(4)
翌日。ルシアスは朝から領地にいる代行人や土地管理を任せている人に向けて手紙を書き、こちらで出来る執務をこなしてから昼前になって屋敷を出た。
侯爵邸の所有する馬車は広いのだが、ルシアスは当然の顔をしてびったり隣に座ってくる。
「出るのが遅くなってしまってすまなかったな」
「いえ。お忙しいようでしたが、領地での用向きはお済ではなかったのでは?」
「できることはやって、あとは託した。諸々のことは手紙に書いてある」
義父はすでに領地に関して引退モードになっていて、ルシアスが実質的な領主だった。これから領地は収穫のシーズンを迎え、冬に向けての備えと整備なども入るからますます忙しいことになるのだろう。
それに加えてこの王都での事業経営のことや関係者とのやりとりを考えると、体がいくつあっても足りない。
少し前から補佐としてルシアスが信を置く執事のティムや従僕のロバートを加えたものの、ティムはともかく、ロバートのほうは、性格は実直でも細かい事務作業が苦手でなかなか慣れないらしい。
もともとひとりで執りまわすのがおかしい仕事量だった。ルシアスの能力が異様に高いからこなせていただけであって、手が増えたがその分やることも増え、結局のところルシアスの負担はあまり変わっていないように思える。
無理が来る前に、本格的にルシアスを支えてくれる人をどうにか──
「ルシェ、お腹が空いていませんか?」
「ああ……そういえばそんな時間か。すまないな、急なことでどこも予約していないんだ。街についたらとりあえずどこか」
「そうではなくて、軽食を作ってきたんです。朝もほとんど召し上がっていないようでしたし、何かお腹に入れてからのほうがいいと思って」
向かいの座席においていたバスケットを手元に寄せて、用意したパンに鶏ハムやジャムをサンドしたものを示すとルシアスは目を丸くした。
「これはソフィが?」
「ええ。さっき厨房を借りて。ソースもジャムも料理長のものをわけてもらいましたから、お味は保証されています。いかがですか?」
「ありがたい。気づいたら急に腹が減ってきた」
「ライリーとトーマたちのぶんも合わせて作ったので、あの子たちは今日これを持って探検に行くそうです」
「それは楽しそうだな」
濡れたタオルを渡して手を拭いてもらい、ルシアスがうまいうまいともしゃもしゃパンを頬張る傍らでポットのお茶を淹れる。
「揺れますから気を付けて」
「ああ、ありがとう」
「ルシェ──」呼べば青灰の瞳が私を見やる。「仕事のことなんですが、ライリーやトーマと過ごす時間を調整しますので、私ももう少しお手伝いさせていただけないでしょうか」
「それは、今以上にということか?」
「はい。ますますお忙しくなるようですし、このところはなかなか休憩も取ってくださらないと聞いています。ルシェが倒れては元も子もないのに、お義父様の目を気にしている場合ではありませんから。私にできることがあればと」
ふいにルシアスの大きな手が頬に触れた。耳の縁をなぞる指先の感覚にぞくりとしながらも彼の様子を窺えば、冷たい印象を覚える切れ長の目じりが柔らかく滲んで見える。
「ありがとう、ソフィ」
*
ルシアスは大層機嫌がよかった。
外出の目的は、近々当家にも招待状が届くであろう王家主催のティーパーティーに向け、馴染みの店でドレスを新調することだったらしい。
縁談が流れるたび、病弱な深窓の令嬢設定が深まるばかりの私にはその機会があまりないものの、ルシアスはお呼びがかかることも多いし、当家では何より母がこういった店や折に触れてご機嫌伺いにやってくる外商のお得意様となっている。
事実、ルシアスに連れられ訪れた店でも私をくまなく採寸する店員におべっかをたくさん浴びせかけられながら、
