森の引きこもり魔法使いと惚れ薬

「君との婚約を破棄させてくれ。真実の愛を見つけたんだ」

 そう言い出したのはダグラス様。うつむき加減の整ったお顔にサラリとした金髪が陰を作る。
 ここはお屋敷の庭園よ。いつものご訪問だと思って四阿(あずまや)にお茶を用意したら、この発言だもの。なんてことかしらね。

 あ、ちなみに婚約破棄の相手は私じゃない。私のご主人のローズ様なの。
 私リアは、たんなる小間使い。だからそばに控えているけど口出しはしないわ。問い返したのはお嬢さま本人だった。

「――ダグラス様? なんとおっしゃいまして?」
「すまないと思っている。だが他の女性を愛してしまったんだ」

 ローズお嬢さまは蒼白になった。そりゃそうよね、家同士の約束で幼い頃から決まっていた婚約者の裏切宣言って。それにローズ様、実はダグラス様のこと愛しているし。なのに別の女を愛したとか言われてしまったら……ちょっとショックが大きいわ。

「正式に婚約の解消を申し出る前に、君に伝えなければと思ったんだ。親の決めたこととはいえ君とは良い関係だった。友人のように支え合える夫婦になれると考えていたから……今までありがとう、ローズには感謝しきれないよ」

 ダグラス様は朗らかに笑う。
 うわあ、この人空気読めないのかしら。ローズ様は本気で結婚を望んでたのに。そりゃまあグイグイいったりしなかったけど、それが淑女の振る舞いってものでしょう。

「そん、な――」

 元(?)婚約者のあんまりな発言にローズ様は血の気を失い、そのままフラリと椅子から崩れ落ち――私は受けとめるべく駆け寄って、そのまま下敷きになったのだった。


 * * *


「ねえリア。惚れ薬を手に入れてきてちょうだい」
「はい?」

 目を覚ましたローズお嬢さまは、そばについていた私に向かってそんなことを言い出した。
 あの、私あなたのクッションになったおかげで腰が痛いし脚も手もすりむいてるし、散々なんですけど。そのへんにお言葉とかないんですか。
 私の微妙な反応にもローズ様は気づかないようで、ブツブツと言いつのる。

「ダグラス様が私から離れていくなんて思ってもいなかった。こうなったらその真実の愛とやらがもろいものだと証明しなきゃ」
「薬の力で、ですか」
「薬でもなんでも愛が揺らげばいいのよ! 契約をないがしろにするなんて馬鹿なことだと気づかせるの」
「はあ……」

 それはまあ、そう。
 正式に婚約破棄の申し入れなんてした日には、家同士の関係がたいそう険悪になること確定よ。私ごとき使用人の目から見ても、ダグラス様ったら一時の愛に酔って判断を誤っているとしか思えない。

「だからリア、ちょっと魔女の惚れ薬を買っていらっしゃい」

 ずいぶん簡単に言われて私は目が点になった。主人の言葉ですし反論しづらいんだけど、ちょっと行ってこい、て。
 ……魔女さんってどこにいるのよ?


 * * *


「――魔女の店って、こんな街の中にあるものなの!?」

 私がお使いに出されたのは下町だった。お屋敷のある山の手から坂をおり、職人さんが多い地区。
 教えられた通り行ってみると、威勢のいい槌音が聞こえた。鍛冶屋さんね。
 その隣にちょこんと薬ビンの看板があって――ここだわ。こんな所の薬が効くの? なんかありがたみが少ないような気がするなあ。

「ごめん下さーい」

 扉を開けてみると、小さな店の壁は一面が棚で、小箱だのビンだのが並んでいた。天井からは薬草か何かがたくさん逆さまにぶら下がっていて、いい匂い。
 意外とおどろおどろしくなくて安心するけど、そこには誰もいなかった。

