目に映る世界が、一瞬にして輝いて見えた——
相沢君がこぎ出した二人乗りの自転車は、ぐんぐんスピードを上げて行き、 景色がどんどん流れて行く。
春の生温かな風が頬にぶつかる。相沢君の息遣いと、自転車の風を切る音だけが耳に届く。
強い風が突然ぶわりと巻き上がり、咄嗟に目を瞑る。
「……渡辺さん! うえ、うえ! 上見てみて!」
「……っ!」
相沢君の声に見上げると、思わず息を呑んだ。
満開に咲き誇る桜の花が、春の花嵐で美しく舞って、桜の吹雪みたい。
春の陽射しに包まれて、舞い散る花びらが青い空にキラキラと煌めく様子は、美しいのにどこか儚くて、夢のような光景。今、この光景を忘れないように目に焼き付けようと思った。
「渡辺さん、見た?」
「うん、見たよ! すっごい綺麗だったね!」
「だよね! 俺、今まで見た桜の中で、一番綺麗だったかも!」
はしゃいだ弾んだ声が聞こえて来たと思ったら、相沢君がくるりと顔をこちらに向ける。
子供みたいに瞳を輝かせて笑う、相沢君の笑顔に心臓がまた跳ね上がり、胸が高鳴る。心臓を鷲掴みされたみたいに、きゅう、と締め付けられる。
こんな感覚は初めてで、でも、全然嫌じゃない。
それに、私も目を奪われるような綺麗な桜を見たのは、初めて、と思ったから、相沢君も一緒なんだ、と嬉しく思い、熱くなった頬が気付いたら緩んでいる。
二人乗りの自転車が、河原に出来た桜のトンネルをくぐり抜けると、駅まであと少し。
駅には、下りの電車が停車していた。
二人乗りの自転車を降りると、相沢君から手早く荷物を渡される。
「渡辺さん、ここから頑張って走って!」
笑顔の相沢君に、熱い掌で背中を押され、駅員さんに急かされ、なんとか電車に滑り込むと、扉が音を立てて閉まる。
電車の窓から相沢君に、間に合ったよ、と振り向く。
——また、明日
相沢君の声が聞こえたような気がした。
目を細め、爽やかな笑顔を浮かべた相沢君と目が合った瞬間、心臓が早鐘を打ち始める。
また明日と手を振る姿が遠ざかり、相沢君が見えなくなるまで見つめていた。
押された背中に相沢君の掌の感触と温度が残っている。頬は熱を持ったみたいに熱くて、桜吹雪も二人乗りも、全部が夢みたいな出来事に、思わずへたりと座席に腰を下ろした。
この心臓が落ち着かない、そわそわするのに、きゅう、と切ないような甘いような、生まれて初めての感覚の名前を、有名な名前を、私は知っている。
——多分、これは、恋
◇ ◇ ◇
翌日も、春のぽかぽかした陽射しが、部屋の窓から差し込む穏やかな朝を迎える。
ほんの少し寝不足のまま、制服に着替え、ポニーテールを結び、黄色が鮮やかな菜の花畑を通って、駅員さんのいない最寄駅の織姫駅に向かう。
無人駅でもICカードの機器は置いてあり、入場の機器にピッとカードを当てて、ホームで電車を待つ。
駅から見えるのは、長閑な田んぼだけ。その田んぼもまだ田植え前だから耕した茶色の土が見える。
鞄から取り出した英単語帳を開いて、朝のホームルームで行われる小テストの範囲を復習して行く。初日なのに範囲が広くて、進学校だなと苦笑いが浮かぶ。
次の駅の本山駅で、ショートカットの似合う中村芽依が乗って来た。
西高に通う同中の女の子は芽依だけなので、三両編成の電車の同じ車両で待ち合わせの約束をしている。
英単語帳を閉じて、手を振ると、芽依が近付いて来た。
「芽依、おはよう」
「葵、おはよう……じゃないよ! 葵と恋バナ出来る日が来るなんて、嬉しいよ!」
「もう、芽依は大袈裟なんだよ。勘違いかもしれないし……」
昨日は、これって恋かも、と浮かれた私は、芽依のスマホに通学の時に聞いて欲しい、と送ったのだ。
「勘違いでもいいじゃん。その代表挨拶の子が気になるんでしょう?」
「うん、まあ、そうだね……」
「気になるは、好きのはじまりなんだよ! 興味がないのに、好きになる事はないもん。好きの種類がLOVEかLIKEの違いだよ。はじめの一歩を踏んだってこと! これって大きな一歩だよ」
言い切る芽依に後光が差して見える。
「芽依先生、付いていきます」
「うむうむ、苦しゅうない」
思わず先生呼びにすると、芽依が得意げに返してくれる。顔を見合わせて、くすくす笑ってしまう。
西高は、ここから二つ先の西森駅。
昨日起こった相沢君との出来事を、話し始めると、顔に熱が集まり、鼓動がおかしくなる。
いつも恋の話は、聞く専門だったから知らなかったけど、恋の話をするのってすごく恥ずかしい。
照れたり、恥ずかしがりながら話す私に、芽依が嬉々として質問を織り交ぜつつ、話していく。
話を聞き終えた芽依が、なるほどね、と大袈裟に頷いた後、びしっと三本の指を突き付ける。
「葵、それは恋に落ちる三つのingが揃ってるよ!」
「え? 何それ?」
勢いよく言われ、目をぱちぱちと瞬かせた後、初めて聞く言葉に首を傾げてしまう。
「フィーリング、タイミング、ハプニングが、恋に落ちる三つのingだよ!」
芽依先生が誇らしげに言い終わると、タイミングよく電車が西森駅に着いた。
電車を降りて、西高までの十五分間、芽依先生の恋愛講座は続いた。
『三つのing』が、恋に落ちる、両想いになるために必要な要素らしい。
芽依の話に頷きながら、昨日の出来事を照らし合わせてみる。
相沢君のさり気ない優しさや苗字あるあるに惹かれたフィーリング、二人乗りや桜の吹雪を見る事になったハプニング、そして何より、まだ私のことを知らない初日だったタイミングが一番大きいなと思う。
これが、クラスに馴染んだ頃だったらきっと信じられないと思う。
高校初日の私を知らない人だと思うから、安心して行為を好意だと受け入れる事が出来たのだと思う。
相沢君のことを思い出すと、胸の奥がきゅう、と苦しいのに、じわりと甘く温かくなるような、足元がふわふわするような感覚になる。
