない、とふと思った。チャンネルを変えると、今度はニートの若者が市議会議員の選挙に少ない資金で立候補した話が放送されていた。結果は敗北だった。俊平はまだ250万円あるが、頭の中に浮かんできたのは、工場で一緒に働いていた派遣社員の知り合いのことだ。彼は高卒で愛知県に就職し、10年間で200万円を貯めたが、田舎に帰ってパチンコですべて使い切ってしまったという。彼らに共通するのは、使い切った後には何も残らないが、後悔もしていないことだ。もし俺がこのお金を使い切ったら、鬱病にでもなりかねないかもしれないと、俊平はふと怖くなった。俊平がリモコンを操作していると、間違えて地上放送ボタンに触れてしまった。「名物女子アナ祭り」が放送されていて、そこに登場しているのは、1週間前に一緒に食事をしたなつみだった。彼女は俊平とは違う世界の人間だ。もう会うことはないだろう。翌日、ビジネスホテルを出た俊平は東京駅に向かい、大阪行きの新幹線に乗り込んだ。食い道楽の街、大阪。とにかく美味しいものを食べようと、当てもなく訪れた。時計を見ると15時を過ぎていて、お腹が空いてきた。駅前にあるたこ焼き屋に入ると、香ばしいソースの匂いが漂っている。出来立てのたこ焼きを頬張ると、今まで味わったことのない美味しさに感動した。俊平の心にはっきりと「これだ」という思いが湧き上がった。得体の知れない感動に包まれた俊平は、大阪駅に戻り、電車に乗って兵庫県明石へ向かった。釣りが趣味の俊平は、無性に釣りがしたくなったのだ。明石でのタコ釣り。いつか一度は挑戦してみたかった。
「名物女子アナ」と題した番組に登場したなつみ。全国のお茶の間に顔を出したものの、彼女の胸には何か虚しさがこみ上げてくる。一日限りのスター。同僚や番組関係者の間では、「ローカルからやってきたアナウンサー」「逮捕された上尾との密約があっての起用」などと噂されている。このままでは、バラエティの世界に飲み込まれ、やがて芸人の仲間入りか。27歳、もう清純派アナウンサーでは通用しない。どろどろとした沼に浸かっていくようなキャラだ。どんなに模索しても、芸人への階段を上がる道しか見えない。そんな折、NHKの人気アナウンサーが退職するというニュースが飛び込んできた。なつみはこのアナウンサー、牧野陽子(45歳)を尊敬していた。どこか自分と似た部分を感じていたからだ。なつみはしばらく休暇をとり、実家のある博多に帰省することにした。その日は土砂降りの雨が降っている。やがて梅雨のシーズンを迎える日本列島だ。明石駅に電車が止まる。終電である。駅を降りて5分ほど歩くと、「卵焼き」と書かれた大きな看板が見えた。卵焼きとは明石焼きのことだ。たこ焼きに似ているが、小麦粉がメインのたこ焼きとは違い、玉子をふんだんに使ってあり、もちもちふわふわしている。俊平はソースをたっぷりかけてから頬張った。ふと、熊本の実家の近くで人気の「マヨたこ焼き」を思い出す。マヨネーズベースで、柔らかくふわっとした食感が特徴だ。塩ダレが絶妙な旨味を引き立てている。外を見ると、さっきまで土砂降りだった雨が小降りになっていた。俊平の博多のアパートには、家財道具がそのまま残っている。東京で住居が見つかったら引っ越すつもりだ。俊平は博多に戻ることに決め、友人に電話を入れると、博多駅まで迎えに来てくれるとの返事が返ってきた。友人の名は岩崎努。高校時代からの親友である。俊平は明るい性格からか、友人には恵まれている。努と会うのは5年ぶり。現在何をしているのかは知らないが、当時はギター片手にバンドをやっていた。今も身分はフリーターだ。努はジーンズに、少し寒い気もするがTシャツ姿で現れ、手にはエレキギターを抱えていた。努は博多でフリーター歴約10年。仕事する以外はバンド活動をしている。中洲にあるライブハウスに顔を見せたのは夜の9時を回っていた。既に努の率いる演奏は終了していたがこれから打ち上げ会があると俊平も誘った。宴会のある居酒屋に到着すると店内は貸切である。ドアを開けると二十名はいるようだ。俊平は努の人脈に驚いた。それに努は生き生きとしている。フリーターの身でありながら生き生きしている彼に脱帽だ。努がやって来ると。
「今日は某プロ野球選手の小枝光一選手が来ています」努は高校時代に野球部に所属していた。どうやら後輩らしい。小枝選手は最近好調を維持している。3週間前から調子が上がっていた。
努の挨拶はまだ続いた。
「もうひとり有名な友人も招待しました」
すると後方の席からひとりの女性が立ち上がった。俊平の目からは二十代の可愛らしい女性だ。
「松田なつみです」皆んながざわめき出した。俊平も驚いた。