――ぴちょん


 水滴の落ちる、かすかな音が聞こえた気がして目を開ける。
 途端にひやっとした冷気を吸い込んだ。

『……ぷしゅんっ』

 鼻の奥がツンと痛んで、小さなくしゃみが飛び出した。
 顔をこすりつつ周囲を見回せば、なぜか私は石造りの暗い廊下にひとりきり。

(……え? どこ、ここ?)

 湿った匂いに、冷えきった石の感触。
 ぽかんとして立ち尽くしている間にも、足元から寒さがじわじわと這い登ってくる。

 ……おかしいな。
 確か今の今まで、シーナちゃんとの共鳴実験をしていたはずなんだけど。
 いつの間にか眠っちゃってたのかな。実験は、ちゃんと成功したんだっけ……?

(なんでかな。うまく、思い出せない……)

 ともかく少しでも暖を取ろうと、シーナちゃんのふさふさしっぽを体に巻きつける。それでも全然震えが止まらなくて、私は心細さに泣き出しそうになってしまう。

(ヴィクター?)

 お屋敷の中にこんな場所はない。
 もちろんヴィクターの姿なんてどこにもなくて、私は救いを求めるようによろよろと歩き出した。

 シーナちゃんの小さな足では、懸命に歩いてもいくらも進まない。進めば進むほど、周囲はどんどん暗くなっていく。

(ヴィクター……。どこ……?)

 不安が膨らんで、うまく呼吸できなくなる。
 休みたいけれど、こんな冷たい床に座るのはごめんだった。仕方なく、私は疲れた足に鞭打って歩き続ける。

 ぴちょん。
 ぴちょん。

 ぽてぽて。
 ぽてぽて。

 聞こえるのは水滴の落ちる音と、シーナちゃんの小さな足音だけ。

 すっかりくたびれ果てたころ、暗闇の奥に頼りない光が灯っているのに気がついた。私ははっと立ち止まり、最後の力を振りしぼって一直線に駆けていく。

 たどり着いた部屋、机に置かれたカンテラの中で、細い炎が揺れている。

『ぱ、ぅ……』

 息をついた瞬間、周囲の異様さに気がついた。
 扉のない部屋、入口には粗末な机と椅子が一脚だけ。そして奥の空間は、錆の浮いた太い鉄格子で遮られている――……

(ここ、もしかして牢屋……?)

 無意識に足が動き出し、カビ臭い牢屋に向かって歩を進める。
 鉄格子の隙間から内部を覗き込めば、不意に闇の一部がもぞりと動いた。

『ぱうぅっ?』

 思わず悲鳴を上げた私に向かって、鉄格子の中から細い手が伸びてくる。逃げなければと思うのに、足が縫い止められたみたいに動けない!

 怯えて縮こまる私の上から、ふんと鼻を鳴らす音が聞こえてきた。

『――何だ、このみすぼらしい毛玉は。死神の迎え……ではないな、確実に。間抜け面が過ぎる』

『…………』

 あああああんッ!!?


 ◇


「ぱえっぽぉぉぉ〜〜〜っ!!」

(間抜け面で悪かったなーーーっ!!)

「……っ。シーナッ!」

 怒りの雄叫びを上げ、がばっと勢いよく起き上がる。
 と、目の前には眉根を寄せたヴィクターがいた。覆いかぶさるように私を覗き込んでいて、今にも触れてしまいそうなほど距離が近い。

「……ぱ、ぱぇぱぁっ?」

 恥ずかしくなって逃げ出そうとするのに、ヴィクターはそれを許さなかった。さっと私を引き寄せ、きつく胸に抱き締める。

「……っ」

「……酷くうなされていたぞ。明かりをつけても、何度も揺すっても目覚めなかった」

 何か悪い夢でも見ていたのか、と低い声で問われ、私ははたと瞬きする。

(ああ、そうか……)


 ――今のって、夢、だったんだ。


 霞がかっていた頭が急速にクリアになっていく。
 そうだ、ここはヴィクターの部屋の中。寒々しい牢屋なんかじゃなく、清潔で暖かなベッドの上。
 昨夜は巣箱で寝ようとしたらヴィクターに拗ねられて、結局いつも通り彼のベッドに入れてもらったんだっけ。そして頭の中でシーナちゃんを数えていたら、いつの間にやらすっかり寝入ってしまったのだ。

「ぱあぁ……」

「落ち着いたか」

 ヴィクターが腕の力をゆるめ、私は照れながらも頷いた。ヴィクターが安堵したように目を細める。

「まだ、夜中だ。どうする。何か温かい物でも飲むか」

 少しだけ考え、私はゆるゆるとかぶりを振った。ヴィクターの服を握り締め、ぎゅっと彼にしがみつく。

 まだ夢の余韻が残っている。
 見知らぬ暗い場所に、ひとりきりでいる恐怖。迷子のような心細さ。
 触れ合った体からヴィクターの規則的な心音を感じて、高ぶっていた気持ちが落ち着いてくる。

 ヴィクターは黙ったまま、大きな手で私の背中を撫でてくれた。こわばった体から力が抜けていき、すぐに睡魔が戻ってくる。

 小さくあくびをして、目を閉じた。
 再び眠りに落ちる寸前に、ふと思考が飛んでいく。

(……あそこ、一体どこだったんだろ……?)

 夢にしては、やけにリアルだった気がする……。
 じめじめした匂いも石床の冷たさも、まるで現実に自分がそこにいるかのようだった。

 それに、最後に聞こえたあの声。高くもなく、低くもない平坦な声。
 鉄格子の隙間から伸びていた、頼りないぐらいに細い腕。

 ぼんやりしたシルエットだけで、顔かたちは見えなかったけれど。

 あれは、そう。きっと――……

(子ども……)


 ――まだ年端もいかない、子どもだった。