「お帰りなさいませ、シーナ・ルー様! 今宵もまた美しい月が出ておりますよ! 首を長くしてお帰りをお待ちしておりましたっ」

 日がとっぷりと暮れてから。

 屋敷に戻った私とヴィクター、馬車に同乗してきたカイルさんを出迎えたのは、テンション高めなキースさん。夜も遅いってのに元気だなぁ……。
 今日は聖堂に寄って遅刻をした分、仕事が押してこの時間になってしまった。

 騎士服の襟元をゆるめながら、ヴィクターは不快げに眉根を寄せる。

「……人の家に日参するのも大概にしろ」

 書類の山に埋もれて苦しんで、まだ不機嫌を引きずっているらしい。が、キースさんは気にしたふうもなく、にこにこと私たちを玄関に招き入れた。

「シーナ・ルー様からの聞き取りが、まだまだ全くもって進んでおりませんからね。月が見える限り、そしてシーナ・ルー様の体調が許す限り、わたしは毎日だって人間シーナ・ルー様と腹を割って話し合い、親交を深めさせていただくつもりですよ! そうヴィクター殿下、あなたに代わって!」

「…………」

 ヴィクターから一切の表情が抜け落ちる。
 ゲッとうなったカイルさんが、慌てた様子で二人の間に割り込んだ。

「ちょっ、キース! 最後の一言がめちゃくちゃ余計だよ。ヴィクターから禍々しい負のオーラが――……ってあああ、シーナちゃんっ!?」

 私はふらりと傾いて、危うくヴィクターの肩から落ちそうになっていた。
 カイルさんが手を伸ばすより早く、ヴィクターがさっと私を支えてくれる。……お、おおう。今一瞬、魂が抜けかけてたわ。

「ぱぇぱぁ、ぱうぅ~っ」

(ヴィクター、怖いよっ)

 半泣きでヴィクターをぽふぽふ殴る。
 こうして即座に文句を言える程度には、恐怖耐性の低いシーナちゃんだって彼に慣れてきたのだ。そうそう死にかけてばかりいられないもんね。

 ヴィクターはそうっと私を抱き上げると、小さくため息をついた。

「……悪かった。気をつける」

「ぱえっ」

 うん、お願いします!

 ほっとヴィクターの手に座り込み、しっぽで軽やかに彼をひと撫でする。ヴィクターなりに努力してくれてるのは、私にだってちゃんと伝わってるから。

 ヴィクターの瞳がやわらいだ。
 一部始終を見ていたカイルさんとキースさんが、引きつった顔を見合わせる。

「い、今の聞いた? キース」

「え、ええ。もちろんですとも、カイル」

 ――あのヴィクターが、「悪かった」って謝ったよ今っ!!

 声を殺しながらも、大興奮でささやき合う。途端にヴィクターの額にビキリと青筋が立った。

「カイル、キースっ! 貴様ら俺を何だと思っている!?」

「ぱ、ぱうぅっ?」

 こらぁヴィクター!
 たった今! 気をつけるって言ったばっかでしょうがっ!? 有言実行しなさいよっ!

 ……なんて、文句を言う間もなく。

「シーナちゃん!?」
「シーナ・ルー様っ」
「……っ。シーナ!」

 男たちの慌てふためく声を子守唄に、今度こそ私はへろへろと気絶するのであった。む、無念……。夜ごはん、食べたかったぁ……。


 ◇


(……ん……?)

 ふわり、と甘い香りを嗅いだ気がして、鼻が勝手にぴすぴす鳴り出した。
 ゆっくりと目を開ければ、ほんの鼻先にねじれた形の焼き菓子があった。こんがり狐色の表面には、粗めの砂糖がたっぷり振りかけられている。

「ぱぅっ!」

 勢いよく体を起こした瞬間、周囲から温かな笑い声が上がった。
 カイルさんがおかしそうに私を覗き込んでいて、口元にお菓子をあてがってくれる。条件反射で一口かじった。

「ぽあぁ……」

(やわらかーい)

 しっぽを振り振り、頬を押さえて身悶える。まだほんわり温い、優しい甘さのドーナツだ。

(美味しいぃ。夜の甘いものって格別だよね)

「どうぞ、シーナ・ルー様。ホットミルクもお召し上がりくださいませ」

「ぱえ~」

 今度はキースさんからマグカップの縁を当てられる。ホットミルクはほどよく人肌程度に冷めていて、私は喉を鳴らして一気に飲み干した。

 死にかけて疲れてしまった体に染みわたる。さしずめ回復薬ってところかな。

 すっかり元気を取り戻し、ねじれドーナツを受け取って周囲を見回した。そこは見慣れたヴィクターの部屋で、にも関わらず家主の姿が見当たらない。

「ぱぇぱぁ?」

「あ、シーナちゃん。ヴィクターならそこだよ、そこ」

 カイルさんが苦笑して振り返る。
 彼の視線をたどれば、ソファに無言で腰掛けるヴィクターの姿があった。いやいたのっ!?

(な、なんか暗すぎません……?)

 ずぅぅぅん、という擬音が背後に付きそうなほど、彼の近辺だけやけによどんでいる。虚空を睨みつける顔はいつも通り怖いんだけども、落ち込んでいるのは明らかだった。

 すがるようにカイルさんを見上げると、カイルさんは笑いながら私を抱き上げた。
 ソファに歩み寄り、ヴィクターの膝にそっと私を載せて後ろに下がる。

 ヴィクターが暗い眼差しをこちらに向けた。
 私はごくんと唾を飲み、上目遣いに彼を見上げる。

「ぱぇぱぁ? ぽぇ、ぽぇあ~?」

(ヴィクター? さっきのこと、気にしてるの?)

 もぐもぐ、もぐもぐ。

「ぱぅ、ぽえぇ~」

(大丈夫だよ、なにせ私は死にかけのプロなんだから)

 もぐもぐ、もぐもぐ。

「ぱぇあ、ぽえぽえ~!」

(ほら、元気出していこ!)

 もぐもぐ、もぐ

「いや食べながら片手間で慰めるな!!」

 頭上から一喝された。
 途端にカイルさんとキースさんが爆笑する。

 私はヴィクターの膝に座り込み、小さくなったねじれドーナツをゆうゆうと平らげた。怒った振りをしてるけど、本当は照れ隠しに怒鳴ってるだけ。ちゃんとわかってますからね?

「ぽえっ!」

(ご馳走さま!)

 てっ、と両手を上げると、ヴィクターは無言で私の手を拭いてくれる。口元まで荒っぽくぬぐってから、探るように私を見た。

「……どうする、シーナ。今夜は人間に戻るのはやめておくか」

「ぱぅえ~」

 ううん、と私はきっぱりと首を横に振る。
 戻るよ、戻りますとも。多少の無理なんかいとわない。
 最大限に努力して、一日も早くこの呪いを解いてみせるって決めたんだから。

(そして……)

 ちらっとヴィクターを見上げ、大急ぎでうつむいた。

 ヴィクターと、ちゃんと話したい。
 手を繋ぎたい、とかは……。ちょっと、よく、自分でもわかんないんですけどね?

 もじもじとしっぽをいじくる私を、ヴィクターはいたわるように撫でてくれた。