「あーあ、葵の織姫駅語り、久しぶりに見たかったな」
「見世物じゃないんだけど……」
電車に揺られながら、じとりと芽依を見る。中学生の頃、新学期や席替えがある度に、隣の席や近くの男子に織姫駅をバカにされることが多くて、毎回織姫駅について話している内に、仲のいい女の子に「また葵の駅語りが始まった」と揶揄われるのだ。
くすくす笑う芽依が面白そうに、でもね、と言葉続ける。
「藍川君が自分から女の子に話し掛けるの、初めて見たよ。うちのクラスでクールなイケメンって言われてるんだよ」
「いやいや、あれを話し掛けて来たって言わないでしょう? 全力で織姫駅をバカにしてたもん。クールと言うより、無愛想だったし! 何で男子ってああいうこと言うのかな」
はあ、と大きなため息を吐くと、芽依に肩を慰められるように叩かれる。
「昨日は聞けなかったけど、挨拶君とはどうなったの?」
「もうっ、挨拶君じゃなくて、相沢君だよ」
相沢君の名前を口にした途端に、顔に熱が集まる。
思い出すだけで、恥ずかしくなって俯きがちになってしまう私の反応が楽しいのか、芽依は瞳を輝かせて話を促す。
「相沢君とね、朝の教室で待ち合わせしてるんだ……」
最後は恥ずかしくて小さな声になってしまう。
頬の熱を冷ますように、手のひらを当てながら話し終える。
「──それ、デートじゃん!」
私の話を聞き終えた芽依が、目を見開き、頬を上気させて大きな声で言った。電車の中で向けられた数人の目が気になって、慌てて芽依の肩を掴む。
「ちょっと、芽依! 声が大きいよ……」
「あ、ごめんごめん。でも、そんな事になっているなんて思わなかったんだもん。待ち合わせの約束は、どっちからなの?」
芽依が、先程より瞳をキラキラ輝かせている。
今度は頬が自然と緩むのを押さえるために、手のひらを当てる。浮かれている自分が恥ずかしいのだけど、自分でもどうしようもなく頬が緩むのが分かってしまう。
そんな私を見た芽依が「やるな、挨拶君」とにやにやしていた。
◇ ◇ ◇
下駄箱で相沢君だけの靴を見つけて、嬉しくなる。デート楽しんでね、と言ってくれた芽依と分かれると、教室に向かう足取りが自然と軽くなる。それが何より私の気持ちを表していた。
「渡辺さん、おはよう!」
「相沢君、おはよう」
教室に入ると、ふわりと甘く笑う相沢君に挨拶をされる。
相沢君の回りがキラキラと星が瞬くみたいに煌いて見える。朝一番に会えた嬉しさで、ときめきが募る。
二人で朝のベランダに出ると、春らしい霞みがかった空に、あわあわとした綿あめみたいな雲が浮かんでいる。
相沢君がベランダの手すりに持たれかかり、顔をこちらに向ける。目線が同じ高さになり、真っ直ぐに見つめられると、心臓が踊り出したみたいに、どきどき煩くなっていく。
「そういえば、渡辺さんって何駅なの?」
「えっと、織姫駅だよ……」
相沢君の反応が気になるのに、その言葉がどんなものか分からない怖さに、ほんの少し俯き、無意識にブレザーの裾をくしゃりと握りしめてしまう。
「織姫駅なんだ。可愛い名前だよね? 渡辺さんみたい」
「ふえ?」
意外な言葉に、思わず間抜けな声が出てしまった。
相沢君は気にする様子もなく、腕をこちらに伸ばすと、頭をぽんぽんと撫でる。
「可愛いって言われない?」
相沢君の大きな手が、ぽすっとそのまま頭に置かれている。相沢君の手は、前髪に向かって撫でたり、優しく撫で続けたまま、目を細めて見つめられる。
「い、言われ、ないよ……」
相沢君に見つめられると、頬が熱くなる。赤くなった顔を見られたくなくて、俯いて首を横に振る。緊張したせいか、声が震えてしまい、ますます恥ずかしくなってしまう。
可愛いなんて男の子から言われた事なんてない。
特定の人からは、可愛いものが似合わないと言われるし、それ以外でも、いつも駅語りで反論しているから、可愛くないと思われていると思う。
「そうなの? 葵って名前、可愛いのにな」
「へっ?」
「渡辺さんの名前可愛いよね」
今度は違う恥ずかしさで顔が痛いくらいに熱くなる。可愛いは、名前の話だったのに、私が可愛いという意味かと思っていたなんて、恥ずかしくて穴があったら入りたい、いや、埋めて土をかけてもらいたい。
一人で赤くなって、あわあわしていたら、相沢君がぽんぽんと頭を撫でる感触と、ねえ、と呼び掛けられて、顔を上げた。
「俺も葵ちゃんって名前で呼んでいい?」
甘く笑う相沢君が眩しくて、こくんと頷いた。
「じゃあ、俺のことも名前で呼んで」
相沢君の目が、次の言葉を期待するようにこちらに向けられていた。
「け……圭、君?」
心臓が飛び出すかと思うくらい、どきどきした掠れた声で遠慮がちに言うと、圭君が嬉しそうに何度か頷く。
目を甘く細める圭君と見つめ合う。顔が熱くて、耳が痛いくらい心臓がどきどきしている。でも、目は惹き寄せられたみたいに離せない。
圭君が、ふっと笑う。
「もうすぐみんな来るから教室戻ろっか——葵ちゃん」
「う、うん……」
ぽんぽんと頭を撫でていた手が離れていく。
圭君に覗き込むように視線を合わせる。ふわりと柔軟剤の石けんの香りが鼻を掠める。
「名前だけじゃなくて、俺は、葵ちゃんが可愛いと思うよ」
顔からぼんっと音がしたと思う。
圭君が爽やかに笑うと、先に教室に戻って行く。不意打ちなんて反則だよ、と心臓が飛び跳ねて止まらない胸を押さえて思った。
「よお」
「葵ちゃん、勉強お疲れさま」
ここに居る筈のない人物が二人、織姫駅のベンチに座っていた。
「な、なんで、石ちゃんと藍川君がいるの……?」
不思議に思い、首を傾げて尋ねれば、藍川君が口の端を上げた。
