なつみは、上尾プロデューサーから「配属先は1週間後に伝える」と告げられ、続けて彼女を抜擢した理由について一言添えられた。
「君の天然キャラ、ぶりっ子で行く」
なつみは「ぶりっ子キャラ」と言われたことに唖然とした。ローカル局から本社へ抜擢された自分が、まさかの「ぶりっ子キャラ」としての配属になるとは思ってもみなかった。内心では、ニュースキャスターという地位が頭をよぎっていたため、少し戸惑いながらも軽く微笑んでみせた。夕食は上尾プロデューサーのおごりで、渋谷にあるトンカツ屋で食べることが決まった。さすがに「ご馳走」と言うだけあって、美味しいトンカツだった。
食事の前に、なつみはお手洗いへ向かい、ハンドバッグを開けた際に、中から一枚のハンカチが顔を出した。それを見て、朝、空港で出会った男性のことを思い出したのだ。彼がテーブルに置いてあった水をこぼしてしまったとき、咄嗟に取り出してくれたのがそのハンカチだった。なつみは汚れているからと、男性から受け取ってビニール袋に入れ、バッグにしまいこんでいた。ハンカチを取り出すと、下の方に何か文字が刺繍されているのに気づいた。
「落し物の主の電話番号 09098???」
織田俊平も、昨日の出来事を思い返していた。まさか、あのハンカチを使うチャンスが本当にやってくるとは。友人の真司からのアドバイスが当たったのだ。真司は、ある雑誌の記事を見て「ハンカチに自分の電話番号を刺繍しておけ」と勧めてくれた。正直なところ、俊平も雑誌に書かれていた通りに試してみただけだったが、まさか役に立つとは思ってもみなかった。昨晩は渋谷のカプセルホテルに泊まったが、埼玉の工場でアルバイトをするかどうか、改めて考え直すことにした。いつまでも非正規労働者でいるわけにもいかない。二度目のプロポーズも断られるのが目に見えている。俊平は、製造業でキャリアを積むべきかどうか悩み始めた。
モンダ自動車工場での上司が、「製造業は入社してからが勝負だ。現場上がりは強い自分を作り、大卒エリートを凌ぐこともある。出世すれば下請けや協力会社を立ち上げる夢も叶う」と話していたのを思い出した。俊平は機械が好きで、工業高校でも機械科を卒業している。それにまだ30歳、工場で働くには適齢期だ。
1週間が経ち、なつみは上尾プロデューサーに呼ばれた。
「ぶりっ子お天気キャスターに決まりだ」
なつみは気象予報士の資格を持っているが、「ぶりっ子」という設定には複雑な心境だった。そういえば、熊本のテレビ局には「ムキムキお天気キャスター」として人気を博している筋肉モリモリのアナウンサーがいるらしい。ぶりっ子の元祖といえばデビュー当時の松田聖子だが、自分も「ぶりっ子」と言われれば、確かにその一面があると思っている。さらに天然ボケでもあるため、ぶりっ子を卒業するのは難しい。それはなつみの個性であり、ある意味では本能とも言えるのだ。俊平は最近、自分が変わってきていることに気がつき始めた。そうだ、あの日、福岡空港であの女性に出会ってからだ。しかし、相手は天下の女子アナだ。そう簡単に誘いに乗るはずもないし、自分は非正規労働者で、解雇されたどん底の男である。俊平はふと、もしもあの女子アナと付き合うことになったらどうするかと考えた。しかし、女子アナが非正規労働者と結婚したなんて話は聞いたことがない。一流企業の社員やプロ野球選手と結ばれるのが常だ。あのハンカチなんか、何も期待していない。たまたまの偶然だ。いつか見た映画『幸せの力』を思い出す。学歴も何もないのにエリートを超えて営業成績ナンバー1になった男の物語だ。そこまで頭をよぎるが、次の瞬間、現実に引き戻された。高卒の自分には、非正規労働者の解雇問題が付きまとっており、悲惨な運命をたどる男たちの姿が浮かぶ。俊平は中学時代、周りのみんなを笑わせるのが得意で、将来は漫才師になると思っていた同級生も多かった。
一方、なつみは上尾プロデューサーの提案に少し疑問を抱いていた。バラエティー志望でもないのに、彼は自分をアナウンサーではなく芸人のように扱っている。ましてや、真面目な報道に対してぶりっ子とは失礼だ。なつみは翌日、上尾プロデューサーの提案を断った。1週間のスケジュールは空白のままだった。そんな折、ディレクターの小牧勉(35歳)が肩を叩いてきた。帰りの電車が同じ方向ということで、軽く飲みに誘われる。小牧は一杯飲みながら話し始めた。
「上尾プロデューサーは最近、有頂天になってるんだ。本社に手腕を認められてから、変わってしまった。自分の思い通りにしようとするんだよ。ぶりっ子の件も、みんなため息を漏らしてる。実は、他の女子アナにもセクハラやパワハラまがいのことをしていてね…」
なつみが感じていた不快感は的中していた。翌日、本社に行くと、事務所内がやけに騒がしい。デスクには週刊誌が乱雑に置かれ、そのページを覗き込んだなつみは驚いた。
「有名プロデューサー、セクハラで逮捕」
被害は同僚の女子アナから始まっていたらしい。数日後、彼はテレビ局を解雇される。しかし、なつみのスケジュールは依然として空白のままだった。そんな中、番組企画部の部長に呼ばれる。
「今回の件は、本当に申し訳なかった。君の本社への異動は、上尾プロデューサーの策略だったんだ。君のキャラクターに惹かれたようだが、たまたまお天気キャスターに空きがあったことで、急きょ抜擢されたそうだ」部長は続けて提案した。
「君のキャラを活かせそうな企画がある。今度、ご当地アナによる名物アナウンサーの特集番組があるんだが、ぜひ出演してくれないか」
なつみはこの仕事を快諾した。事務所に戻ると、小牧ディレクターから食事に誘われる。スケジュールが埋まったことで元気を取り戻し、彼の誘いを受けることにした。その日は他の女子アナ3人も一緒で、5人で居酒屋に向かった。飲み会は次第に男女の話題へと発展した。
「リーン」
俊平の携帯が鳴った。見知らぬ番号だが、03から始まる固定電話。電話に出ると、それは意外な相手からだった。なつみが同僚の部屋から酔った勢いで好奇心に駆られ、かけてきたものだった。俊平は気軽に「こんばんは」と挨拶し、こう続けた。
「決して悪い男ではありません。ストーカーでもありません。犯罪者でもありません。精神鑑定が必要な人間でもありません」
俊平はハンカチの件について、ただのいたずら心で試してみただけだと謝罪した。なつみは、どうやら怪しい男ではなさそうだと感じた。そして、お仕事について尋ねると、俊平は少し恥ずかしそうに答えた。
「実は無職なんです。派遣切りにあって、どん底です」
この言葉に、なつみは思わず同情した。二人は今度の休日にランチに行く約束を交わした。