藤原マリ、二十六歳
成田空港にロンドンより到着
二年半ぶりの日本である。
今は三月の下旬ロンドンはまだ雪の残る所も
あった。
でも東京はまもなく春を迎えようとしている。
マリの大好きな桜の季節ももうすぐだ。
空港を行きかう人々も様々で、
半袖のTシャツ姿の若者もいれば、
スプリングコートを羽織った女性、
スーツにトレンチコートを腕に掛けて
颯爽と歩く男性、
春らしいカットソーにジーンズという
軽装の人も…
空港はそんな様々な服装をした人達や
色々な国から来た人や帰る人で
溢れていた。
子供達の姿も多い。
マリは日本では春休みの時期だったなと
思いながら歩みを進める。
日本語の飛び交う空間が懐かしく嬉しくて
マリは自然に微笑んでいた。
潤んだような大きな目にすっきりと通った
鼻筋、しっかりと結ばれた口元は
口角が上がり
優し気ではかない印象を与える。
肌はまるで毛穴などないかのような
ベイビイスキンで色も白い
みんなに美人とか可愛いとか言われるが、
本人には全く自覚はない。
百六十センチの身長は日本人では標準で
スレンダーな体系は周りの女性からは
羨ましがられるが、
悪く言えば凹凸がないと言うことだ。
女性の色気とは無縁だ。
清廉ですがすがしい春の風のような
イメージだ。
そしてマリはいつも年より若く見られる。
特に外国ではテイーンエイジャーに
間違えられることもしばしばで
身分証は欠かせなかった。
たおやかで優しく思いやりのある
性格ではあるが案外頑固で根性もある。
強い部分も秘めた女性だ。
だから、二年半家族にも友人達にも
一切弱音を吐かず一度も日本に帰る事なく
自分で決めたことをやり遂げたのだ。
ロンドンとパリで孤軍奮闘した二年半。
今はやり切った充実感とこれから新しく
挑む自分の人生に、武者震いしつつ、
荷物を引き取り顔を上げて背筋を伸ばし
颯爽と荷物を載せたカートを押し歩く。
出口を出ると
「マリ!おかえり。」と声がかかった。
親友の優依、菊枝、穂香が
出迎えてくれている。
出迎えなんて期待していなかったので
三人の姿を見て目頭が熱くなる。
二年半前、一から人生をやり直すつもりで
イギリスへ飛び立った。
優依たちが背中を押してくれたから
思いきれた自分の決断。
そんな日々が走馬灯のように脳内をめぐる。
三年前 親友の優依と日本橋の高級ホテルで
贅沢ランチを楽しんだあとたわいない会話が
楽しくてラウンジでお茶をしていこうと
立ち寄った二人
主婦であるマリと総合商社勤めの優依は、
月に一度は一緒にランチを楽しんでいる。
こういう日のランチは奮発して
普段食べられないような豪華なランチを
頂くことにしているのだ。
ラウンジで優依の仕事の失敗談に
抱腹絶倒しながら美味しいケーキを食べて
至福の時を過ごしていた。
マリは働いた経験がない。
だから優依の仕事の話はいつも羨ましく
また新鮮で楽しかった。
マリは短大卒業後すぐに夫の希望で
結婚して専業主婦になったのだ。
優依は有楽町にある総合商社で営業部に
籍を置いている。
アシスタントのような仕事らしい。
何人か営業の担当の人がいて彼らの依頼で
見積もりをしたり外国とのやり取りや、
時には外回りにもついていくらしい。
表情が豊かで明るくて人懐っこい優依は
どこにいてもみんなに好かれる。
マリとは静と動という感じだ。
親友三人はそれぞれ個性的だ。
夫は歯科医で丸の内のビル内に
医院を構えている。
歯科:POSSON(ポッソン)
それが夫梅原の経営する歯科医院だ。
単に梅原歯科と一般的な名前にしない所が
梅原らしく変わっている。
ポッソンはフランス語で魚の意味。
歯科医院と何の関係もないが、
彼は魚が好きなだけ 医院にも家にも
熱帯魚の水槽を置いている。
水草もいっぱい入った本格的なものだ。
管理は業者を雇っているので手間はなく
マリも結構楽しんでいる。
エサをやるのはマリの仕事で、
マリが水槽の前に立つと水草に隠れている
小さな色とりどりの熱帯魚が、
顔を出して寄ってくるのがとても可愛い。
ポッソンにもそんな水槽が置いてある。
医院では梅原自身が
えさをやっているらしい。
梅原の歯科医院は丸の内で働く
会社員にも役員級のセレブにも人気だ。
芸能人の顧客もいる。
完全個室でプライバシーも守られているので
有名人には人気なのだろう。
内装も高級感満載である。
医師も含め従業員は十五名。
経営のセンスもあるようだ。