「誰かさんが旨いコロッケ屋があるって叫んだから、食べに来たんだよ。ほら、渡辺さんも食べる?」
白い薄紙に挟んだコロッケを差し出され、反射的に受け取ってしまう。まだほんのりと温かいコロッケと藍川君の間を視線が彷徨うと、ぽんっと藍川君がベンチの横に手を置いた。
「とりあえず座れば?」
「えっ、あ、うん、そうだね……ありがとう」
藍川君の横にコロッケを持ったまま座る。昨日は結局食べずに帰ったコロッケが目の前にあり、揚げ物の香ばしい匂いが食欲を刺激する。
「早く食べないと冷めるよ」
「えっ? えっと、じゃあ、……いただきます」
藍川君に促され、ほんのり温かなコロッケを、さくりと齧る。揚げ衣のさくさくした歯触りのあとに、ほくほくのじゃがいもとほんのり甘い玉ねぎ、少し多めのひき肉の味がいつも通り絶妙だ。勉強で疲れた体に染み込む幸せを噛みしめる。
「——美味しいね?」
美味しいものは、人を幸せにするなと思い、藍川君と石ちゃんに笑顔を向ける。
藍川君が視線を逸らし、まあな、と頷くと、ささみカツに手を伸ばし、美味しそうに食べる様子を眺める。
二人がわざわざ途中下車をしてくれたのが嬉しくて、昨日の藍川君は嫌味な人だと思ったけど、案外良い人なのかもな、と頬を緩ませながらコロッケをもうひと口食べる。
コロッケを食べ終わると藍川君に、ほら、とささみカツも渡される。受け取るのを躊躇うと、石ちゃんがくつくつと笑い出す。
「葵ちゃん、それ、裕太なりのお詫びだから貰ってあげて」
「えっ、そうなの?」
藍川君に視線を向けると、さっと視線を逸らされる。逸らした顔の代わりに、無防備に晒された耳がほんのり赤いような気がして、クールと言われる藍川君がどんな表情をしているのだろう、と好奇心のまま藍川君の顔を覗き込もうと近づいた。
——ぺちっ
「痛っ……!」
おでこに鈍い痛みを感じる。
目の前の藍川君が口角を上げ、ささみカツを持たない手でデコピンの動きを繰り返しているのが、目に入った。藍川君にデコピンをされた痛みだと分かったが、おでこが地味に痛くて、目尻が潤む。じとりと見上げれば、ささみカツを、ぐいっと突き出される。
「それで、要るの要らないの、どっち?」
「要る……っ!」
慌ててささみカツを受け取ると、くくっと喉の奥で笑われた。
藍川君の優しさが分かりにくくて、私も何だか可笑しくなって笑ってしまう。
「藍川君、……ありがとう。石ちゃんも二人で織姫駅に途中下車してくれて嬉しかった」
さくさくの衣と柔らかい鶏肉のささみカツは、いくらでも食べられる美味しさで、幸せな味にあっという間に食べ終わる。
先に食べ終えていた藍川君が口を開いた。
「なあ、ここのメンチカツも旨いの? 今日は誰かさんのお勧めのコロッケとささみカツだけ買ったんだけど、俺、メンチカツ好きなんだよね」
「僕もメンチカツ気になってた! 精肉店のメンチカツ美味しそうだよね?」
「えっと、……メンチカツも美味しいって聞くよ?」
二人の質問に、分かりやすく視線が宙に泳ぐ。
「えっ、食べたことないの?」
「私、メンチカツが苦手なんだよね……」
石ちゃんが、そうなんだ、と頷いている。
藍川君が、急に真面目な顔になると、射るような視線を向けられる。
「——メンチカツが苦手なんて、人生損してるね」
藍川君は言いたい事を言って、すっきりした様子で涼しい顔をしている。
私は、メンチカツが苦手なだけで、私の人生を否定しなくてもいいのに、と口を尖らせてしまう。
「まあまあ、裕太もそこまで言わなくても良いじゃん」
「いや、メンチカツはおかず界の正義だろ?」
誰かな、この人の事をクールなイケメンって言った人……すっごくいい笑顔でメンチカツを語っているよ。生温かい目で藍川君を見ていると、目が合った。
「メンチカツの何が苦手なの?」
「えっと、メンチカツの食べた時に驚く感じ……かな?」
「ごめん、言ってる意味が分からないんだけど?」
藍川君は眉を寄せ、石ちゃんも困ったように眉を下げている。
「コロッケだと思って食べた途端に、肉汁が溢れるのに毎回驚くから……何かそれが苦手なの」
藍川君が眉を更に寄せ、目を瞑り、考える仕草を見せる。ぱっと目が開き、ああ、と納得した顔を見せたので、分かって貰えたみたいだと思って安心した途端に、爆弾発言を落とす。
「コロッケだと思って食べた途端に、かぼちゃコロッケだった時の絶望と同じか——それなら、何か分かるわ」
「いやいや、かぼちゃコロッケは嬉しいから絶望なんてしないよ!」
「はあ? メンチカツは肉だぞ、メンチカツの方が嬉しいだろ、普通! 大体、コロッケとメンチカツは、大きさや見た目が違うから食べる前に気付くだろ」
石ちゃんが肩を震わせ笑い始めた。
「「どっち派なの?」」
悔しいが藍川君とハモッてしまった。石ちゃんが声を上げて、げらげら笑っている。お腹を抱えてひとしきり笑い終えた後、真面目な顔になった。
「僕は、——カニクリームコロッケ派だよ」
石ちゃんの発言に、三人で思わず吹き出して笑ってしまった。
まもなく大型連休がやって来る。
風のない穏やかな陽気の中、織姫駅までの道のり、水張りを終えた田んぼを眺める。田植え前の田んぼには、空模様や若草色の風景が鏡みたいに映し出されている。
織姫駅に到着したら、英単語帳を開くのが日課になっている。少しずつだけど、進学校の授業の速さや宿題の量にも慣れて来たと思う。
まだ慣れないのは、圭君に会う朝の教室。
今日も今日とて、同じ電車の同じ車両で待ち合わせた芽依と挨拶を交わす。
「葵は、今日もデートなんだ?」
「もうっ、デートじゃないよ……っ」
