『――それで、お前はどこから来たんだ? 帰らなくて大丈夫なのか』
『ぽ、ぽえぇ〜?』
少年からためらいがちに尋ねられ、私は困り果てて首をひねる。
そういえば、この過去のシーナちゃんって迷子なんだっけ。天上世界なんて一体どうやって帰ればいいのやら、皆目見当がつかなかった。
(それに、たとえ帰り方を知っていたとしても……)
ちらっと少年を見上げる。
(この子を放って、自分だけのうのうと安全な場所に戻るなんてできないよ。ルーナさんに頼んで、なんとかこの子も助けてもらわなきゃ……!)
きっとこのシーナちゃんだって、同じことを考えたはずだ。今の私はシーナちゃんの記憶を見て、シーナちゃんの行動をなぞってる。
そのはずだけれど、思考も言動も違和感がないぐらい私と一致していた。きっと完璧に共鳴ができているのだろう。
『……死にゆく俺に付き合うことなど、ないんだぞ。お前はこうして、鉄格子の隙間から逃げることができるじゃないか』
『…………』
ぐいっと背中を押されても、私は無言で首を横に振り続ける。少年は困ったような、どこか安堵したような複雑な笑みを浮かべた。
けほけほと乾いた咳をして、目をつぶる。すかさず私も彼に寄り添った。
『……食事はいつも、ヴァレリーが一人で運んでくる。きっと、怖いのだろう。他の誰かに俺の世話をゆだね、そいつが先に魔法を習得したらと考えると……』
馬鹿馬鹿しい、と少年が吐き捨てる。
『魔法は、そんなに、簡単なものじゃない……のに……』
苦しげに胸を上下させ、少年が眠りに落ちた。
頬につうっと涙がつたう。私はじっと彼を見つめ、毛並みを濡れた頬にくっつけた。
冷えた頬を温めながら、私は心の中で懸命に呼びかける。ルーナさんお願い、お願いだよ。どうか私たちを助けに来て……!
何度念じても、駄目だった。
やがて私はあきらめ、途方に暮れて牢の中で立ち尽くす。
(どうすれば天上世界に帰れるかは、わからない。助けを呼ぶ方法だってない)
ヴァレリー王以外の人間も敵だと考えるべきだろう。
森の民を……この子のことを、魔獣だと信じているのだから。
(だったら……!)
私がこの手で、この子を助けてあげなくちゃ。
チャンスを待つのだ。彼の命が、手遅れになる前に――
◇
(手遅れに、なる前に……!)
「シーナ? 悪い、起こしたか」
ベッドが上下に揺れて、私はうっすら目を開ける。ちょうどヴィクターが横に潜り込んできたところだった。
「ぱうぅ〜……」
平気だよ、とむにゃむにゃ返事をする私に、ヴィクターがくくっと小さく笑った。包み込むように私を抱き締める。
「……お休み、シーナ」
◇
遠くから足音が近づいてくる。
牢屋の少年の呼吸が荒くなる。
『体調は、どうだ』
今日もまたヴァレリー王が、盆を掲げ持って牢屋の中を覗き込む。
『……変わりなしだ』
『そうか、よかった。さあ、食事の前に手を出してくれ』
毎日同じことの繰り返し。
(……馬鹿みたい)
牢屋の隅っこ、毛布の陰に隠れた私は心の中で吐き捨てる。
だって、手を繋ぐ必要なんてないのだ。少年の魔素は、ヴィクターのように体の表面を覆っているだけじゃない。牢屋の鉄格子の向こう側にまで届くほど、あかあかと大きく立ち昇っているというのに。
そんなこともわからないくせに、必死で魔法を使おうとするヴァレリー王が滑稽だった。いっそ哀れと言ってもいいかもしれない。
『…………』
そろり、と私は行動を開始する。
魔素を感じ取ろうと、ヴァレリー王は目を閉じ必死の形相を浮かべていた。集中しているのは明らかで、私は物音を立てないよう注意して鉄格子の隙間を通り抜ける。
(かぎ、を……)
床にひざまずいた王の、ベルトにくくりつけてある鍵束。三つの鍵が揺れている。
一番小さい鍵は、食事を差し入れるための小窓のもの。だとしたら、残り二つのどちらかがこの牢屋の鍵なのだ。
ぼんやりしていた少年が、私の動きにふと目を止めた。表情が驚愕に凍りついたので、私は大急ぎで首を振って合図を送る。大丈夫、大丈夫だよ。私に任せて。
緊張にふるふると震える小さな手をベルトに伸ばす。心臓が口から飛び出そうだった。
鍵同士が触れ合い、音が鳴らないよう気をつけないと。そうっと静かに、揺らさず奪うの――……
『――ああ、クソッ! やはり駄目だ駄目だッ!!』
(……っ!?)
