「大丈夫か?」
「えっ、あっ、はい! すみません!」
 青い顔で固まっていた少女は慌てて体勢を立て直した。
 あやめも手を離し、再びノートを両手で抱える。

「随分と急いでいたようだが、危ないだろう。女の子が顔に怪我でもしたらどうする。以後気をつけるように」
「はい、本当にすみません、湖城先輩。ご迷惑をおかけしました」
 ぺこっと少女は軽く会釈してきた。

「何故私の名を?」
「そりゃあ、先輩は有名人ですから。知らない人なんていませんよ」
 少女は人懐っこい笑みを浮かべた。

「そうか……」
 学年の違う一年生にまで名が知れ渡っているというのは複雑な気分だった。
 彼女が聞いた噂に尾ひれがついてないことを祈るしかない。
 中にはあやめが小学生のときに野生の熊を素手で倒した、などという荒唐無稽な話を本気で信じている生徒までいるのだ。

 弁解しておくが、あやめは普段きちんと自分を律している。
 力をひけらかすような真似をしたこともない。
 過剰な暴力のイメージが独り歩きしている現実は、非常に不本意だった。

「ところで、何をそんなに急いでいたんだ?」
「あ、その……彼氏とデートの待ち合わせをしてまして」
 ピュアな恋する乙女全開の表情になり、はにかみながら口元に手を当てる少女。

 ごふっ!
 大きなダメージを喰らい、あやめは心の中で血を吐いた。

「付き合ってまだ一週間なんです。もうヨシ君といると幸せでー本当に毎日がバラ色っていうかー」
「そ、そうか……」
 でれでれと頬を緩めながら、頼んでもいないのに、いかにヨシ君が素晴らしいかを語り始める少女。
 彼女の周囲のピンク色の空気にあてられて、頭がくらくらしてきた。

(いかん、しっかりしろ、あやめ! たとえ彼氏いない歴=年齢であろうと、彼氏がいるから偉いというわけではないぞ! 私は彼女より一年年上だし――いや、ご老人は敬うべきだとは思うが、一歳差くらいどうということはないか……ええと、ならば――そう、学生の本分は勉強だ! 大丈夫! 私はそこそこ優秀だ! 多分数学以外の教科なら彼女にも勝っている!)

 でも、何故だろう。
 どれだけ言葉を並べ立てて自分を鼓舞してみたところで、敗北感が肩に重くのしかかってくるのは。

「――ヨシ君は優しくて頼りになる人なんです。私を好きだっていうことをちゃんと態度にも出してくれて、デート中はいっつも手を繋いでくれて、通りを歩くときはさりげなく車道側に移動してくれて、私を守ってくれてるんですよ。なんかぁ、愛されてるっていうかぁ――」

 ……ピンク色の空気が全力で自分を殺しにかかってくる。

 この後、彼女は最愛のヨシ君と手を繋ぎながらキャッキャウフフとはしゃいでみたり喫茶店で「はいあーん」とかしてみたり浜辺で「つかまえて御覧なさーい」「待てぇこいつぅ」とかやってみたりするのだろうか。
 いや、いまは四月で海の時期ではないが。

(べ、別に負けてるわけでは……負けてるわけでは……!)

「――ヨシ君は別の高校に行っちゃったんですけどぉ、一週間前の土曜日の夜にいきなり呼び出されてぇ、離れてみてやっとわかったんだ、俺お前のことが好きだって言ってくれてぇ――最近はインスタで流行りの『恋人ごっこ10』にチャレンジしてて――バックハグの写真の『いいね』が50も――」

 ついさっき出会ったばかりの年下から砂を吐きたくなるような甘い青春メモリーを聞かされ続け、あやめはがたがたと震え始めた。

 大量の汗が全身を濡らしていく。
 もう心はキャパシティーオーバーで崩壊寸前。
 絵に描いたようなリア充少女に「もう勘弁してください」と土下座したくなってきた。

「え、ええと、興味深い話を遮って悪いが、待ち合わせをしているんだろう? そろそろ行ったほうがいいんじゃないか?」
 あやめはどうにか笑顔を作成し、退場を促した。
 これ以上は耐えられそうにない。
 陽に当たった吸血鬼の如く、廊下の窓から入り込む風に吹き散らかされ、灰と化してしまいそうだ。

「あ、いけない、行かないと! 他人の恋愛話なんてつまらなかったですよね、すみません!」
 少女は手を合わせてみせた後、ふと目を瞬き、あたかも思いついたようなそぶりで――

「そういえば、湖城先輩って彼氏いるんですか?」

 あやめを見上げて爆弾を投げてきた。
 きらきらと輝く瞳には悪意もなく、無垢そのもの。
 それゆえに、あやめの心を容赦なく貫通した。

 ごはぁっ!!!
 あやめは胸中で盛大に吐血した。

「え、ええと……いや、いない」
 ノートの山を抱きかかえるようにして、ゆっくりと目を逸らす。
「そうなんですかぁ。まあ、そうですよね。湖城先輩は彼氏なんていらないですよね!」
「え?」
 あやめは逸らしていた目の焦点を、再び少女に当てた。
 少女は笑顔で軽く手を振ってきた。
 なんとなく連想したのは、井戸端会議中の主婦の「やだ奥さん」という仕草。

「先輩は逞しい方ですし、一人でだって十分生きていけるじゃないですか。軟弱な彼氏なんて邪魔なだけでしょう? 痴漢に襲われたって一撃で仕留められそうですし、先輩に釣り合うような強い男なんていないでしょう。うちのクラスの男子も『メスゴリラ』なんて呼ん――」
 そこで失言に気づいたらしく、少女ははっとしたように両手で口を塞いだ。
 押し黙っているあやめをどう取ったのか、あたふたと視線をあちこちに転じる。

「……あ、ええと、すみません、いまの発言は忘れてください。それじゃっ、本当にすみません、ありがとうございましたぁ!」
 報復を恐れたのか、ぺこぺこと頭を下げ、ダッシュで少女は逃げて行った。
 階段を駆け下りていく足音。
 急ぐとまた足を踏み外すぞ、とアドバイスをする余裕はなかった。

(……一年男子までも私のことを『メスゴリラ』と呼んでいるのか……)
 無論、一年男子全員がそう呼んでいるわけではないだろう。
 あくまで一部の男子だ。そうだと思いたい。
 でも――たとえ一部の男子であろうと、顔も知らない人間から陰口を叩かれている、という事実は少々堪える。

(……ふ。いまさらだ。中学のときだって似たような陰口を聞いたことはあるし、問題ない。別に何も気にしてない)
 両手に抱えたノートの重さが倍増したような気がする。

(あの子の言った通り、彼氏なんていなくても、私は一人で生きて行けるさ……少女漫画みたいな恋愛なんて、私には縁遠いものだろうし……キャッキャウフフとか、あーんとか、別に、ちっとも羨ましくなんか……)

 あやめは重いノートを抱えて、よろよろと階段を上って行った。
 普段あやめが凛と背筋を伸ばして歩くことを知っている通りすがりの生徒が、老婆のように腰を曲げている現状を見て、不思議そうな顔をしていた。