食堂にしんと静寂が満ちる。

 ヴィクターが出ていったことで私はやっと息をつけたけれど、心は冷え冷えと凍りついたままだった。ぱぅ、と小さく鳴いてテーブルにへたり込む。

「……ごめんね、シーナちゃん」

 ややあって、カイルさんが強ばった笑みを私に向けた。

「ヴィクターのヤツ、ここんとこずっと働き詰めで疲れてるんだよ。そのせいで、いつにも増して怒りっぽくなっちゃって」

 だから気にしなくていいからね、なんてフォローしてくれるけれど、私は素直に頷けなかった。……だって。

(さっきのヴィクター、本気で怒ってた……。本気で、私のことを遠ざけるつもりなんだ……)

 胸の奥が詰まったみたいに息苦しい。
 もう二度とヴィクターの側にいられないのかも、という悪い予感に体から力が抜けていく。

「シーナ・ルー様。ヴィクター殿下は……」

 ためらうように言葉を切って、キースさんがため息をついた。

「ただ、戸惑っていらっしゃるのですよ。相反する感情に心が揺れて、ご自身でもどうすべきかわからないのでしょう」

 相反する……感情?

 おずおずとキースさんを見上げれば、キースさんは唇を引き結んで頷いた。

「自身を慕い、頼ってくるシーナ・ルー様を助けねばという思い。――そして、自身のせいでシーナ・ルー様を死なせてしまうかもしれないという恐怖に、です」

「……っ」

 息を呑む私を見て、キースさんもカイルさんも痛そうな顔をする。

「長年の習性を急に変えることは難しい。シーナ・ルー様を怯えさせるべきではないと頭ではわかっていても、ヴィクター殿下の根底には常に(くすぶ)り続ける怒りがあるのですよ。ご自身でもコントロールできないほど暗くて深い怒りが、ね」

「急に朗らかに生きろ、なんて言ったところで、そりゃ無理だよなぁ……。シーナちゃんのせいじゃないよ。無理やりヴィクターに君を押しつけた、オレが全部悪いんだから」

 荒っぽく頭を掻いて、カイルさんはしょんぼりと肩を落とした。「あなたが落ち込んでどうするのですか」と一喝すると、キースさんはひたと私を見据える。

「シーナ・ルー様。いかがされますか? ヴィクター殿下の元を離れ、月の聖堂にいらしていただけるならば、わたしは全力であなた様をお守りすると約束いたします」

(……私は……)

 しばし茫然とキースさんを見つめ、逃げるようにうつむいた。
 言えない言葉が、心の中でぐるぐると渦を巻く。

 ……カイルさんもキースさんも、そしてヴィクターも誤解をしている。

 私は別にヴィクターが好きなわけじゃない。懐いているわけでも、慕っているわけでもない。
 ただ呪いを解くために、彼を利用しているに過ぎないのだから。

 ヴィクターはそれを知らない。
 だからキースさんが言うように、私が死んだらきっとヴィクターは自分を責めるだろう。取り返しのつかない傷を、彼に負わせてしまうかもしれない。

 ――ちゃんと、わかっているのに。

(私、ひどいヤツだ……)

 わかっていながら、それでも私はやっぱりヴィクターから離れるつもりはない。どれだけ彼を傷つけても、しがみついてでも人間に戻りたいと願ってしまう。

 最低最悪。
 救いようがないほど自分勝手。

 自己嫌悪に吐き気がして、目をつぶって縮こまった。荒い呼吸を何度も繰り返す。


 ――月夜には……


 (かすみ)がかった頭に、不意に聞き覚えのある声が優しく響いた。私はぼんやりと目を開く。


 ――月夜には、呪いの(かせ)がゆるむから

 ――あなたが望めば、人間に戻ることはできる


 天真爛漫なルーナさんの、のんびりとした明るい声。

(……そっか。そうだよね)

 その瞬間、心にぱっと希望の光が灯った。
 みるみる迷いが晴れていく。

 カイルさん、そしてキースさんにロッテンマイヤーさん。
 固唾を呑んで私を見守っていたみんなを順繰りに見回して、私は大きく息を吸った。

「ぱぇ、ぱぇあ、ぱぅっ!」

(勝手ばかり言ってごめんなさい。だけどどうか、まだ私をここにいさせてほしい!)

 唖然とする彼らに、身振り手振りで一生懸命に訴えかける。

「ぱぇぱぁ、ぱえぇっ」

(ヴィクターに、ちゃんと本当のことを話すから!)

 そう。

 私が本当は純粋無垢な小動物なんかじゃなくて、小狡くて打算的で、自己中心的な人間なんだって。
 死ぬかもしれないというリスクをわかった上で、あなたの側にいることを選んだんだって。
 勝手に付きまとって勝手に死んだとしても、あなたが心を痛める必要なんかないんだよ、って。

 ちゃんと、私自身の口で説明してみせるから。

「ぱぅ、ぽえぇっ」

(お願い、みんなっ)

 言うだけ言って息を切らして黙り込めば、しばし場に沈黙が満ちた。
 ややあって、カイルさんが困った様子で頬を掻く。

「えぇっと。これは」

 キースさんも難しい顔で腕組みする。

「そうですね。わたしが思うに、おそらくシーナ・ルー様は……」

「これまで通り旦那様のお側にいたい、とおっしゃっているようにお見受けいたしましたわ」

 ロッテンマイヤーさんが淡々と後を引き取った。そう、その通り!

「ぱえぱえぱえっ!!」

 何度も頷くと、三人は無言で顔を見合わせた。
 カイルさんの頬がゆるみ、キースさんもくすりと笑って肩をすくめる。

「そういうことならば仕方ありませんね。もちろんこのわたしも、全面協力させていただきますとも」

「そだね。とりあえずオレも今から出勤して、もう一度ヴィクターを説得してみるよ。それで……」

 問うような視線を向けられ、ロッテンマイヤーさんもいかめしく首肯した。

「わたくしは他でもない旦那様から、シーナ様にお仕えせよと命じられたのです。ならばシーナ様のお望みを叶えることこそ、わたくしの役目でございます」

 ロッテンマイヤーさんんんっ!!

 感激して抱き着く私に、ロッテンマイヤーさんはくすぐったそうに微笑んだ。私の頭を優しく撫でて、キッとカイルさんを振り返る。

「旦那様の説得はあなたに任せましたよ、カイル。シーナ様を泣かせたら、このわたくしが許しません」

 カイルさんは苦笑すると、すぐに芝居がかった仕草でお辞儀した。

「はいはい、了解です。母さん」

「…………」

 ……母さん?

「ぱぅええええっ!?」

 絶叫する私に、カイルさんとロッテンマイヤーさんもびっくりしたみたいに目を丸くする。

「あ、あれ? もしかして知らなかった?」

「ロッテンマイヤー殿はカイルの御母堂にして、ヴィクター殿下の乳母でもあられたのですよ」

 そうなん!?
 初耳だよー!

 新事実に、ぽかんと口を開けて固まってしまう。
 さぞかし間抜けな顔をしていたのだろう、一拍おいて全員が噴き出して、食堂に温かな笑いが弾けた。

 一緒になってぱえぱえ笑いながら、私はここにいないヴィクターに、心の中でそっと語り掛ける。

(……待っててね、ヴィクター)


 ――必ず人間に戻って、あなたにこの思いを伝えてみせるから。