「今宵は、月が美しい……」

 銀糸のように輝く髪をさらさらと揺らし、キースさんがうっとり呟いた。

 数日ぶりに雨が上がり、夜闇には欠けた月がぼんやりと浮かんでいる。――そう、今夜は私たちが待ち望んだ月夜なのだ。

 ワイングラス(ちなみに中身はただの水)を傾けると、キースさんはフッと口角を上げた。グラスを置き、高らかに両手を打ち鳴らす。

「さあ、というわけで! それではこれより、第一回ヴィクター殿下宅お泊り会を開催いたしましょうっ!」

「わあ~、パチパチ~」

「ぽえぽえ~」

「…………」

 大喜びして盛り上がる私たちを尻目に、ヴィクターはむっつりと黙り込んでいる。

 今夜のお泊り会のメンバーは、私、カイルさん、キースさん。それから言わずと知れた、家主であるヴィクター。

 みんなに合わせてぽふぽふと拍手しながらも、その実私は悩んでいた。

(さて、どうしよっかな……?)

 今日の会の目的は、もちろん私が人間に戻ること。そして詳しい事情をみんなに説明すること。

 できればそれにプラスして、キースさんに頼み事もしたいと思っている。魔素で窒息するまで、時間との勝負だった。

(そのためには……)

 ちらりとヴィクターを見上げる。

 ヴィクターはずっと不機嫌だった。自分一人で構わない、と強く主張したにも関わらず、カイルさんとキースさんが断固拒否して家に押しかけてきたからだ。

(私としては、そうじゃなきゃ困るんだけどね)

 ヴィクターと二人きりでは、この間の二の舞いだ。
 事情を説明するどころか命すら危ういし、そうそう都合よくルーナさんが助けてくれるとも限らない。だから本当は、ヴィクターには別室で待機してもらって、カイルさんとキースさんの三人だけで話せればいいんだけど――……

「カイル、キース。お前達は客室にでも行っていろ。シーナの話は後で聞かせてやる」

 ヴィクターが苦々しく吐き捨てた。

 や、むしろそれはあなたにお願いしたいんですけどね……?

 頭を抱え込む私をよそに、カイルさんとキースさんがあっさりとかぶりを振る。

「嫌だね、それじゃあ二度手間じゃん。それにオレだって、人間版シーナちゃんに会いたいし?」

「もちろんわたしもですともっ! ここは絶対に退きませんよヴィクター殿下ァッ!」

「……チッ」

 ものすごく嫌そうに舌打ちされた。
 ヴィクターは鋭く私を見下ろすと、「シーナ、戻れるか?」と聞いた。うーん、そうだねぇ……。

 迷いつつも私は立ち上がり、手招きでヴィクターを呼び寄せる。ヴィクターも怪訝そうな顔で腰を上げた。

 ちょいちょい、ちょいちょい。

 少し走っては振り向いて、ヴィクターを誘導する。そうして、ヴィクターにはベッドの反対側の壁に張り付いてもらった。

「…………おい、シーナ」

 何のつもりだ、と低い声を出す彼を、両手を合わせて拝み倒す。お願いお願い、そこにいて~。

「えっと、シーナちゃん? オレらはどこにいればいいの?」

 困ったように尋ねるカイルさんに、私は小さく首を振る。大急ぎでベッドまで戻ってぴょんと跳ねれば、キースさんがすぐに察して私をベッドの上にあげてくれた。

(……よし。準備完了)

 深呼吸して心を落ち着ける。

 ベッドに載せてもらったのは、時間切れで倒れちゃった時に備えて。転んでたんこぶ作るのはごめんだからね。

 カイルさん、キースさん、それからヴィクター。

 緊張した面持ちの三人を順繰りに見回して、私はきつく目を閉じた。そうして、心の中でルーナさんに呼びかける。

(お願い、どうか呪いを解いて……!)

 ぽわり。

 額がほんのり熱くなる。最初に人間に戻った時と同じ感覚。
 二度目ともなれば慣れたもので、何かがほどけていくような心地よさに、私は素直に身をゆだねた。全身に熱が行き渡り、体がうっすらと発光する――……

『――ッ!!』

「は、あ……っ」

 みんなが驚きに息を呑むのが聞こえて、私は大きく息をついて目を開ける。身につけているのは、前回と同じ真っ白なドレス。

 涙がにじんだせいか、少しだけ視界がぼやけた。
 震える呼吸はやっぱり苦しいけれど、一度目にヴィクターに押さえつけられた時ほどじゃない。どうやら距離を取って正解だったみたい。

 ふ、と口元がゆるんだ。
 目尻の涙をぬぐい、唖然として固まるカイルさんとキースさんに、へにゃりと笑いかける。

「……っ」
「ぅ……っ!」

 途端に二人して真っ赤になった。……ん、どうかした?
 首を傾げていると、ヴィクターが憤然とこちらに歩み寄ってくるのが見えた。や、やばばばばっ!!

「ヴィクター待って、ストップ! お願い動かないで! 下がって!!」

 絶叫し、ぜいぜいと喉を押さえる。うああ、叫んだせいでさらに酸素が……っ。

 苦しむ私に、ヴィクターが顔色を変えて足を止めた。カイルさんとキースさんも、今度は一気に青くなる。

「シーナちゃん!?」

「ご、ごめ……。わたし、魔素に……耐性が、なくって……っ」

 絞り出すようにして、告げる。
 倒れかかった私を、カイルさんが慌てたように肩を抱いて支えてくれた。ヒッと引きつった声を上げ、おろおろと後ろを振り返る。

「ちょ、ヴィクター! これは不可抗力だから殺気飛ばさないで!?……シーナちゃん、どういうこと? 何が、何だって?」

「魔素、に、耐性が、ないの。息が、つまって、しんじゃう……っ」

 だから人間の時は、ヴィクターの側に寄れないの。

 苦しい息の下、必死で声を絞り出す。
 視界がどんどん暗くなる。ああ駄目だ、今回も全然時間が足りない。

「え、魔素……? シーナちゃん、それって」

「およしなさいカイル、ここまでです! シーナ・ルー様、もはやお戻りくださいませ。命の危険があるとおっしゃるのなら、今日のところはこれで充分でございます!」

 ひざまずいたキースさんが、冷たくなった私の手をきつく包み込んでくれる。
 その温かさに安堵して、小さく頷く。キースさんの手を少しだけ握り返した。

「キース、さん……。わたし、ルーナさんに、会いたいの。だから、わたしを一度、聖堂に」

「ええ、承知いたしました! 近いうちに聖堂までお連れすると約束しましょう!」

 よかった……。

 ほっとして、緊張の糸が切れる。

 光があふれて体中を包み込む。苦しさは瞬時に去っていき、私は安らかな気持ちで目を閉じた。

 やったよルーナさん。一つだけだけど、ミッションクリアしたよ……。