「はあい、何?」

 すると横の扉から元気な女の人が顔を出してくれた。あれ、そっちって鍛冶屋さんのある方。

「あら可愛いお客さんね。見たところどっかの小間使いさんかな?」
「は、はい」

 赤茶けた髪をゆるいお下げに編み、シンプルなお仕着せ姿の私。どう見てもどこかの使用人よね。

「お嬢さまから言いつかりまして」
「おや。無理難題じゃなきゃいいんだけど」

 ちゃきちゃきと話すその女性はもしかすると隣の鍛冶屋のおかみさんかもしれない。普通の服に前掛けで、魔女には見えないんだもの。

「あのう、魔女さんというのは……」
「あたしは店番みたいなものよ。安心して、ここにある物のことならわかるから」
「そうなんですか」

 じゃあこの人にお願いするしかないのかな。私はローズ様の要望を口にした。

「ええとですね、こちらで惚れ薬なんか扱ってますでしょうか」
「――ああ。そういう」

 ふ、と吹き出しそうになった彼女の瞳に楽しそうな色が踊った。

「お嬢サマさあ、そんなものに頼っちゃう?」
「う。そうなんですけど、ちょっと婚約破棄されかかってて」
「ちょっと! されかかって!」

 ケラケラと笑われた。仕方なく「真実の愛」について説明すると、お腹を抱えて笑ったまま強くうなずいてくれた。

「そりゃ相手の男がアホだわ。まあ事情はわかった、薬は出してあげる。だけどねえ……」
「はい」
「今ここにはないのよ。需要はそれなりにあるけど、そうそう処方してたら人間関係しっちゃかめっちゃかじゃない?」

 ああうん、それもそうだわぁ。なんていうかキチンとした魔女なのね、この店。

「だからカウンセリングの後の受注生産ってことになってるの。悪いんだけど魔女のいる森まで取りに行ってちょうだい。アビーが許可したって言えばちゃんと作ってくれるから」
「森、ですか」
「そ。西の森。街からもすぐよ」
「はあ……」

 ――そんなわけで、私のお使いの目的地は変更になったのだった。


 西の森。そこは街の隣に広がるおだやかな場所だった。
 市壁からすぐの辺りには薪やキノコを採りに人々が普通に出入りしているし、私だって来たことがあるのよ。でも。

「この奥に魔女さんが住んでるなんて知らなかったわぁ……」

 店番のアビーさんに教えられた森の道をたどりながら私はつぶやいた。
 街まで通じている小川に沿ってさかのぼれ、と言われたの。どこまで行けばいいのかな。そんなに遠くないそうだけど。

 あまり人が歩かない小路は細かった。
 だけど怖くはないのよ。奥へ進んでも木立は明るく、初夏の葉が陽の光にきらめいて美しい。ときおり抜ける風が、土と草の香りを運んでくれた。

「こんなに素敵なところなのに、誰にも会わないなんてヘンなの」

 ――本気でそう思ったわ。道の先に現れた小屋も、とってもいい雰囲気だったんだもの。
 木々が開けた広場にあったのは丸太を組んだ家だった。板を葺いた屋根の上にはところどころ草が生え、黄色い小花を咲かせてる。すぐ脇にはこんこんと水の湧く泉があって、それがたどってきた小川の水源だったらしい。

「なんて可愛い!」

 魔女の家なんていうから少しビクビクしてたけど、これなら大丈夫そうね。私はウキウキと扉を叩こうとした。
 ギイィ。
 私の手より早く、勝手に扉が開く。のに、誰もいない。

「え」

 ぎょっとして一歩下がったら、足元に可愛らしい犬がいた。
 おいしく焼けたパンみたいな色の、ふわっふわの毛並み。この子が扉を開けたのかな――んなわけないか。

「ごめんね。中に入れてくれる?」

 犬に話しかけてみたら、ちょこんと横にどいてくれた。あらおりこうさん。

「ありがと。あのー、お邪魔します、アビーさんに言われて来たのですけど」

 中に入って声をかけると、奥の机でゆらりと立ち上がる人がいた。
 家の中なのに、その人は暗い色のマントを羽織ったままだった。フードも目深にしていて顔がよく見えない。不機嫌に結ばれた口もとは、かなり若い感じ。そして背が高い。

「あの、私リアといいます。街のアビーさんの店で惚れ薬をお願いしたら、こちらに行くようにと」
「は、惚れ薬だと?」

 (あざ)笑うような男性の声が響いた。しかもすぐ足元から。驚いて見ると、そこにいたのはさっきのワンコ。

「え……?」
「聞いて驚け。しゃべってるのは俺だ」

 わふわふ、といわんばかりに尻尾を振っているのに、その口が動くと人間の言葉が出てきた。
 ひゃああぁん!
 私はズシャアッとその場に座り込んだ。

「うっそ! すごい、あなたがお話してるの? こんなに可愛いのに、おじさまな声なんだけど! ねえ、もっとしゃべってみてくれない?」
「……適応の早い女だな」

 なるべく視線が合うように低くなった私を見つめ、犬が呆れたように言う。
 だって、犬と意思疎通できるのよ?
 うわー、うわー、何これ素敵。

「本当に魔女の家なのね。こんな魔法が使えるなんて。あ、まさか魔女ってあなたの方だったりする?」
「さすがに違うぜ。俺はあっちのマントの使い魔だ」
「あ、そうなんだ」