でもというよりだからなのか
梅原には女性の影が絶えない。
容姿も整っているし、
同じビル内にあるジムにも午前の診療が
終わって午後の診療が始まるまでの間に、
週三~四回通って体も鍛えていて若々しい。
マリより十歳年上なのだが
三十代には到底見えない。
結婚して一年がたつ頃、
学会や視察そしてお泊りゴルフなどと称する
外泊が月に二~三回以上あるようになった。
そんなに月に何度も学会なんかないはずだと
マリは思っているが、本人もその言い訳を
使いすぎて忘れてしまっているのだろう。
女性の香水の移り香がスーツに、
なんて日常茶飯事だった。
いくら世間知らずのマリでも浮気を疑う。
でもマリは何も言わなかった。
ただひたすら夫を待ち続ける妻に
甘んじていた。
ただこれではいけないと思い
離婚も視野に入れるようになると、
ピルを飲み始め子供を作らないように
気を付けた。
そして今日何の因果かホテルのフロントに
彼の姿を見つけてしまった。
堂々とスレンダーな美女を
隣りにはべらせている。
やっぱりなあ。
朝出かける時に、学会で一泊の予定と
言っていた…とそんなことを思い出しながら
ボーッと梅原の姿を見つめているマリに
気づき優依が
「どうしたの?何見てんの?」
と聞いてくる。
マリはフロントの方を指し示す。
優依が顔をむけた。
と突然マリの手をつかんで無理やり
ひっぱって歩き出す。
ウエイターにすぐに戻りますと
伝えてバッグも何も置きっぱなしで
どしどしとフロントに向かっていく。
マリは呆けたようについていくしかなかった
優依には相原の事もすべて話してある。
いつもいい加減に見切りつけなさいと
言われ続けていたのだ。
フロントでイチャイチャしながら
チェックイン中の二人の横に割り込んで
優依が梅原に向かって話しかけた。
「あらあ、梅原先生!奇遇ですね。
こんなところでこんな時間に、
お会いするなんて嬉しいですわ。
それにそちらにいらっしゃるのは
きっと奥様ですよね。先生の奥様は
若くて美人で上品な方とうわさを聞いています。
ほんとに素敵な方。ねっマリ」
とマリに振ってきた。
マリはただニコッと笑っておいた。
梅原はゴルフ焼けした健康的な顔色で
落ち着いた雰囲気のそれなりにイケメンに
入るだろう整った顔をしている。
だがしかし突然現れた二人を見て、
顔面蒼白で言葉も出ない。
ただ口をパクパクさせているだけ、
お相手の女性は出るところは出て細い腰の
セクシーでスレンダーな美女だ。
年齢は梅原と同年代くらいかなと
マリは暢気に考えていた。
多分彼が既婚者だと思わなかったようで
ただ唖然としている。
そんな二人をしり目に
「では梅原先生に奥様 お邪魔しました。
お会いできて光栄でしたわ。おほほほほ。」
まるでどこかのマダムのような高笑いを
かましてマリの手を引きラウンジに
戻っていく。
ほんと主演女優賞ものの演技だわと
内心感心するマリ。
浮気疑惑確定の現場を押さえたにも
関わらずなんだか可笑しくなってしまった。
梅原のヌンクの叫びのような顔を
思い出したら、笑っている場合じゃない
にも関わらず笑いがこみあげてきて
肩を揺らしてこらえる。
でも、優依にはお見通しのようだ。
ラウンジに戻ってソファーに倒れ込むと
グラスの水を一気飲みして
「あー-っ すっきりした。一度ぎゃふんと
いわせてやりたかったのよね。
でもマリあんたね、
笑ってる場合じゃないよ。
いい加減に踏ん切り付けなよ。
旦那には恋愛感情なんて最初から
ないでしょう。
お見合い後に、あれよあれよという間に
相手の手腕にはまって流されて
結婚してしまったマリの事、
私達はずっと心配しながら
見ていたんだからね。」
「うん、わかってる。ゴメンね。」
ほんとに自分が情けない。
親の言う通りお見合いして、
十歳も年上の梅原の押しに負けて
プロポーズを受けた。
あの頃は、お見合い後に母が急死して、
自分の感情も回りも不安定で母が倒れて
亡くなるまでの一ケ月あまり、
梅原は誠心誠意マリを支えてくれた。
大学への送り迎えやその合間には病院へ
一緒に付き添い、そして母の葬儀の後も
気持ちの整理がつかないマリを
支えてくれたのは梅原だった。
自分も忙しいにもかかわらず、
とにかくマリをすべてにおいて
優先させてくれた。
そんなふうに献身的にマリを支えてくれた
梅原が、結婚後たった一年で浮気を繰り返す
事になるとは思ってもみなかった。