はあ、と大きく息を吐いて、芽依の腕を掴む。
「ねえ、芽依——どうしたら、いいのかな?」
「このままでいいんじゃないかな? 焦るような事じゃないでしょう?」
芽依が、私を優しい目で見つめると、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。
西高に到着したので、芽依と分かれ、自分の教室へ向かった。
逆方向の下り電車に乗ってくる生徒が大半なので、もしかしたら一番乗りかもな、と思っていると、後ろから、ぽんっと肩を叩かれた。
「渡辺さん、おはよう!」
「——っ!」
振り向かなくても、誰なのか分かった。
胸がどきんと高鳴る。嬉しいけれど、心臓はどくどくと音を立てる。
はやる気持ちのまま振り向くと、朝の爽やかさに負けない、笑顔の眩しい相沢君が立っていた。
「お、おはよう——あ、あの、昨日は、ありがとう」
朝一番から噛んでしまい、恥ずかしくて頬が熱い。
相沢君は、噛んだことを気にする様子も無く、会話を進めてくれる。こういうところが、優しいな、と思う。
「どういたしまして。渡辺さん、朝早いね」
「上り電車はこの時間じゃないと、ギリギリになっちゃうの。相沢君こそ、自転車なのに早いね?」
「実はさ、一番乗り狙ってたんだよ」
照れたように頬を触る相沢君が、可愛らしい。
初めて見る相沢君の様子に、思わず頬が緩んでしまう。
「俺、朝の誰もいない教室って好きなんだよね」
「あっ、分かる! 私もだよ!」
「同じだ! じゃあ一緒に、一番乗りしよっか?」
「うん!」
また相沢君と、同じ、が増えた。
再び胸の奥が、きゅう、と鷲掴みにされる。
隣に並ぶ相沢君に私のうるさい心臓の音が聞こえていませんように、と願う間もなく教室に着いた。
残念なような、ほっとしたような、複雑な気持ちで教室の扉の前に立つ。
「じゃあ、いい?」
相沢君が楽しそうに扉に手を掛けて、私に合図を求める。
相沢君の綺麗な長くて細い指が目に映る。血管が少し浮き出ていて、男らしい部分を見つけてしまい、どきりと心臓が跳ねる。
返事が遅れたせいか、相沢君が私を覗きこむように顔を近づけるので、ふわっと石けんみたいな柔軟剤の匂いが鼻を掠め、私は慌てて頷いた。
相沢君が近づいて来た時は、心臓が飛び上がるくらい驚いたのに、相沢君が離れて行くと、途端に寂しく感じてしまう自分に呆れてしまう。
二人で足を踏み入れた誰もいない朝の教室は、窓から柔らかく光が差し込み、とても静かで、世界に相沢君と私しか居ないみたいな錯覚をしてしまった。
「なんかさ、俺達しか世界に居ないみたいじゃない?」
また相沢君と同じことを思っていて、息を呑んだ。
目を見開いて、相沢君を見上げると、ほんのり耳が赤くなった相沢君と目が合った。
「ごめん——俺、今、恥ずかしいこと言ったよね? ごめん、忘れて!」
片手で顔を覆う相沢君が可愛い。
動揺する相沢君が可愛くて、じっと見つめていると、「渡辺さん、こっち見ないで」と背を向けてしまう。
どんな相沢君も見たいと思ってしまう私は欲張りなんだと思う。
手を伸ばし、相沢君のブレザーの裾を、くいっと引っ張る。相沢君が眉毛を下げて、顔を私に向けてくれる。やっぱり優しいな、と思う。
「あのね、私も同じこと思ったよ」
言った途端に、恥ずかしくなって、顔に熱が集まる。
相沢君も色が落ち着きかけた耳が、もう一度赤く染まる。相沢君の視線が宙を彷徨い、私に向けられる。
「そっか、ならよかった、かな。——あのさ、折角だから、ベランダも一番乗りしない?」
「う、うん」
相沢君が赤い顔のまま提案してくれる。
出席番号順に並んだ私の席は、最初の相沢君から一番遠い、最後の席。
このまま相沢君と分かれて、斜め対角線の席に向かうのは、離れがたい気持ちがしていて、相沢君もそうだったらいいな、と思ってしまう。
二人でベランダに出ると、春の匂いがふわりと感じる。ベランダの手すりにもたれると、昨日二人乗りした桜並木が小さく見える。
相沢君が目を細め、遠くを眺める横顔をちらりと見上げる。鼻が高くて、顎のラインが綺麗だな、と見惚れてしまう。
「一番乗りをしたかったのも本当なんだけど、時刻表見たら、もしかして、早い時間の上り電車に渡辺さんが乗ってるかな、ってちょっと期待してたんだ」
相沢君が前を向いたまま、少し早口で話し終える。形の良い耳が赤く染まっている。
柔らかな春風が、熱を持った頬を撫でていく。
「明日も、俺、渡辺さんに一番乗りで会いたいかも」
相沢君に真っ直ぐ見つめられ、「私も……」と小さな声で答えた。
「また明日——約束ね?」
「——っ!」
相沢君が、私の返事に嬉しそうに目を細め、照れたように甘い笑みを溢すと、覗きこむように頭をぽんぽんと撫でられた。
ぼんっと顔から音が出たと思う。声にならない声が溢れる。身体中が心臓になったみたいに、鼓動を感じる。
「そろそろ他の人が来るから、教室に戻ろっか」
相沢君に言われ、時間を確認すると、思っていたより長い時間ベランダに居たのだと気付いた。楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまうけど、『また明日』の約束をしたから、先程みたいに離れがたい気持ちは感じない。
胸の奥が、ほわり、と温かくなった。
「葵、そろそろ電車の時間じゃない?」
「えっ、もうそんな時間? 全然気付かなかったよ、花音ありがとう。じゃあ、また明日ね」
「うん、またね」
机の上に広げていた宿題や辞書を手早く片付け、花音以外にも仲良くなったクラスの女の子達に手を振り、芽依の教室に向かった。
電車の時刻は、帰りのHRが終わると同時に急いで駅に向かえば、ギリギリ乗ることが出来るけど、芽依と話して、一本遅らせることにしていた。