 可愛いワンコの話し方はけっこうワイルド。でもそんなギャップもたまらない。
 使い魔だなんて言われてもよくわからないけど、やっぱり訪ねる相手はマントの魔女さんの方なのか。私はあわてて立ち上がった。

「ごめんなさい、お話しできる犬なんて初めてで、つい。それで惚れ薬なんですけど」
「あ、話すのは俺にでいいぜ」
「はい?」

 足元から言われて下を見る。

「あいつはどうせしゃべらねえ。考えてることは俺がわかるから、通訳してやる」
「……通、訳?」

 犬が。

「言っとくが口はきける。話すのが嫌いなだけだ。だそうだ」
「だそうだって……あ、今のは魔女さんの言葉?」
「ああ」

 なんともおかしな仕組みだけれど、それで通じるなら別にまあ。
 その時魔女さんが私の手に目をとめた――ような気がした。フードのせいではっきり視線がわからないのよ。

「リア、怪我してるのかって」
「あ、はい」
「傷薬サービスしてやるから、さっさと治せ」
「……アリガトございマス」

 親切なんだけど言い方が。このワンコの通訳のせいかしら。
 出された薬のフタを開け、すりむいて赤かった手の甲に塗る。ヒョイとスカートをたくし上げて、膝とふくらはぎの傷にも。
 ガタッ! と音がした。顔を上げたら魔女さんがよろけて机に突っ伏しそうになっていた。ワンコがわめく。

「脚も怪我してんのかよッ」
「あ、うん。お屋敷でも薬は塗ったんだけどね」
「ッたく――ウチの薬は効き目が違うぜ」

 犬なのに、なんだかドヤ顔――と思って見たら、手の傷が薄くなっていた。凝視する間にもどんどん赤みが消えていく。

「え……」
「どうよ」

 スウッと消えてなくなった傷跡に、私は目を丸くした。

「す、すごっ。本当に魔法だわ!」
「だからスカートめくるな!」

 脚も確認して驚きの声を上げたら噛みつかんばかりに怒られた。そうか、このワンコさん男性よね。目の前でごめんなさい。
 それにしてもすごい効き目。感動した私は魔女さんに駆け寄った。目をそらされたので手を取って礼を言う。

「ありがとうござい――あ、れ?」

 その手はがっしりと大きかった。乱暴に振り払うその人の、マントの隙間から――喉ぼとけ。

「――男の人?」

 フードの陰の顔はとても若く――十七歳の私と同じぐらいの男性がそこにいた。腕で顔を隠しながら無言でにらんでくる。あれ。
 ……なんか怒らせたかも。


 魔女さんは、男の人だった。クリスというそうだ。私より一つ年上の十八歳。もちろんクリス本人が名乗ってくれたわけじゃなく通訳頼みなんだけど。
 魔女の正体を教えてくれたワンコな使い魔は、ジェームス・アロイス・ヒューバッハ十四世だって。そう名乗ったくせに「ジェムでいいぜ」と言われた。

「……クリスがしゃべらないのって、男だと知られたくないから?」

 魔女の店として名が通ってるもんなあ。でもフードに隠れっぱなしのクリスは無言。仕方なくジェムが口を開いてくれた。

「いんや、ただの口下手。おいクリス、ちったあ話せ」
「……うるさい」

 あ、初めての声。ぶっきらぼうだけど嫌な感じじゃなかった。私が微笑んだのを見てジェムがニヤリとする。

「こいつ引きこもりでね。人間に会うのは面倒だし魔法の研究だけしていたいからって、ここに住み着いてる」
「ずっと一人なの?」
「何年か前まではアビーもいたんだけどさ。クリスが一人でも暮らせそうになったし町に出たんだ。ブルーノと一緒になるっつって」
「ブルーノ?」
「隣。鍛冶屋だったろ?」

 あら。アビーさんて本当に鍛冶屋のおかみさんだったのね。クリスとはどんな関係なんだろう。母親にしては若いし。

「……お、い」

 クリスが声を発して私はニッコリ振り向いた。しゃべってくれるのがなんだか嬉しい。

「なあに?」
「……」
「自分で言ってくんねえかなぁ。注文の惚れ薬は〈男を女に惚れさせる〉やつか、てさ」
「あ、うん」

 けっきょくジェムの通訳は必要みたい。ワンコと話すのも楽しいからいいけど、もう少し打ち解けてほしいわ。

 男性用の薬だと確認したクリスは無言で棚や引き出しをゴソゴソし始めた。さっそく作ってくれるんだ。
 取り出した薬の材料をひょいひょい並べるクリス。何も見ないでやっているけど、ぜんぶ頭に入っているってことか。すごーい。
 机に置かれるのはキラキラ光る透明な液体やどろりと濁る緑の何か、木の根のような物、乾燥した花。どんな風に作るのかな。

