日が落ちて、祭壇の間はすっかり暗くなってしまった。
 燭台の明かりだけでは到底足りない。いつの間にやら会話も止まってしまっていて、私はじっと床に座り込み、深呼吸を繰り返す。

『ふふっ、そろそろ時間だわ。緊張してきたの、シーナ?』

(う。ま、まあそれなりに……?)

 楽しげなルーナさんに、私は引きつりながらもなんとか返した。
 本当は、それなりに、どころなんかじゃない。心臓は口から飛び出そうなぐらいバクバクしているし、体が震えて立ち上がる気力もない。

(……ヴィクター……)

 祭壇の間から出たら、ヴィクターは私を出迎えてくれるだろうか。
 うん、きっと大丈夫だよね。とっくに討伐を終わらせて、カイルさんと一緒に聖堂に来てくれているはずだから。そうだよね?

 必死で自分に言い聞かせた瞬間、扉を開く重い音が響き渡った。
 はっとして振り向き、よろめきながら立ち上がる。ふらふらと駆け出し、入口をくぐった。

「おお、シーナ・ルー様……! 長き祈りをありがとうございました。真摯なるお気持ちは、必ずや月の女神ルーナ様の元へと届いたことでしょう」

 感極まったように涙する神官長を追い越して、きょろきょろと周りを見回す。
 神官長の後ろにはカンテラを手にした神官たちが列をなしていて、先頭のキースさんが顔をほころばせた。キースさんは私に手を差し伸べ、丁寧にすくい上げる。

「シーナ・ルー樣。それではこれより、我らと共に儀式の場へと向かいましょう」

「ぱうぅ、ぱぇぱぁ?」

(ねえ、ヴィクターは?)

 一生懸命に背伸びする私に、キースさんが困ったように眉を下げた。ためらいながらも口を開きかけたところで、神官長が聞こえよがしに空咳をする。

「おほん、シーナ・ルー様。残念ながらヴィクター殿下はいらしておりません。……ですがどうぞ、ご安心なされませ。国王陛下並びに王族の皆様は、こぞって儀式にご出席くださいま」

「ぱぇあっ!!」

 苛々と神官長の口上をさえぎって、私は一心にキースさんだけを見上げた。
 キースさんが息を呑み、ややあって少しだけ笑ってくれた。私の耳に唇を寄せ、低く声を落とす。

「……大丈夫でございますよ、シーナ・ルー様。多少遅刻はしようが、ヴィクター殿下もカイルも、死にものぐるいで駆けつけてくるはずですから。あの二人が、あなたの勇姿を見逃すはずがないでしょう?」

「…………」

 そっか。
 そうだよね。

 ヴィクターもカイルさんも、絶対に来てくれる。私はただそれを信じて、自分の役目を果たすだけだ。

 力強く頷き返した私に、神官長たちは安堵したようだった。
 それからは全員が口をつぐんで、粛々と長い廊下を進んでいく。真っ暗な廊下で、カンテラの明かりがゆらゆら揺らめいた。

 ゆっくりと歩を進めてようやくたどり着いたのは、いつか見た聖堂の広い中庭だった。

(……ここ……)

 木の一本すら生えていない、土が剥き出しでだだっ広い空間。中央にあるのは石造りの大きな祭壇だ。

 祭壇には所狭しと燭台が並べられている。ひとつひとつの炎は頼りないぐらい細いのに、全部が合わさるとはっとするほど明るかった。

「――さあ。どうぞ壇上へ……」

 神官長からおごそかに告げられ、キースさんが私をひやりとした石の祭壇に載せる。
 私は緊張に震えながらも大きく息を吸い、壇の中央へと進む。
 地上から私を見上げるのは、真っ白な神官服を身につけた神官たち。そしてその後ろには、立派な天幕が(しつら)えられていた。

(あ……!)

 天幕の下の椅子に座るのは、きらびやかな礼服をまとった白髪の老人だった。年に似合わない筋骨隆々とした体格に、鋭い目つきの威圧感ある風貌。
 隣に寄り添うように座るのは、豪奢なドレスの若い女性。ばちりと私と目が合い、彼女ははしゃいだみたいな声を上げる。

「まあ陛下、ご覧になって! 聖獣様がこちらを見ておられますわ!」

「しッ、お静かに王妃様。儀式はすでに始まっておりますゆえ」

「あ、あら。失礼いたしました」

(……そっか。あれが……)

 ヴィクターのお父さん。
 そして隣にいるのは、奥さんなのかな? どうやらヴィクターのお母さんではないらしい。そう年が変わらないように見えるし、王様は一夫多妻だと以前聞いたような気もするし。

 そこまで考え、私はすぐに彼らへの興味を失った。今は王族なんかどうでもよくて、魔素の浄化に集中しなくちゃね。

 深夜の冷えた空気を吸い込んで、雲ひとつない夜空を見上げる。
 くっきりと黄金に輝く、まんまるの満月がシーナちゃんの白い毛並みを輝かせる。もうすっかり慣れ親しんだ、もふもふ小さな手を握り締めて、私はすうっと目を閉じる。

(……ルーナさん。準備、できました。覚悟も決めた、つもりです。だからどうか、私の呪いを――……っ?)

 不意に、地上の人々がざわめいた。
 驚いて目を開ければ、息を切らして駆け込むヴィクターの姿が飛び込んでくる。

(――ヴィクター!)

「……っ。シーナ!」

 ヴィクターが叫んで手を伸ばす。

「ヴィクター殿下っ! そのように戦闘で穢れた格好のまま、神聖なる儀式の場に……ぶっ!」

「すみませーん! はい、不浄な武器はきちんと預けておきますからねっ」

 後ろから追いついたカイルさんが、叱責する神官の鼻面に剣を押しつける。ヴィクターからも大剣を回収し、笑いながらその背を押した。

「ほら、ヴィクター!」

「…………」

 無言で首肯したヴィクターが、ゆっくりと私に向かって歩いてくる。
 私も息を止め、ひたすらに彼だけを目で追った。よかった、顔は疲れているけど怪我はしていないみたい。本当に、よか……っ

「ぱ、うぅ……っ」

 安堵のあまりへたり込む私を、ようやく祭壇にたどり着いたヴィクターが包み込むように撫でてくれる。指の隙間から見つめれば、ヴィクターは不敵に口角を上げた。

「よし、次はお前の番だ。頼んだぞ、シーナ」

「……ぱえっ!」

 元気いっぱいに返事をして、温かなヴィクターの手から離れる。体はもう震えてはいなかった。キッと満月を見上げる。

(ルーナさんっ!)

『ふふっ。了解よ、シーナ!』

 その途端、体の奥が一気に熱くなった。
 白い毛並みが輝きを放ち、眩しいほどの光に包まれる。全身をぐるぐると何かが駆け巡る。

 周囲の動揺したような声が聞こえたが、私の心は平静だった。ぐんと背が伸びる感覚、指の一本一本まで研ぎ澄まされていく感覚に身をゆだねる。

「……はっ」

 大きく息をついた瞬間、頼りなく揺れていた視界が定まった。
 急激にクリアになっていく景色の中で、やっぱり一番に目に入ってくるのはヴィクターの姿で。我ながらぶれないなぁ、とおかしくなってしまう。

 照れながらにこっと笑いかけたら、ヴィクターも優しく微笑み返してくれた。