私、渡辺葵はどこにでもいる普通の高校生だと思う。
たぬきが出て来る無人駅のある田舎に住んでいることと、第一志望の公立高校を諦めたことを除けば。
◇ ◇ ◇
知りたくなかったのに、知ってしまうことがある。
教室の扉を開けようとした瞬間、同級生の男の子達の会話に自分の名前が挙がり、私は思わず手を止めた。
「健介、渡辺さんと付き合っちゃえばいいじゃん?」
「渡辺さんだって、脈あると思うぜ」
「だよなぁ。とりあえず、告白してみれば?」
とりあえず、告白——
同級生の男の子の言葉に、ずきん、と胸が苦しくなる。
「告白なんて、するわけがないだろう……」
健介君の呆れた声が聞こえて、私は扉に掛けていた手が震えたのが分かった。
居ないで欲しいなと思った、健介君もやっぱり教室にいるみたい。
「葵に告白なんて、罰ゲームでもないと出来ないよ」
「確かにな、渡辺さんに告白は無理だよな」
「そうだなぁ、あの見た目だもんな。俺も勇気ないわ」
続けられた会話の内容に、私は、さあっと血の気が引くのを感じた。
「俺と葵は、志望校が一緒だから何かあったら困るじゃん」
健介君の苦々しい声が聞こえ、これ以上聞くのは良くないと頭の中で警告が鳴るが、足が張り付いたみたいに動けない。
「健介は公立が県トップの北高で、滑り止めの私立が東高だよな。あれ、渡辺さんって滑り止めは西高受ける予定じゃなかった?」
「今、東高に変えるように勧めてる。葵が西高の制服着るのは、やばいだろう……」
「渡辺さんが県一番の可愛い西高の制服は、やばいな」
「やばいどころじゃないだろ、まともに見れないレベルだわ」
頭から水を浴びせられたみたいに、寒気が止まらなかった。指先は氷みたいに冷たく震え、扉に掛けていた手を音が鳴らないように離した。
「そう言うこと。俺が葵に告白するなら罰ゲーム以外は、無理ってことだよ」
笑いながら健介君が言うと、みんなも笑った。
健介君は、隣の席に座る男の子。
サッカー部でいつも頑張っていて、明るくて、みんなに人気があり、人見知りな私にも笑顔で毎日話し掛けてくれる優しい人。
授業中に真剣に聞く横顔や、目が合うとニカっと笑う大きな口も、短髪も日焼けした体も、素敵だなと思っていた。
恋がはじまるみたいに、胸の奥がそわそわしていた。
私の見た目は、運動が苦手なこともあって健康的な肌色からかけ離れた白色。色素が薄いのか、真っ黒というよりこげ茶色の髪と瞳。母親に、生まれた時に宇宙人を生んだのかと思ったわ、と揶揄われる大きな目だ。
異性から褒められた事もないけれど、ごく普通だと自分では思っていた。
だから健介君達が私のことを、そんな風に可愛くないと思っていたなんて、知らなかった。
健介君と同級生が笑い終わると、健介君の少し慌てた声が聞こえて来た。
「あ、やばい。そろそろ葵が戻って来る時間じゃん。聞かれたらマズイから、この話は止めようぜ」
胸の奥が刺されたみたいに苦しくて、息の仕方がよく分からなくて、胸元を両手で押さえる。
目の前の景色が、じわりと歪む。
教室の中の人達には、こんな姿を見られたくなくて、音を出さないように、急いで教室を後にした。
中庭の目立たない場所に到着すると、涙が溢れるのが止まらない。
思い出したくないのに、先程の同級生の会話が耳について離れない。
止まっては溢れる涙がようやく落ち着いたのは、日が傾きかけた頃だった。
私の淡い想いは、恋にもなれないまま終わった。
私は、ずっと健介君が同じ志望校を勧めてくれるのを好意から来るものだと思っていた。
でも健介君は違っていた。
勘違いをしていたことが恥ずかしかった。
恋にもなれなかった想いだったけれど、それでも健介君には、いつでもニカっと大きな口を開けて笑っていて欲しいと思った。
泣いて泣いて、これからの事を考えて出した結論は、健介君の側から離れることだった。
最後にもう同じ気持ちで見ることが出来ない健介君のニカっとした笑顔を思い浮かべると、また目元が歪んだけど、もう泣かないと決めた。
願書を出す直前に、親や先生に北高受験を止めて、西高一本に絞ることを伝えた。
先生には驚かれたけど、親は家から近く、校則が緩めな北高より、しっかり大学受験に向けて指導してくれる西高の方が元々気に入っていたこともあり、賛成してくれた。
最後まで健介君に知られないように、西高を第二志望から第一志望に変更、受験をして、第一志望の西高にちゃんと合格をした。
青空が広がる気持ちのいい朝。
今日は西高校の入学式。
私は、伸ばしていた髪をポニーテールに結び、白いブラウスのボタンを留め、赤いリボンを結ぶ。深緑色のチェック柄のスカート、紺色ブレザーを羽織れば西高の制服の完成。