「ねえこれ、鍋に突っ込んで火にかけてグルグルかきまぜたりするの?」
「……」
「魔女かよ! って魔女だったー!」

 無言のクリスにかわってジェムがボケてくれた。でもクリスは別の棚を物色していて私なんか見もしない。手強い。
 と思ったら小瓶を取り出したクリスが停止した。

「……」

 開きかけた口が閉じる。惜っしい!

「だから! 材料が足りねえぐらい自分で言えよ!」

 小瓶の中身はほぼ空だった。それぐらいも話せないのね。苦笑いでため息をついたらジェムがニヤァと笑った。

「ちょうどいいじゃねえか。リアに協力してもらおうぜ」
「え、何を?」
「足りねえ材料、リアから採る」
「と、採る!?」

 なんか不穏よ。私、何をされるの?
 ジェムはヒタ、ヒタと私に歩み寄った。いや、姿は小型犬だからね? こ、怖くなんかないもん!

「ちょーっと痛い目みてもらおうかなぁ?」
「……ジェム」

 私を脅すような言い方に、クリスが冷たい声を出した。たしなめてくれるのかと思ったら。

「……ちゃんと泣かせるぞ」
「いや、ぜんぜん駄目じゃないの!」

 私は悲鳴をあげた。やっぱり魔法使いなんて信用できないわ!


 * * *


「……涙が必要なら、最初からそう言ってほしかったデス」
「クリスにそんなことできると思うかよ?」
「はい知ってます! 無理ですね!」

 玉ねぎをみじん切りさせられながら、私はブツクサ言った。
 新しい小瓶を構えて私が泣くのを待っているクリスは黙ったまま。ニヤニヤするジェムが教えてくれた。

「悪いな。あの瓶の中身、〈女性の涙〉の加工品なんだけど、いつもアビーからもらってたんだ。ウチ男所帯だから」

 それはわかるんだけど、言葉が足りないって言ってんのよ!
 話が通じなくて泣けてくるわ――と思ったら、あふれた涙をヒョイと小瓶に回収された。いきなり頬に触れたガラスに驚いて見上げたら、クリスとバッチリ目が合った。

 ――カッコいい。

 私はうっかりそう思った。だって本当に顔立ちはととのってるんだもの。
 フードに隠れず目がちゃんと見える。黒い瞳が真剣な顔で私の涙を見つめていて――ちょっと待って、この状況めちゃくちゃ恥ずかしいじゃないの!
 うろたえてシパシパまばたきすると、涌いていた涙が一気に流れた。クリスは慌てて私の肩を押さえ、忙しなく涙をすくい採る。目の前に小瓶をかざして採取量を確認し考え込み――。

「もっと泣け、リア。これじゃ足りない」

 ジェムのイケボで通訳された。

「い、いやあん!」

 顔を真っ赤にしてしまった私は、それでも玉ねぎが目にしみるし肩をつかまれて逃げられないしで、また泣いてしまう。クリスは容赦なくそれを採取した。意外と鬼畜かもしれない。
 涙を集め続け、小瓶の中身にうなずいたクリスはふと私に視線を落とした。

「ヒッ――!」

 パッと手を離して跳びすさる。ちょっと「ヒッ」て何よ、失礼ね! ジェムがゲラゲラ笑い出した。

「仕事熱心にもほどがあるぜ。今さら照れんなよ」

 見ればクリスは赤面を片腕で隠してうろたえていた。
 ――今までは材料の採取に夢中で気にしてなかったけど、女の子をポロポロ泣かして押さえつけていた自分の行為にやっと思い至ったと?
 ほほう。
 自覚しながらそうされていた私の立場にもなってほしかったわよ!


