「月の、巫女……?」

「そう。あるいは、月の(にえ)と言い換えても構わない」

 ぽかんと繰り返す私に、彼女は薄く笑みを浮かべた。
 今までのやわらかな空気が消え失せて、まるで全くの別人になってしまったみたいに見える。なんだか怖くなって、私は思わず彼女から身を引いた。

 しかし、すばやく伸びてきた彼女の手が、思いのほか強い力で私の腕を握る。

「……っ」

「月の巫女はね、シーナ。この世界の安寧のため必要な存在なのよ。女神たるわたくしが、この世界に干渉するための器。つまりは、わたくしの手足となって働く使い捨ての(こま)なの」

(使い捨て? 駒……?)

 背中をつうっと冷や汗が流れた。

 言いようのない恐怖を感じ、シーナちゃんだったときのように体が冷たくなってゆく。
 唇を噛んで震える私を、彼女はただ無表情に眺めた。びりびりと皮膚に痛いほどの緊張感が満ちる。

「……ふっ」

 ややあって、彼女は突然ひくっと口元を引きつらせた。こらえかねたように噴き出して、「なぁんてね」と舌を出す。

「そんな言い方をすると人聞きが悪いわよね。まあ要は、月の巫女はわたくしが力を行使するための依代(よりしろ)になってくれる、ってことなのよ」

「……へ?」

 ルーナさんは軽やかに笑むと、握ったままだった私の腕をなだめるように優しく叩いた。

「この世界にはね、『魔素』と呼ばれる気が満ちているわ。魔素は一定の量までなら問題なくとも、過ぎると人の身を蝕む毒となる。だからわたくしは、魔素が増えてきた頃合を見計らって、月の巫女を通してこの世界を浄化することにしているの」

 期間はまちまちだけれど、大体は数百年に一度ってところかしら。

 秘密めかして囁くと、白いドレスをひるがえして歩き出す。私は慌てて彼女の後を追った。

「ルーナさんっ」

「月の魔力が最も強まる満月の晩に、月の巫女は聖なる舞を舞い、この世界の隅々にまでわたくしの神力を行き渡らせるわ。巫女になる人間はわたくしが自ら選定し、聖堂の神官へと宣託を下すのよ」

「へ、へえぇ……」

 なるほど。
 つまり月の巫女というのは、神に選ばれた特別な人間ということか。
 この年まで波風なく平凡に生きてきた私には、なんだか雲の上の話みたいに思えて、しみじみ感心してしまう。

「選ばれた人はきっと、すっごく驚くんでしょうね」

「ふふっ、そうね。神官たちがあまりにうやうやしく家まで迎えに行くものだから、歴代の月の巫女たちは例外なく仰天していたわ。でもこちらの世界では、月の巫女に選ばれるのは最高の栄誉なの。だからどの娘も目を輝かせて喜んでくれたものよ」

 ……ん?

 ふと違和感を覚え、私は花畑の真ん中で足を止める。途端にシーナちゃんたちがぽえぽえと群がってきた。

 うわの空で何匹かまとめて抱き上げて、もふもふな毛並みをかき回す。うぅん、今のルーナさんの話からすると、つまり……?

 微笑して私を眺めるルーナさんに、おずおずと尋ねる。

「あの、じゃあ今までは、この世界の人の中から月の巫女を選んでたってことですよね。それなのに今回は、どうしてわざわざ日本に……?」

「ん~、単なる気まぐれ?」

 ルーナさんはこてっと首を傾げる。気まぐれってそんなアナタ……。

 あきれる私をみて、ルーナさんはぷっと頬をふくらませた。

「だぁって、面白くないんだもの。月の巫女はたった数時間程度のお役目なのに、浄化が終わった後もやれ女神様の御使いだ~、聖なる乙女だ~ってチヤホヤされ続けて。求婚だって殺到するから、お相手はよりどりみどり。最初は謙虚だった娘も、だんだんと鼻持ちならない女になっていくのよ。ひどいときには『わらわは月の女神の代弁者であるぞー』とか、寝言を言い始める娘までいたし」

 腹だたしげにまくし立てられ、私はただ目を白黒させる。

(ま、まあ、仕方ない気もするけど……)

 だって、神様から選ばれたのだ。しかも周りの人からも称えられて、持ち上げられて。
 歴代の『月の巫女』さんたちが有頂天になって、図に乗っちゃうのもわからないでもない。

 私が苦笑している間にも、ルーナさんの話は続いていく。
 曰く、別世界の娘ならば、役目が終われば元の世界に帰ってくれるはず。きっと娘も異世界召喚を貴重な経験と喜んでくれるだろうし、お互い得しかないと思わない?

 そう声を弾ませてから、ルーナさんは一転して困ったように眉を下げる。

「……って、我ながらいい考えだと思ったんだけどねぇ。やっぱり別の世界なんてやめとけばよかった~って、すぐに後悔したの。だって、シーナの世界の娘たちっておかしいのよ。どの子を見ても、平べったくて四角い箱を無言で叩き続けているの。たしたしたしたし、一本指でずうっとよ。変でしょ?」

 うん、それスマホだね。

「それにね、歩きながら大声で独り言を言って、見えない何かと会話してるの。理解に苦しむと思わない?」

 ワイヤレスイヤホンで電話中だったのかな……。

 再びぷんぷん怒りだしたルーナさんは、さも嫌そうに顔をしかめた。

「うんざりしちゃって、早々に諦めることにしたの。ごみごみした町から離れて、最初に道を繋げた山に戻ったわ。それで、さあ帰ろうとしたときに――」


 ――きゃあっ!?


「女の子の悲鳴が聞こえたの。おそらく転んでしまったのでしょうね、すごい勢いで斜面を滑り落ちていくのが見えたわ。落ちていく先は谷になっていたから、あらぁ、これはもう駄目ね。助からないわ、って思ったの」

「……っ」

「すぐに興味を失って、わたくしは帰り道に足を踏み出しかけたわ。そうしたら、また叫び声が聞こえたの」


 ――シーナッ!!


「……あ……」

 心臓が大きく跳ねる。
 それはきっと、私を呼んでくれた友達の声。

 私が不注意だったばっかりに、皆にどれほど心配をかけてしまっただろう。
 喉の奥が詰まったみたいになって、涙がこぼれそうになる。

 震える私を、ルーナさんがさも楽しげに眺めた。長くて美しい指で私の頬をひと撫でし、うっすらと微笑む。

「確かにシーナ、と言ったのよ。わたくしの愛するシーナ・ルーと同じ名前。――それで気が変わって、わたくしはあなたを助けてあげることにしたの」