進学校の宿題量が多くて、電車一本分では全然時間が足りなかった。
「ねえ芽依、もう一本電車遅らせて帰らない?」
「私も思ってた。あと三十分増えると全然違うよね」
「全部は絶対無理だけど、もうちょっとキリの良いところまで終わらせたいよね……」
二人で桜並木を通り過ぎ、明日からもう一本遅い電車に乗ることに決め終わると、駅に着いた。
「あっ、石ちゃんと藍川君」
芽依が二人組の男の子に話し掛けると、二人がこちらに振り向いた。
「芽依ちゃんもこの電車だったんだね」
「うん、そうだよ。宿題終わらないから、明日はもう一本遅くするつもりだけどね」
「そっか。——えっと……?」
芽依と会話をしていた色白で柔和な男の子と目が合った。
「あっ、この子は、一組の葵だよ! 同じ中学だったんだ」
「はじめまして、渡辺葵です」
「葵ちゃんね。僕は、石山翔太。みんな石ちゃんって呼ぶかな」
「そうなんだ、石ちゃんよろしくね」
フレンドリーな石ちゃんは感じが良くて、とても話しやすい人だな、と思った。
横にいる人が藍川君だよね、と視線を向ける。
「どうも、藍川です」
ぶっきらぼうに藍川君に挨拶される。
「あー、葵ちゃんごめんね。裕太は無愛想なんだよ、顔はみんなが羨むくらいイケメンなのに、勿体ないでしょ?」
石ちゃんが可笑しそうに言うと、電車が到着した。
ちらりと藍川君を見ると、好みかどうかは別にして、背が高くて、ワイルドとかクールな感じの格好いい顔立ちだな、と思った。
藍川君は特に会話に加わることも無く、吊り革に捕まり窓の外を眺めている。私は、芽依と石ちゃんの三人で宿題や先生のたわいもない話をしていた。
「芽依ちゃんと葵ちゃんは、何駅で降りるの?」
「私は、本山駅だよ」
「じゃあ、芽依ちゃんは次の駅か。葵ちゃんは?」
「私はね、織姫駅だよ」
私が答えた途端に、藍川君が鼻で笑った。
藍川君を見上げると、口の端が少し上がっている。
「織姫駅って、たぬきしかいない駅だろ?」
背の高い藍川君が見下ろすように私に言った。
うわっ、感じ悪いな、と思っていると、芽依が宥めるように私の腕をぽんぽんと叩く。芽依は、藍川君に顔を向けた。
「藍川君、葵に言っちゃ駄目な話題だよ、それ」
芽依が「葵、ほどほどにね?」と言いながら本山駅で降りていった。
おろおろする石ちゃん、じとりと藍川君を見つめる私、にやりと笑った藍川君の三人が車内に残された。
「あの、葵ちゃん、裕太がごめんね」
「石ちゃんは悪くないよ」
「そうそう、たぬきの駅長がいるんだろ?」
私は、はあ、と大袈裟にため息を吐いた。
中学生の時も両隣の駅が最寄駅の男子達から何回も言われた台詞に飽き飽きする。
このローカル線の無人駅は悲しいかな、織姫駅だけなのだ。たぬきをよく見かけることもあって、織姫駅は、たぬきが人間を化かすために出来た駅で、たぬき駅長が木の葉を切符に化かして、売っていると言われている。
「たぬきはいるけど、たぬきの駅長はいません。ただ、無人駅なだけだよ」
「何もないのは、一緒じゃん」
「違うよ? 織姫駅は、全国のかわいい駅の名前ランキング三位に入ってるんだよ。このローカル線の駅数は全部で十二駅だけど、織姫駅以外はかすりもしてないもん。すごいでしょ?」
「それ、凄いのか……?」
「じゃあ藍川君に問題です。全国の駅の数は、いくつあるでしょうか?」
「はっ?」
「正解は、全国にある駅の数は、約九千五百駅あります。織姫駅はその三位だよ。藍川君の最寄駅に、全国に三位になるものある?」
真っ直ぐに藍川君を見つめて話した。
こういうタイプは、怯むとつけ込むので、ハッタリでも何でも言い切った者が勝つのだ。
勝てなくても、逃げる隙を生み出すのに、役に立つ。
「恵比川駅には、そういうのは無いな。だけど、コンビニあるし、普通に便利だな。あー、あと、このローカル線の始発と終点駅以外で、自動券売機が設置されてる駅は恵比川駅だけだな」
——自動券売機!
これは盲点だった。
両隣の駅には自動券売機はなかったから、思わず成る程な、と納得した顔をしてしまった。
藍川君がにやりと唇の片端を上げたのが見える。
「全国有数の可愛い駅名で、たぬき駅長が木の葉切符を売っている駅ってことだな」
にやにや見下ろす藍川君を、じとっと睨み返す。
「自動券売機はないけど、織姫駅はね、七夕の日だけ、木の葉が星の切符になるんだよ。あっ、いや、たぬき駅長はいないよ……でも、星の切符になるんだよ! あと織姫駅の回りの一番良いところは、コンビニはないけど、歩いて五分の所に、すっごく美味しい精肉店があるの! 一個五十円のコロッケが絶品で、注文すると一個から揚げてくれるよ。ささみカツも絶品だし、他の揚げ物も美味しいからコンビニはないけど、買い食いはちゃんと出来るんだよ!」
前半は間違えたけど、言いたかった後半部分を早口で言い切ると、藍川君と石ちゃんがぽかんとした顔をしていた。
織姫駅に到着したので、ここは何か言い返される前に、言い逃げドロンするに限る。
やっぱり、逃げために役に立った。
「——二人共、じゃあね」
電車の扉が閉まるのを確認して、ほっと長い息を吐いた。久しぶりにコロッケを買おうかな、と思いながら織姫駅を後にした。
「あーあ、葵の織姫駅語り、久しぶりに見たかったな」
「見世物じゃないんだけど……」
電車に揺られながら、じとりと芽依を見る。中学生の頃、新学期や席替えがある度に、隣の席や近くの男子に織姫駅をバカにされることが多くて、毎回織姫駅について話している内に、仲のいい女の子に「また葵の駅語りが始まった」と揶揄われるのだ。
くすくす笑う芽依が面白そうに、でもね、と言葉続ける。
「藍川君が自分から女の子に話し掛けるの、初めて見たよ。うちのクラスでクールなイケメンって言われてるんだよ」