 そんな恥辱の果てに集めた私の涙は、まだ加工しなきゃならないらしい。

「月の光に一晩さらすんだ。今夜うまく雲がかからなければ、明日で薬に仕上げられるんだが」

 フードに隠れてしまったクリスに代わり、ジェムが説明してくれる。

「安全をみて、明後日だな。もう一度来てもらわなきゃならねえのは悪いんだが」
「ううん、また来られるなんて嬉しい。誰にも会わないのが不思議なくらい素敵な森の散歩道だったもの」
「おう、それは結界のせいだぜ」
「けっかい……?」

 この魔女の家にむやみと人が来ないよう、目くらましの術がかかっているそうだ。普通の人は途中で折り返してしまうらしい。私はアビーさんの許可があったから通れたんですって。

「あれ、じゃあ薬を取りに来れなくない?」
「……」

 クリスが私にスイと指をかざした。

「一度だけたどり着けるよう印をつけた――ホント、自分で言って?」

 うんざり顔のジェムに吹き出してしまった。ずっとこれじゃ世話が焼けてしょうがないわね。クリスはどうやらすごい魔法使いなんだけど、ジェムがいないとお客さんの相手もできなそう。
 私はおしゃべりなワンコに手を振った。

「じゃあ明後日また来るわ」

 クリスにも会釈して、扉を開ける。そして私は立ちどまった。
 ――何故か、日暮れだった。

「え……そんな時間? 今まで窓の外、明るかったよね……?」
「――アビーッ!」

 小さくクリスが毒づいた。振り返った私と視線が合って、サッと両手でフードを目深にする。あら、珍しく感情的になったと思ったのに。
 ジェムが肩をすくめた。犬なのに器用だ。

「アビーのいたずらだな。家の中の時間がおかしくなってたみたいだ。なーんか変な感じがするとは思ってたが」
「いたずら……? どうしよう、これ森を抜ける前に暗くなっちゃう」
「うちに泊めるか、送っていくか」

 泊まるって、そんなわけには。おろおろしてたらクリスがボソッとつぶやいた。

「送る」
「クリスが行けよ? 小型犬がついて歩いてても護衛にならねえ」

 硬い顔でクリスはうなずいた。どうしよう、なんだか申し訳ない。
 心配そうな私を見てジェムがチョンと前足で蹴とばしてきた。

「いーんだよ。アビーのせいなんだから、弟子のこいつが尻ぬぐいすんのは当たり前だ」
「弟子?」
「おう。アビーはマジもんの魔女だぜ」
「えええ!」

 だって鍛冶屋のおかみさんにしか見えなかったのに! クリスのお師匠様なの?
 驚いているとクリスはさっさと外に出た。手にはランタンを持っている。ずっとマントも着たままだったから、他にはなんの支度もいらないみたい。

「んじゃ、行ってらー」
「あ、ジェムありがとう。またね」

 留守番の態勢で敷物の上に座り込んだジェムに別れを告げて、私はクリスの後を追った。

 暗くなりつつある森の小路を並んで歩きながら言ってみた。

「送ってくれて、ありがと」
「……」

 黙り込むクリスの横顔をうかがっても、私には何もわからない。
 困ったな、会話も通訳もなしにずっと歩くのかしら。夜が迫り、無言だとちょっと落ち着かなかった。

 周囲の森は宵闇に沈みかけている。
 空を仰いだら梢の木の葉の隙間にのぞくのは透き通る藍色。もう星がまたたき始めていた。

「足元」

 ひと言クリスがつぶやく。少し先に木の根が張り出しているのがランタンの灯りで見えた。

「ありがとう」
「……」

 ――いい人なんだな、と思った。ちゃんと私のこと気にかけて安全に送り届けようとしてくれてるんだ。少し、いえかなり無口だけど、悪気はないんだわ。
 そういう人だと割り切ることにして、しばらく黙って歩いた。チラリと視線を送られたので、微笑み返した。ブスッと目をそらされた。
 ――いい人、かな? なんか自信がなくなってくる。

「ひゃ!」

 頭の上でホー、と低い響きがして、私は小さく悲鳴をもらした。
 うわ、恥ずかしい。これフクロウよね。それぐらい知ってるけど実際に聞いたことはないからびっくりしたの。夜の森なんて初めてだから。
 身をすくめた私をまたクリスがチラリと見る。

「……」

 無言で手を出された。え、えーと。

「つないでくれるの?」

 クリスは何も言わずに私の手首をつかむ。そして自分のマントに触れさせた。

「あ、マントにつかまっていいってこと……」

 うなずくクリスはものすごくブスッとしていた。引き結んだ唇がランタンの灯りに揺れる。でも目は私の様子をうかがっていて――。
 この人、怒ってるわけじゃないんだ。きっと困ってるだけ。人と接してこなかったから、どうすればいいのかわからなくて。

「ありがとう」

 そっとマントの端を握った。そうね、私だって手をつなぐなんて恥ずかしいもん。

 私とクリスはマントの布でつながったまま森を行く。
 こうしているだけでも心細くない。だってクリスはすごい魔法使いなのよ、たぶん盗賊が出たって大丈夫。知らないけど。
 黙っているのにも慣れた頃、突然クリスがこちらを向いた。

