月の巫女。

 それはルーナさんによって、数百年に一度選定されるという特別な存在。
 月の巫女は満月の下で聖なる舞を舞い、ルーナさんは月の巫女を通して神の力を行使する。そうしてこの世界に満ちる魔素を浄化するのだ。

 ……うん。
 確かに私は、次の『月の巫女』にルーナさんから選んでもらった。もう元の世界に戻れない私にとっても良い話だから、私も喜んで引き受けた。

 それはもちろん覚えていますよ、覚えていますけどね?

(――いや私、今は人間じゃなくってシーナちゃんなんですけど!?)

 月の巫女になるのは、呪いが解けて人間に戻ってからじゃなかったの?
 まだまだ先のこと、まずは呪いを解いてからの話だと思っていたから、私はヴィクターたちにも話さずのほほんと構えていたというのに。

(確か月の巫女に選ばれるのって、この世界では最高の栄誉だとか言ってたっけ……)

 えぇと、それから。
 私は必死でルーナさんの言葉を思い出す。

 月の巫女に選ばれた女の子は、最初はみんな寝耳に水とびっくりする。
 だって突然、家まで神官たちがうやうやしく迎えに来るから――……って。うわ、それってつまり!?

(やばい! 私もしかして、今から聖堂に連行されちゃうってこと!?)

 おろおろしてヴィクターを見上げるが、彼も完全に硬直してしまっていた。「月の巫女……?」と低く呟くなり、勢いよくキースさんを振り返る。

「おい。キース」

「……はい」

 キースさんが力なく顔を上げる。
 しかしヴィクターはお構いなしに、目を吊り上げて彼に詰め寄った。

「どういうことだ、説明しろ。この毛玉が舞を舞うだと? 月の女神は何を考えている? こいつが不格好に踊ったところで、神聖さもありがたみも皆無だろう。いや、笑いは取れるかもしれんが」

 わあ失敬な!

 私が声を上げるより早く、神官長たちが剣呑にどよめいた。

「なんと畏れ多い事を! いかに王子とはいえ、今の暴言は許されませんぞヴィクター殿下!」

「まったく、これだから不浄の者は」

「ふん。悪しき魂では、月の女神ルーナ様の崇高なお心は理解できないということでしょうな」

 ――はああッ!?

(ってアンタたち、暴言はどっちよ!?)

 怒りのあまり目の前が真っ赤に染まる。
 声もなく体を震わせる私を、ヴィクターはなだめるように撫でてくれた。けれど私の激情はおさまらない。

「……ぱぇ」

 歯を食いしばって振り向き、小さな手で背後のテーブルを指し示す。
 ヴィクターが驚いたように瞬きしたが、私は手を上下させてヴィクターにアピールし続ける。降ろして、降ろしてよヴィクター。私をテーブルに置いて。

 戸惑いながらも、ヴィクターは私の望み通りにしてくれた。
 広いテーブルの端っこで、私は両足をしっかりと踏んばって顔を上げる。

 怪訝そうに眉をひそめるヴィクターに、顔色を悪くしているキースさん。きっとさっきの神官たちの発言に怒っているのだろう、ロッテンマイヤーさんもきつく唇を噛み締めていた。

「ぱえっ!」

 最後に、ありったけの怒りを込めて神官長たちを睨みつける。

(そんなに見たいのなら、見せてやろうじゃない。――シーナちゃん渾身の華麗なる舞をねっ!)

 ダンスくらい、私だって踊ったことはあるのだ。
 目をつぶり、トントン、と足でリズムを刻み出す。

 リズムに合わせて脳内再生するは、老若男女誰もが知るお馴染みのあの曲。小学生の夏休み早朝の定番ソング。

 明るく景気のいいイントロ部分、そしておじさんの元気な掛け声まできっちり再現したところで、私はカッと目を見開く。

(よっしゃ、行くよーっ!)

 脳内ソングに合わせ、突如として弾けるように動き出す。

 短い腕を上げて背伸びして、
 足を曲げて腕を振って、
 そんでもって思いっきり腰をひねるっ!

(ところどころ、うろ覚えっ)

 うん。だけど問題ない。
 日本国民なら全員が知っていても、この世界の人々は誰もラジオな体操なんて知らないのだから。

「ぱぇあ、ぽぇあ〜! ぷっぷぷぅ〜っ!」

(キレよく! 自信満々に! イッチニ、イッチニッ!)

「ぐっ……!」
「ふっ、くく……っ!」

「こ、こら! お前達っ!?」

 取り巻き神官ズは、案外早くに陥落した。
 神官長が怒りの声を上げるが、いやあなただって思いっきり顔が笑ってるよ?

 歌い踊りながら(いや体操なんだけど)チラリとヴィクターたちも確認すると、ヴィクターは床に崩れ落ちていた。チッ、爆笑してるとこ見たかったのに。

 キースさんだけはひとり恍惚とした表情を浮かべ、リズミカルに激しく腕を振っている。うん、アイドルの応援かな?

 ロッテンマイヤーさんはいかめしい顔を崩してはいないものの、それでも頬がピクピク動いていた。よーし、あともう一押し。

(ラストスパートぉっ!)

 腕と一緒にしっぽを豪快に振りまくる。
 ぽっふぽっふと跳ねたら、着地に見事に失敗してビタンと転けた。「ぶっは!!」と同時に噴き出したのは、神官長とロッテンマイヤーさん。

 私は何事もなかったかのように立ち上がり、優雅に深呼吸。ぺこりと頭を下げれば、すぐさまキースさんが割れんばかりの拍手を送ってくれた。

「いやぁ素晴らしいです、素晴らしすぎますシーナ・ルー様ッ!! きっと今代の『月の舞』は過去に類を見ないものとなることでしょう!!」

「ああ。ある意味でな……」

 ヴィクターがよろよろと起き上がる。
 荒っぽく目をこすり、私に手を差し伸べた。見下ろす眼差しは優しくて、私はぱうぅと照れ笑いする。

「……それではもう一度聞こうか、月の聖堂の敬虔なる神官達よ。この毛玉の舞を、笑わずして最後まで見届ける事はできそうか?」

 私を手に抱き、ヴィクターが皮肉げに唇を歪めた。