「いやいや、あれを話し掛けて来たって言わないでしょう? 全力で織姫駅をバカにしてたもん。クールと言うより、無愛想だったし! 何で男子ってああいうこと言うのかな」
はあ、と大きなため息を吐くと、芽依に肩を慰められるように叩かれる。
「昨日は聞けなかったけど、挨拶君とはどうなったの?」
「もうっ、挨拶君じゃなくて、相沢君だよ」
相沢君の名前を口にした途端に、顔に熱が集まる。
思い出すだけで、恥ずかしくなって俯きがちになってしまう私の反応が楽しいのか、芽依は瞳を輝かせて話を促す。
「相沢君とね、朝の教室で待ち合わせしてるんだ……」
最後は恥ずかしくて小さな声になってしまう。
頬の熱を冷ますように、手のひらを当てながら話し終える。
「──それ、デートじゃん!」
私の話を聞き終えた芽依が、目を見開き、頬を上気させて大きな声で言った。電車の中で向けられた数人の目が気になって、慌てて芽依の肩を掴む。
「ちょっと、芽依! 声が大きいよ……」
「あ、ごめんごめん。でも、そんな事になっているなんて思わなかったんだもん。待ち合わせの約束は、どっちからなの?」
芽依が、先程より瞳をキラキラ輝かせている。
今度は頬が自然と緩むのを押さえるために、手のひらを当てる。浮かれている自分が恥ずかしいのだけど、自分でもどうしようもなく頬が緩むのが分かってしまう。
そんな私を見た芽依が「やるな、挨拶君」とにやにやしていた。
◇ ◇ ◇
下駄箱で相沢君だけの靴を見つけて、嬉しくなる。デート楽しんでね、と言ってくれた芽依と分かれると、教室に向かう足取りが自然と軽くなる。それが何より私の気持ちを表していた。
「渡辺さん、おはよう!」
「相沢君、おはよう」
教室に入ると、ふわりと甘く笑う相沢君に挨拶をされる。
相沢君の回りがキラキラと星が瞬くみたいに煌いて見える。朝一番に会えた嬉しさで、ときめきが募る。
二人で朝のベランダに出ると、春らしい霞みがかった空に、あわあわとした綿あめみたいな雲が浮かんでいる。
相沢君がベランダの手すりに持たれかかり、顔をこちらに向ける。目線が同じ高さになり、真っ直ぐに見つめられると、心臓が踊り出したみたいに、どきどき煩くなっていく。
「そういえば、渡辺さんって何駅なの?」
「えっと、織姫駅だよ……」
相沢君の反応が気になるのに、その言葉がどんなものか分からない怖さに、ほんの少し俯き、無意識にブレザーの裾をくしゃりと握りしめてしまう。
「織姫駅なんだ。可愛い名前だよね? 渡辺さんみたい」
「ふえ?」
意外な言葉に、思わず間抜けな声が出てしまった。
相沢君は気にする様子もなく、腕をこちらに伸ばすと、頭をぽんぽんと撫でる。
「可愛いって言われない?」
相沢君の大きな手が、ぽすっとそのまま頭に置かれている。相沢君の手は、前髪に向かって撫でたり、優しく撫で続けたまま、目を細めて見つめられる。
「い、言われ、ないよ……」
相沢君に見つめられると、頬が熱くなる。赤くなった顔を見られたくなくて、俯いて首を横に振る。緊張したせいか、声が震えてしまい、ますます恥ずかしくなってしまう。
可愛いなんて男の子から言われた事なんてない。
特定の人からは、可愛いものが似合わないと言われるし、それ以外でも、いつも駅語りで反論しているから、可愛くないと思われていると思う。
「そうなの? 葵って名前、可愛いのにな」
「へっ?」
「渡辺さんの名前可愛いよね」
今度は違う恥ずかしさで顔が痛いくらいに熱くなる。可愛いは、名前の話だったのに、私が可愛いという意味かと思っていたなんて、恥ずかしくて穴があったら入りたい、いや、埋めて土をかけてもらいたい。
一人で赤くなって、あわあわしていたら、相沢君がぽんぽんと頭を撫でる感触と、ねえ、と呼び掛けられて、顔を上げた。
「俺も葵ちゃんって名前で呼んでいい?」
甘く笑う相沢君が眩しくて、こくんと頷いた。
「じゃあ、俺のことも名前で呼んで」
相沢君の目が、次の言葉を期待するようにこちらに向けられていた。
「け……圭、君?」
心臓が飛び出すかと思うくらい、どきどきした掠れた声で遠慮がちに言うと、圭君が嬉しそうに何度か頷く。
目を甘く細める圭君と見つめ合う。顔が熱くて、耳が痛いくらい心臓がどきどきしている。でも、目は惹き寄せられたみたいに離せない。
圭君が、ふっと笑う。
「もうすぐみんな来るから教室戻ろっか——葵ちゃん」
「う、うん……」
ぽんぽんと頭を撫でていた手が離れていく。
圭君に覗き込むように視線を合わせる。ふわりと柔軟剤の石けんの香りが鼻を掠める。
「名前だけじゃなくて、俺は、葵ちゃんが可愛いと思うよ」
顔からぼんっと音がしたと思う。
圭君が爽やかに笑うと、先に教室に戻って行く。不意打ちなんて反則だよ、と心臓が飛び跳ねて止まらない胸を押さえて思った。
「よお」
「葵ちゃん、勉強お疲れさま」
ここに居る筈のない人物が二人、織姫駅のベンチに座っていた。
「な、なんで、石ちゃんと藍川君がいるの……?」
不思議に思い、首を傾げて尋ねれば、藍川君が口の端を上げた。
「誰かさんが旨いコロッケ屋があるって叫んだから、食べに来たんだよ。ほら、渡辺さんも食べる?」
白い薄紙に挟んだコロッケを差し出され、反射的に受け取ってしまう。まだほんのりと温かいコロッケと藍川君の間を視線が彷徨うと、ぽんっと藍川君がベンチの横に手を置いた。
「とりあえず座れば?」
「えっ、あ、うん、そうだね……ありがとう」
藍川君の横にコロッケを持ったまま座る。昨日は結局食べずに帰ったコロッケが目の前にあり、揚げ物の香ばしい匂いが食欲を刺激する。
「早く食べないと冷めるよ」
「えっ? えっと、じゃあ、……いただきます」