「大丈夫、変じゃないよ」
鏡に映る自分を見ながら、小さく言い聞かせる。
健介君達に言われていた通り、西高の制服の可愛さは県内で一番だと思う。
葵が西高の制服着たらやばいだろう……
健介君の言葉を思い出す。
気付けば、西高の制服のブレザーの裾をぎゅっと握っていた。
入学式から制服にシワが出来たら大変だと慌てて手を離した私は、不安そうに苦笑いを浮かべている鏡の自分と目が合った。
◇ ◇ ◇
——入学式が行われる体育館
「ねえねえ、塾で一緒だったよね?」
「うん。私も見たことあるなって思ってた!」
「良かった! ボーイッシュなイメージがあって、……こっちの方が可愛いし、似合ってる! 桜中の吉田花音だよ。花音って呼んで?」
「楓中の渡辺葵だよ。私も葵でいいよ。花音よろしくね」
美人で気さくな花音と、塾の話や西高の話をする内に、打ち解けることが出来たみたい。
クラスに楓中出身の女の子がいなかったから、話せる女の子が出来て、ほっとした。
入学式が始まり、新入生代表の子が呼ばれる。
「新入生代表、相沢圭」
「はい」
壇上に上がる男の子、相沢圭に目を奪われる。
整った甘い爽やかな顔立ちに、遠くからでも柔らかそうな髪、すらっと背が高く、声も少し低いのが心地良くて、見惚れてしまう。
「葵、口開いてるよ」
花音が横でくすくす笑っていた。
見惚れていたのを見られたのが、恥ずかしくて、慌てて口を閉じた。
「葵、同じクラスなのに大丈夫?」
「へっ? 同じクラスなの?」
「そうだよ、ほら、うちのクラスの席が空いてるじゃん」
花音が指差した先を見ると、相沢圭がこのクラスの先頭の席に座るところだった。
入学式が終わり、各クラス毎のホームルームが終わりに担任の久米先生が爆弾を落とした。
「相沢と渡辺で、春休みの課題集めて、職員室の先生の机まで持って来て。他の人は、提出が終わったら帰っていいぞ」
これ自体は、出席番号あるあるだ。
新学期になると、委員や係が決まるまで、先生に出席番号の最初と最後と言う理由だけで、高確率で指名される。
花音が小さな声で「仲良くなるチャンスかもよ?」と揶揄うように言い、またね、と手を振り帰って行く。
「渡辺さん、女子の分は集まってる?」
「あっ、うん! 集まってるよ」
「俺も男の分は集めたから、さっさと持って行こうか」
そう言うと、相沢君は私の両腕に抱えた課題の山を半分以上、自分の山に乗せた。
「えっ? あっ……あ、ありがとう」
「ん? いいよ、渡辺さん小さいから課題そんなに持ってたら前見えなさそうじゃん」
相沢君は爽やかに笑い、「じゃあ行こっか」と歩き始める。
正面から自分に向けて放たれた爽やかな笑顔に、心臓が飛び跳ねた。
顔が赤くなっていませんように、と願いながら相沢君について行く。心臓がどきどき煩くて、隣の相沢君に聞こえていないか、心配になってしまう。
「新学期って絶対、こういう用事頼まれるよね?」
「そ、そうだね」
「真ん中の苗字が良かったなーって思ったことない? 鈴木とか斉藤とかさ」
「あっ、あるある! 佐藤とか高橋とか、本当に羨ましいもん!」
「やっぱり、渡辺さんは分かってくれると思った! 最初と最後の苗字あるあるなんだよ。他の奴に言っても伝わらないからもどかしくてさ」
無邪気な子供みたいに、楽しそうに笑う様子に、思わず、くすっと笑ってしまう。緊張をしていた筈が、前から思っていた出席番号あるあるに食い付いてしまい、うんうん、と大きく頷いてしまう。
いや、本当、これに共感してくれる人って全然いないから凄く嬉しいなと思う。
気さくに話し掛けてくれる相沢君と久米先生に課題を渡し終えた。
教室に戻り、時刻表を確認する。
次の電車が来るまで十五分を切っている。急いでも間に合わないな、と早々に諦める。
この次の電車は、本数の少ない時間帯だから一時間後だなと思うけど、私が走っても間に合わない自信があるから仕方ない。
「渡辺さん、帰らないの?」
「次の電車に間に合わなそうだから、その後に乗ろうと思って。相沢君は自転車なの?」
「えっ? この時間帯って一時間待ちでしょ? 次の電車、あと何分?」
「えっと、あと十分くらいかな? いや、でも、大丈夫だよ。明日の小テストの勉強するし……」
「ギリギリ間に合うから、自転車で駅まで送ってく! ほら、渡辺さん、行くよ!」
相沢君が私の荷物をパパッと手に持つと、私の手首を掴み、走り出す。相沢君の私と同じ紺色のブレザーの背中を追いかける。制服の上から掴まれた相沢君の手が、鮮やかに目に映る。
「ほら、早く乗って!」
「う、うん……」
相沢君が自転車に乗ると、爽やかな笑顔で振り向いた。