「好意を寄せ合う男女が待ち合わせして、会うことがデートだよ! それに、その頑張った編み込みはなにかな?」
芽依が編み込みをした前髪が崩れないように、そっとヘアピンに触れる。
夜空の中に、煌めく星を閉じ込めたみたいで、私は気に入っていたけど、誰かに星屑みたいと冷たく言われ、仕舞っていた。
今日、編み込みを留めるヘアピンに、これを手に取った事に一番驚いたのは私自身だった。
「——変じゃないかな……?」
「すっごく可愛い! って言うか、葵はいつも可愛いよ!」
鼻息荒く褒めてくれる芽依に、苦笑いを浮かべる。優しい友達はいつも優しい言葉をくれる。
「ねえ葵、まだ……あの事、引きずってる?」
芽依に言われた、あの事は、私の黒歴史だ。
中学生の時に、初めてで唯一、告白された告白が『罰ゲーム』だったことだ。
隣の席の男の子は、まだ恋になる前の恋だった事と
、偶然だけど罰ゲームの告白であると、告白前に知ったことが、せめてもの救いだ。
芽依は、この事を知っているから、圭君が気になる、恋かも、と言った私を、自分の事みたいに喜んでくれている。
だけど、まだ圭君への恋心を素直に認めるのが怖い。まだ少し、このふわふわ浮いたみたいな、甘い甘い綿あめみたいな感覚に包まれていたいと思ってしまう。
「今は、このままでいたい、かな」
私が曖昧に微笑むと、芽依は何か言いたそうな顔をしたけど、芽依は視線を一度下に向けた後、そうだね、と頷いた。
◇ ◇ ◇
今日も朝の教室で圭君と一番に会う『また明日』の約束をしている。
圭君と会うのは、今も慣れなくて、心臓が飛び上がるほど嬉しい。下駄箱で、圭君の靴を見つけると、顔が緩むくらい嬉しくなってしまう。
今日みたいに圭君の靴がない日は、教室の扉を開ける音がするのを今か今かと待っている。こんな自分に一番自分が驚いている。
どうしようもなく惹かれる心に気付かない振りをする。
「葵ちゃん、おはよう」
扉が、ガラッと音を立てると、爽やかな甘い笑顔の圭君が顔を覗かせる。
圭君と目が合うだけで、心臓がどきりと大きく跳ねる。
「け、圭君、おはよう」
爽やかな笑顔に見惚れていたら、朝一番に噛んでしまった。恥ずかしくて、俯いた顔に熱が集まる。
くすりと笑う声が頭の上でしたと思ったら、優しい手で頭をぽんぽんと撫でられる。
「葵ちゃん、ベランダ行こっか?」
「うん……っ!」
毎朝、同じ会話を繰り返す。
朝の教室の澄んだ空気も、ベランダから見えるこの時期だけの若草色に染まる木々を二人で並んで眺める、二人だけのこの時間が愛おしい。
この時間をこのまま切り取って宝箱に仕舞うことが出来たらいいのにな。優しくて甘やかな時間。
爽やかな風が頬を撫でて行き、視線を感じて、顔を向けると、圭君と視線が絡む。圭君が、ふっと柔らかな笑みを浮かべる。
「葵ちゃん、可愛い」
「ふえっ?」
圭君の言葉はどきりとして、変な声が出てしまう。顔に熱が集まり、あわあわしてしまう。
伸びて来た優しい手が、前髪を留めているヘアピンに触れた。
「このヘアピンも髪の毛も可愛いね」
「へ、ヘアピン! う、うん! ありがとう……っ」
勘違いしたことに頬が熱くて、手のひらを当てて熱を逃がす。
圭君がヘアピンにそっと触れたまま、覗き込むように見つめている。
耳の横に留めたヘアピンを、じっと見つめる圭君の視線に焼かれるみたいに、じりじりと焦げたみたいに耳が痛い。数秒なのに永遠みたいに感じた後、
「天の河を掬ったみたいで、綺麗だね。可愛くて、葵ちゃんに似合ってる」
編み込みが崩れないように、優しく頭をぽんぽんと撫でられる。
圭君の言葉に、胸の奥にあった小さな棘が取れたみたいな感覚になる。
「圭君——ありがとう」
優しく朗らかに笑う圭君への恋心が溢れそうになってしまう。慌てて、ブレザーの裾をくしゃりと握り、圭君の瞳をじっと見つめて、感謝の言葉を紡いだ。
「ええーっ! 葵、誰とも付き合ったことないの?」
花音の声が教室に響き渡る。
「ちょ、ちょっと、花音……! 声が大きいよっ!」
慌てて花音に落ち着くように言う自分の声も大きくなってしまい、周りでお昼ご飯を食べるクラスメイトの視線が飛んで来る。
まだ親しくないクラスメイトにまで、私の恋愛事情を知られてしまい、恥ずかしくて泣きたくなる。
「ごめんごめん! 塾でも葵は、すっごく可愛いって同中の男子に人気あったから驚いちゃって。あっ、そっか、理想が高くて、告白されても断ってたとか?」
うんうん、と首を上下に動かし、明後日の方向へ納得する花音に、何て言うべきか頭を抱えそうになった。
「じゃあさ、何人に告白されたことあるの?」
瞳をキラキラさせて花音に期待されたように、見つめられる。
ため息を零しそうになるのを必死に呑み込む。
花音の私の評価が高くて嬉しいような、現実の自分とあまりに掛け離れていて、情けなくなるような気持ちになる。
ゆっくりと首を横に振る。
花音が意味が分からないみたいで、小首を傾げる。美人な花音のさらさらな黒髪が肩に流れ、思わず見惚れてしまう。
年上の彼氏のいる花音は、同じ年というより、綺麗なお姉さんみたい。
「告白されたこと、ないよ。一回だけあったけど、罰ゲームでされた告白だったから……ないかな」
本当に小さな声で、向かいに座る花音にだけ聞こえるように話す。
目の前の花音が、綺麗な二重の瞳をこれ以上ないくらいに見開いて、目をぱちぱちと瞬かせる。
そっと天の河のヘアピンに触れた。
つるりとした感触なのに、指先からふわりと温かいものがゆっくりと身体を巡る。
普段なら絶対話さない話だけど、今日は、花音には話しても大丈夫だと思った。