藍川君に促され、ほんのり温かなコロッケを、さくりと齧る。揚げ衣のさくさくした歯触りのあとに、ほくほくのじゃがいもとほんのり甘い玉ねぎ、少し多めのひき肉の味がいつも通り絶妙だ。勉強で疲れた体に染み込む幸せを噛みしめる。
「——美味しいね?」
美味しいものは、人を幸せにするなと思い、藍川君と石ちゃんに笑顔を向ける。
藍川君が視線を逸らし、まあな、と頷くと、ささみカツに手を伸ばし、美味しそうに食べる様子を眺める。
二人がわざわざ途中下車をしてくれたのが嬉しくて、昨日の藍川君は嫌味な人だと思ったけど、案外良い人なのかもな、と頬を緩ませながらコロッケをもうひと口食べる。
コロッケを食べ終わると藍川君に、ほら、とささみカツも渡される。受け取るのを躊躇うと、石ちゃんがくつくつと笑い出す。
「葵ちゃん、それ、裕太なりのお詫びだから貰ってあげて」
「えっ、そうなの?」
藍川君に視線を向けると、さっと視線を逸らされる。逸らした顔の代わりに、無防備に晒された耳がほんのり赤いような気がして、クールと言われる藍川君がどんな表情をしているのだろう、と好奇心のまま藍川君の顔を覗き込もうと近づいた。
——ぺちっ
「痛っ……!」
おでこに鈍い痛みを感じる。
目の前の藍川君が口角を上げ、ささみカツを持たない手でデコピンの動きを繰り返しているのが、目に入った。藍川君にデコピンをされた痛みだと分かったが、おでこが地味に痛くて、目尻が潤む。じとりと見上げれば、ささみカツを、ぐいっと突き出される。
「それで、要るの要らないの、どっち?」
「要る……っ!」
慌ててささみカツを受け取ると、くくっと喉の奥で笑われた。
藍川君の優しさが分かりにくくて、私も何だか可笑しくなって笑ってしまう。
「藍川君、……ありがとう。石ちゃんも二人で織姫駅に途中下車してくれて嬉しかった」
さくさくの衣と柔らかい鶏肉のささみカツは、いくらでも食べられる美味しさで、幸せな味にあっという間に食べ終わる。
先に食べ終えていた藍川君が口を開いた。
「なあ、ここのメンチカツも旨いの? 今日は誰かさんのお勧めのコロッケとささみカツだけ買ったんだけど、俺、メンチカツ好きなんだよね」
「僕もメンチカツ気になってた! 精肉店のメンチカツ美味しそうだよね?」
「えっと、……メンチカツも美味しいって聞くよ?」
二人の質問に、分かりやすく視線が宙に泳ぐ。
「えっ、食べたことないの?」
「私、メンチカツが苦手なんだよね……」
石ちゃんが、そうなんだ、と頷いている。
藍川君が、急に真面目な顔になると、射るような視線を向けられる。
「——メンチカツが苦手なんて、人生損してるね」
藍川君は言いたい事を言って、すっきりした様子で涼しい顔をしている。
私は、メンチカツが苦手なだけで、私の人生を否定しなくてもいいのに、と口を尖らせてしまう。
「まあまあ、裕太もそこまで言わなくても良いじゃん」
「いや、メンチカツはおかず界の正義だろ?」
誰かな、この人の事をクールなイケメンって言った人……すっごくいい笑顔でメンチカツを語っているよ。生温かい目で藍川君を見ていると、目が合った。
「メンチカツの何が苦手なの?」
「えっと、メンチカツの食べた時に驚く感じ……かな?」
「ごめん、言ってる意味が分からないんだけど?」
藍川君は眉を寄せ、石ちゃんも困ったように眉を下げている。
「コロッケだと思って食べた途端に、肉汁が溢れるのに毎回驚くから……何かそれが苦手なの」
藍川君が眉を更に寄せ、目を瞑り、考える仕草を見せる。ぱっと目が開き、ああ、と納得した顔を見せたので、分かって貰えたみたいだと思って安心した途端に、爆弾発言を落とす。
「コロッケだと思って食べた途端に、かぼちゃコロッケだった時の絶望と同じか——それなら、何か分かるわ」
「いやいや、かぼちゃコロッケは嬉しいから絶望なんてしないよ!」
「はあ? メンチカツは肉だぞ、メンチカツの方が嬉しいだろ、普通! 大体、コロッケとメンチカツは、大きさや見た目が違うから食べる前に気付くだろ」
石ちゃんが肩を震わせ笑い始めた。
「「どっち派なの?」」
悔しいが藍川君とハモッてしまった。石ちゃんが声を上げて、げらげら笑っている。お腹を抱えてひとしきり笑い終えた後、真面目な顔になった。
「僕は、——カニクリームコロッケ派だよ」
石ちゃんの発言に、三人で思わず吹き出して笑ってしまった。
まもなく大型連休がやって来る。
風のない穏やかな陽気の中、織姫駅までの道のり、水張りを終えた田んぼを眺める。田植え前の田んぼには、空模様や若草色の風景が鏡みたいに映し出されている。
織姫駅に到着したら、英単語帳を開くのが日課になっている。少しずつだけど、進学校の授業の速さや宿題の量にも慣れて来たと思う。
まだ慣れないのは、圭君に会う朝の教室。
今日も今日とて、同じ電車の同じ車両で待ち合わせた芽依と挨拶を交わす。
「葵は、今日もデートなんだ?」
「もうっ、デートじゃないよ……っ」
「好意を寄せ合う男女が待ち合わせして、会うことがデートだよ! それに、その頑張った編み込みはなにかな?」
芽依が編み込みをした前髪が崩れないように、そっとヘアピンに触れる。
夜空の中に、煌めく星を閉じ込めたみたいで、私は気に入っていたけど、誰かに星屑みたいと冷たく言われ、仕舞っていた。
今日、編み込みを留めるヘアピンに、これを手に取った事に一番驚いたのは私自身だった。
「——変じゃないかな……?」
「すっごく可愛い! って言うか、葵はいつも可愛いよ!」
鼻息荒く褒めてくれる芽依に、苦笑いを浮かべる。優しい友達はいつも優しい言葉をくれる。
「ねえ葵、まだ……あの事、引きずってる?」
芽依に言われた、あの事は、私の黒歴史だ。
中学生の時に、初めてで唯一、告白された告白が『罰ゲーム』だったことだ。
隣の席の男の子は、まだ恋になる前の恋だった事と