「リアが、使うのか」

 ボソリと言われてびっくりした。

「え、と。何?」
「薬」
「ああ、惚れ薬? 違うわ。お嬢さまに頼まれたの。私はただの小間使いだし、そんなにお金もないから」

 アビーさんにはそれなりの金額をお支払いしたんだもの。
 それきり何も言わないクリスと二人、また黙々と歩く。揺れるランタンの灯りを見つめていると不思議に落ち着いた。
 こうしていると夜の森も心地のいい場所かもね。


「お帰り!」

 森の出口で笑って迎えてくれたのはアビーさんだった。ひと目見てクリスがうめく。

「アビー!」
「たまにゃ人里に出なさいってことよ、この子は」

 アビーさんは自分より背の高い弟子の頭をポンポンとなでて笑顔――どうやら私は引きこもり魔法使いを森から出すダシにされたらしい。
 ……なんかもう、ヘンな笑いしか出ないわよ。とりあえず文句は言ってみる。

「アビーさん、ひどくないですか」
「あはは、ゴメンね。クリスがあんまり人見知りだから、ちょっとしびれをきらして。先々を考えるとさあ」

 アビーさんは私とクリスの肩をバンバン叩いた。

「まあ、そうでしょうけど……」
「……」
「ほら、何かお言い。自分のことだよ!」

 アビーさんはクリスの頭をひっぱたいた。フードがずれてボサボサの黒髪がはみ出す。肩にかかるほどの長さの髪をフードにしまいながらも、クリスは無言。

「クリスってこんなだもの。リアちゃんは可愛いし、刺激になればって思ったのよ」
「へ?」
「女の子を夜の森に放り出したらシバこうと思ってた。でもやっぱり泊めるより送ってきたか。つまんない」

 ケタケタ笑われて、ものすごく嫌そうにクリスがつぶやいた。

「……ウゼェ」
「あぁン?」

 聞きつけたアビーさんは態度の悪い弟子の胸ぐらをつかむ。

「あんたが女の子とろくに話もできないからでしょうが。嫁を取れとか言ってるんじゃないよ、まずは客ぐらいあしらってから言いな」
「……」
「――男のお客さんなら、クリスも話せるんですか?」

 クリスがだんまりを決め込むので訊いてみた。アビーさんが肩をすくめる。

「少しはね。リアちゃん相手ではどれぐらい話せた?」
「ええと……」

 記憶をたどり指を折る私を見てアビーさんは爆笑した。

「まあ少しでも話したなら進歩かな。ありがとありがと。じゃあね、お嬢さんの作戦の成功を祈ってるわ」
「あ、まだ薬はできてなくて」
「え?」

 アビーさんの目がキラン、と光った。


 * * *


 二日後、お屋敷に現れたクリスはとんでもなく不審者だった。
 深くかぶったフードとマント。うつむいた顔。定まらない視線。よく取り次いでもらえたものだわ。

 あの日のアビーさんはとても厳しくてね。薬を作ったらお屋敷に届けに行くこと、とクリスに命じたの。

『街を歩くぐらい、できるよね? 子どもじゃないんだから』

 あおられて渋々うなずいたクリス。
 お屋敷に来るのはできたけど、私を呼び出してもらうのが難しかったらしい。門前でウロウロしすぎて誰何(すいか)されたんですって。
 知らされた私は門に駆けつけた。

「クリス!」
「……」

 クリスは無言で薬瓶を私に突きつけた。
 私を見てかすかにホッとしているように思えたのはうぬぼれかな。でも私はとても焦っていた。

「間に合った! ダグラス様がいらしてるのよ」

 この惚れ薬を使う相手、ダグラス様。
 お嬢さまではなく旦那さまに面会を申し込んだということは、正式に婚約破棄の話をしに来たのだと思う。
 私はクリスの腕を引っ張って走り出した。引きずられるクリスが目を白黒させているのにかまわず尋ねる。

「これ、どうすればいいの?」
「……」

 クリスは口をパクパクするけど言葉が出てこない。ああもう、薬の用法を教えてよ!

「飲ませるの?」

 首を横に振られてイライラし怒鳴った。

「はっきりしなさい!」
「――か、顔に」

 気圧されたように、クリスはひと言しゃべった。

「顔にかけるのね?」

 ブンブンうなずくクリス。
 おっけー!
 カップに入れて、お茶のふりしてローズ様がうっかり引っくり返せばいいわ!

