手早く騎士服に着替え、ヴィクターは慌ただしく屋敷を発つ。
 屋敷のみんなには、地下の食料貯蔵室に避難するよう指示を出した。ロッテンマイヤーさんは硬い表情で頷くと、唇を引き結んで私とヴィクターを見送ってくれた。

「どうぞ、わたくしたちのことはご心配なさらずに。旦那様、シーナ様。くれぐれもお気をつけて……!」

 外はようやく空が白み始めたところだった。まだ人気(ひとけ)のない薄暗い道を、ヴィクターは馬を駆って疾走した。

「――ヴィクター!」

 背後から呼びかけられ、すぐにヴィクターの隣に馬が並ぶ。騎乗しているのはカイルさんだ。

「カイル! 道中、魔獣は見かけたか!」

「いや、見てない! 結界が破られたのはどうやら西の住宅街の辺りらしい!」

「急ぐぞ!」

 怒鳴るように言葉を交わすと、二人はそれきり口をつぐんで走り続けた。その眼差しはきつく前をだけを見据えている。

 角を曲がった瞬間、景色はいっぺんに様変わりした。

「逃げろっ、早くするんだ!」
「きゃあぁっ」
「荷物なんざぁ置いていけっ!」

 わあわあ叫びながら、寝間着姿の人々がこちらに向かって逃げてくる。
 第三騎士団とは違う、別の騎士服を着た男たちが逃げまどう人々を懸命に誘導していた。
 眉をひそめたヴィクターが、「第二騎士団か」と低く呟く。ひらりと馬から降りると、手綱を騎士らしき一人に押し付けた。

「あ、オレの子もよろしくっ!」

 カイルさんもヴィクターにならい、二人は人の流れと逆行して走り出す。ポケットの中にいる私を、ヴィクターは上から護るように押さえてくれた。

「――見えたっ! あそこだ、ヴィクター!」

 カイルさんが前方を指差した。

 道には壊れた煉瓦が散らばって、突風が土煙を巻き上げる。

「ぐ、あっ……!」

 第三騎士団の団員さんが、腕から血を流して崩れ落ちていた。泣き出しそうな顔でリックくんが彼にすがりつき、駆けつけた他の団員たちが二人を護るように取り囲んだ。

 ひとかたまりになった彼らを覆い隠すように、すうっと巨大な影が降ってくる。

「……飛行型の魔獣か!」

 ヴィクターの言葉に、慌てて空を見上げた。
 王都の建物よりも高く、巨大な翼を持った魔獣が何体も飛んでいる。見た目は爬虫類のようにざらりとしていて、その翼は体長の倍以上に長い。

 ケェン、と魔獣が耳障りな声を立てる。

「怪我人は下がれ! リック、お前もだ!」

「だ、駄目なんです、団長……!」

 腕を押さえた団員さんがうめく。

「奴らの狙いは、リックなんです。俺らが到着した時、ちょうど町の子供が奴らに襲われてっ」

「上空から急降下してきたんです! 子供を前足でかっさらおうとしたんですけど、とっさに前に出たリックが見事に撃退して――」

 ちらりと振り返った団員さんの視線を追えば、空にいるのと同じ、けれど体長のずっと小さな魔獣が地面に転がっていた。舌をだらりと伸ばし、明らかに事切れている。

「多分、まだ幼獣なんだと思います。それで奴ら、怒っちまって……っ。執拗にリックばかり狙ってくるんですっ」

 ヴィクターが舌打ちした。
 殺気立った目で上空を睨み、すらりと大剣を抜き放つ。油断なく背後に目配りしながら、リックくんを背中にかばった。

「怪我人は下がらせろ! リック、お前は魔獣がここに留まるよう囮になるんだ! 総員は魔獣を狩るよりも、リックを護ることを最優先に動け!」

 おうっ!と全員が力強く唱和した。
 青ざめながらも頷くリックくんに、ヴィクターが「頼む」と低い声で語り掛ける。

「お前にしかできん仕事だ。お前がここを離れれば、魔獣どもが王都中に散らばってしまうだろう。必ず護り抜くと約束するから、お前は決して魔獣から目を逸らさず、いつもの訓練通りに動くんだ。できるな?」