、偶然だけど罰ゲームの告白であると、告白前に知ったことが、せめてもの救いだ。
芽依は、この事を知っているから、圭君が気になる、恋かも、と言った私を、自分の事みたいに喜んでくれている。
だけど、まだ圭君への恋心を素直に認めるのが怖い。まだ少し、このふわふわ浮いたみたいな、甘い甘い綿あめみたいな感覚に包まれていたいと思ってしまう。
「今は、このままでいたい、かな」
私が曖昧に微笑むと、芽依は何か言いたそうな顔をしたけど、芽依は視線を一度下に向けた後、そうだね、と頷いた。
◇ ◇ ◇
今日も朝の教室で圭君と一番に会う『また明日』の約束をしている。
圭君と会うのは、今も慣れなくて、心臓が飛び上がるほど嬉しい。下駄箱で、圭君の靴を見つけると、顔が緩むくらい嬉しくなってしまう。
今日みたいに圭君の靴がない日は、教室の扉を開ける音がするのを今か今かと待っている。こんな自分に一番自分が驚いている。
どうしようもなく惹かれる心に気付かない振りをする。
「葵ちゃん、おはよう」
扉が、ガラッと音を立てると、爽やかな甘い笑顔の圭君が顔を覗かせる。
圭君と目が合うだけで、心臓がどきりと大きく跳ねる。
「け、圭君、おはよう」
爽やかな笑顔に見惚れていたら、朝一番に噛んでしまった。恥ずかしくて、俯いた顔に熱が集まる。
くすりと笑う声が頭の上でしたと思ったら、優しい手で頭をぽんぽんと撫でられる。
「葵ちゃん、ベランダ行こっか?」
「うん……っ!」
毎朝、同じ会話を繰り返す。
朝の教室の澄んだ空気も、ベランダから見えるこの時期だけの若草色に染まる木々を二人で並んで眺める、二人だけのこの時間が愛おしい。
この時間をこのまま切り取って宝箱に仕舞うことが出来たらいいのにな。優しくて甘やかな時間。
爽やかな風が頬を撫でて行き、視線を感じて、顔を向けると、圭君と視線が絡む。圭君が、ふっと柔らかな笑みを浮かべる。
「葵ちゃん、可愛い」
「ふえっ?」
圭君の言葉はどきりとして、変な声が出てしまう。顔に熱が集まり、あわあわしてしまう。
伸びて来た優しい手が、前髪を留めているヘアピンに触れた。
「このヘアピンも髪の毛も可愛いね」
「へ、ヘアピン! う、うん! ありがとう……っ」
勘違いしたことに頬が熱くて、手のひらを当てて熱を逃がす。
圭君がヘアピンにそっと触れたまま、覗き込むように見つめている。
耳の横に留めたヘアピンを、じっと見つめる圭君の視線に焼かれるみたいに、じりじりと焦げたみたいに耳が痛い。数秒なのに永遠みたいに感じた後、
「天の河を掬ったみたいで、綺麗だね。可愛くて、葵ちゃんに似合ってる」
編み込みが崩れないように、優しく頭をぽんぽんと撫でられる。
圭君の言葉に、胸の奥にあった小さな棘が取れたみたいな感覚になる。
「圭君——ありがとう」
優しく朗らかに笑う圭君への恋心が溢れそうになってしまう。慌てて、ブレザーの裾をくしゃりと握り、圭君の瞳をじっと見つめて、感謝の言葉を紡いだ。
「ええーっ! 葵、誰とも付き合ったことないの?」
花音の声が教室に響き渡る。
「ちょ、ちょっと、花音……! 声が大きいよっ!」
慌てて花音に落ち着くように言う自分の声も大きくなってしまい、周りでお昼ご飯を食べるクラスメイトの視線が飛んで来る。
まだ親しくないクラスメイトにまで、私の恋愛事情を知られてしまい、恥ずかしくて泣きたくなる。
「ごめんごめん! 塾でも葵は、すっごく可愛いって同中の男子に人気あったから驚いちゃって。あっ、そっか、理想が高くて、告白されても断ってたとか?」
うんうん、と首を上下に動かし、明後日の方向へ納得する花音に、何て言うべきか頭を抱えそうになった。
「じゃあさ、何人に告白されたことあるの?」
瞳をキラキラさせて花音に期待されたように、見つめられる。
ため息を零しそうになるのを必死に呑み込む。
花音の私の評価が高くて嬉しいような、現実の自分とあまりに掛け離れていて、情けなくなるような気持ちになる。
ゆっくりと首を横に振る。
花音が意味が分からないみたいで、小首を傾げる。美人な花音のさらさらな黒髪が肩に流れ、思わず見惚れてしまう。
年上の彼氏のいる花音は、同じ年というより、綺麗なお姉さんみたい。
「告白されたこと、ないよ。一回だけあったけど、罰ゲームでされた告白だったから……ないかな」
本当に小さな声で、向かいに座る花音にだけ聞こえるように話す。
目の前の花音が、綺麗な二重の瞳をこれ以上ないくらいに見開いて、目をぱちぱちと瞬かせる。
そっと天の河のヘアピンに触れた。
つるりとした感触なのに、指先からふわりと温かいものがゆっくりと身体を巡る。
普段なら絶対話さない話だけど、今日は、花音には話しても大丈夫だと思った。
「私の黒歴史なんだ。——内緒ね?」
唇に人差し指を当てて、わざと悪戯っ子みたいに振る舞った。
ほんの少し、胸の奥がちりちりと焦げるような感覚があったけど、もう一度、天の河のヘアピンに触れると、驚くほど大丈夫だと思えた。
花音が真面目な顔でゆっくり頷くと、八の字に眉を下げる。
「もしかして、それって中三の夏?」
「えっ、何でそう思うの?」
やっぱり、と一人で納得する花音に、今度は私が首を傾げる。
「夏期講習の時に、葵がばっさり髪を切ってたから、何かあったのかなって思ってたんだよね」
当時、花音とは学校も違っていたし、髪型の変化だけでそんな事を思っていたことに驚いてしまう。
「罰ゲームで告白するって立ち聞きしちゃったのが、その頃だよ。一緒に北高を受験する予定だったけど、一緒にいるのが辛くて、西高を単願受験して、……逃げちゃったんだ」
「そうだったんだね……。その時に、葵のこと何か言っていたの?」
「——見た目が、可愛くないみたいな事、かな……」
