「ぱぇあ……」

「――疲れたか、シーナ」

「ずっと黙々と練習してたもんねぇ。そろそろ休憩したら?」

「そうだな。夕食前には起こしてやるから、少し寝るといい」

 うつらうつらする私を、大きな手が包み込む。
 すぐにふわりと体が浮いて、膝の上に載せられた。なだめるように撫でる手が心地よくて、私は素直に目をつぶる。

 そのまますうっと眠りに落ちた――……


 ◇


 恐怖と寒さに凍えていた体が、急激にぽかぽかと温まり始める。
 一瞬自分がどこにいるかわからなくて、私はぼんやりと周囲を見回した。

(う……。ここ、は……?)

 傍らに倒れている痩せ細った子ども、燃えるような赤髪が目に飛び込んでくる。その瞬間、ぱっと意識が覚醒した。そうだ、彼は……!

 過去に戻れたのだ、とやっと気がつき、私は慌てて彼にすがりついた。
 暗い牢屋にいる時にはわからなかった、目が覚めるように鮮やかな赤い髪。牢屋生活のせいかぱさぱさに傷んだその髪を、必死になって撫で続ける。

(お願い、目を覚まして……!)

 あんなに寒かったはずなのに、光に満ちた礼拝堂はぐんぐん暖かくなっていく。
 遥か高い天井からこぼれ落ちる、きらきらした光の粒。私たちを護るように周囲を舞い飛んだ。

 やがて光は一点に収束し、ひときわ明るい輝きを放つ。


 ――ルー……おいで……


 鈴を鳴らすような美しい声が響き、光から溶け出すようにして長身の女性が現れる。

(……ルーナさんっ!)

 安堵と歓喜が胸にあふれ、私は彼女に向かって駆け出した。
 今と全く変わらない姿、輝くばかりの黄金の髪。真っ白でなめらかな絹のドレス。

 いつも通りの柔和な笑みを浮かべた彼女は、私を見て嬉しげに目を輝かせた。すぐさまほっそりした手を差し伸べられるが、私は首を振って背後の少年を指し示す。

『ぱぇ、ぱぇあっ。ぱうぅ〜!』

(お願い、どうか今すぐあの子を助けてください!)

 必死になって訴える私に、ルーナさんはきょとんと瞬きした。うつ伏せになった少年と私を不思議そうに見比べる。
 ややあって、彼女はおっとりと首を傾げた。

『……助ける? その死にかけている子どもを、このわたくしが? 駄目よ、それはできないわ。人間の一生など、取るに足らないほど短く、そして儚きものなのよ。神たるわたくしが干渉する価値などないわ』

 さあ、帰りましょう。

 あやすように告げられて、私は泣きそうになりながら何度もかぶりを振る。だめ、だめだよ。私はあの子を、絶対に死なせたくないの!

『ぱぅっ、ぽぇあぁ〜!』

(助けてもらったの! 私、あともう少しでヴァレリー王に殺されるところだった!)

 楽しげだったルーナさんの顔が凍りつく。
 黙って少年を見下ろし、みるみる表情を険しくした。

『……なんてこと。人間の分際で、わたくしの大事な眷属(けんぞく)に手を出した、ですって? 思い上がりも甚だしいわ』

 ぞっとするほど冷たい声で吐き捨てると、ルーナさんはふわりと宙を飛んだ。まるで見えない羽でも生えているかのように、音もなく少年の側に着地する。

 ルーナさんが無言で手をかざした瞬間、『う……』と少年が低くうめいた。固く閉じていた目が開く。

『け、けだ、ま……?』

『! ぱう! ぽえ、ぽぇあ〜!』

(ここ! 私はここだよっ)

 駆け寄る私を見て、少年は嬉しげに微笑んだ。はっとするほど濃い、緋色の瞳。ヴィクターと全く同じ色に、どきりと心臓が跳ねる。

 少年は私に向かって手を伸ばしかけ、ルーナさんに気がつき息を呑んだ。
 ルーナさんがすうっと目を細める。

『――人の子よ、我こそは月の女神ルーナ。我が眷属たる聖獣ルーを救ってくれたこと、まずは礼を言おう』

 平坦な声で、無表情に言い放つ。
 いつもの彼女とは全く違う、ピリピリした雰囲気に圧倒されて動けなくなってしまう。

 少年は食い入るようにルーナさんを見上げると、よろめきながら体を起こす。大きく息をつき、ひざまずいて礼を取った。

『……月の女神、ルーナ様。俺たち森の民……は、一切の信仰を捨てたが、神を敬う心を持たぬわけではない……。俺は、この毛玉に救われた。(あるじ)たる、あなたに……、心から、お礼を申し上げる』

 ぜいぜいと息を弾ませながらも、深く頭を垂れる。
 ルーナさんは目を丸くすると、『あらぁ?』とのんびり呟いた。

『おかしいわね。聖獣ルーは、あなたが命の恩人だと言っていたけれど?』

『それは、違う……。そもそも、毛玉がヴァレリーに殺されそうになったのは、全て俺のせいなのだから……っ』

 胸を押さえ、苦しげに訴える。

 ルーナさんは初めて興味を惹かれたように、まじまじと少年を見つめた。無言で私を手招きして呼び寄せると、もふっと額と額をくっつける。

『あら、まあ……。ふぅん……? なるほど、そういうことだったのね』

 やがて、納得したように深く頷いた。
 私を離して肩へと移動させ、ドレスを払って立ち上がる。

『謙遜することなんてないわ。この子の記憶を読んだけれど、あなたは確かに聖獣ルーを救ってくれた。……感謝のしるしとして、死にゆくあなたの願いをひとつだけ、神たるこのわたくしが叶えてあげましょう』

(え……っ?)

 愕然とルーナさんを見上げると、ルーナさんは静かに首を横に振った。

『駄目なの。助けることは叶わないわ。この子の命の灯火は、もう消えかけている。いかに神であろうと、定められた寿命を変えることなどできないのよ』