格好いい人は、走っても爽やかさが減るどころかキラキラ輝きが増すらしい。
高校初日に、いきなり格好いい男の子の相沢君と、二人乗りはハードルが高すぎると思ったけど、ここでもたもたして、迷惑掛けて、電車に間に合わなかったら物凄く気まずいよね、と自分に言い聞かせ、思い切って自転車の後ろに乗ると、相沢君の肩に手をそっと置いた。
「飛ばすから、ちゃんと掴まっててね! じゃあ、行くよ!」
相沢君と二人乗りの自転車が、駅に向かって走り出した。
目に映る世界が、一瞬にして輝いて見えた——
相沢君がこぎ出した二人乗りの自転車は、ぐんぐんスピードを上げて行き、 景色がどんどん流れて行く。
春の生温かな風が頬にぶつかる。相沢君の息遣いと、自転車の風を切る音だけが耳に届く。
強い風が突然ぶわりと巻き上がり、咄嗟に目を瞑る。
「……渡辺さん! うえ、うえ! 上見てみて!」
「……っ!」
相沢君の声に見上げると、思わず息を呑んだ。
満開に咲き誇る桜の花が、春の花嵐で美しく舞って、桜の吹雪みたい。
春の陽射しに包まれて、舞い散る花びらが青い空にキラキラと煌めく様子は、美しいのにどこか儚くて、夢のような光景。今、この光景を忘れないように目に焼き付けようと思った。
「渡辺さん、見た?」
「うん、見たよ! すっごい綺麗だったね!」
「だよね! 俺、今まで見た桜の中で、一番綺麗だったかも!」
はしゃいだ弾んだ声が聞こえて来たと思ったら、相沢君がくるりと顔をこちらに向ける。
子供みたいに瞳を輝かせて笑う、相沢君の笑顔に心臓がまた跳ね上がり、胸が高鳴る。心臓を鷲掴みされたみたいに、きゅう、と締め付けられる。
こんな感覚は初めてで、でも、全然嫌じゃない。
それに、私も目を奪われるような綺麗な桜を見たのは、初めて、と思ったから、相沢君も一緒なんだ、と嬉しく思い、熱くなった頬が気付いたら緩んでいる。
二人乗りの自転車が、河原に出来た桜のトンネルをくぐり抜けると、駅まであと少し。
駅には、下りの電車が停車していた。
二人乗りの自転車を降りると、相沢君から手早く荷物を渡される。
「渡辺さん、ここから頑張って走って!」
笑顔の相沢君に、熱い掌で背中を押され、駅員さんに急かされ、なんとか電車に滑り込むと、扉が音を立てて閉まる。
電車の窓から相沢君に、間に合ったよ、と振り向く。
——また、明日
相沢君の声が聞こえたような気がした。
目を細め、爽やかな笑顔を浮かべた相沢君と目が合った瞬間、心臓が早鐘を打ち始める。
また明日と手を振る姿が遠ざかり、相沢君が見えなくなるまで見つめていた。
押された背中に相沢君の掌の感触と温度が残っている。頬は熱を持ったみたいに熱くて、桜吹雪も二人乗りも、全部が夢みたいな出来事に、思わずへたりと座席に腰を下ろした。
この心臓が落ち着かない、そわそわするのに、きゅう、と切ないような甘いような、生まれて初めての感覚の名前を、有名な名前を、私は知っている。
——多分、これは、恋
◇ ◇ ◇
翌日も、春のぽかぽかした陽射しが、部屋の窓から差し込む穏やかな朝を迎える。
ほんの少し寝不足のまま、制服に着替え、ポニーテールを結び、黄色が鮮やかな菜の花畑を通って、駅員さんのいない最寄駅の織姫駅に向かう。
無人駅でもICカードの機器は置いてあり、入場の機器にピッとカードを当てて、ホームで電車を待つ。
駅から見えるのは、長閑な田んぼだけ。その田んぼもまだ田植え前だから耕した茶色の土が見える。
鞄から取り出した英単語帳を開いて、朝のホームルームで行われる小テストの範囲を復習して行く。初日なのに範囲が広くて、進学校だなと苦笑いが浮かぶ。
次の駅の本山駅で、ショートカットの似合う中村芽依が乗って来た。
西高に通う同中の女の子は芽依だけなので、三両編成の電車の同じ車両で待ち合わせの約束をしている。
英単語帳を閉じて、手を振ると、芽依が近付いて来た。
「芽依、おはよう」
「葵、おはよう……じゃないよ! 葵と恋バナ出来る日が来るなんて、嬉しいよ!」
「もう、芽依は大袈裟なんだよ。勘違いかもしれないし……」
昨日は、これって恋かも、と浮かれた私は、芽依のスマホに通学の時に聞いて欲しい、と送ったのだ。
「勘違いでもいいじゃん。その代表挨拶の子が気になるんでしょう?」
「うん、まあ、そうだね……」
「気になるは、好きのはじまりなんだよ! 興味がないのに、好きになる事はないもん。好きの種類がLOVEかLIKEの違いだよ。はじめの一歩を踏んだってこと! これって大きな一歩だよ」
言い切る芽依に後光が差して見える。
「芽依先生、付いていきます」
「うむうむ、苦しゅうない」