突然、ヴァレリー王が鋭く怒声を上げた。
私は条件反射で手を引っ込め、その場から動けず硬直してしまう。ヴァレリー王は忌々しげに少年の手を放すと、美しく手入れされた髪を荒っぽく掻きむしった。
『魔素とは一体何なのだ! なぜ王たるわたしに感じ取れない!? やはり心正しき人間には、手に入れることのできぬ邪悪な力だったのかっ!』
クソ、とまた口汚く罵り、怒りに震えるこぶしを床に叩きつける。あっ……!
『ぱうぅっ!?』
避けようとしたけれど間に合わず、私はこぶしをまともに受けて吹っ飛んだ。何度か跳ねて床に叩きつけられ、うつ伏せになって動けなくなる。
『――毛玉っ!!』
『……ん? なんだ、この生き物は』
訝しげな声が降ってきて、倒れた私の体が宙に浮いた。ヴァレリー王が私をつまみ上げ、眉根を寄せて覗き込んでいる。
『毛玉っ! は、放してやってくれヴァレリー! そいつは単に、牢屋に迷い込んできただけで……ぐっ!』
げほげほと激しく咳き込んだ。
のたうって苦しむ少年と私を、ヴァレリー王は無言で見比べる。
それからベルトの鍵束に目を落とし、納得したように深く頷いた。
『……なるほどな。さすがは森の民、恐ろしき魔獣の一族だ。小物の魔獣を操り、脱獄を計ろうとしたわけか』
だが、そうはさせない。
冷たく告げるなり、王はすらりと腰の短剣を引き抜いた。カンテラの明かりが切っ先に反射し、鈍く光を放つ。
宙吊りにされた私の……シーナちゃんの体が震え出す。
恐怖のあまり意識が朦朧としてくる。
まるで他人事のように、自分の首筋に短剣が当てられるのを眺めた。
『――早急に始末しておかねば、な』
『ぽ、ぽえぇ〜?』
少年からためらいがちに尋ねられ、私は困り果てて首をひねる。
そういえば、この過去のシーナちゃんって迷子なんだっけ。天上世界なんて一体どうやって帰ればいいのやら、皆目見当がつかなかった。
(それに、たとえ帰り方を知っていたとしても……)
ちらっと少年を見上げる。
(この子を放って、自分だけのうのうと安全な場所に戻るなんてできないよ。ルーナさんに頼んで、なんとかこの子も助けてもらわなきゃ……!)
きっとこのシーナちゃんだって、同じことを考えたはずだ。今の私はシーナちゃんの記憶を見て、シーナちゃんの行動をなぞってる。
そのはずだけれど、思考も言動も違和感がないぐらい私と一致していた。きっと完璧に共鳴ができているのだろう。
『……死にゆく俺に付き合うことなど、ないんだぞ。お前はこうして、鉄格子の隙間から逃げることができるじゃないか』
『…………』
ぐいっと背中を押されても、私は無言で首を横に振り続ける。少年は困ったような、どこか安堵したような複雑な笑みを浮かべた。
けほけほと乾いた咳をして、目をつぶる。すかさず私も彼に寄り添った。
『……食事はいつも、ヴァレリーが一人で運んでくる。きっと、怖いのだろう。他の誰かに俺の世話をゆだね、そいつが先に魔法を習得したらと考えると……』
馬鹿馬鹿しい、と少年が吐き捨てる。
『魔法は、そんなに、簡単なものじゃない……のに……』
苦しげに胸を上下させ、少年が眠りに落ちた。
頬につうっと涙がつたう。私はじっと彼を見つめ、毛並みを濡れた頬にくっつけた。
冷えた頬を温めながら、私は心の中で懸命に呼びかける。ルーナさんお願い、お願いだよ。どうか私たちを助けに来て……!
何度念じても、駄目だった。
やがて私はあきらめ、途方に暮れて牢の中で立ち尽くす。
(どうすれば天上世界に帰れるかは、わからない。助けを呼ぶ方法だってない)
ヴァレリー王以外の人間も敵だと考えるべきだろう。
森の民を……この子のことを、魔獣だと信じているのだから。
(だったら……!)
