「助けるとは言ってもね、わたくしはあくまでこちらの世界の神だから。あなたの世界にとっては異物で、本来ならば存在しないはずのもの。だから直接的に手を下すことは難しくて、とっさに――」

 異世界へと繋がった『道』に、落ちていく娘を引っ張り込んだ。
 己の領域内に入れさえすれば、後は神の裁量でどうとでも扱えるから。

「そうしてまずは、気を失った娘の怪我を癒やしたわ。泥で汚れた体も魔法で綺麗にしてあげた。美人とまでは言えないけれど、まあまあ見られる顔立ちをしていたわね。わたくしはすっかり己の仕事ぶりに満足して……それから、はたと困ったの」

 あらまあ、どうしましょ?
 この子を元の世界に戻したら、その瞬間に谷底に落ちて死んでしまうわ。

「せっかく助けたのに、それじゃあもったいないじゃない? だから仕方なく、わたくしはあなたをこちらの世界に連れてきたってわけ」

 そこまで一息に説明すると、ふああ、とルーナさんは大きく伸びをした。絶句して立ち尽くす私に微笑みかけ、花畑の上に横座りする。

 すかさず膝に載ってきたシーナちゃんを撫でながら、挑戦的な眼差しで私を見上げた。

「ねえ、シーナ。これを聞いて、あなたはどうしたいと思った? たとえその先に待つのが確実な死だとわかっていても、あなたは帰ることを望むのかしら」

「……っ」

 心臓を射抜かれた心地がして、息を呑む。
 ぐるぐると目眩がしてきて、私はぎゅっと目をつぶった。頭の芯がしびれたみたいに働かない。

 真っ暗闇の世界の中で、ルーナさんの声だけが楽しげに響く。

「全くの別世界で生きる覚悟があるというのなら、わたくしは次の『月の巫女』はあなたに決めてあげる。さっき教えてあげたでしょう? 月の巫女になれば人々の尊敬を集められ、一生何不自由なく暮らせるのよ」

「…………」

「今までの月の巫女とは、こんなふうに会話したことはなかったわ。シーナはとっても面白くって刺激的。いっぺんで気に入っちゃった。あなたになら、わたくしの名を利用することも許してあげ――」

「ルーナさん」

 かすれた声で彼女の名を呼べば、彼女はピタリとさえずるのをやめた。

 唇が震える。ちょっと声を出しただけで泣き出しそう。
 けれど私は、お腹に力を入れて必死で踏みとどまる。

 先をうながすように黙り込むルーナさんに、深々と頭を下げた。

「……私を助けてくれて、ありがとうございました」

 そう。
 ――ありがとう、だ。

 だって私は、まだ死にたくない。
 たとえもう二度と家族と会えないとしても、心配をかけてしまった友達に謝れないとしても、職場の皆に迷惑をかけたとしても、それでもやっぱり死にたくない。

 人と楽しく笑い合って、触れ合いたい。おいしいごはんや甘いお菓子が食べたい。一日たくさん頑張ったご褒美に、ふかふかなベッドでゆっくり眠りたい。

(まだまだこれからも、私は生きていたい……っ)

 昔から諦めの早い私だけど、今回ばかりは諦めたくない。
 だって、せっかく助かった命なんだから。

 こぼれ落ちそうになった涙を乱暴にぬぐって、泣き笑いの顔でガッツポーズを決める。

「月の巫女、喜んで引き受けます。そしてそして、ルーナさんの威光を笠に着まくって、この世界でしあわせになってみせる!」

 約束します、と笑えば、ルーナさんもくすぐったそうに頷いた。ふんわりと羽根のように立ち上がり、優しく私を抱き締める。

「偉いわ、シーナ。まだまだ課題は山積みだけれど、逆境にへこたれないあなたなら絶対に大丈夫。このわたくしが保証してあげる」

「ルーナさん……っ」

 温かな言葉に、とうとう我慢が切れて声を上げて泣き出した。
 しゃくりあげる私の背中を叩くと、ルーナさんは聖母のように微笑み――そして。

「それじゃあシーナ。月の巫女になるためにも、まずは呪いを解くのを頑張りなさいな。今はあなたの精神だけを天上世界に呼んだから、人間に戻ったみたいに見えるけど。下界に行けばまた、ぽえぽえシーナ・ルーちゃんに逆戻りだからね」

「へ?」

 呪い。
 呪い――呪いッ!?