あの時の、立ち聞きした日の事を思い出したら、花音と二人で話しているのに、背筋に寒気がした。
勢い良く首を振って、その人のことを頭から追い出そうとして、眉間に皺が寄るのが分かった。
「葵、それ——呪い掛けられてるよ……っ!」
花音が当然のように言って来たけど、私は首を傾げる。
「え……っと、花音、ちょっと意味が分からないんだけど……?」
「葵、……安心して! 恋の呪いは、王子様が解くって決まってるけど、王子様に出会う前に、魔法使いがお姫様に変身させるって言うのも決まってるじゃん!」
両手を花音にぎゅっと握られる。
花音は瞳をキラキラ輝かせ、私の両手を握ったまま宙を見ている。
「私が、魔法使いになって、葵を変身させる! 任せて……っ!」
「えっ? 花音、本気なの?」
「もちろん!」
花音の勢いに押されて、苦笑するしかない。
驚いている私は、花音に促されるまま、急いでお弁当を食べることになった。
花音は、お昼休みの残り時間を使って、私に魔法をかけた。
「──……っ」
思わず手に持つ鏡を、落としそうになった。
「どう? すっごく可愛いでしょう?」
満足そうに頷く花音の横で、手鏡に映る私は、自分じゃないみたいに可愛らしくなっていて、頷くよりも首を傾げてしまう。
「花音、これ……どんな特殊メイクなの……?」
驚き過ぎて、上手く言葉が出てこない。
「別に特別なことはしてないよ。ちょっと、眉毛を整えて、色つきリップ塗っただけだよ。元々、葵が可愛いんだよ」
「いやいや、そんなわけないよ……っ」
鏡の中に映っているのは、ちゃんと可愛い女の子なのだ。
「ねえ、葵の呪いはさ、心を支配されたことだよ」
急に真面目な声色になった花音に、振り向くと、真っ直ぐに見つめられる。
「可愛くないって言われて、葵自身が自分は可愛くないって思い込んで行動しちゃうのが、葵に掛けられた呪いだよ……っ!」
花音が、私のことを私以上に考えてくれている優しい友達の言葉に、胸が温かくなった。
花音の綺麗な口元が弧を描き、ぴしっと指を突き立てる。
「魔法使い花音は、責任を持って、葵が可愛くて、可愛いものがすっごく似合うことを、葵自身に知ってもらいます……っ!」
鼻息荒く言う花音と見合うと、お互い吹き出して笑い合った。
「魔法使いの花音さん、よろしくお願いします」
くすくす笑いが止まらないまま、花音にお願いしていた。
「呪いか……」
芽依と本山駅で別れると、深いため息と共に、声にならない言葉を一緒に零した。
織姫駅に向かう車窓から、気持ちよく泳いでいる鯉のぼりを眺める。
田舎の鯉のぼりは、とても雄大で、並んで風に泳ぐ鯉のぼりを見ていると、呪いも何とかなるから大丈夫だな、と思える。
織姫駅に到着すると、藍川君と石ちゃんの二人組に声を掛けられる。
「葵ちゃん、お帰り」
「——よお」
二人の手の中に、齧りかけのメンチカツを見つける。
メンチカツが気になると言っていた藍川君と石ちゃんは、また織姫駅の精肉店に行ったらしい。
たぬき駅長の織姫駅と言っていた藍川君が、自分から織姫駅に降りてくれるのが、何だか嬉しくて、自然と笑顔が溢れる。
「メンチカツ、美味しい?」
「「旨い……っ」」
二人が息ぴったりで、笑顔で頷く。
石ちゃんが「やっぱり精肉店のメンチカツはひと味違うね!」と大きく上下に首を動かす。
藍川君が、ぽんっとベンチの隣を叩く。
「立ってないで、渡辺さんも座れば?」
「うん、ありがとう」
藍川君と並んで座ると、藍川君が首をひねりながら、じっと顔を見て来る。
控えめじゃなくて、すごく堂々と正面から見つめられるので、心臓がどきりと跳ね上がる。
恥ずかしさが込み上げて来て、頬が燃えるみたいに熱くて、痛い。
正面から改めて見る藍川君の顔は、目元が涼やかに整い、鼻筋も高い。眉間に僅かにしわを寄せ、心配そうにする仕草も色気を感じさせるというか、とにかく私の心臓に負担がかかる。
「なあ、顔赤くないか? もしかして、熱か?」
藍川君の整髪料のミントみたいな匂いが鼻を掠める。
ゆっくりと腕を伸ばして、額に触れようとする手に気づいて、はっとする。
ぐいっと藍川君の肩を押し返す。
「ちょ、ちょっと、藍川君、近いよ……っ」
「ああ、悪い。何かいつもと違う感じがしたから、何が違うのか、気になった」
「あ、えっと、魔法使いに魔法をかけてもらいました」
「はっ?」
ようやく藍川君の顔が離れて行ったけど、まだ心臓の鼓動が落ち着かなくて、敬語になってしまった。
藍川君は涼しい顔のまま、ちょっと呆れたような表情を浮かべているけど、私は恥ずかしさで居た堪れない。
「わ、わたし、飲み物買って来る……っ」
恥ずかしくて居ても立っても居られず、座ったばかりのベンチから飛び跳ねるように、立ち上がり自動販売機の前立つと、深く息を吐いた。
「はあ、びっくりした……」
藍川君の距離感がおかしいと文句を言いたくなる。
あの状況で顔が赤くならない人はいないと思う。顔がイケメンの人は、自分の破壊力を考えて頂かないと、心臓が跳ね上がって困る。
頭の中で藍川君に文句をひと通り言い終えると、気分転換に大好きなサイダーを買い、ぴたりと頬に当てる。目を閉じて、熱い頬の熱が冷えて行くのを感じた。
気持ちを立て直し、頬の熱も引いたので、二人のいるベンチに戻る。
藍川君が、今度は適切な距離感で私を見る。
「なあ、さっきの魔法使いって何なの?」
「あー、うん、ちょっと、呪いを解いて貰っていて……」
「はあ? 渡辺さん、ちょっと最初から話してみようか……」
呆れた顔の藍川君に、質問をいくつか繰り返し、気付けば敏腕刑事並みに色々聞き出され、結局、罰ゲームの告白のことを立ち聞きした事や、呪いや魔法使いについても、今までで一番詳しく洗いざらい話し終える。
取り調べをされた人って、きっとこんな風にぐったりしているのだろうな、と遠い目をしてしまう。