私がこの手で、この子を助けてあげなくちゃ。
チャンスを待つのだ。彼の命が、手遅れになる前に――
◇
(手遅れに、なる前に……!)
「シーナ? 悪い、起こしたか」
ベッドが上下に揺れて、私はうっすら目を開ける。ちょうどヴィクターが横に潜り込んできたところだった。
「ぱうぅ〜……」
平気だよ、とむにゃむにゃ返事をする私に、ヴィクターがくくっと小さく笑った。包み込むように私を抱き締める。
「……お休み、シーナ」
◇
遠くから足音が近づいてくる。
牢屋の少年の呼吸が荒くなる。
『体調は、どうだ』
今日もまたヴァレリー王が、盆を掲げ持って牢屋の中を覗き込む。
『……変わりなしだ』
『そうか、よかった。さあ、食事の前に手を出してくれ』
毎日同じことの繰り返し。
(……馬鹿みたい)
牢屋の隅っこ、毛布の陰に隠れた私は心の中で吐き捨てる。
だって、手を繋ぐ必要なんてないのだ。少年の魔素は、ヴィクターのように体の表面を覆っているだけじゃない。牢屋の鉄格子の向こう側にまで届くほど、あかあかと大きく立ち昇っているというのに。
そんなこともわからないくせに、必死で魔法を使おうとするヴァレリー王が滑稽だった。いっそ哀れと言ってもいいかもしれない。
『…………』
そろり、と私は行動を開始する。
魔素を感じ取ろうと、ヴァレリー王は目を閉じ必死の形相を浮かべていた。集中しているのは明らかで、私は物音を立てないよう注意して鉄格子の隙間を通り抜ける。
(かぎ、を……)
床にひざまずいた王の、ベルトにくくりつけてある鍵束。三つの鍵が揺れている。
一番小さい鍵は、食事を差し入れるための小窓のもの。だとしたら、残り二つのどちらかがこの牢屋の鍵なのだ。
ぼんやりしていた少年が、私の動きにふと目を止めた。表情が驚愕に凍りついたので、私は大急ぎで首を振って合図を送る。大丈夫、大丈夫だよ。私に任せて。
緊張にふるふると震える小さな手をベルトに伸ばす。心臓が口から飛び出そうだった。
鍵同士が触れ合い、音が鳴らないよう気をつけないと。そうっと静かに、揺らさず奪うの――……
『――ああ、クソッ! やはり駄目だ駄目だッ!!』
(……っ!?)
突然、ヴァレリー王が鋭く怒声を上げた。
私は条件反射で手を引っ込め、その場から動けず硬直してしまう。ヴァレリー王は忌々しげに少年の手を放すと、美しく手入れされた髪を荒っぽく掻きむしった。
『魔素とは一体何なのだ! なぜ王たるわたしに感じ取れない!? やはり心正しき人間には、手に入れることのできぬ邪悪な力だったのかっ!』
クソ、とまた口汚く罵り、怒りに震えるこぶしを床に叩きつける。あっ……!
『ぱうぅっ!?』
避けようとしたけれど間に合わず、私はこぶしをまともに受けて吹っ飛んだ。何度か跳ねて床に叩きつけられ、うつ伏せになって動けなくなる。
『――毛玉っ!!』
『……ん? なんだ、この生き物は』
訝しげな声が降ってきて、倒れた私の体が宙に浮いた。ヴァレリー王が私をつまみ上げ、眉根を寄せて覗き込んでいる。
『毛玉っ! は、放してやってくれヴァレリー! そいつは単に、牢屋に迷い込んできただけで……ぐっ!』
げほげほと激しく咳き込んだ。
のたうって苦しむ少年と私を、ヴァレリー王は無言で見比べる。
それからベルトの鍵束に目を落とし、納得したように深く頷いた。
『……なるほどな。さすがは森の民、恐ろしき魔獣の一族だ。小物の魔獣を操り、脱獄を計ろうとしたわけか』
だが、そうはさせない。
冷たく告げるなり、王はすらりと腰の短剣を引き抜いた。カンテラの明かりが切っ先に反射し、鈍く光を放つ。
宙吊りにされた私の……シーナちゃんの体が震え出す。
恐怖のあまり意識が朦朧としてくる。
まるで他人事のように、自分の首筋に短剣が当てられるのを眺めた。
『――早急に始末しておかねば、な』