「私の黒歴史なんだ。——内緒ね?」
唇に人差し指を当てて、わざと悪戯っ子みたいに振る舞った。
ほんの少し、胸の奥がちりちりと焦げるような感覚があったけど、もう一度、天の河のヘアピンに触れると、驚くほど大丈夫だと思えた。
花音が真面目な顔でゆっくり頷くと、八の字に眉を下げる。
「もしかして、それって中三の夏?」
「えっ、何でそう思うの?」
やっぱり、と一人で納得する花音に、今度は私が首を傾げる。
「夏期講習の時に、葵がばっさり髪を切ってたから、何かあったのかなって思ってたんだよね」
当時、花音とは学校も違っていたし、髪型の変化だけでそんな事を思っていたことに驚いてしまう。
「罰ゲームで告白するって立ち聞きしちゃったのが、その頃だよ。一緒に北高を受験する予定だったけど、一緒にいるのが辛くて、西高を単願受験して、……逃げちゃったんだ」
「そうだったんだね……。その時に、葵のこと何か言っていたの?」
「——見た目が、可愛くないみたいな事、かな……」
あの時の、立ち聞きした日の事を思い出したら、花音と二人で話しているのに、背筋に寒気がした。
勢い良く首を振って、その人のことを頭から追い出そうとして、眉間に皺が寄るのが分かった。
「葵、それ——呪い掛けられてるよ……っ!」
花音が当然のように言って来たけど、私は首を傾げる。
「え……っと、花音、ちょっと意味が分からないんだけど……?」
「葵、……安心して! 恋の呪いは、王子様が解くって決まってるけど、王子様に出会う前に、魔法使いがお姫様に変身させるって言うのも決まってるじゃん!」
両手を花音にぎゅっと握られる。
花音は瞳をキラキラ輝かせ、私の両手を握ったまま宙を見ている。
「私が、魔法使いになって、葵を変身させる! 任せて……っ!」
「えっ? 花音、本気なの?」
「もちろん!」
花音の勢いに押されて、苦笑するしかない。
驚いている私は、花音に促されるまま、急いでお弁当を食べることになった。
花音は、お昼休みの残り時間を使って、私に魔法をかけた。
「──……っ」
思わず手に持つ鏡を、落としそうになった。
「どう? すっごく可愛いでしょう?」
満足そうに頷く花音の横で、手鏡に映る私は、自分じゃないみたいに可愛らしくなっていて、頷くよりも首を傾げてしまう。
「花音、これ……どんな特殊メイクなの……?」
驚き過ぎて、上手く言葉が出てこない。
「別に特別なことはしてないよ。ちょっと、眉毛を整えて、色つきリップ塗っただけだよ。元々、葵が可愛いんだよ」
「いやいや、そんなわけないよ……っ」
鏡の中に映っているのは、ちゃんと可愛い女の子なのだ。
「ねえ、葵の呪いはさ、心を支配されたことだよ」
急に真面目な声色になった花音に、振り向くと、真っ直ぐに見つめられる。
「可愛くないって言われて、葵自身が自分は可愛くないって思い込んで行動しちゃうのが、葵に掛けられた呪いだよ……っ!」
花音が、私のことを私以上に考えてくれている優しい友達の言葉に、胸が温かくなった。
花音の綺麗な口元が弧を描き、ぴしっと指を突き立てる。
「魔法使い花音は、責任を持って、葵が可愛くて、可愛いものがすっごく似合うことを、葵自身に知ってもらいます……っ!」
鼻息荒く言う花音と見合うと、お互い吹き出して笑い合った。
「魔法使いの花音さん、よろしくお願いします」
くすくす笑いが止まらないまま、花音にお願いしていた。
「呪いか……」
芽依と本山駅で別れると、深いため息と共に、声にならない言葉を一緒に零した。
織姫駅に向かう車窓から、気持ちよく泳いでいる鯉のぼりを眺める。
田舎の鯉のぼりは、とても雄大で、並んで風に泳ぐ鯉のぼりを見ていると、呪いも何とかなるから大丈夫だな、と思える。
織姫駅に到着すると、藍川君と石ちゃんの二人組に声を掛けられる。
「葵ちゃん、お帰り」
「——よお」
二人の手の中に、齧りかけのメンチカツを見つける。
メンチカツが気になると言っていた藍川君と石ちゃんは、また織姫駅の精肉店に行ったらしい。
たぬき駅長の織姫駅と言っていた藍川君が、自分から織姫駅に降りてくれるのが、何だか嬉しくて、自然と笑顔が溢れる。
「メンチカツ、美味しい?」
「「旨い……っ」」
二人が息ぴったりで、笑顔で頷く。
石ちゃんが「やっぱり精肉店のメンチカツはひと味違うね!」と大きく上下に首を動かす。
藍川君が、ぽんっとベンチの隣を叩く。
「立ってないで、渡辺さんも座れば?」
「うん、ありがとう」
藍川君と並んで座ると、藍川君が首をひねりながら、じっと顔を見て来る。
控えめじゃなくて、すごく堂々と正面から見つめられるので、心臓がどきりと跳ね上がる。
恥ずかしさが込み上げて来て、頬が燃えるみたいに熱くて、痛い。
正面から改めて見る藍川君の顔は、目元が涼やかに整い、鼻筋も高い。眉間に僅かにしわを寄せ、心配そうにする仕草も色気を感じさせるというか、とにかく私の心臓に負担がかかる。
「なあ、顔赤くないか? もしかして、熱か?」
藍川君の整髪料のミントみたいな匂いが鼻を掠める。
ゆっくりと腕を伸ばして、額に触れようとする手に気づいて、はっとする。
ぐいっと藍川君の肩を押し返す。
「ちょ、ちょっと、藍川君、近いよ……っ」
「ああ、悪い。何かいつもと違う感じがしたから、何が違うのか、気になった」
「あ、えっと、魔法使いに魔法をかけてもらいました」
「はっ?」
ようやく藍川君の顔が離れて行ったけど、まだ心臓の鼓動が落ち着かなくて、敬語になってしまった。
藍川君は涼しい顔のまま、ちょっと呆れたような表情を浮かべているけど、私は恥ずかしさで居た堪れない。