「お嬢様は近頃ますます奥様に似て」
と言われた。
表面的にでも母を知る人たちは、私を見ると口々に言う。
けれど、私自身は母とはそこまで似ているとは思えなかった。
母は誰もが振り返るような美貌に加え、美しく豊かな金の髪に、瑠璃色の瞳を称えている。
対する私は、血縁上の父親と似て暗い濃紺の髪に、紫の瞳だ。母は幼い私を見るたび、愛を感じない夫の影を見て嫌悪と侮蔑を浮かべ、幼いソフィアの心は母に伸ばした手が邪険に払いのけられるたび傷ついた。
衰えを知らぬ美しきオリヴィア夫人に近づきたいと、母の会員制サロンは常に貴婦人で溢れている。
その娘である私は、彼女にとって産声を上げた瞬間からのお荷物だ。夫人の義務として生み、生かしておくだけで慈しむこともなく、かと言って外聞を憚って切り捨てることもできない醜い瘤。再婚した侯爵に家のための駒として差し出されたというのに、私は駒の役割も果たすことができずにいるのだ。
本邸ですれ違う時、私は彼女の瑠璃の目を見ることが恐ろしくてならなかった。
小説のストーリーにルシアスの親の話はほとんど登場しなかったと記憶しているから、私が生き残るために必死になって彼女をなんとかする必要はない。
けれど、似ていると言われるたび、母の影が心にちらついて、幼いまま消えたソフィアの残滓のようなものが軋みを上げる。
ただ、無事生き残ったとして、あの人とはきっと、どうにもならないのだろうという気がしていた。
「──疲れたのか?」
声を掛けられ、はっとして顔を上げると、休憩に入ったカフェで、ティーカップを前にルシアスがこちらを覗き込んでいた。
「あ……すみません、ぼうっとしてましたね。疲れたというより、こんなに買うんだという驚きで放心していたというのが近いです……普段見ない金額が目の前で動いたので」
「感覚が庶民だな」
「生粋の小侯爵様とは育ちが違いますの」
健全だとルシアスはおかしそうに笑う。
「おまえのその感覚はどこで養ったんだ?」
「え」
「時々不思議に思うんだ。そんな機会はなかったはずなのに、おまえは俺も知らないようなことを知っていたり、どうにも貴族らしからぬ感覚がある。ドレスも宝飾品も、与えれば喜ぶが、眺めるだけで自分からは欲しがらない。ペンと算術盤のほうが嬉しいだろう」
「実用性が違うでしょう……着る機会もないのにドレスを買ったところで、ドレスのほうが可哀そうです」
「俺に着て見せてくれればいい。そのために買う。実用的だ」
「はい?」
本当に、私がぼんやりしている間にルシアスは怒涛の買い物をした。
ほとんど私のものだったが、注文したドレスは意匠や小物を彼と揃えることになっており、この人は今回もパートナーを私に据える気でいるのだとわかった。私のデビュタントのころからそれは変わらなかったが、ルシアスも二十歳間際となれば父侯爵もそろそろ結婚の話を黙っていないだろう。
やはり──リリーナの登場ですべてが動き出すのだろうか。
社交シーズンの終わり。
王太子殿下が発起人となり、高位貴族の子女が中心となって招かれる恒例の王家主催のティーパーティーが、おそらくこの物語の始まりだ。
没落寸前で名ばかりの貧しい男爵令嬢だったリリーナは、ひょんなことから知り合った年老いた伯爵夫妻の養女として迎えられる。華々しい王都にやってきた彼女は、初めて招かれたその年のパーティーで運命の出会いを果たすのだ。
去年もその前の年も、私は急な腹痛という設定によってティーパーティーを欠席した。焼き討ちエンドが現実となることがあまりに恐ろしくて、去年は本当に腹痛が起き、ルシアスは立場上出席したものの、冒頭の十分ほどであいさつ回りを終えて帰宅し、聞く限りリリーナとの接触はなかった。
ゆえに、出会いは──今年なのだ。