思わず先生呼びにすると、芽依が得意げに返してくれる。顔を見合わせて、くすくす笑ってしまう。
西高は、ここから二つ先の西森駅。
昨日起こった相沢君との出来事を、話し始めると、顔に熱が集まり、鼓動がおかしくなる。
いつも恋の話は、聞く専門だったから知らなかったけど、恋の話をするのってすごく恥ずかしい。
照れたり、恥ずかしがりながら話す私に、芽依が嬉々として質問を織り交ぜつつ、話していく。
話を聞き終えた芽依が、なるほどね、と大袈裟に頷いた後、びしっと三本の指を突き付ける。
「葵、それは恋に落ちる三つのingが揃ってるよ!」
「え? 何それ?」
勢いよく言われ、目をぱちぱちと瞬かせた後、初めて聞く言葉に首を傾げてしまう。
「フィーリング、タイミング、ハプニングが、恋に落ちる三つのingだよ!」
芽依先生が誇らしげに言い終わると、タイミングよく電車が西森駅に着いた。
電車を降りて、西高までの十五分間、芽依先生の恋愛講座は続いた。
『三つのing』が、恋に落ちる、両想いになるために必要な要素らしい。
芽依の話に頷きながら、昨日の出来事を照らし合わせてみる。
相沢君のさり気ない優しさや苗字あるあるに惹かれたフィーリング、二人乗りや桜の吹雪を見る事になったハプニング、そして何より、まだ私のことを知らない初日だったタイミングが一番大きいなと思う。
これが、クラスに馴染んだ頃だったらきっと信じられないと思う。
高校初日の私を知らない人だと思うから、安心して行為を好意だと受け入れる事が出来たのだと思う。
相沢君のことを思い出すと、胸の奥がきゅう、と苦しいのに、じわりと甘く温かくなるような、足元がふわふわするような感覚になる。
はあ、と大きく息を吐いて、芽依の腕を掴む。
「ねえ、芽依——どうしたら、いいのかな?」
「このままでいいんじゃないかな? 焦るような事じゃないでしょう?」
芽依が、私を優しい目で見つめると、ぽんぽんと頭を撫でてくれた。
西高に到着したので、芽依と分かれ、自分の教室へ向かった。
逆方向の下り電車に乗ってくる生徒が大半なので、もしかしたら一番乗りかもな、と思っていると、後ろから、ぽんっと肩を叩かれた。
「渡辺さん、おはよう!」
「——っ!」
振り向かなくても、誰なのか分かった。
胸がどきんと高鳴る。嬉しいけれど、心臓はどくどくと音を立てる。
はやる気持ちのまま振り向くと、朝の爽やかさに負けない、笑顔の眩しい相沢君が立っていた。
「お、おはよう——あ、あの、昨日は、ありがとう」
朝一番から噛んでしまい、恥ずかしくて頬が熱い。
相沢君は、噛んだことを気にする様子も無く、会話を進めてくれる。こういうところが、優しいな、と思う。
「どういたしまして。渡辺さん、朝早いね」
「上り電車はこの時間じゃないと、ギリギリになっちゃうの。相沢君こそ、自転車なのに早いね?」
「実はさ、一番乗り狙ってたんだよ」
照れたように頬を触る相沢君が、可愛らしい。
初めて見る相沢君の様子に、思わず頬が緩んでしまう。
「俺、朝の誰もいない教室って好きなんだよね」
「あっ、分かる! 私もだよ!」
「同じだ! じゃあ一緒に、一番乗りしよっか?」
「うん!」
また相沢君と、同じ、が増えた。
再び胸の奥が、きゅう、と鷲掴みにされる。
隣に並ぶ相沢君に私のうるさい心臓の音が聞こえていませんように、と願う間もなく教室に着いた。
残念なような、ほっとしたような、複雑な気持ちで教室の扉の前に立つ。
「じゃあ、いい?」
相沢君が楽しそうに扉に手を掛けて、私に合図を求める。
相沢君の綺麗な長くて細い指が目に映る。血管が少し浮き出ていて、男らしい部分を見つけてしまい、どきりと心臓が跳ねる。
返事が遅れたせいか、相沢君が私を覗きこむように顔を近づけるので、ふわっと石けんみたいな柔軟剤の匂いが鼻を掠め、私は慌てて頷いた。
相沢君が近づいて来た時は、心臓が飛び上がるくらい驚いたのに、相沢君が離れて行くと、途端に寂しく感じてしまう自分に呆れてしまう。
二人で足を踏み入れた誰もいない朝の教室は、窓から柔らかく光が差し込み、とても静かで、世界に相沢君と私しか居ないみたいな錯覚をしてしまった。
「なんかさ、俺達しか世界に居ないみたいじゃない?」
また相沢君と同じことを思っていて、息を呑んだ。
目を見開いて、相沢君を見上げると、ほんのり耳が赤くなった相沢君と目が合った。
「ごめん——俺、今、恥ずかしいこと言ったよね? ごめん、忘れて!」
片手で顔を覆う相沢君が可愛い。
動揺する相沢君が可愛くて、じっと見つめていると、「渡辺さん、こっち見ないで」と背を向けてしまう。