「わ、わたし、飲み物買って来る……っ」
恥ずかしくて居ても立っても居られず、座ったばかりのベンチから飛び跳ねるように、立ち上がり自動販売機の前立つと、深く息を吐いた。
「はあ、びっくりした……」
藍川君の距離感がおかしいと文句を言いたくなる。
あの状況で顔が赤くならない人はいないと思う。顔がイケメンの人は、自分の破壊力を考えて頂かないと、心臓が跳ね上がって困る。
頭の中で藍川君に文句をひと通り言い終えると、気分転換に大好きなサイダーを買い、ぴたりと頬に当てる。目を閉じて、熱い頬の熱が冷えて行くのを感じた。
気持ちを立て直し、頬の熱も引いたので、二人のいるベンチに戻る。
藍川君が、今度は適切な距離感で私を見る。
「なあ、さっきの魔法使いって何なの?」
「あー、うん、ちょっと、呪いを解いて貰っていて……」
「はあ? 渡辺さん、ちょっと最初から話してみようか……」
呆れた顔の藍川君に、質問をいくつか繰り返し、気付けば敏腕刑事並みに色々聞き出され、結局、罰ゲームの告白のことを立ち聞きした事や、呪いや魔法使いについても、今までで一番詳しく洗いざらい話し終える。
取り調べをされた人って、きっとこんな風にぐったりしているのだろうな、と遠い目をしてしまう。
「なるほどね。つまり、罰ゲームの告白がトラウマで、気になる人が出来ても先に進めないってことか」
藍川君が腕を組んで、首を上下にゆっくり動かした後、口角をにやりと上げた。
「渡辺さん、——俺が協力してあげるよ」
藍川君の言葉に、驚いて目をぱちぱちと瞬かせる。
「えっ? なんで……っ?」
思いっきり首を傾げてしまう。
——ぺちっ
「痛っ……!」
藍川君が私のおでこにデコピンをしたらしい。
相変わらず、地味に痛くて、目が潤む。
潤んだ瞳でじとりと恨めしげに見上げると、藍川君の涼やかな瞳と見合う。
「そのデコピンがしやすい渡辺さんの髪型が気に入ったから」
喉の奥でくつくつ笑いながら藍川君が言った。
藍川君に揶揄われている。それは分かっているのに、明日から同じ帰りの電車に乗る約束をしていた。
今日も朝の教室で圭君と会う約束をしている。
「おはよう、葵ちゃん」
「圭君、おはよう……っ!」
朝の爽やかさに負けない爽やかな笑顔の圭君に、自然と笑顔が溢れる。
圭君は初夏の日差しみたいに、キラキラ輝いて見える。
「ベランダ行こっか?」
二人でベランダに出ると、初夏を感じる澄み渡る青空が目に鮮やかに映る。
圭君と一緒に居ると、目に映る景色が煌めいたみたいに見えて、今の全てを切り取って宝箱に大切に入れて、ひとつ残らず宝物にしたいと思ってしまう。
朝の空気が気持ちが良くて、大きく息を吸い込むと、圭君がくすりと笑うのが目に入る。
途端に、恥ずかしくなり顔に熱が集まり始める。
「葵ちゃん、今日の空気は美味しいの?」
「お、美味しい、……よ」
圭君が目を細めて、柔らかな笑みを浮かべるので、心臓が跳ね上がってしまう。
「そっか。俺も試してみようかな」
圭君が優しく笑うと、手すりにつかまって、深呼吸を何度か繰り返す。
こういうところが、優しいなと思い、頬が緩む。
圭君の横顔に向けていた視線を、初夏の青空に移すと、風に乗ってゆっくりと鳥が飛んでいくところだった。
「空を泳いだら、気持ち良さそうだな」
青空と白い鳥の光景が、今朝の車窓から見た鯉のぼりと重なり、思わず呟いた。
「ん? 葵ちゃん、飛ぶじゃなくて、泳ぐなの?」
「あ、えっとね、さっき電車の窓から鯉のぼりが泳いでいるのを見てたからだよ」
深呼吸を終えた圭君の腕が伸びて来て、優しい手がポニーテールの頭をぽんぽんと撫でる。
「葵ちゃんは、鯉のぼりが好きなの?」
「うん! 家には無いし、大きな鯉のぼりが泳ぐのって見てて気持ちいいから、泳いでいる鯉のぼりを見つけたら嬉しくて、見ちゃうかな」
今朝の鯉のぼりを思い出しながら答えると、圭君が、そうなんだ、柔らかく朗らかに笑った。
「可愛いね、葵ちゃん」
「ふえっ?」
頭の上に置かれたままの圭君の手が、温かい体温をゆっくり移動させるみたいに優しく髪を撫でている。
「子供みたいで可愛いね」
揶揄っている。圭君は優しいのに、ちょっと意地悪なことも言う。
「——圭君の意地悪……」
頬を膨らませて言えば、圭君が顔を近付けて覗き込み、両頬を大きな手で軽く押される。
「葵ちゃん蛸が出来た」
揶揄うように言われた途端に、石けんの香りが鼻を掠め、思わず圭君から目を逸らした。まだふわりと柔軟剤のような柔らかい石けんの香りが漂っていて、圭君との近すぎる距離感を意識せずには居られない。
血が全身に駆け巡り、顔も身体も赤く染まるのが分かり、恥ずかしくて視線が彷徨う。
「俺も好き」
「ふえっ?」
圭君の言葉に驚き過ぎて、彷徨っていた視線が圭君に向かう。
心臓が早鐘のように打ち続けている私の真っ赤な顔を、圭君が真っ直ぐに見つめる。
ほんの少し出来た空白の数秒に、鼓動を高鳴らせる。圭君の顔が、子供みたいな悪戯っ子の顔付きに一瞬で変化する。
「俺も好きなんだよね——鯉のぼり」
圭君は悪戯に成功したみたいに笑い、私は、かあっと顔に痛いくらい熱が集まった真っ赤な顔を隠そうと両手で覆う。
勘違いを重ねた恥ずかしさで、居た堪れなくて、視界がぼやける。
いつの間にか頭の上に置かれた手が、頭をあやすようにぽんぽんと叩いていく。
「ねえ、葵ちゃん」
優しく名前を呼ばれるけど、こんな顔を見せたくなくて、首を左右に振った。
「うん、ちょっと意地悪だったね。ごめんね」
ちらりと圭君を見ると、圭君が申し訳なさそうに眉を下げている。
