(あ、死んだ)

 どこまでも深く、むせ返るような緑の匂いに包まれた暗い森。

 大木に背中をひっつけて息を止め、私はただ食い入るように前を見つめる。
 ずしんずしんと地面を揺らして迫りくるは、口の端からヨダレを垂らした巨大な獣。

 ぱっと見は熊、みたいに見えるんだけど、その額からは立派な角が生えていた。そして体毛は黒と赤の不気味なまだら模様。

(こんな化け物みたいな熊、この世に存在してたかなぁ……?)

 茫然として天を仰げば、陽射しの差し込む隙間もないほど木々が生い茂っていた。
 ああ、せめて最期に太陽が見たかった――なぁんてね。

 小学生のころから、通知表で『少々粘り強さに欠けるようですね』などと評されることの多かった私。
 社会人一年目となった今でも、残念ながらその気質に全く変わりない。
 目の前に差し迫った脅威に、私はあっさりと思考を放棄した。逃げることも抵抗することも諦め、地面にへたり込んでぎゅっと目を閉じる。

 聞こえてくるのは、ぐるる、という地を這うように低いうなり声。そして、はッはッ、というせわしない息づかい。うおう詰んだー。

 なるべく小さく縮こまり、心の中で必死に念じる。我が気配よ~今こそ跡形もなく消えるのです~。

 頭を抱え込めば、小さなお手々がもふっとしたやわらかな毛並みに触れた。そうだそうだ、長いお耳も折り畳んでおかなきゃね。
 しっぽは……、そう、ふっさりしたしっぽも最大限スリムにして背中にぴったりくっつける。成功した? 知らないよ、何せしっぽが生えたのなんて人生で初ですからね!?

 自問自答で逆ギレしつつ、暴れまわる心臓をなだめすかす。

(私、何か悪いことでもしましたっけ……?)

 今日は楽しい一日になるはずだったのに。
 大学時代の友達と近所の山に登って、頂上でおにぎり唐揚げ片手に乾杯するはずだったのに。

 わいわい盛り上がりながらの登山で、足元がお留守になっていた自覚はある。よそ見したまま踏み出した瞬間、太い木の根に足を滑らせてしまった。
 ずべっと転んだ先は、最悪なことに谷へと続く急斜面――……

 痛いと思ったような気もするが、よくは覚えていない。
 再び目を開けた時にはもう、私はこの見知らぬ森に一人きりだった。

(そして今、大絶賛で死にかけ中!)

 はい、回想終わり。

 自分としては結構長いこと考え込んでいたつもりだけど、意外にも私はまだ生きている。
 もしかして? と一縷の望みを胸に、ちらりと目を開けてみた。速攻で後悔した。

 恐怖の熊モドキさんが、私の鼻先であんぐりと大口を開けていたのだ。そらもう鋭い牙をむき出しにして、「いっただっきま~すっ!」と言わんばかりにうきうきと。

 ちょっ待って、私なんか食べても美味しくないよ!?
 そもそもあんまお腹にたまらないっていうか! だって多分、今の私ってば手のひらサイズだと思うんだ! それにそれに毛むくじゃらだから、食べたらきっとオエッってなっちゃうよ!?

 必死の形相で訴えるのに、私の口から出てくるのは「ぽえ~」だの「ぱえ~」だのという間の抜けた声ばかり。くっ、滑舌が悪いにもほどがあるだろ!

 諦めて口をつぐんだが、ガタガタ震える体の動きに合わせ、ぱぺぺぺぺ、と高速で鳴き声が漏れていく。

 ……ああ、今日で人生終わるだなんてあんまりだ。

 一人暮らしのアパート、帰ったら畳もうと思っていた洗濯物が山になっている。昨夜は新発売のカップラーメンを全味試し、一人楽しく乱れ食いした。ちなみにゴミの日は明日だよ。

 ってそうだ、明日って給料日じゃん。
 ここで死んだら働き損だよね、てか最後の晩餐がカップラーメンて! あああ、こんなことなら思いっきり贅沢してフレンチにでも行くべきだった~!

 走馬灯って案外しょうもない。

 死の間際にどうでもいい新発見をしつつ、スローモーションのように牙が迫ってくるのをただ眺める。
 せめて一飲みに……、いや、消化されるまで苦しむなんて絶っ対にイヤだ。一噛みでよろしくお願いします!

 ――ざあっ

 覚悟を決めてうずくまった瞬間、突如として頭上から雨が降り注いだ。……え。

(あったかい……?)

 雨じゃなくて、お湯が降ってきた? でも、それにしては匂いが――……


 ゴトッ


 一拍遅れ、森に鈍い音が響き渡る。
 恐る恐る顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 まるで正座するみたいに膝を突いた熊モドキ。その首の先には、あるべきものがなくなっている。

「ぴ、ぴぇ……っ」

 悲鳴を上げて後ずさりした。

 熊モドキの体の横に、大きな頭が転がっている。
 頭部を失った巨体からは、勢いよく鮮血が噴き出していた。ああ、さっき私にかかったのってお湯じゃなくて……。

 茫然とする私の耳に、チン、と微かな金属音が届いてくる。はっとして音のした方を見上げた。

「…………ぴょ」

 ぶわわ、と全身の毛が逆立つ。

 ()()()も私に気付いたのか、刃物のように鋭い眼差しを私に注いだ。

「…………」

 今の私からすると、信じられないぐらい大きな体。
 彫りの深い端正な顔立ちに、まるで鍛えられた鋼のように不思議な色の髪。

 そして、そしてその瞳は――……

(緋色……)

 血のように赤い瞳。
 身の丈ほどの大剣を鞘に納め、今、その目をすうっと細めて私を見下ろしている……。

 あ、もうダメ。

「ぱぇ」

 小さく叫んで、私はぺったりと地に倒れ伏す。

 そうして、そのまま意識を手放した。