「ローズ様!」

 応接室の前で落ち着かないローズお嬢さまに薬を差し出す。

「リア! これが?」
「はい。ダグラス様のお顔にかけるんだそうです」
「わかったわ。ビシャッとやってやる!」

 え――キュポンと栓を抜くと、ローズ様は荒々しくドアを開けた。
 いやそんな、お茶をよそおうぐらいしましょうよ! 私は慌てて追いすがった。
 硬い表情で座っている旦那さまとダグラス様がこちらを振り向く。

「「ローズ!?」」
「ダグラス様の、ばかっ!」

 ばっしゃん。

「――え?」

 いきなり薬を浴びせられ、ダグラス様は茫然となった。とっさに横を向いたもののガッツリ食らったわね。

「タ、タオルをお持ちしましょうか……?」

 進み出てビクビクしながら声をかけた私に、ダグラス様は視線を上げた。
 目が合う。
 マジマジと見つめられ――。

「君の名は?」
「はひ?」

 熱っぽい声で言われ、私は妙な返事をしてしまった。そんな私から目を離さずに、ダグラス様は立ち上がる。

「なんて愛らしい人だ。今までどこに隠れていたんだい? 私を焦らしていたのかな」
「ダグラス様!?」

 ローズ様が悲鳴を上げる。歯の浮くセリフに私は鳥肌が立った。なのにズズイと歩み寄られ、手を取られる。反射的に振り払った。微笑みがキモい。

「つれない素振りはよしてくれ、愛しい人よ」
「ダ、ダグラス君! 婚約破棄とは、うちの小間使いとそんな関係だったからかッ!」
「いえいえいえ私は違います!」

 旦那さままで変なこと言わないで下さい! ていうかもう破棄の申し入れしちゃってたのね! そりゃそうか!

「リア! あなたに裏切られるなんて!」
「裏切ってないですッ!」

 ローズ様もしっかりして! これ薬のせいだから! あなたがブッかけたんでしょうが! てか、どうして私に惚れるのよ!

「ああ、君はリアというのかい? 私の子猫ちゃん」
「誰が子猫!?」

 ダグラス様が腕を伸ばして近づいてきて、私はパニックだった。目がとろんとしてるんだもの。怖い怖い怖い!
 逃げようと後ずさったら、フワリと何かに包まれた。そしてその中で私をかばう力強い片腕。

「クリス――!」

 私はマントにくるまれていた。
 見上げたクリスは相変わらずの無表情で、だけど私を引き寄せる腕が少し震えていて、頑張って助けに来てくれたのが嬉しくて――なんだか嘘みたいに私の鼓動はうるさくなる。
 そしてクリスは片手を動かした。
 パシャーン!
 また至近距離で何かを顔に浴びせられたダグラス様が動きを止めた。

「――あ、あれ?」

 金髪から薬をしたたらせて頭を振るダグラス様――なんだか、正気に戻った?

「……中和、薬」

 クリスがボソッとつぶやく。
 ああ――安心した私はへたりこみそうになった。慌てたクリスが薬瓶を放り出して支えてくれる。
 私からもクリスにしがみついて見上げたら目と目が合った。クリスが真っ赤になり、片手でギュッとフードをおろした。
 だけど私を支える手は放さないでいてくれて――私はキュゥーン、となっちゃったのよ。


 惚れ薬と中和薬を連続して食らったダグラス様はフラフラになって帰っていった。自分が何をしていたのか記憶はあるみたいで、青ざめていたのが申し訳ないわ。
 だけど私を口説いていた陳腐なセリフとキモい姿に幻滅し、ローズ様は「あんな人もういらない」と言い出した。婚約破棄は確定かもしれない。

 そして私は――。

「こんにちは、クリスとジェム!」

 ――魔女の家を訪ねている。

「リア? なんでここに? おいクリス、結界が仕事してねーぞ!」

 驚くジェムの頭をワシワシとなでてみた。やっぱり可愛いな。

「ほら、一度だけ来られるようにクリスがしてくれてたでしょ」
「あー、そうだった」

 薬を取りに来るために私につけた印。逆にクリスが出て来てくれたから、まだ私の上に残っていたの。そうかなと思って試してみたら、ちゃんとたどり着けてよかった。

 家の戸口に立った私は、奥から出てきたクリスに目をやった。前と変わらないマントとフード。
 これ、魔女の雰囲気を出すためとか、お客さまを怖がらせようとか、そんな意図で着ているんじゃないのよね。

 クリスは人見知りで照れ屋なだけ。いつもぶっきらぼうで不機嫌そうだけど、本当は優しくて繊細な人なんだ。自分を守るためのマントとフード。
 その中に私を入れてかばってくれて、すごく嬉しかった。
 だから。だからね。
 私にもクリスのために力になれること、ないかなあ、て。