私が勝手に勘違いをしたのに、圭君を困らせてしまっていると気付き、慌てて首を左右に動かす。
「あの、……私こそ、ごめんね」
「俺、葵ちゃんが素直過ぎて、心配になるよ」
圭君が苦笑して、私を見つめるけど、理由が分からず、首を傾げる。
気付けばまた圭君の手が私の髪を優しく撫でている。
「俺の鯉のぼりも大きくてさ、吹き流しに笹竜胆の家紋も入ってて、子供心に格好いいなと思ってたよ」
「そうなんだ!」
小さな頃の圭君が鯉のぼりを眺めている様子は可愛かっただろうなと思い、自然に頬が緩むように笑ってしまう。
そして、笹竜胆の家紋がどんな模様なのか調べようとひっそり決める。
見上げた圭君も私に釣られて爽やかに笑っていて、胸がほわんと温かくなった。
「ふふ、そろそろ教室戻ろうか」
「うん!」
教室に戻ろうと、圭君がベランダの扉に手を掛ける。
私の手とは違う、大きくて、男の人の手だなと思う。
「あ」
圭君が声を上げると、くるりと振り向いた。
言葉の続きが気になって、圭君を見つめる。
「さっき言い忘れたけど、俺、鯉のぼりより、茹で蛸の方が好きだよ」
「——っ……!」
悲鳴になりそうな声を必死に呑み込む。
心臓がばくばくと煩いくらいに音を立てて、血が全身を駆け巡る。顔どころか身体も、まるで茹で蛸のように真っ赤に染まっていくのが分かる。
私の様子を見た圭君が、目を細めて笑うと、頭を最後にぽんぽんと撫で、教室に戻って行った。
放課後になり、藍川君と約束した通り四人で西森駅に向かう。
前を歩く芽依と石ちゃんの背中がぐったり疲れて見える。
「うう……、連休中の課題量が多くて驚いたよ」
「芽依ちゃん、僕も終わるか自信ないよ」
「「はあ」」
芽依と石ちゃんが息ぴったりで、大型連休の課題の多さを嘆いている。
明日の土曜日は半日授業だが、追加の課題を大量に出されて、大型連休に突入するらしい。進学校恐るべし。
芽依がくるりと後ろを歩く私に振り向く。
「葵、連休中に集まって、課題やらない?」
「ふふ、芽依はいつもそう言って、全然課題やらないじゃん」
「今回は、ちゃんとやる! って言うか、今回は答えのない問題プリントも出てるから自信ないし、——お願い……っ!」
芽依が両手を組み、お祈りポーズを捧げられる。
中学の頃から私の家に集まって宿題やテスト勉強をしていたが、芽依と一緒だとお喋りに花が咲いてしまって進まないけど、楽しいからいつも集まってしまう。
「もう、仕方ないな。いいよ、いつもみたいに私の家でいい? いつにする?」
「葵から後光が射して見える……っ」
芽依と見合うと、くすくすと笑い合う。
「えー、僕も混ぜてよ! 芽依ちゃん、ずるいよー!」
「全然ずるくないよ! 私と葵は中学からの付き合いだもん。石ちゃんは藍川君とやったらいいじゃん」
石ちゃんが縋るような眼差しを藍川君に向ける。
「やだよ。男二人で勉強なんて、一人でやった方が早い」
藍川君がばっさり石ちゃんのお願いを却下する。
芽依が、どんまい、と石ちゃんの肩を慰めるように、ぽんぽんと叩く。
「葵ちゃん、やっぱり僕も入れてよ? ちゃんとガールズトークもついて行くし」
「ええっ?」
急に話を振られ、慌ててしまう。
石ちゃんも先程の芽依と同じように両手を組むと、潤んだ瞳で、お祈りを捧げて来る。
石ちゃんの柔和な容姿で、困ったように眉を下げられると、非常に断りづらい。
この沈黙で生まれる無言の時間が、何だか私が悪いことをしているような気分になってしまう。
「——やっぱり駄目だよね」
石ちゃんが寂しげな表情を浮かべると、大きくため息を吐き出し、お祈りポーズを辞めた。
こんな顔をされた後で、芽依と集まるのも気が引ける。
「——分かった。芽依もいいなら、石ちゃんも来ていいよ。でも、二人共ちゃんと課題やってね」
勢いに任せて、二人に向かってそう言うと、芽依はいいよ、と頷き、石ちゃんは、ありがとう、と柔和な笑顔を浮かべる。
「なあ、それ、俺も参加していい?」
「ええっ?」
「翔太がいいなら、俺が参加してもいいでしょう? それとも俺だけ駄目なわけ?」
「そ、そういう訳じゃないけど、……」
「じゃあ俺も参加の方向で、よろしく!」
藍川君が、口角をきれいに上げた。
集まる予定を決め始めると、勉強をするつもりなのに、何だかわくわくして来た。
決め終わった時、芽依の降りる本山駅に到着した。
「じゃあ、またね」
芽依と分かれて、もうすぐ鯉のぼりが見えて来るはずの風景を眺める。
今日は風が吹いていないので、鯉のぼりはだらりと垂れ下がって寝ていた。
「渡辺さんって、鯉のぼり好きなの?」
じっと鯉のぼりを見ている様子を藍川君に見られていたらしい。
今日は鯉のぼりの質問が多い日だな、と苦笑いを浮かべて、藍川君をぐっと見上げる。
隣に立つと藍川君の背はすごく高い。相沢君も高いけど、藍川君はもっと高いから、首の角度が真上に近いのだ。
「うん、好き! 泳いでると、ずっと見ていたくなるよね?」
「ふうん。そういうもんか」
「そういうもんだよ」
藍川君が車窓の枠から見えなくなりそうな鯉のぼりを見つめている。
その横顔の表情が、妙に心を引っかかるけど、それがどうしてか分からない。
言葉が途切れたまま、水張りを終えた田んぼの景色が流れていくのを眺めている内に織姫駅に到着した。
「じゃあ、また明日ね」
「あ、俺も降りるわ」
「え?」
「僕は今日は辞めておくね。二人共、じゃあね」
藍川君が、行こうぜ、とさっさと電車から降りるので、続けて降りる。
「渡辺さん、腹減ったから、コロッケ食べようぜ」
私の返事を聞く前に、マイペースな藍川君は退場のICカードの機器にピッとカードを当てると、無人駅の改札を出て行く。