 そうだ、それがあったんだ!!

 爆弾発言にハッとして、私はルーナさんから勢いよく離れた。

「ルーナさん! それって!」

「ええ。わたくしもシーナが来て初めて知ったのだけれどね? どうやら別の世界の人間には、魔素への耐性が全くないみたいなの。うふふ。シーナったらこの世界に落ちた瞬間に、息が詰まってまた死にかけたのよ? わたくし思わず笑っちゃったわ~」

 笑いごとと違ーう!!

 ってことは、何?
 私は山で転んで死にかけて、魔素のせいで窒息して死にかけて、熊モドキに襲われて死にかけて、一刀両断男の鋭い眼光で死にかけたってこと?

 いくらなんでも死にかけすぎだろ!!

 うがぁっと頭を抱えこむ私をよそに、ルーナさんはけらけらと笑う。

「それでね、この世界の生き物になるようシーナに呪いをかけたのよ。あ、他者を変身させる魔法は呪いに分類されるんだけど、あなたを助けるためだったから許してちょうだいね?」

「それは別にいいんですけどっ。じゃあじゃあ、私は一生シーナちゃんのままなんですかぁ!?」

「ううん、月夜の晩には呪いが解けるわ。あ、でも人間に戻ったらまた窒息死すると思うけど」

 駄目じゃん!

 口をぱくぱくさせるだけの私に、ルーナさんは「安心して!」ととびっきりの笑顔を向けた。

「呪いを強めて、人間に戻れないようにしておくわ。ほら」

 額にすんなりした長い指を当てられて、一瞬そこがしびれたみたいになる。すぐに指は離れ、私は疑わしく彼女を見上げた。

「……本当に、これでもう大丈夫なんですか?」

「本当だってば。……ああでも、月夜には呪いの(かせ)がゆるむから、あなたが望めば人間に戻ることはできる。その場合は自分でしっかり調整して、息絶える前にきちんとシーナ・ルーに戻らなきゃ駄目よ」

「え、ええ? と、いうことは、つまり……?」

 私は唇を噛んで考え込む。

 月夜の晩にシーナちゃんから椎名深月に華麗に変身して、ほら私は本当は人間なんだよって一刀両断男たちに証明して、別の世界の人間だけどもう帰れないのって説明して、意地悪と変態の巣窟な聖堂は嫌だーって泣き落として、魔素で息が詰まる前に再びシーナちゃんに戻ればいいわけね?

 いや難易度たっっっか。

「うっかり手遅れで死んだら馬鹿みたいー! どうしよ、制限時間はきっと短いんだよね!? 何から伝えるべきか、紙に書き出しとかないとー!」

 大騒ぎする私を、ルーナさんはなぜかとろんとした顔で眺めた。ふあ、と大あくびして、力なく手をひらひらさせる。

「がんばって~……。ああ、わたくし、もうだめ。今の呪いがとどめだったわ。くたびれて、今にも眠りそう……」

「へっ!?」

「本当は、最初にシーナを呪ったときに一度力尽きちゃったのよね……。別の世界と道を繋げるのも、別の世界の人間を連れてくるのも、思った以上に大変だったわ……。だから森にシーナを放置して、天上世界に戻っちゃったんだけど。……ね、だからもう寝ていーい?」

 ええー!
 ちょっとちょっと、困るよ! これからどうしたらいいかとか、呪いを解く方法とか、ちゃんと教えてからお休みなさいして!?

 青くなる私をへにゃりと笑い、ルーナさんはトンと軽く私の肩を押した。

「よくって、シーナ? 人間に戻りたいのなら、緋の王子の側から片時も離れては駄目。呪いを解く鍵は、緋の王子の持つ特異性に……、ふあああ」

「えっ、なんて!?」

 緋の王子!?
 それって一刀両断男のこと!?

 尻もちをつくかと思ったのに、いつの間にやら足元の花畑が消失していた。
 真っ暗な穴に体が投げ出され、伸ばした手が空をかく。

「きゃああっ!? ルーナさっ」

「緋にょ王子にょ、ふにゃらら、もごもご、ふにゃあ~」

 いやシャキッと説明せんかーーーいっ!!

 全力で突っ込んだ声さえも、闇の中に吸い込まれるようにして消えていった。