「なるほどね。つまり、罰ゲームの告白がトラウマで、気になる人が出来ても先に進めないってことか」
藍川君が腕を組んで、首を上下にゆっくり動かした後、口角をにやりと上げた。
「渡辺さん、——俺が協力してあげるよ」
藍川君の言葉に、驚いて目をぱちぱちと瞬かせる。
「えっ? なんで……っ?」
思いっきり首を傾げてしまう。
——ぺちっ
「痛っ……!」
藍川君が私のおでこにデコピンをしたらしい。
相変わらず、地味に痛くて、目が潤む。
潤んだ瞳でじとりと恨めしげに見上げると、藍川君の涼やかな瞳と見合う。
「そのデコピンがしやすい渡辺さんの髪型が気に入ったから」
喉の奥でくつくつ笑いながら藍川君が言った。
藍川君に揶揄われている。それは分かっているのに、明日から同じ帰りの電車に乗る約束をしていた。
今日も朝の教室で圭君と会う約束をしている。
「おはよう、葵ちゃん」
「圭君、おはよう……っ!」
朝の爽やかさに負けない爽やかな笑顔の圭君に、自然と笑顔が溢れる。
圭君は初夏の日差しみたいに、キラキラ輝いて見える。
「ベランダ行こっか?」
二人でベランダに出ると、初夏を感じる澄み渡る青空が目に鮮やかに映る。
圭君と一緒に居ると、目に映る景色が煌めいたみたいに見えて、今の全てを切り取って宝箱に大切に入れて、ひとつ残らず宝物にしたいと思ってしまう。
朝の空気が気持ちが良くて、大きく息を吸い込むと、圭君がくすりと笑うのが目に入る。
途端に、恥ずかしくなり顔に熱が集まり始める。
「葵ちゃん、今日の空気は美味しいの?」
「お、美味しい、……よ」
圭君が目を細めて、柔らかな笑みを浮かべるので、心臓が跳ね上がってしまう。
「そっか。俺も試してみようかな」
圭君が優しく笑うと、手すりにつかまって、深呼吸を何度か繰り返す。
こういうところが、優しいなと思い、頬が緩む。
圭君の横顔に向けていた視線を、初夏の青空に移すと、風に乗ってゆっくりと鳥が飛んでいくところだった。
「空を泳いだら、気持ち良さそうだな」
青空と白い鳥の光景が、今朝の車窓から見た鯉のぼりと重なり、思わず呟いた。
「ん? 葵ちゃん、飛ぶじゃなくて、泳ぐなの?」
「あ、えっとね、さっき電車の窓から鯉のぼりが泳いでいるのを見てたからだよ」
深呼吸を終えた圭君の腕が伸びて来て、優しい手がポニーテールの頭をぽんぽんと撫でる。
「葵ちゃんは、鯉のぼりが好きなの?」
「うん! 家には無いし、大きな鯉のぼりが泳ぐのって見てて気持ちいいから、泳いでいる鯉のぼりを見つけたら嬉しくて、見ちゃうかな」
今朝の鯉のぼりを思い出しながら答えると、圭君が、そうなんだ、柔らかく朗らかに笑った。
「可愛いね、葵ちゃん」
「ふえっ?」
頭の上に置かれたままの圭君の手が、温かい体温をゆっくり移動させるみたいに優しく髪を撫でている。
「子供みたいで可愛いね」
揶揄っている。圭君は優しいのに、ちょっと意地悪なことも言う。
「——圭君の意地悪……」
頬を膨らませて言えば、圭君が顔を近付けて覗き込み、両頬を大きな手で軽く押される。
「葵ちゃん蛸が出来た」
揶揄うように言われた途端に、石けんの香りが鼻を掠め、思わず圭君から目を逸らした。まだふわりと柔軟剤のような柔らかい石けんの香りが漂っていて、圭君との近すぎる距離感を意識せずには居られない。
血が全身に駆け巡り、顔も身体も赤く染まるのが分かり、恥ずかしくて視線が彷徨う。
「俺も好き」
「ふえっ?」
圭君の言葉に驚き過ぎて、彷徨っていた視線が圭君に向かう。
心臓が早鐘のように打ち続けている私の真っ赤な顔を、圭君が真っ直ぐに見つめる。
ほんの少し出来た空白の数秒に、鼓動を高鳴らせる。圭君の顔が、子供みたいな悪戯っ子の顔付きに一瞬で変化する。
「俺も好きなんだよね——鯉のぼり」
圭君は悪戯に成功したみたいに笑い、私は、かあっと顔に痛いくらい熱が集まった真っ赤な顔を隠そうと両手で覆う。
勘違いを重ねた恥ずかしさで、居た堪れなくて、視界がぼやける。
いつの間にか頭の上に置かれた手が、頭をあやすようにぽんぽんと叩いていく。
「ねえ、葵ちゃん」
優しく名前を呼ばれるけど、こんな顔を見せたくなくて、首を左右に振った。
「うん、ちょっと意地悪だったね。ごめんね」
ちらりと圭君を見ると、圭君が申し訳なさそうに眉を下げている。
私が勝手に勘違いをしたのに、圭君を困らせてしまっていると気付き、慌てて首を左右に動かす。
「あの、……私こそ、ごめんね」
「俺、葵ちゃんが素直過ぎて、心配になるよ」
圭君が苦笑して、私を見つめるけど、理由が分からず、首を傾げる。
気付けばまた圭君の手が私の髪を優しく撫でている。
「俺の鯉のぼりも大きくてさ、吹き流しに笹竜胆の家紋も入ってて、子供心に格好いいなと思ってたよ」
「そうなんだ!」
小さな頃の圭君が鯉のぼりを眺めている様子は可愛かっただろうなと思い、自然に頬が緩むように笑ってしまう。
そして、笹竜胆の家紋がどんな模様なのか調べようとひっそり決める。
見上げた圭君も私に釣られて爽やかに笑っていて、胸がほわんと温かくなった。
「ふふ、そろそろ教室戻ろうか」
「うん!」
教室に戻ろうと、圭君がベランダの扉に手を掛ける。
私の手とは違う、大きくて、男の人の手だなと思う。
「あ」
圭君が声を上げると、くるりと振り向いた。
言葉の続きが気になって、圭君を見つめる。
「さっき言い忘れたけど、俺、鯉のぼりより、茹で蛸の方が好きだよ」
「——っ……!」
悲鳴になりそうな声を必死に呑み込む。
心臓がばくばくと煩いくらいに音を立てて、血が全身を駆け巡る。顔どころか身体も、まるで茹で蛸のように真っ赤に染まっていくのが分かる。
私の様子を見た圭君が、目を細めて笑うと、頭を最後にぽんぽんと撫で、教室に戻って行った。