私は足のコンパスの違う藍川君を小走りで追いかけて、無人駅を後にした。
藍川君と精肉店に入り、コロッケをひとつ頼む。
ひとつの注文でも、おばさんは笑顔で揚げてくれるので、小学生の頃からお小遣いを握りしめてコロッケを買っている。
私のはじめてのおつかいもコロッケです。
つまり、私も常連の端くれだったりするので、おばさんとは顔見知りだし、会えば立ち話くらいはするのだ。
「あら、葵ちゃん、もしかして彼氏?」
「ち、違うよ……っ。おばさん、絶対お母さんに言わないでね! 本当に違うからね、同級生なの!」
「はいはい、格好いいじゃない! はーい、揚がったよ。これ、おまけね。二人で食べてね」
「——ありがとう……」
「ありがとうございます!」
藍川君の横顔をちらりと見上げると、爽やか選手権に出場するみたいな笑顔を浮かべていて、ぽかんと口を開けて呆気に取られてしまった。
「ほら、行こうか?」
藍川君に優しく腕を取られて精肉店を出る。
ちらりと藍川君を見上げると、柔らかな微笑みを浮かべたままなのが、知らない人みたいに見え、慌てて視線を下げる。
「渡辺さん、もしかして惚れちゃった?」
「……ええっ?」
爽やかな笑顔のまま聞かれ、もやもやするみたいな、変な感覚がする。調子が狂ってしまうのを振り払うように、藍川君をもう一度ぐっと見上げて声を掛ける。
「藍川君、折角だから公園で食べようよ!」
「お、それ、いいな」
いつものように口角を綺麗に上げる藍川君に、ほっと心の中で息を吐く。
精肉店から数分歩くと、少し高台の公園が見える。
ここのベンチから見える景色が好きで、ちょっと嫌なことがあったり、一人になりたい気分の日はここに寄ってから帰ることもある。
白い薄紙に挟まれたコロッケを藍川君に渡され、さくっと齧る。熱々のコロッケから湯気が立ち上る。揚げ物は揚げたてが一番美味しい。
食べたい物を食べたい時に食べる、この幸せな買い食いの味に自然と笑みが零れる。
「やっぱりコロッケ美味しいね……っ!」
「旨いよな」
初夏のような日差しがベンチに木の陰を落とし、青々とした風が通り過ぎる。
外で食べるコロッケは、いつもより美味しくて、ここから見えるベランダ用の小さな鯉のぼりは、ほんの少しだけ泳いでいる。
圭君の大きな鯉のぼりは、きっと寝たままだろうなと、ふと思う。
「本当に好きなんだな」
「ふえっ?」
「鯉のぼり。——さっきからずっと見てる」
藍川君に話しかけられたタイミングと圭君のことを思い出していたタイミングが同じで、変な声が出てしまう。
鯉のぼり、どうやら思っている以上に好きなのかもしれない。
「ふふ、そうかもしれない。ねえ、藍川君の鯉のぼりはどんなのだったの?」
私の質問が予想外だったのか、藍川君が鳩が豆鉄砲を食ったみたいな顔になった。
小さな藍川君は、どんな鯉のぼりを見ていたのか気になって質問してみたら、
「ない。それに、欲しいと思った事もない」
藍川君にあっさり返事をされてしまう。
鯉のぼりが欲しくない子なんて、要るのかなと首を傾げる。
「あのな、俺の家は、平家の末裔だから鯉のぼりと鶏は飼うなって言われてるんだよ」
「えっと、どういうこと?」
「源平、壇ノ浦の合戦で敗れた平家の人たちが各地に逃げて、身を隠してたんだよ。鯉のぼり上げると、跡取りいるってバレるし、鶏も鳴くからバレるだろ」
「すごい、すごい! 今の話、ぞくぞくした……っ」
鯉のぼりにそんな話があるなんて、わくわくする。
思わず身を乗り出して、聞いていると、藍川君に呆れたように深いため息を吐いた。
「割とよくある話だろ。風があると漁に出れないから漁師町とかも鯉のぼり上げないしな」
「そうなの?」
当たり前に言われるけど、私は初めて聞く話に、驚いた。
「俺の家は、鯉のぼりはないけど、代わりに揚羽蝶の家紋が入ったやたらデカイ鎧飾りがあったし、別に鯉のぼりが欲しいと思ったことはないな」
いつもより早口な藍川君を見ていたら、胸の奥が、きゅうっと締め付けられた。
気付いたら藍川君のつんつんした黒髪に手のひらを伸ばしていた。
「え、急に、なに?」
目をまん丸に見開いた藍川君と目が合う。
自分でも自分の行動に驚いてしまい、手がぴたりと止まった。
数秒の沈黙が、とても長い時間に感じられた。
「あ、……ごめん。なんか、子供の藍川君を撫でたくなったと言うか、うん、ごめん」
頭に乗せた手を引っ込めようすると、藍川君に手首を捕まえられる。
触られた部分が熱を持つ。心臓が跳ねる。
「気になるから、ちゃんと教えてよ」
藍川君の瞳に真っ直ぐ見つめられる。
心臓が、とくん、と音を立てる。
「俺、エスパーでもヒーローでもないし、流行りのスパダリとか幼馴染じゃないから、話してくれないと分からない」
藍川君のいつもは涼やかな瞳が、射抜かれるみたいに見つめられ、頬に痛いくらいに熱くなる。
藍川君に手首を繋がれている状況に、身体中が心臓になったみたいで、口から心臓が飛び出しそうで、頭が上手く働かない。
「渡辺さん、なあ、顔赤くないか? もしかして、熱か?」
ゆっくり藍川君の手が伸びて来て、ミントの整髪料の匂いが鼻を掠める。距離の近さに驚いて、藍川君の肩を慌てて、押し返す。
藍川君が、喉の奥でくつくつ笑うと、手を離してくれた。
「ゆっくりでいいから教えてよ」
柔らかな風が熱を持った頬を撫でて行く。何度か深呼吸を繰り返すのを、藍川君は目の前の景色を何も言わずに見ている。
「えっと、藍川君が鯉のぼり欲しくないって言ってたけど、その割にすごく鯉のぼりに詳しくて、……好きの反対は嫌いじゃなくて、無関心だから、……本当はすごく好きなのかなって思って」
