ヴィクターは黙ったまま緋色の瞳をすがめた。
 ゆっくりと壇上に上がり、私と向かい合う。こんなに近くにいるのに、呼吸は少しも苦しくならなかった。

 シーナちゃんではなく、人間として彼と見つめ合う。体格差は充分に縮まったはずなのに、それでもヴィクターは見上げるほどに大きかった。

「――緋の王子、ヴィクター」

 声が震えないよう、お腹の底に力を入れる。

「月の聖獣たる私を保護し、今日まで護り慈しんでくれたこと。(あるじ)たる月の女神ルーナに代わり、心よりお礼申し上げます」

「…………」

「えー……つ、つきましては、ですね。ルーナ様は感謝のしるしとして、あなたにぜひとも祝福を与えたいと言っていま……じゃない。おっしゃっておられます、のです!」

 いかん。
 神様の代理っぽくしゃべりたかったのに、なんだか下手くそなビジネストークみたいになってきたぞ。

 鋭い眼差しを向けるヴィクターから、逃げるように目を逸らす。

(だ、だってヴィクターが怖い顔で睨むから〜〜〜っ!)

 どうしてこんなにも迫力があるの。
 儀式は成功したんだから、もう少しやわらかい表情をしてくれてもよくないか。ていうか、何か怒ってる?

 いじけそうになりつつも、負けるもんかとキッとヴィクターを見上げる。

「ルーナ様は、あなたに加護を与えるとおっしゃいましたっ。そう、生涯ずっと、あなたが命を終えるまで」

「いらん」

 ヴィクターが不機嫌にさえぎった。

 一瞬何を言われたのかわからなくて、私はぽかんと立ち尽くす。
 地上の人々がざわざわと騒ぎ出した。なんたる不遜な、身の程知らずめが、と吐き捨てる声もする。

(え? え?)

 混乱する私に、ヴィクターが荒々しく歩み寄った。険しい表情で私を睨み据える。

「そんなものは、一切いらん。女神の加護も祝福も、俺ではなく他の者たちに与えればいい。一個人にではなく、あまねくこの国に行き渡らせろ」

「え……、で、でも」

 圧倒されて、私は思わず後ずさる。

 どうして?
 ルーナさんの後ろ盾があれば、きっとヴィクターは国中から尊敬を集められるのに。意地悪神官たちだって、これまでの無礼を詫びてくるはずだ。

 私はごくりと唾を飲み、震える手を握り締める。

「わ、私は……ルーナ様はただ、あなたにお礼がしたくって」

「俺が望むのは、女神の祝福などではない」

 低い声で告げるなり、ヴィクターが一歩足を進めた。
 ヴィクターが近づくのを、私はただ茫然として見つめる。強い意志の宿った瞳にからめとられて、体が少しも動かない。

 硬直する私に、ヴィクターがたくましい腕を差し伸べた。

「俺が望むのは、ただひとつ。――お前だ、シーナ」

「……え」

 目を丸くして、馬鹿みたいに立ち尽くす。
 ヴィクターはただじっと待っていた。私は差し伸べられた手とヴィクターの顔を見比べて、かすれた声を上げる。

「……わたし?」

「そう。お前だ。役目を終えて、月の女神のところへ帰るつもりだったのかもしれんが、そうはさせない。カイルも薦めんぞ、あいつは狭苦しい寮暮らしだからな。聖堂に住むキースなどはもってのほかだろう」


 ――だからお前は、俺の元に来い。


 そうきっぱり告げて、ヴィクターはにやりと笑った。

「……っ」

 心臓がどくんと跳ねて、頬が一気に熱くなる。
 あわあわと動揺するのは私ばかりで、ヴィクターは余裕の表情を崩さない。けれど微かに、その手が震えているのに気がついた。

(……もしかして)

 ……怒ってるんじゃなくて、怖がってた?
 私がどこかへ消えてしまうんじゃないかって。自分から離れていくんじゃないかって。

(そんなわけ、ないのに)

 私のいたい場所は、他でもないヴィクターの隣なのに。
 たとえ元の世界に帰れたとしても、離れ離れになることなんて、ちっとも考えられないっていうのに。

 おかしくて嬉しくて、お腹の底からじわじわと笑いが込み上げてくる。
 必死でこらえて真面目くさった顔を作り、私はわざとらしく首をひねった。

「えぇと、でも私、人間になったらもう特別な奇跡(キセキ)は使えなくなっちゃうかもしれないよ?」

「別に構わん」

「本当に普通の、当たり前の人間になっちゃうんだよ? あっそれに私、こう見えてすんごい大食らいなんだから! 美味しいごはんも甘いお菓子もいくらでも食べちゃって、ヴィクターの重荷になっちゃうかも!」

「大歓迎だ」

 大真面目に返されて、とうとう私は噴き出した。
 ふるふる震えて笑いながら、目尻ににじんだ涙をぬぐう。泣き笑いの顔でヴィクターを見上げた。

「……私で、いいの?」

「お前が、いいんだ。――シーナ」

 ヴィクターがまた一歩距離を詰める。

 ああ、駄目だよ。もう降参。涙がぼろぼろこぼれ落ちて、私は体当たりでヴィクターの胸に飛び込んだ。
 ヴィクターはびくともせずに、しっかりと私の体を受け止めてくれる。

「……深月(みつき)、だよ」

 離れるものかときつく抱き着き、ささやいた。

「私の、名前。深月って、いうの」

「……ミツキ」

 ヴィクターが噛み締めるようにしてその名を呼んだ。
 ふわっと体が浮いて、ヴィクターが心から嬉しそうにやわらかく笑む。軽々と私を抱き上げて、地上の人々を見渡した。

「――月の女神の祝福は、国の民へと等しく譲り渡す! 代わりに俺は、俺だけの小さき聖獣を貰い受けよう!」

 ミツキ、と緋色の瞳に熱を込める。

「どうか生涯、離れることなく俺の側に」

 胸がいっぱいになって、私はただ何度も頷いた。
 大きく息を吸い、とびっきりの笑顔を彼に向ける。

「うんっ、もちろんだよ!」

 ただし返却は不可だからね!

 そうすかさず釘を刺せば、ヴィクターが声を上げて笑い出す。
 カイルさんが手を叩いてはやし立て、キースさんは鼻をすすって真っ赤に目を潤ませた。

 まるで祝福するように、ルーナさんの光がふわふわと私とヴィクターの周りを囲む。包み込んでくれるのはルーナさんで、元気よく跳ねる光はシーナちゃんみたいだ。

 夢見心地で目をつぶる。
 温かな涙が後から後から頬をつたい、私は力いっぱいヴィクターを抱き締めた。