どんな相沢君も見たいと思ってしまう私は欲張りなんだと思う。
手を伸ばし、相沢君のブレザーの裾を、くいっと引っ張る。相沢君が眉毛を下げて、顔を私に向けてくれる。やっぱり優しいな、と思う。
「あのね、私も同じこと思ったよ」
言った途端に、恥ずかしくなって、顔に熱が集まる。
相沢君も色が落ち着きかけた耳が、もう一度赤く染まる。相沢君の視線が宙を彷徨い、私に向けられる。
「そっか、ならよかった、かな。——あのさ、折角だから、ベランダも一番乗りしない?」
「う、うん」
相沢君が赤い顔のまま提案してくれる。
出席番号順に並んだ私の席は、最初の相沢君から一番遠い、最後の席。
このまま相沢君と分かれて、斜め対角線の席に向かうのは、離れがたい気持ちがしていて、相沢君もそうだったらいいな、と思ってしまう。
二人でベランダに出ると、春の匂いがふわりと感じる。ベランダの手すりにもたれると、昨日二人乗りした桜並木が小さく見える。
相沢君が目を細め、遠くを眺める横顔をちらりと見上げる。鼻が高くて、顎のラインが綺麗だな、と見惚れてしまう。
「一番乗りをしたかったのも本当なんだけど、時刻表見たら、もしかして、早い時間の上り電車に渡辺さんが乗ってるかな、ってちょっと期待してたんだ」
相沢君が前を向いたまま、少し早口で話し終える。形の良い耳が赤く染まっている。
柔らかな春風が、熱を持った頬を撫でていく。
「明日も、俺、渡辺さんに一番乗りで会いたいかも」
相沢君に真っ直ぐ見つめられ、「私も……」と小さな声で答えた。
「また明日——約束ね?」
「——っ!」
相沢君が、私の返事に嬉しそうに目を細め、照れたように甘い笑みを溢すと、覗きこむように頭をぽんぽんと撫でられた。
ぼんっと顔から音が出たと思う。声にならない声が溢れる。身体中が心臓になったみたいに、鼓動を感じる。
「そろそろ他の人が来るから、教室に戻ろっか」
相沢君に言われ、時間を確認すると、思っていたより長い時間ベランダに居たのだと気付いた。楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまうけど、『また明日』の約束をしたから、先程みたいに離れがたい気持ちは感じない。
胸の奥が、ほわり、と温かくなった。
「葵、そろそろ電車の時間じゃない?」
「えっ、もうそんな時間? 全然気付かなかったよ、花音ありがとう。じゃあ、また明日ね」
「うん、またね」
机の上に広げていた宿題や辞書を手早く片付け、花音以外にも仲良くなったクラスの女の子達に手を振り、芽依の教室に向かった。
電車の時刻は、帰りのHRが終わると同時に急いで駅に向かえば、ギリギリ乗ることが出来るけど、芽依と話して、一本遅らせることにしていた。
進学校の宿題量が多くて、電車一本分では全然時間が足りなかった。
「ねえ芽依、もう一本電車遅らせて帰らない?」
「私も思ってた。あと三十分増えると全然違うよね」
「全部は絶対無理だけど、もうちょっとキリの良いところまで終わらせたいよね……」
二人で桜並木を通り過ぎ、明日からもう一本遅い電車に乗ることに決め終わると、駅に着いた。
「あっ、石ちゃんと藍川君」
芽依が二人組の男の子に話し掛けると、二人がこちらに振り向いた。
「芽依ちゃんもこの電車だったんだね」
「うん、そうだよ。宿題終わらないから、明日はもう一本遅くするつもりだけどね」
「そっか。——えっと……?」
芽依と会話をしていた色白で柔和な男の子と目が合った。
「あっ、この子は、一組の葵だよ! 同じ中学だったんだ」
「はじめまして、渡辺葵です」
「葵ちゃんね。僕は、石山翔太。みんな石ちゃんって呼ぶかな」
「そうなんだ、石ちゃんよろしくね」
フレンドリーな石ちゃんは感じが良くて、とても話しやすい人だな、と思った。
横にいる人が藍川君だよね、と視線を向ける。
「どうも、藍川です」
ぶっきらぼうに藍川君に挨拶される。
「あー、葵ちゃんごめんね。裕太は無愛想なんだよ、顔はみんなが羨むくらいイケメンなのに、勿体ないでしょ?」
石ちゃんが可笑しそうに言うと、電車が到着した。
ちらりと藍川君を見ると、好みかどうかは別にして、背が高くて、ワイルドとかクールな感じの格好いい顔立ちだな、と思った。
藍川君は特に会話に加わることも無く、吊り革に捕まり窓の外を眺めている。私は、芽依と石ちゃんの三人で宿題や先生のたわいもない話をしていた。
「芽依ちゃんと葵ちゃんは、何駅で降りるの?」
「私は、本山駅だよ」
「じゃあ、芽依ちゃんは次の駅か。葵ちゃんは?」
「私はね、織姫駅だよ」
私が答えた途端に、藍川君が鼻で笑った。