「……は、はいっ!!」

 震えていたリックくんの眼差しに、みるみる決意の光が灯る。怪我をした団員さんから離れ、道路の中央にしっかりと足を踏ん張って立った。

 ケェン、と甲高く鳴いた魔獣たちが、力強く翼をはためかせる。頭を低くし、次々とリックくんに向かって急降下してきた。

「――かかれっ!」

 ヴィクターの号令に、団員さんたちが魔獣に一斉攻撃を仕掛ける。
 血しぶきが飛ぶが、それでも空を飛ぶ魔獣の方が有利だった。戦況が自分たちに不利と見て取るなり、すばやく上空へと逃げる。

 魔獣は地面に縫いつけられた人間たちを嘲笑うように、ぐるぐると上空を旋回した。気まぐれに降下してきては、リックくんを奪い取ろうと突っ込んでくる。

「……ああクソッ、タチの悪い魔獣だな! 全然剣が届きやしないっ」

 カイルさんが珍しく口汚く罵った。
 私はヴィクターの懐の中、黙りこくって空を睨む。あの魔獣たちを落とすには、どうすればいい? 森の民の少年の言葉を思い出す。

(魔法は、想像力が大事……)

 そういえば、初めて魔法を使った時もそうだった。
 ヴィクターの綺麗な魔素の炎から連想し、本物の炎を生み出したのだ。

 だけど、空を飛ぶ魔獣に炎は不向きな気がする。万が一王都が火事になったら大変だし……。

「――ヴィクター殿下! カイル、シーナ・ルー様ッ!!」

 懸命に思考を巡らせていると、突然背後から名前を呼ばれた。キースさんが通りの向こうから駆けてくる。

「え、キース!? おまっ、聖堂を離れて大丈夫なのか!?」

「神官長様方が頑張っておられますからね! わたしは破られた結界の確認に参りました!」

 驚くカイルさんに怒鳴り返し、キースさんはキッと空を見上げる。

「破られたのがこちらだけで幸いでした。あれほど上空であれば、空を飛ぶ魔獣でなくては侵入できません」

「見えるの?」

「修行を積んでいますので」

 事もなげに告げ、キースさんはヴィクターに向き直った。

「ヴィクター殿下、わたしは直接この場より結界の修復に入ります。離れた聖堂から祈るより、そちらの方がよほど手っ取り早いですからね」

「よし。では、お前の警護として騎士を何人か割り振る」

「いえ、それはお気遣いなく。己の周りに結界を張っておきますので」

 すばやく言葉を交わすと、キースさんは膝を折って両手を胸に当てた。
 口の中で小さく呪文のようなものを唱え始めたので、私は慌てて耳を澄ませる。すごい、これが噂の奇跡(キセキ)ってやつ!? 何だかんだで見るの初めてー!

 大変な状況下だというのに、好奇心丸出しで興奮してしまう。
 キースさんは熱っぽくため息をつくと、うっとりと恍惚の表情を浮かべた。

「――おお、我が最愛なる月の女神ルーナ様よ! 微風にたなびくは煌めきし黄金の髪、直視すれば目が潰れるほどのその美貌! 両の瞳はあたかも、満月そのものを嵌め込んだがごとき美しさ……!」

 はい?

「おお、麗しき月の女神ルーナ様よ! 決して届かぬ至高の存在であると知りつつも、慕う心は止められませぬ! ただひたすらに貴女様を信奉し、愛を誓うわたくしを哀れと思し召すのであれば、どうぞ我が願いをお聞き届けくださりませ――!」

 時に声を荒げ、時に涙を浮かべ地面を叩き、キースさんは情感たっぷりに訴え続ける。
 その内容を端的にまとめると、結界張ってよ〜、怖い魔獣から護ってよ〜、といったところだろうか。その合間合間に、ルーナさんへのヨイショも忘れない。ねえ、鼻筋が通っててステキとか、頬が薔薇色で色っぽいとか、それ必要……?

 一人の世界に浸りまくっているキースさんに、ヴィクターとカイルさんはさっさと背を向けてしまう。

「シーナ。あいつのことは放っておけ。祈りの聖句は共通のものもあれば、神官それぞれ固有のものもある」

「そそ。くどく、やかましく、そしてねちっこく。あれこそがキース流の奇跡(キセキ)なんだよ」

「…………」

 なんか、思ってたんと違う……。