藍川君が頷き、視線で先を促される。
「でも、お家の事情で買えないのも分かってたから、子供心に欲しくないって思おうと思っていたのかなって、思ったら、急にその——小さな頃の藍川君を撫でたいなって……」
真っ赤な顔を隠すように、俯いてしまう。
「話してくれて、ありがとう。渡辺さんの行動の理由が分かったわ。俺、勝手に思い込んで、勘違いするの嫌なんだよ。大切な人とは、ちゃんと話し合いたいんだよ」
声の優しさに顔を上げれば、藍川君の手がゆっくり動いて来る。
——ぺちっ
「痛い……っ」
藍川君にデコピンをされていた。
今日はいつもより痛くて、目尻に涙が溜まる。
一生懸命話したのに、なんで、と藍川君に首を傾げると、藍川君の口角がきれいに上がっている。
「渡辺さんのおでこって、デコピンしたくなるよね」
そう言うと、ほんの一瞬、見つめ合ってしまう。
もう帰るのひと言をどちらも言い出さないまま、ゆっくり形を変える優しい雲を見ていた。
「葵! 起きないと遅刻するわよ!」
「わああ……っ、もっと早く起こしてよ」
「ずっと起こしていたわよ。早くご飯食べなさいね」
昨日は圭君と藍川君のことを考えていたら、同じところをぐるぐる回って、どこにも向かえず、出口も見えなくて眠れなくなってしまった。
どうせ眠れないならと、大量の課題を始めたのが良くなかった。英語の長文読解は集中出来たし、数Iも数IIも順序良く進んで行った。
気付いたら課題の山はかなり低くなり、時計の針は何周も回ったようで、空が薄っすら明るくなり始めていた。
慌ててベッドに潜り込み、目を瞑ると、あっという間に夢の世界に辿り着けたが、鏡に映る私は薄っすらクマが出来ている。
「よし……っ! 何とか間に合いそう」
急いで支度を整え、最後に手首にピンクのシュシュを付ける。結ぶとリボンがちょこんと出来る、この可愛いシュシュはお気に入りのひとつだ。
魔法使い花音に言われてから、自分の好きな可愛いものを身につけるようになった。
圭君や花音、芽依や女の子の友達に、可愛いね、と言ってもらう度に、ほわんと心が温かくなる。
今日は寝坊したので、学校に着いたら結ぶことに決め、急いで織姫駅に向かう。
課題は取り組んだのに、朝のホームルームの小テストの勉強は忘れていたので、織姫駅から芽依が乗り込んで来た後も、一緒に小テストの勉強に付き合ってもらった。
「ごめんね、芽依!」
「いいよいいよ、私も今日は自信無かったしね」
優しい友人に感謝して、圭君のいる朝の教室に向かった。
教室の扉の前に立った途端、昨日の『茹で蛸が好き』発言を思い出した。
芽依に相談に乗ってもらう予定を忘れていたと気付いて、泣きたくなる。
どんな顔で二人きりで会えばいいのか、扉に手を掛けたまま立ち尽くしていると、扉がガラリと開いた。
予想外の出来事に、驚きで、びくっと身体が跳ねる。
「やっぱり葵ちゃんだ。どうしたの?」
柔らかな笑みを浮かべた圭君が立っていた。
どんな顔で会えばいいのか悩んでいたけど、圭君の顔を見たら、胸が高鳴って止まらない。
長い腕が伸びて来て、頭をぽんぽんと優しく撫でられる。
「おはよう、葵ちゃん。今日は髪、下ろしてるんだね」
「圭君、おはよう……うん、寝坊しちゃって、変だったかな?」
「ううん。すっごく可愛いし、好き」
「ふえっ?」
頭をぽんぽんと撫でる優しい手が、そのままするりと滑るように撫でて行く。
肩下くらいの髪を圭君の手が、ゆっくりゆっくり撫でていくのが、心臓が飛び出しそうなくらい恥ずかしくて、俯いてしまう。
「葵ちゃん、ベランダでゆっくり話そう?」
圭君の少し低い優しい声が落ちて来る。視線を上げると、柔らかく目を細めた圭君と目が合った。
上手く言葉を出せない私は、熱を持つ顔を、こくこくと上下に動かす。
ふふっと圭君が笑い、腕を優しく掴むとベランダに出る。
霞みがかった空から柔らかな日差しが降り注ぐ。
遠くを見つめていると、いつもより近くに横に立つ圭君の手が、何度も髪を梳き撫でる。
たまに一番下まで撫で終えると、指先でくるくると毛先を巻き付けて遊ぶのを繰り返す。
「さらさらだね」
圭君の手が優しく撫で動き、最後に横髪を耳にかけられる。
圭君の手が耳に触れた途端に、肩が揺れてしまう。
「もうっ、圭君、くすぐったいよ……っ」
あまりに恥ずかしくて、圭君をじとりと見上げると、圭君が片手で口元を覆う。そのまましばらく空を見上げているので、心配になり、圭君のブレザーの裾を引っ張る。
「あの、圭君どうしたの?」
「ん? 葵ちゃんが、可愛すぎると思ってただけだよ」
ぼんっと顔から火が出たみたいに熱くなり、頬が痛いくらい。
圭君の優しい手が、頭をぽんぽんと撫でると、ゆっくり離れて行く。
甘い柔らかな圭君の瞳に見つめられる。
「葵ちゃん、今日の午前授業の後に予定ってあるかな?」
「ううん。土曜日は少し残って、花音達と課題をやるけど、約束しているわけじゃないから……どうして?」
今日は土曜日だから午前授業なのだ。
いつもお弁当を持って来て、花音達と一緒に食べた後、課題をしたり、お喋りをしたりして、帰ることが多い。
芽依もクラスの子と一緒に過ごしているから、土曜日は一緒に帰る約束はしていない。
甘い微笑みを浮かべていた圭君が、真面目な表情に変わる。
見たことがない表情に、心臓が、とくん、と音を立てる。
「葵ちゃん、話したい事があるんだ。俺に、時間貰えないかな?」
圭君の真剣な眼差しに見つめられる。
心臓がどきりと跳ね上がり、頬に熱が集まる。
私は、はい……と小さな声で、圭君に頷いた。