藍川君を見上げると、口の端が少し上がっている。
「織姫駅って、たぬきしかいない駅だろ?」
背の高い藍川君が見下ろすように私に言った。
うわっ、感じ悪いな、と思っていると、芽依が宥めるように私の腕をぽんぽんと叩く。芽依は、藍川君に顔を向けた。
「藍川君、葵に言っちゃ駄目な話題だよ、それ」
芽依が「葵、ほどほどにね?」と言いながら本山駅で降りていった。
おろおろする石ちゃん、じとりと藍川君を見つめる私、にやりと笑った藍川君の三人が車内に残された。
「あの、葵ちゃん、裕太がごめんね」
「石ちゃんは悪くないよ」
「そうそう、たぬきの駅長がいるんだろ?」
私は、はあ、と大袈裟にため息を吐いた。
中学生の時も両隣の駅が最寄駅の男子達から何回も言われた台詞に飽き飽きする。
このローカル線の無人駅は悲しいかな、織姫駅だけなのだ。たぬきをよく見かけることもあって、織姫駅は、たぬきが人間を化かすために出来た駅で、たぬき駅長が木の葉を切符に化かして、売っていると言われている。
「たぬきはいるけど、たぬきの駅長はいません。ただ、無人駅なだけだよ」
「何もないのは、一緒じゃん」
「違うよ? 織姫駅は、全国のかわいい駅の名前ランキング三位に入ってるんだよ。このローカル線の駅数は全部で十二駅だけど、織姫駅以外はかすりもしてないもん。すごいでしょ?」
「それ、凄いのか……?」
「じゃあ藍川君に問題です。全国の駅の数は、いくつあるでしょうか?」
「はっ?」
「正解は、全国にある駅の数は、約九千五百駅あります。織姫駅はその三位だよ。藍川君の最寄駅に、全国に三位になるものある?」
真っ直ぐに藍川君を見つめて話した。
こういうタイプは、怯むとつけ込むので、ハッタリでも何でも言い切った者が勝つのだ。
勝てなくても、逃げる隙を生み出すのに、役に立つ。
「恵比川駅には、そういうのは無いな。だけど、コンビニあるし、普通に便利だな。あー、あと、このローカル線の始発と終点駅以外で、自動券売機が設置されてる駅は恵比川駅だけだな」
——自動券売機!
これは盲点だった。
両隣の駅には自動券売機はなかったから、思わず成る程な、と納得した顔をしてしまった。
藍川君がにやりと唇の片端を上げたのが見える。
「全国有数の可愛い駅名で、たぬき駅長が木の葉切符を売っている駅ってことだな」
にやにや見下ろす藍川君を、じとっと睨み返す。
「自動券売機はないけど、織姫駅はね、七夕の日だけ、木の葉が星の切符になるんだよ。あっ、いや、たぬき駅長はいないよ……でも、星の切符になるんだよ! あと織姫駅の回りの一番良いところは、コンビニはないけど、歩いて五分の所に、すっごく美味しい精肉店があるの! 一個五十円のコロッケが絶品で、注文すると一個から揚げてくれるよ。ささみカツも絶品だし、他の揚げ物も美味しいからコンビニはないけど、買い食いはちゃんと出来るんだよ!」
前半は間違えたけど、言いたかった後半部分を早口で言い切ると、藍川君と石ちゃんがぽかんとした顔をしていた。
織姫駅に到着したので、ここは何か言い返される前に、言い逃げドロンするに限る。
やっぱり、逃げために役に立った。
「——二人共、じゃあね」
電車の扉が閉まるのを確認して、ほっと長い息を吐いた。久しぶりにコロッケを買おうかな、と思いながら織姫駅を後にした。
「あーあ、葵の織姫駅語り、久しぶりに見たかったな」
「見世物じゃないんだけど……」
電車に揺られながら、じとりと芽依を見る。中学生の頃、新学期や席替えがある度に、隣の席や近くの男子に織姫駅をバカにされることが多くて、毎回織姫駅について話している内に、仲のいい女の子に「また葵の駅語りが始まった」と揶揄われるのだ。
くすくす笑う芽依が面白そうに、でもね、と言葉続ける。
「藍川君が自分から女の子に話し掛けるの、初めて見たよ。うちのクラスでクールなイケメンって言われてるんだよ」
「いやいや、あれを話し掛けて来たって言わないでしょう? 全力で織姫駅をバカにしてたもん。クールと言うより、無愛想だったし! 何で男子ってああいうこと言うのかな」
はあ、と大きなため息を吐くと、芽依に肩を慰められるように叩かれる。
「昨日は聞けなかったけど、挨拶君とはどうなったの?」
「もうっ、挨拶君じゃなくて、相沢君だよ」
相沢君の名前を口にした途端に、顔に熱が集まる。
思い出すだけで、恥ずかしくなって俯きがちになってしまう私の反応が楽しいのか、芽依は瞳を輝かせて話を促す。
「相沢君とね、朝の教室で待ち合わせしてるんだ……」
最後は恥ずかしくて小さな声になってしまう。
頬の熱を冷ますように、手のひらを当てながら話し終える。