「――私、お屋敷をクビになっちゃったの」
「はあ!? こないだのことで? リアは何も悪くないじゃねえか!」

 ジェムが鼻にシワを寄せて怒ってくれる。私は肩をすくめてみせた。

「私を見るとダグラス様のキモい口説き文句を思い出して吐きそうになるって、ローズ様が言うんだもん」
「……そ、そんなにヒドかったのか」

 クリスからじゃ詳しくは伝わらなかったのか、ジェムがドン引く。
 あれはねえ、私も思い出すと変な汗をかくわよ。

「退職金はいただいたからいいんだけど、この先が……クリス、責任取ってくれない?」
「え」

 さすがのクリスも声を上げた。私はニヤリとする。

「あの薬、最初に目にした女性に惚れるなんて聞いてなかったもの。クリスが口下手なせいで作戦失敗したんでしょ」
「あ……う……」

 そういうことだったらしい。あの場から逃げ出し、ゆっくりゆっくりクリスに話してもらって判明したの。
 クリスは落ち着かなげにフードを引き下ろして目を隠す。私はかまわず宣言した。

「だからね、クリスが人に慣れるように私が鍛えてあげる!」

 ビク、とクリスが震える。フードの下から上目遣いで私を見ているのがわかった。
 足元でジェムが怪訝そうにする。

「きたえる、て。どーすんだよ」
「別に。特別なことなんてしなくてもいいのよ。一緒に何かしていれば、少しずつ話せるようになるって」
「大ざっぱ!」
「クリスが細やかなぶん、私みたいのがいるとバランス取れるでしょ」
「いや……そうだけど、じゃあリアもここに住みたいってことか?」
「ダメ?」

 首をかしげておねだりしたら、クリスが後ずさってガタガタッと椅子を倒した。ジェムもわめく。

「そーゆーの、オジサンは感心しないぞ!」
「あら、あなた何歳なのよ。ジェームス・アロイス・ヒューバッハ十四世?」
「名前! 覚えてるし!」
「――嘘よ。住まなくてもいいの。だけど私が遊びに来たりするのを許してほしいな、て思って」

 私ははにかんで笑った。
 いやあ、いくらなんでも男性の家に押し掛け同居するつもりはないわよ。
 だけどこのまま会えなくなっちゃうのは嫌なんだもの。いつでもここに出入りできるよう、ずっと有効な印を私につけてほしい。

「街に住んで、仕事を見つけるから。私と友だちになってほしいの。お願い」

 クリスが原因なんだから責任を、と切り出してはみたものの。つまり、あれよ。
 ――そばに、いたいな。
 言いたいのは、それだけ。

「……アビー、が」

 うつむいたままでクリスがそう言った。
 え、クリスが自分からしゃべるなんて。私は静かに繰り返した。

「……アビーさん?」
「街の店」
「うん」
「手伝い」
「うん?」
「ほしい、て」

 ポツリポツリと口にするごとにクリスは顔を上げ、最後には私の目を見てくれていた。そのことに驚いて言われたことを理解できずにいたらジェムが叫ぶ。

「マジ!? おめでた!?」
「え?」
「アビーが妊娠したから向こうの店番やってくれる人を探してるんだってよ!」

 ――えええ!
 ジェムはそれをクリスの思考から直接読んだらしい。
 今の会話、クリスにしてはしゃべった方なんだけど惜しいわあ。内容は半分以下しか伝わってなかった。
 だけどだけど!

「それ、私やりたい!」
「もちろん。やってほしいからリアに言ったんだろうが。な、クリス!」

 高揚したジェムが先回りしてしゃべってしまったら、クリスはしっかりうなずいてくれた。

 私でいいの?
 街の魔女の店で働くのならクリスとも会えるよね?
 ここと往き来していいのよね?

 そんなことを思いながらクリスと見つめ合っていたら、ジェムがケッと毒づいた。

「――おまえら同類かよッ! 声に出せ!」

 言われて私は吹き出した。クリスも同時に微笑む。笑顔のクリスなんて初めてで目をまるくしたら、気づかれて恥ずかしそうにフードを下ろしてしまった。

 いつだってフードに隠れちゃうクリス。
 だけど本当はいろんなことを考えていて感じていて、私のために頑張ってくれたりもする素敵な人。
 これから、どうぞよろしくね。
 お仕事をして、たまには森を散歩して、私と過ごす時間をちょうだい。そして――。

 ――いつかまた、そのマントの中に抱きしめてくれないかなあ?



              おしまい

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