「──それ、デートじゃん!」
私の話を聞き終えた芽依が、目を見開き、頬を上気させて大きな声で言った。電車の中で向けられた数人の目が気になって、慌てて芽依の肩を掴む。
「ちょっと、芽依! 声が大きいよ……」
「あ、ごめんごめん。でも、そんな事になっているなんて思わなかったんだもん。待ち合わせの約束は、どっちからなの?」
芽依が、先程より瞳をキラキラ輝かせている。
今度は頬が自然と緩むのを押さえるために、手のひらを当てる。浮かれている自分が恥ずかしいのだけど、自分でもどうしようもなく頬が緩むのが分かってしまう。
そんな私を見た芽依が「やるな、挨拶君」とにやにやしていた。
◇ ◇ ◇
下駄箱で相沢君だけの靴を見つけて、嬉しくなる。デート楽しんでね、と言ってくれた芽依と分かれると、教室に向かう足取りが自然と軽くなる。それが何より私の気持ちを表していた。
「渡辺さん、おはよう!」
「相沢君、おはよう」
教室に入ると、ふわりと甘く笑う相沢君に挨拶をされる。
相沢君の回りがキラキラと星が瞬くみたいに煌いて見える。朝一番に会えた嬉しさで、ときめきが募る。
二人で朝のベランダに出ると、春らしい霞みがかった空に、あわあわとした綿あめみたいな雲が浮かんでいる。
相沢君がベランダの手すりに持たれかかり、顔をこちらに向ける。目線が同じ高さになり、真っ直ぐに見つめられると、心臓が踊り出したみたいに、どきどき煩くなっていく。
「そういえば、渡辺さんって何駅なの?」
「えっと、織姫駅だよ……」
相沢君の反応が気になるのに、その言葉がどんなものか分からない怖さに、ほんの少し俯き、無意識にブレザーの裾をくしゃりと握りしめてしまう。
「織姫駅なんだ。可愛い名前だよね? 渡辺さんみたい」
「ふえ?」
意外な言葉に、思わず間抜けな声が出てしまった。
相沢君は気にする様子もなく、腕をこちらに伸ばすと、頭をぽんぽんと撫でる。
「可愛いって言われない?」
相沢君の大きな手が、ぽすっとそのまま頭に置かれている。相沢君の手は、前髪に向かって撫でたり、優しく撫で続けたまま、目を細めて見つめられる。
「い、言われ、ないよ……」
相沢君に見つめられると、頬が熱くなる。赤くなった顔を見られたくなくて、俯いて首を横に振る。緊張したせいか、声が震えてしまい、ますます恥ずかしくなってしまう。
可愛いなんて男の子から言われた事なんてない。
特定の人からは、可愛いものが似合わないと言われるし、それ以外でも、いつも駅語りで反論しているから、可愛くないと思われていると思う。
「そうなの? 葵って名前、可愛いのにな」
「へっ?」
「渡辺さんの名前可愛いよね」
今度は違う恥ずかしさで顔が痛いくらいに熱くなる。可愛いは、名前の話だったのに、私が可愛いという意味かと思っていたなんて、恥ずかしくて穴があったら入りたい、いや、埋めて土をかけてもらいたい。
一人で赤くなって、あわあわしていたら、相沢君がぽんぽんと頭を撫でる感触と、ねえ、と呼び掛けられて、顔を上げた。
「俺も葵ちゃんって名前で呼んでいい?」
甘く笑う相沢君が眩しくて、こくんと頷いた。
「じゃあ、俺のことも名前で呼んで」
相沢君の目が、次の言葉を期待するようにこちらに向けられていた。
「け……圭、君?」
心臓が飛び出すかと思うくらい、どきどきした掠れた声で遠慮がちに言うと、圭君が嬉しそうに何度か頷く。
目を甘く細める圭君と見つめ合う。顔が熱くて、耳が痛いくらい心臓がどきどきしている。でも、目は惹き寄せられたみたいに離せない。
圭君が、ふっと笑う。
「もうすぐみんな来るから教室戻ろっか——葵ちゃん」
「う、うん……」
ぽんぽんと頭を撫でていた手が離れていく。
圭君に覗き込むように視線を合わせる。ふわりと柔軟剤の石けんの香りが鼻を掠める。
「名前だけじゃなくて、俺は、葵ちゃんが可愛いと思うよ」
顔からぼんっと音がしたと思う。
圭君が爽やかに笑うと、先に教室に戻って行く。不意打ちなんて反則だよ、と心臓が飛び跳ねて止まらない胸を押さえて思った。
「よお」
「葵ちゃん、勉強お疲れさま」
ここに居る筈のない人物が二人、織姫駅のベンチに座っていた。
「な、なんで、石ちゃんと藍川君がいるの……?」
不思議に思い、首を傾げて尋ねれば、藍川君が口の端を上げた。
「誰かさんが旨いコロッケ屋があるって叫んだから、食べに来たんだよ。ほら、渡辺さんも食べる?」
白い薄紙に挟んだコロッケを差し出され、反射的に受け取ってしまう。まだほんのりと温かいコロッケと藍川君の間を視線が彷徨うと、ぽんっと藍川君がベンチの横に手を置いた。
「とりあえず座れば?」
「えっ、あ、うん、そうだね……ありがとう」
藍川君の横にコロッケを持ったまま座る。昨日は結局食べずに帰ったコロッケが目の前にあり、揚げ物の香ばしい匂いが食欲を刺激する。
「早く食べないと冷めるよ」
「えっ? えっと、じゃあ、……いただきます」
藍川君に促され、ほんのり温かなコロッケを、さくりと齧る。揚げ衣のさくさくした歯触りのあとに、ほくほくのじゃがいもとほんのり甘い玉ねぎ、少し多めのひき肉の味がいつも通り絶妙だ。勉強で疲れた体に染み込む幸せを噛みしめる。
「——美味しいね?」
美味しいものは、人を幸せにするなと思い、藍川君と石ちゃんに笑顔を向ける。
藍川君が視線を逸らし、まあな、と頷くと、ささみカツに手を伸ばし、美味しそうに食べる様子を眺める。
二人がわざわざ途中下車をしてくれたのが嬉しくて、昨日の藍川君は嫌味な人だと思ったけど、案外良い人なのかもな、と頬を緩ませながらコロッケをもうひと口食べる。
コロッケを食べ終わると藍川君に、ほら、とささみカツも渡される。受け取るのを躊躇うと、石ちゃんがくつくつと笑い出す。
「葵ちゃん、それ、裕太なりのお詫びだから貰ってあげて」
「えっ、そうなの?」
藍川君に視線を向けると、さっと視線を逸らされる。逸らした顔の代わりに、無防備に晒された耳がほんのり赤いような気がして、クールと言われる藍川君がどんな表情をしているのだろう、と好奇心のまま藍川君の顔を覗き込もうと近づいた。
——ぺちっ
「痛っ……!」
おでこに鈍い痛みを感じる。
目の前の藍川君が口角を上げ、ささみカツを持たない手でデコピンの動きを繰り返しているのが、目に入った。藍川君にデコピンをされた痛みだと分かったが、おでこが地味に痛くて、目尻が潤む。じとりと見上げれば、ささみカツを、ぐいっと突き出される。
「それで、要るの要らないの、どっち?」
「要る……っ!」
慌ててささみカツを受け取ると、くくっと喉の奥で笑われた。
藍川君の優しさが分かりにくくて、私も何だか可笑しくなって笑ってしまう。
「藍川君、……ありがとう。石ちゃんも二人で織姫駅に途中下車してくれて嬉しかった」
さくさくの衣と柔らかい鶏肉のささみカツは、いくらでも食べられる美味しさで、幸せな味にあっという間に食べ終わる。
先に食べ終えていた藍川君が口を開いた。
「なあ、ここのメンチカツも旨いの? 今日は誰かさんのお勧めのコロッケとささみカツだけ買ったんだけど、俺、メンチカツ好きなんだよね」
「僕もメンチカツ気になってた! 精肉店のメンチカツ美味しそうだよね?」
「えっと、……メンチカツも美味しいって聞くよ?」
二人の質問に、分かりやすく視線が宙に泳ぐ。
「えっ、食べたことないの?」
「私、メンチカツが苦手なんだよね……」
石ちゃんが、そうなんだ、と頷いている。
藍川君が、急に真面目な顔になると、射るような視線を向けられる。
「——メンチカツが苦手なんて、人生損してるね」
藍川君は言いたい事を言って、すっきりした様子で涼しい顔をしている。
私は、メンチカツが苦手なだけで、私の人生を否定しなくてもいいのに、と口を尖らせてしまう。
「まあまあ、裕太もそこまで言わなくても良いじゃん」
「いや、メンチカツはおかず界の正義だろ?」
誰かな、この人の事をクールなイケメンって言った人……すっごくいい笑顔でメンチカツを語っているよ。生温かい目で藍川君を見ていると、目が合った。
「メンチカツの何が苦手なの?」
「えっと、メンチカツの食べた時に驚く感じ……かな?」
「ごめん、言ってる意味が分からないんだけど?」
藍川君は眉を寄せ、石ちゃんも困ったように眉を下げている。
「コロッケだと思って食べた途端に、肉汁が溢れるのに毎回驚くから……何かそれが苦手なの」
藍川君が眉を更に寄せ、目を瞑り、考える仕草を見せる。ぱっと目が開き、ああ、と納得した顔を見せたので、分かって貰えたみたいだと思って安心した途端に、爆弾発言を落とす。
「コロッケだと思って食べた途端に、かぼちゃコロッケだった時の絶望と同じか——それなら、何か分かるわ」
「いやいや、かぼちゃコロッケは嬉しいから絶望なんてしないよ!」
「はあ? メンチカツは肉だぞ、メンチカツの方が嬉しいだろ、普通! 大体、コロッケとメンチカツは、大きさや見た目が違うから食べる前に気付くだろ」
石ちゃんが肩を震わせ笑い始めた。
「「どっち派なの?」」
悔しいが藍川君とハモッてしまった。石ちゃんが声を上げて、げらげら笑っている。お腹を抱えてひとしきり笑い終えた後、真面目な顔になった。
「僕は、——カニクリームコロッケ派だよ」
石ちゃんの発言に、三人で思わず吹き出して笑ってしまった。